婚約破棄された伯爵令嬢ですが、辺境で有能すぎて若き領主に求婚されました

おりあ

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 セリナは黎明の光に包まれた自室の窓辺に佇み、手のひらに残る冷たい銀の感触を確かめていた。昨夜、アレイスターから受けた銀の指輪には、辺境伯家の紋章である稲穂の文様が繊細に彫り込まれている。薬指にはめた指輪はまだ少し緩く、寝返りを打つたびに揺れ、彼女の胸を小さくくすぐった。

「……これから、どう呼べばいいのかしら」

 セリナは自問した。心の中にはもっと親しい呼び方を望む自分がいた。かつてレオニスからは、ただの「令嬢」として見られ、名前すら惜しまれた。対して、アレイスターは、何気ない会話の中で「セリナ」と呼び、時には「友」として親しげに接してくれた。
 深い吐息とともに、セリナは窓の外を見つめた。城下町では薄紅色の空に市場の旗がはためき、鍛冶屋の鉄床に火花が散り、農夫たちが馬を引きながら朝の作業に向かう。城内の喧騒はまだ始まっていない。ここは、自分だけの静かな時間だ。
 小さく目を閉じ、「アレイスター」と呼べる喜びとほんの少しの照れをかみしめる。指輪が指先で回転し、淡い痛みすら覚える。自分の生活を、心を、彼と分かち合うという自覚が、胸の奥で芽吹いている。
 そのとき、扉の向こうから控えめなノックが響いた。侍女のティファナが静かに入室し、深々と一礼する。

「令嬢様、朝のお支度が整いました。ご朝食の準備もございます」
「ありがとう、ティファナ。今日の朝食は書斎でいただきたいの」
「かしこまりました。書斎へお運びいたします」

 ティファナは優しい笑みを浮かべ、指輪には触れぬよう視線を外した。セリナも微笑み返し、指輪をもう一度撫でてから、淡い淡水色のドレスを身にまとった。下襟には小さな銀のブローチを留め、昨晩の装いを思い起こさせる。
 書斎へ向かう途中、廊下で守衛隊長のエリアスとすれ違う。彼は「おはようございます、令嬢様」「お幸せそうですね」と冗談めかして声をかける。セリナは頬をほんのり染めて会釈し馬車寄せまで足を運んだ。

 陽光が書斎の窓を通り抜け、深い木の机の上に書類と銀製の食器を浮かび上がらせる。アレイスターは既に先に座っており、ページをめくりながら報告書に目を通していた。彼が顔を上げると、くすりと目尻を下げた。

「おはよう、セリナ」
「おはようございます、殿下。昨夜はありがとうございました」

 彼女の声には幸福がにじみ、アレイスターは満足げにうなずいてから席を勧めた。

「これからも、君の考えを遠慮なく聞かせてほしい。昨日から今日までの報告書だ。領地の農産物統計に目を通して、意見を聞かせてくれ」

 アレイスターは淡々と資料を並べたが、その仕草に含まれる信頼感は何にも代えがたい。セリナは胸の高鳴りを抑え、深呼吸して資料に目を落とす。
 統計表には、第二水路建設前後の灌漑面積、収穫量の推移、農民所得の変化が示されている。水路完成からわずかひと月で、灌漑可能面積は四割増加し、収穫量も平均で二割向上した。村での食糧自給率は八割から9.5割ほどに跳ね上がり、数十年ぶりに飢饉の危機を脱している。
 セリナは一つひとつの数値を丁寧に読み込み、グラフを分析した。

「第二水路のおかげで、今後の干ばつリスクはほぼ克服されたと言えます。ただ、この数値からは間に合わなかった南部渓谷のロストリル村で、やはり一部の農家が離散を余儀なくされていることが見て取れます。次はあの地域の支援が急務ですね」

 アレイスターは頷き、指輪の小さな煌めきを手元に感じた。

「君の見通しは正確だ。では、次の課題としてロストリル村の再生計画を練ろう。そちらは君に一任したい」
「承知しました。予算案と実施スケジュールを作成しておきます」

 資料の上に目を落としたまま、セリナは小さく笑みを浮かべた。アレイスターは手を差し伸べ、軽く髪を撫でるような仕草を見せた。

「ありがとう、セリナ。君となら、この領地を理想の形にできると確信している」

 心臓が跳ねるように鼓動し、セリナは返答を探した。言葉以上の想いを伝えたいが、どう切り出せばいいか分からない。
 だが、指輪の感触と、アレイスターの真摯な眼差しに背中を押され、一歩踏み出す。

「殿下……いつも、ありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします」

 その言葉は、かつての自分には書簡さえ書けなかったほど不器用だった。しかし今、セリナの声には確かな意志と誠意が込められていた。

「では、ロストリル村の計画を練る前に、ひとつ君に確認したいことがある」
「はい?」

 彼はそっと彼女の手を取った。銀の指輪が朝の光を受けてきらめき、二人の視線が近づく。

「これからはもっと親しみを込めて、呼び合いたい。」

 セリナの頬が紅潮し、胸の奥が熱く鳴った。指輪越しの手のぬくもりが、胸の奥へ伝わっていく。

「……はい。その方が、遠い将来も――同じ未来を歩む実感がある気がします」

 言葉を紡ぎ、セリナはアレイスターの掌にそっと頷いた。彼は満面の笑みを浮かべ、低い声で名前を囁くように言った。

「それでは、これからは“セリナ”と呼ばせてもらうよ」

 二人の間に、甘く柔らかな風が吹き抜けた。指輪の煌きとともに、辺境の朝が新たな絆を刻む鐘を鳴らしているかのようだった。
 政庁の窓外には、騎士や職人たちがゆっくりと歩を進める姿が見えた。朝日に照らされ、城下町にも活気が戻っている。セリナとアレイスターは静かに手を重ね合い、これから始まる名前を呼び合う日常を胸に刻んだ。
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