婚約破棄された伯爵令嬢ですが、辺境で有能すぎて若き領主に求婚されました

おりあ

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 辺境リーヴェル領の小さな村では、一年に一度の収穫祭の準備が最高潮を迎えていた。石畳の広場には木造の屋台が軒を連ね、軒先には手織りの布が風にたなびいている。大鍋ではスープがゆったりと煮え、串焼きの匂いが立ち込め、子供たちは笑い声をあげながら色とりどりの提灯を手に走り回っていた。老人たちは舞台の陰で昔話に花を咲かせ、若者たちは太鼓や笛の音合わせに余念がない。
 その華やかな賑わいの裏側で、誰にも知られることなく進む 静かな奔走”があった。
 村長スルトは濃紺のローブの袖をたくし上げ、ひとり井戸小屋の前に立っていた。長年、村の命運を支えてきた「命の井戸」は、ここ数週間、水位が次第に下がり、壁や床に小さなひびが散見されるようになっていた。
 村人たちは「今日は水が少し冷たい」や「早く雨季が来るといいね」と他愛ない話をしていたが、当のスルトだけは「あのひび割れは放置できぬ」と胸を痛めていた。
 夜の帳が下りると、祭りの主催役を務めるセリナ・リーヴェルが深緑のマントをはおり、雪明かりを頼りに井戸小屋へと忍び足で近づいた。きらめく提灯の灯りが遠くに揺れ、子供たちの歓声が遠ざかっていく。

「村長、今夜で手当をしなければ、明日の朝には水がほとんど出なくなるでしょう」

 村長は重々しくうなずき、声をひそめて答えた。

「何としても、この村の祝宴を台無しにはしたくない。だが、誰にも言えぬままだった。セリナ殿、あなたに託そう」

 セリナは無言で手袋をはめ、井戸の縁にしゃがみ込んだ。ひび割れは思ったよりも深く、古い石材が乾いて縮み、わずかなすき間が広がっている。夜風に吹かれながらも、彼女の目には一切の迷いがなく、井戸の修復を試みた。
 その一方、リーナは祭りの中心、広場の入り口近くで華やかな提灯の飾り付けを仕切っていた。王都から運んだ銀箔の提灯がずらりと並ぶ中、彼女はあえて村長のもとへ歩み寄り、にこやかに声をかける。

「村長さま、提灯の色合いはいかがですか?今年は王都でも評判の職人に依頼しましたの」

 リーナの言葉に村長は礼をしながらも、視線を井戸小屋の方向へそっと逸らした。
 その様子を見逃さなかったリーナは、ほのかな微笑みを浮かべながらもさらに小声で続けた。
「もしお困りごとがあれば、遠慮なくお申し付けください。祭りの準備は夜が明けるまで続きますから、ご相談の時間は取れますわ」

 村長は一瞬だけ目を伏せたが、やがてそっと笑い、リーナに頭を下げた。

「ありがとう、侯爵令嬢。では後ほど、またお声かけさせてもらうよ」

 リーナは軽く頷き、再び装飾の指示へと戻っていった。その足取りは優雅ながらも、確かな安心感を村長に与えていた。
 夜が更けた。祭り前夜の静寂の中、セリナは最後のチェックを終える。

「これで大丈夫ね」

リーナが小声で呼びかける。セリナは微笑み、満天の星空を仰いだ。

「ありがとう、リーナさん。明日はきっと心から祭りを楽しめるわ」

 二人は互いに軽く会釈すると、再び賑わいの続く広場へと戻った。提灯の揺れる炎が二人の影を引き延ばし、静かな連帯感を刻んでいる。

 そして迎えた翌朝。
 朝日を浴びた村は、昨夜の静寂が嘘のように華やかな彩りに満ちていた。提灯は風にきらめき、屋台には長い行列ができ、子供たちは笑いながら舞台で踊っている。老若男女が五穀豊穣を祝うその光景は、まさに収穫祭の最高潮だった。
 村人たちは水を汲むたびに、いつもより冷たく、しかし勢いよく湧き出す井戸の心地よさに気づくこともなく、ただ日常の延長として手を伸ばしている。

 村長スルトは祭壇のすぐそばで焼きとうもろこしをほおばり、目の端で子供たちの無邪気な笑顔を見つめてほっと息をついた。

「……これでよかった」

 彼は小声で呟き、誰にも気づかれぬまま再び祭りの群衆へと歩みを進めた。
 夜更け、小さな村は穏やかな眠りへと包まれていく。
 祭りの余韻だけが、村人たちの心に優しく残っていた。辺境リーヴェル領の夜空には、遠くの山々にかすかな雪明かりが浮かび、明日への希望を静かに照らし出している。
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