お客様はヤの付くご職業・裏

古亜

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その日、私はいつも講義を受ける下の階の講義室にいた。適当な机の奥にスマホを入れて、私は講義室を出る。
あのスマホは連絡用にと春斗さんに渡されたものだった。あのスマホを持ったままだったら、きっと春斗さんに私の位置情報は筒抜けだろう。
私は廊下のベンチに腰掛けて鞄の中身を確認する。講義資料と筆箱、学生証に財布と、最低限の着替え。
確認を終えたところで講義が始まるチャイムが鳴った。
今日は講義には出席しない。その間に少しでも準備をしたかったから。
普段使わない出入り口から講義棟の外に出て、講義を終えて帰ろうとしている学生の一団の中に紛れ込む。
そのまま途中のコンビニに立ち寄って貯金を下ろし、お茶とおにぎりを買って外に出た。
最後のコマの講義の時間だからか、辺りは薄暗くなって、通りの車の量も増えている。
久しぶりに一人で出歩いているせいか、見慣れていた景色がとても新鮮に見えた。けれどそんな感傷に浸っている場合じゃないから、私はそれを振り払うように首を振って、目的の場所を思い出す。
岩峰組の事務所。場所はだいたい知っているけれど、実際に行ったことはなかった。とりあえずほんの少し前までバイトをしていたコンビニがある通りに向かう。
当然だけど、バイトは辞めさせられた。というよりは、気付いたら辞めたことになっていた。
人手不足を悩んでいた店長に申し訳なく思いながら、本当は前を通り過ぎた方が近いのだけど、少し手前の角で曲がった。
2年以上この近くに住んでいたけれど、一度も使ったことのない道だ。
橋を渡って何度か曲がる。そこに岩峰組の事務所がある、はずだった。
見た目はなんの変哲もない、小さな会社の事務所と言われれば納得してしまいそうな建物。記憶を頼りにここまで来たから、もしかしたら違うかもしれないと周囲をぐるぐると回ってみたけど、他は会社の看板があったりと岩峰組の事務所ではなさそうだった。
だからきっとここがそうなんだろうと思ったけど、事務所には人気が全くなかった。薄暗い時間帯なのに電気はついていない。駐車場に車が数台あるから、誰もいないなんてことはないはずなのに……
私は恐る恐るその入り口に近付いてドアの取手を引く。
けれど鍵がかかっているのかガチャガチャと音を立てるばかりで開くことはなかった。

「……散歩はこれで満足なさいましたか、楓様」

落ち着いた低い声に、私は思わず足を止める。

「吉井さん……?」

どうして、こんなにも早く……

「私が会長でなくてよかったですね」

そうでなければ今ごろ無事ではなかったと吉井さんはため息をつく。

「まあ、会長は楓様が逃げようとなさっていた事を既に知っていたようですが」
「知っていた?」
「ええ。まあ、まさかここに向かうとは思いませんでしたが」

春斗さんは、私が今日逃げようとしていたことを知っていた?それならどうして私が大学に行くのを許したのか。
冷たい汗が背中を伝って落ちていく。春斗さんは全てわかっていて、私を泳がせた。
いくつもの靴音が薄暗くなってきた駐車場に響く。
黒い服の男の人達が私を取り囲んでいた。

「極力触れるなと命じられてはいますが、怯えさせるなと命じられてはいません」

そう言って吉井さんは懐から黒く光るものを取り出した。
カチリと音を立てたそれは、私に口を向ける。

「どうしても嫌なら、奪って抵抗してください。それができないのなら大人しくお戻りを」

眼鏡越しの吉井さんの瞳が冷たく光っている。
手を伸ばせば銃口を掴む事は容易い。そして吉井さんは私に銃を奪わせるだろう。
そして私にそんなことができるわけないと、吉井さんは知っている。
……元々、逃げられるなんて確証はなかった。ただほんの1日、いや、数時間だけでも自由になって、春斗さんの目の届かないうちに昌治さんに謝りに行きたかっただけ。

「私は……」
「岩峰昌治に会いに来ただけ、そうでしょう」

吉井さんはあっさりと私の考えを言い当てた。

「安心してください。ここでの会話を会長に明かしはしません。荒れた会長ほど怖いものはありませんから。会って何をしたかったのかは興味がありませんよ。会長の元に楓様が戻りさえすれば私は構いません」
「それなら、昌治さんにほんの一言でいいから謝らせてください。そうしたらもう、戻りますから」
「それは無理ですね。私にそんな権限はありませんし、もし知られたら私が殺されてしまいますよ」

冗談めかして吉井さんは言う。なぜか騙されているような心地がしたけれど、その正体はわからない。

「では、戻りましょうか」

私を取り囲んでいる黒服の人たちの輪が、徐々に狭まってきている。
連れ戻される覚悟はしていた。けれどそれは昌治さんに会ってからのつもりだった。

「ごめんなさい!」

私は吉井さんを突き飛ばして、まさか抵抗するとは思っていなかったらしい黒服の人たちの間に割り込んでその場から離れようと走った。
後ろから何台もの車のドアが閉まる音が聞こえてくる。追いかけてくるつもりだと、私はでたらめに細い道に入ってなんとか一度隠れようとした。
けっこう走った気がする。あの道に入ってから少し休もう。追いかけてくるような足音も車の音も聞こえてこない。
ここだ、と見えてきた曲がり角に飛び込んだ瞬間、私は誰かにぶつかった。

「す、すみません」

隠れるのに夢中であまり前を見ていなかった私は上の空のまま謝って、その横をすり抜けようとした。
けれど横をすり抜けた瞬間、私はその人に腕を掴まれた。

「捕まえた」

そのまま引き寄せられて、私は春斗さんの腕の中に戻っていた。
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