リーゼロッテの王子さま -婚約者候補に奥さんがいたらいけませんか?ー

弥湖 夕來

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「ええ、すっごく楽しかったわ。
 クリーゼル公爵様ってお年を召しているって聞いていたからもっと難しい方かと思ったのに、お話が凄く面白くて! 」
「……なら、良かった。
 年寄り相手だから正直退屈するんじゃないかって、少し心配してた。
 爺さんあのとおりよる年波に足が悪いものだからたまに邸に来た人間をなかなか離してくれないんだよな。
 遅くなってしまってすまなかったね」
 ヴェルナーが困惑気味に眉根を寄せた。
「大丈夫。
 お城の晩餐会だって似たようなものでしょ? 」
 リーゼロッテは笑みを浮かべた。
 城内で催される晩餐会や夜会はもう少し早い時間に終わるものの、圧倒的に多い招待客の多さで完全に引ける頃には今の時間はとうに過ぎている。
「じゃ、お休みなさい」
 帰りを待っているはずの乳母が直ぐにでも飛び出してくるのを予見して、リーゼロッテはドアに向かう。
 と、馬車から降りた時に重ねたままになっていたヴェルナーの手に突然力がこもり引き寄せられた。
 ふわりと大きな胸に抱きしめられる。
「え? 」
 呆然と男の顔を見上げると、躊躇うような小さな息の後その顔がリーゼロッテに近付く。
 何が起こっているのかわからずにいるうちにヴェルナーの唇がリーゼロッテの唇を掠め次いで頬に落される。
 予期せぬ突然の出来事にリーゼロッテの胸が早鐘を打つ。
「姫様、お帰りなさいませ! 」
 言葉が出ないままに男の顔を見上げていると、いつものように乳母の声が掛かった。
「あ…… わたし…… あの…… 」
 戸惑いすぎてなんと言っていいのかわからないリーゼロッテとは反対に、ヴェルナーはどこか満足そうな笑みを浮かべてもう一度リーゼロッテの顔を見つめてくる。
「お休み、姫君」
 そして抱きしめていた腕の力を緩めると、乳母の方へ押し出した。
「姫様、随分遅うございましたね。
 お疲れでは? 」
 駆け寄ってくる乳母の姿に目を奪われた後振り返るとそこにはもうヴェルナーの姿はなかった。
 
 
 
「やっぱり、駄目よね」
 翌朝、着替えを手伝ってもらいながら、リーゼロッテは呟いた。
「どうかなさいまして? 姫様」
 その呟きを聞きつけて乳母がリーゼロッテの顔を覗き込んでくる。
「ううん、なんでもない」
 そういいながらもリーゼロッテは大きなため息をつく。
 
 夕べのことを思い出しただけで、また鼓動が早くなる。
 どうしてヴェルナーはあんなことをするんだろう。
 嬉しくないわけではないけれど、いけないことだともわかっている。
 だけど、自分に向けられるヴェルナーの瞳はとてもやさしくて、落される挨拶のキスの小さな熱に勘違いしてしまいそうになる。
 いっそのこと最初に出会った時のままの態度でいてくれたらどんなに楽だっただろう。
 悲しいけれど諦めがつく。
 なのにあんな事をされてしまうと、好かれているんじゃないかなんて思えてもっと欲張りになる。
 だけど…… 
 
「そう、ですか? 
 夕べもよく眠れていなかったみたいですけど? 」
 乳飲み子の頃から面倒を見てもらっているこの女に掛かると、リーゼロッテのことなど何でもお見通しだ。
 昨夜ランプの炎を消して下がってから朝まで部屋の中には誰も来なかったはずなのに、ほとんど眠っていないのをしっかり見抜かれている。
 
 ヴェルナーの見せる優しさに、会う度にどんどんひきつけられて行く自分がいて、時々その優しさを勘違いしそうになる。
 ……どうして自分はヴェルナーとこんなに隔たった土地に産まれてきてしまったのだろう。
 どうしてヴェルナーの隣に居るのが自分ではないのか。
 できることなら二人の間に強引に割り込んでしまいたい。
 そんな思いに駆られる。
 だけど、優しく微笑むアーデルハイドを嫌いになる事もできなくて。
 アーデルハイドだって周囲の話からリーゼロッテがヴェルナーに横恋慕していることくらい耳に入っているはずだ。
 おまけに自国に帰れば重婚可能だとまで言い放っていることさえも。
 なのにアーデルハイドはいつでも優しい。言葉も笑みも何もかも。
 だから、そんなことを考えてしまう自分自身が嫌になる。
 
「何か疚しい事でも抱えておいででしたら、神に許しをお祈りくださいませ」
 さっきまでごちゃごちゃと考えていたことをまるで読んだように乳母が進言してきた。
「……そうね。
 そうする。
 拝礼に出かけます、誰か供を…… 」
 気持ちを切り替えるように言ってリーゼロッテは顔を上げる。
「拝礼にですか? 」
 その言葉に乳母が珍しいこともあったとばかりに睫を瞬かせた。
「出かけると申されましても、ここには神殿が…… 」
 次いで困惑気味に眉根を寄せた。
「あるわよ。
 街まで出れば。
 交易の仕事をしている人の為にこの国にも神殿があるのですって。
 先日ヴェルナー様に教えていただいたの」
 流れでその名を口にしただけで胸が痛い。
「では、早速手配を…… 」
 乳母は大慌てで部屋を駆け出していった。
 
 
 四方を壁に囲まれた薄暗い沐浴場を、天井付近の壁に穿たれた明り取りの小さな窓から差し込んだ僅かな光が、ぼんやりと照らし出す。
 張られた水盤の水に足先をつけ、リーゼロッテは身を竦ませた。
 神殿の沐浴に使われる水が湧き水なのはここでも変わらないとみえ、僅かに足をつけただけで身震いがしそうなほどの冷たさだ。
 乳母が突然拝礼に行くと言い出したリーゼロッテを驚いた目でみても無理はない。
 正直何よりリーゼロッテはこの沐浴が嫌いだった。
 生活に追われる庶民は手足を清めるだけの略式の沐浴で済むという話だが、高位の身分であるリーゼロッテにそれが許されるわけもなく、拝礼の度に毎回こうして全身の沐浴を義務付けられる。
 例えそれが冬だろうと免除されることはない。
 もっとも温暖な国ゆえ北国のような寒さがないのが救いだが。
 一糸纏わぬ姿のまま、それでも少しでも水に触れる面積を減らそうと言う姑息な思いで両腕を掻き抱きリーゼロッテはそっと水盤に躯を沈める。
 全身を刺すような冷気に白い肌が粟立った。
 あまりの冷たさに肩から背中に掛けて鈍い痛みが湧き上がる。
 もう何年も経つのに、この痛みは消えることなく沐浴の度にリーゼロッテを苛んだ。
 それでも先ほどまでささくれだっていた気持ちが少し消えてゆくような気がする。
 何かが側に来たような気がして水に使ったまま視線を上げると、乳母の姿がある。その顔にリーゼロッテはようやく水から上がることを許されたことに気が付いた。
 既に色味をなくし蒼白と化していた躯を抱えて水盤の縁に立つと、乳母が大急ぎで拝礼用の白い筒胴衣を着せ掛けてくれた。
 長い黒髪からぽたぽたと落ちる雫を拭取ると手早くまとめてくれる。
 その間誰一人として口を開かない。
 それも昔からの拝礼の作法だ。
 
 身支度が整うとリーゼロッテは拝礼室に一人足を踏み入れた。
 神の居る聖なる地を示す方向の記された壁を前に床に座すとそのまま深く頭を下げる。
 そのまま暫くの間、リーゼロッテは祈り続けた。
 
 
「随分長いこと祈っていらっしゃいましたね」
 神殿を出るとようやく乳母が口を開いた。
「姫様がそんなに反省なさるなどお珍しいこと」
「そ、そんなんじゃ…… 」
「では、何かお願い事ですか? 
 そちらもお珍しいですね」
 茶化すように乳母は言う。
 大帝国の一人娘として何不自由なく、育てられてきたリーゼロッテにとってはどちらも無縁のものだ。
 だから拝礼など義務的にやらされていたに過ぎなくて、いつも形式的に行っていたに過ぎない。
 リーゼロッテ自身でさえ、こんなに熱心に祈ることがあるなど今まで考えたこともなかった。
「でも、少しは気がお晴れになったようで何よりです」
 乳母が安堵したように息を吐く。
「わかる? 」
「ええ、姫様神殿にお入りになる以前とは顔つきが違いますから」
 それが余程嬉しいのか綻んだ顔つきの乳母と二人並んで歩き出す。
「言っておきますが姫様。
 今日は真直ぐに帰っていただきますよ。
 急なお出かけでしたので警護の手が足りず、手薄ですから」
「わかってます。
 それじゃ、わたしがまるで遊びに出る口実に拝礼に来たみたいじゃない」
 乳母の物言いが気に入らずリーゼロッテは少し頬を膨らます。
「そうではないのですか? 
 いつもならあんなに嫌がっている拝礼にお顔を輝かせて自分からいらっしゃるのですから、てっきり口実で何か目的があるとばかり…… 」
 乳母は疑わしそうな視線をリーゼロッテに向けた。
「そんなわけないじゃない。
 わたしだって、その…… 
 時には神様にすがりたい時だってあるもの…… 」
 リーゼロッテの声が徐々に小さくなる。
「その、ね。
 けして拝礼が嫌いなわけじゃないのよ。
 ただ、ね…… 」
 この先は言わなくても乳母はわかってくれるだろう。
 子供の頃はあの沐浴がいや過ぎて、いつも泣き喚いていたのだから。
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