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丹後新太シリーズ
伊藤康太は、*****。
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「山間にある国道の歩道橋ってさ、出るらしいよ」
昼下がりの教室の中のせわしなさをかいくぐり、それは耳の中に飛び込んできた。
視線を上げると、いつものようにニヤついた笑みを浮かべた吉川の顔があった。
「何がよ」
何時の間にか、教室には俺と吉川の二人だけになっていた。何とはなしに窓から覗き見た空には、粘ついた曇天が広がっている。少し前から、首を寝違えたらしいずきりとした痛みがうなじにかけてぐるっと喉を占めていた。
「何がって。幽霊だよ」
キョトンとした顔で吉川は言った。俺はげんなりしながら、
「もういいってそのたぐいの誘いは。お前そもそも怖がりじゃん」
そう零した。吉川は何となく不機嫌そうな顔で、
「馬鹿だなあ」
と、反転させていた身体を元に戻しつつぼやいた。
吉川は一見してみると、年相応の短く刈った髪形に、肩幅に対して少し身長の低い体格を伴ったごく普通の高校生である。ただしかし、彼には奇天烈というべきか、少しほかのクラスメートからは一線を画しているような妙な雰囲気があった。
彼が新クラスの中で浮いていたというのもあってか、半ば人助けのような感覚でもあった。だから俺は進級して数日後の昼休み、那久地行人の「緑腺奇談」というホラー小説を読みふけっていた彼のもとへ近づき、慎重に声をかけた。
「吉川君。那久地行人、好きなの?」
一瞬の間があって、彼はぴたりと活字を追う視線の歩みを止めた。
「ん」
短い声を発した後、文庫本を手の中でひっくり返した彼は、表表紙をまじまじと見つめた。
「ナクジっていうのか。読めなかったな」
何というか拍子抜けだった。那久地はオカルト界隈では一通り名が知れている奇譚の書き手だ。にもかかわらず彼はそれすら知らなかったのだ。俺は呆れて尋ねた。
「誰が書いたかも知らずに読んでたの?」
「別に。音楽もそうだけど、作者がどうとか気にならんかな」
吉川は俺に視線を合わさぬまま、文庫本を完全に閉じ、ぱたりと机に置いた。
吉川のこちらを一瞬たりとも見ようとしない様子に見くびられていると少し苛立ちを覚えた俺は、何とかしてこの仏頂面を篭絡してやろうと畳みかけた。
「でもさ、好みの内容だったら似たり寄ったりな話を書く可能性があるわけじゃんか。そういう無作為な選び方は、非効率的に思えるけど。俺だったらそんなことはしないなあ」
俺のこの理論にさしもの吉川も動揺したようで、短いため息の後こう言った。
「そういうことじゃなくて、俺はこういう世界観に確証をもって挑みたくないのさ」
「は?」
「例えばさ」
吉川はようやくこちらに向き直って話し始めた。切れ長の双眸の中で、やや大きめな黒目が鈍色に光る。
ようやく俺と話す気になったか。
「あらかじめ結末が分かってる映画とか、何がどのタイミングで出てくるか、全部わかってるお化け屋敷とか、人気出ると思う?」
「そんなの、人気が出るわけないだろ」
「だろ。俺が思うに、わからないことへ挑むってのはどこか快感があると思うんだ」
「ふうん」
なんとなく、わかるようなわからないような相槌を打ちつつ、俺は続けた。
「でもそれは何となくみんな、それが面白いってわかってていくんだろ。あの有名な監督が撮ってるからだとか、行列ができてるお化け屋敷とかにさ」
「俺はそれが気に食わないんだ。一期一会の瞬間に対していちいち裏打ちされた信用が無ければはした金ですら出しせびるその態度が気に食わない」
「ほぉ」
思わず、妙なため息が出てしまった。
なんとなく感じていたが、こいつ相当ひねくれている。
「お前今俺のことひねくれてるって思ったろ」
ドキリと心臓が高鳴ったが、なぜかこの時こいつを目前にして、それを隠して善人であろうとしても仕方がないと感じた。
「うん。あとお前じゃなくて伊藤。伊藤康太だよ」
「そっか。伊藤か。とにかく伊藤、俺はな。わからないことそのものを楽しみたいんだよ。それを前提に成り立ってるのがホラーってジャンルだ。だから俺はホラーが好きだし、わからないことが好きなんだ。それを解き明かすことじゃなくて、未知そのものに浸ってたいんだよ」
要約すると、恐怖の起源とは未知であり、ホラーを楽しむ者にとってはその未知をも呑み込み楽しむような器量が無ければいけないというのが、彼の持論だった。正直言えばこの持論にはそこまでの共感は示せないが、初対面にしては回りくどい話し様になにか人とは違う魅力を感じた俺は、その日から頻繁に吉川に話しかけるようになっていた。
ただそんなご立派な建前にしては、彼のホラーに対する挙動はずさんな収集家といった無作為なものだった。
その中で極めつけ、彼のオカルト愛好家っぷりが目立ったのは、心霊スポット巡りであった。
とにかく何かしらの奇談があれば、それが真実でもデマでも関係なく赴くのである。
そしてなぜか、その同行者として俺はよく誘われることがあった。
とはいえ俺は、吉川からそういった誘いのあるそのたびに何かと言い訳をこさえて断ってた。
というのも、彼は少し常識がないというか、そもそも心霊スポットなんぞが夜に行くものなのだからしょうがないのだが、さすがにできて間もない知人程度の仲では到底考えられないほど深夜遅くに時間を指定してくることがほとんどだった。
彼はそのひねた性格からか友達といるのが少ないようだった。
それに少し同情を覚えた俺は、半ば人助けのような形で彼の語り草に度々付き合ってやっていた。
もう少し常識的な時間であれば、行ってやってもかまわないというのに。
ただ、この時は少し注文が異なっていた。
「わかってる。どうせお前は行かないっていうんだろ?」
「よくわかってるじゃないか。そもそも人を誘うんだったらもっと時間帯ってもんが」
吉川は言葉を遮って続けた。
「わかったわかった。お前のその常識人ぶりはよくわかったよ。だからな、考えたんだ」
「何を」
「お前さ、今週今日の九時以降暇か?」
「まあ何もないけど、その歩道橋ならいかんぞ」
「違う違う。お前にはリモートで参加してもらおうと思ってるんだ。ほら、ビデオ通話でもなんでも繋いでよ」
「あぁ…」
最終的には、根負けという言葉がよく似合う形で俺の九時から十時までの一時間は、吉川の趣味に拘束される形となった。
ーーーもしもーし!聞こえてるー?
口やかましい音が鳴り響いたのは九時きっかりになってからだった。
風呂上がりの体を覚めないように慎重に毛布でくるんだ後、俺は自室の壁にもたれかかるようにしてベッドの上に座った。
相変わらずじくじくと痛む首のせいでスマホの画面を見るのが辛い。
「聞こえてるし、見えてるよ、うるさいな。今イヤホン繋ぐから待ってろ」
ーーーはいはーい。
何処までも能天気な声に思わず舌打ちが出かける。
有線のイヤホンの絡まりを少しほぐしながら、端末につなげる。ざざっとしたノイズ音の後、数人が歩き去るような足音の中で、吉川の声が途切れ途切れに聞こえた。
「できたよ。そんでさ、聞きたいことがあったんだけど。その歩道橋ってどんな曰くがあるわけ?」
ーーーまだ説明してなかったっけ。まぁ、あれだな。それは明日以降話すよ。
「なんでだよ」
ーーーお前もせっかくなら、わからないを楽しめよ。
またこれだ。
心底呆れるというか、吉川は自分の感じている世界が、他人にもそうだと考えて当たり前だと思っている節がある。
「煙に巻くのが本当に好きだな」
今あるだけの不満を率直に声色に出した。
これにはさすがに吉川も焦ったらしい。なだめるような口調で、妙な提案をしてきた。
ーーーわかったよ。ここの曰くは未だ教えられないけど、緑腺奇譚に面白い話があったから、それを朗読してやる。心霊スポットでの怪談会だ。面白そうだろ?
「もう好きにしろよ」
投げやりな口調など意に介さず、吉川は語りだした。この時間帯は人気が意外とあるらしい、依然としてイヤホンからは吉川の声と共に騒々しい足音がしていた。
ーーーある男の話だ。暗い夜道を男が一人歩いている。
*********************
男は、諸國行脚の中途であった。
暗い山道は葉隠れした月明かりによって、ようやくその輪郭がまどろんだように浮き上がる程度である。
横を見れば、緑と土気色を闇潰す影が辺り一面に散らばっており、その中で奇怪な光がぼうっと浮き上がっては消え、こちらを覗き見ている。ぎゃあぎゃあと、虫か獣かわからぬ音色が、絶えずその中で響いている。
男は僧侶でもなければ、歌人でもなかった。
ぼろ布のような纏いに、崩れはてた編み笠をかぶり、杖と呼ぶにはお粗末な出来栄えの樹の棒を転々と地につけながら、緩やかな傾斜をただひたすらに上っていた。
突然、山道の生物から成るやかましい音色が、すっと熱が冷めたように落ち着いた。
辺りに、無感情な静寂が漂ったその時だった。
おうい、おうい。
やにわに、男の今まさに通って来た道から、軽やかな声が聞こえた。
だが、丑三つ時の山道には男のほかに、人の気配はない。あるわけがないのである。
おうい、そこな男。
また声がした。今度は、野太い粗野な声だった。さっきよりは少しだけ男の近くで声がしていた。
止まってくださいまし。
華奢な耳障りの、涼やかな女の声がした。
草木が夜に埋もれ、息も絶え絶えなその泥濘の中で、やがて男を呼ぶ声は絶えぬ合奏となった。
月が覗く、松の木のてっぺんから。
おいで。
男の足跡深々と残る、山道の虚から。
おいで。
暗幕垂れ下がる両側の暗闇の園から。
おいで。
その聲共はついに、男を取り囲むように方々から口々に呟いた。
おいで おいで おいで
男はただ、黙って歩いているだけである。
深く被った編み笠が捉えているのは、先達が幾人も通してやっとこさえられた、不出来なけもの道だけである。
幾たびの呼びかけにも関わらず、何の変哲もない男の様子に、聲どもは次第にあきらめたように一人、また一人と、そのおどろおどろしい合奏を降りて行った。
けもの道はそこで途切れていた。
何とか通れぬものか。
男はそう呟いた、つもりではあったが、彼のつぶやきは彼以外にはどもりのような、えてしてその内容をうかがい知れぬ雑音のようなものであった。
やがて男は、草木生い茂る夜の森の中を、なんとかかき分けながら進んでいった。
男の背中が溶けるようにして、雑然とした闇の中消え失せると、山道は元のやかましさを取り戻した。
*********************
これでおしまい。
そう、吉川が締めくくったころ、俺の風呂上りの体はすっかり冷え切っていた。
何故だか、むず痒いほどに体を悪寒が襲っている。吉川のいる歩道橋での雑然とした足音の勢いが少し増して、いくらか安堵した。
―――どうだ?怖かったか?
さっきとは一転して愉快な様子の吉川が呟いた。どうせ自分の反応を面白がっているに違いない。
「いやまあ面白かったけどさ。なんつーか、これこそ煙に巻いたような話だな」
―――…なるほど?
一拍の間の後、吉川の少し沈んだ声がこだまする。
「まぁ、暇つぶしにはちょうどいい話だったよ」
少し、意地悪しすぎただろうか。フォローを入れると、吉川は「ん」といつものそっけない様子で返した。
ーーーそろそろだな。
「何がだ?」
ーーーこの歩道橋にある言い伝えは、時間制限があるんだ。夜九時半から十時までの間ってな。
壁に掛けてある時計の長針は九時二十五分を指している。見上げた瞬間、また首が痛んだ。
「本当にもうそろそろだな。今辺りはどんな感じだ」
ーーーどうって、特に変わりはないな
変わりはない、か。
「そうか…」
違う、さっきから。何かおかしい。
首の痛みのせいだろうか、脳裏に何か引っかかるものがある。
一瞬の静寂を、騒々しい足音が塗りつぶしていく。
ああ、これだ。
さっきから通話の向こうでずっとしているこの足音。
ノイズのように聞こえて、聞いていてなんだか癪に障る。
首がじくじくと痛む。
頭がぼんやりしてきた。
「足音がうるさいな、随分と人気が多いんだな」
一瞬、吉川が返答を躊躇したのを感じた。
人の目が今になって気になりだしたのだろうか。これを機に、どこか静かなところへ行ってほしいものだ。
誰もいない教室のようなところへ。
ーーーん?あぁ、かもな。
「は?なんだ、かもなって」
妙に要領の得ない返事だった。
―まぁ、変わりはないよ。さっきと同じだ。
その言葉に少なからず安堵する自分に少し腹が立った。
「そうか。やっぱでまかせだったんだな」
続けざま自分に言い聞かせるように言うと、吉川は
ーーーいや、そうとも言い切れんよ。
何事か呟いたが、足音や何かの喋り声がして聞き取れなかった。
不愉快だ。
物事がうまく進まないときに感じる、どうしようもない苛立ちが胸を襲う。
それにさっきから。
「なんて?もっと大きな声でしゃべってくれ」
さっきから何か。忘れているような。
吉川は、かなり語気を荒めた俺の問いに応えなかった。
その代わり、一拍おいてこちらに質問を投げかけてきた。
―…。ところで伊藤はさ、この話のどこが、腑に落ちなかったんだ?
「うぅん。お前のへったくそな朗読のせいかもしれないから何とも言えないが」
吉川の「へっ」と気の抜けた笑いがした。
本当はへたくそなどではない、少し、否、かなり怖かった。
だがそれを底意地の悪い吉川に素直に話してしまえば、たちまち嘲笑の嵐を食らうに違いないと思ったから、余計な洒落を挟んだ。
「やっぱり、男の『聲』に対する徹底した無関心さが気に掛かるな。まるで…」
ーーーまるで、なんだ?
「聞こえないみたいだった。聲どころか、他の物音さえも」
ーーーなるほど…
それから、近くを通り過ぎる足音が暫くうるさく吠えていた。吉川は数分黙りこくっていた。
それも少しして止んでから、辺りは国道を通る車の轍のような音がするだけの、不気味な静けさに包まれた。
このころになると、俺にとって吉川の無言は苦痛だった。
首の痛みから気をそらすことができないし、さっきから頭の中にもやがかかったようで、忘れていた大事なことがあるようで、それを思い出すのを、首の痛みが留めているようで、依然気分はちっともマシにならない。
「…?もしもし?」
急かすような口調だった。まるで、吉川が俺の頭の中の靄を何とか振り払ってくれるような、そんな気がしたからだ。
ーーーあぁ、聞こえてるよ。ちょっとな。謝らないといけないことがあってな。
首が痛い、よく聞こえない。
「なんだって?よく聞こえないんだが」
また足音がしてきた。
首が痛い。
何か忘れている、思い出せない。
ーーーさっきの緑腺奇譚なんだが、読み飛ばしていたところがあったらしい。
「はぁ」
どうでもいい。首が痛い。腹が立つ。足音がうるさい。あっちへ行け。
ーーー最後から三行目、男の背中が宵闇に消え失せる前の一文。「男は、ろうあ者であった」との一文がある。
「はぁ?」
吉川は何て言った?
『ろうあ者』…。
確か耳の聞こえない人を指す言葉だ。そうなると、さっきの話の印象がガラッと変わってくる。
ーーーついうっかり読み飛ばしちまった。
男の周りで、執拗に男に付きまとっていた声共を、男は無視していたのではない。単に。
「…聞こえていなかっただけか」
ーーーそうなるな。それを聞いたうえで、この話のオチはどこだと思う?
「いや、さっき言った男がろうあ者って発覚した場面だろう」
ーーーそう思うか。俺は違う。
「なんなんだよじゃあ」
投げやりに答えた。
イヤフォンから流れる足音が耳鳴りのように頭に響いていたからだ。
ろくに考えもまとまりゃしない。
ーーー声が途切れた直後の、「けもの道は、そこで途切れていた」という所。
「それの何がオチなんだよ」
ーーーけものみちってのは、そこを通った先人がいることの証左だ。それが途切れているということは、それ以上先に進んだものはいない。この物語のプロットに沿えば、先達は聲に恐れおののいて退散したか、この山に住まう聲共の主に襲われたのだろう。だが、男がそうなることはなかった。何故だかわかるか?
「もったいぶるな」
ーーー無反応だったからだ。男はろうあ故に、聲共を感知することができず、聲共に対して何の恐れも、反応もしなかったことで、無事生き延びたと解釈できる。こういう怪異は、別にこの話に限った事じゃなしに、日本各地に散見できる。「振り返ってはいけない」、「返事してはいけない」、「目を合わせてはいけない」。伊藤も聞いたことがあるだろう。
なんだ。今、俺の名前が呼ばれたのか。
ほとんど聞き取れない。足音がうるさい。
首が痛い。息がしづらい。気持ちが悪い。頭が重い。
何か忘れている。
ーーーそれらすべてに、共通するのは『怪異の主を感知してはいけない』と言うことだ。幽世の存在は、常世の存在よりも、文字通り影が薄い、この世界に色濃く干渉する術を持ち合わせていないんだ。だから、常世の存在に自らを感知させ、干渉させようとする。もし何か、幽世の存在に対して反応を示してしまえば、思うつぼだ。相手に触れるとき、相手もまたこちらに触れているように。その人間に近づき、憑りつき、蝕み、殺すと。
「…何のために?」
ーーーさあね。
一拍置いて帰ってきた返事はかなり呆気ないものだった。
頭がぐわんと揺れてる。その中で足音が鳴っている。
意識が遠のくと思ったら、首元がずきりと痛む。
頭の中で何か叫んでいる。
ーーー不条理だから怖いんじゃないのか。
うるさい。なんだ偉そうに。
ーーー自分をつけ狙う悪鬼の動機が分からなければ、対処法もわからない。
うるさい、うるさい。口答えするな。
ーーーまさに手詰まりだ、だから怪異は恐ろしいんだ。
くそが、我慢の限界だ。
「ご高説ありがたいんだけどさ。お話が長いんだよ」
ーーーえ?
「もっと短くまとめろよ馬鹿が」
---それは…悪かったよ。
「そもそもお前なんて、俺がいなかったら誰も気にかけない可哀そうな小動物のくせして、グダグダグダグダ。偉そうに教授みてえな話し方しやがってよ」
あれ。
なにか、違う。
吉川ってそうだったよな。
いつもおどおどして、伏し目がちで、眼鏡かけて、くだらん映画の話して。
あれ、吉川の声ってこんな野太かったか?
こんなにはきはきと、言葉を紡いだことがあったか?
---それは悪かった。
違う、俺はただ、そこから去ってほしいだけだ。
この足音を止めてほしいだけだ。
この電話を切ってほしいだけだ。
「そもそもお前には配慮ってもんが足りない。さっきからずっとイライラしてるんだ」
ーーーどうしたんだよ。
「後ろで鳴ってる騒々しい足音だ!うるせえんだよガヤガヤと!」
---………。
「…おい、聞こえてるのか」
ーーー何言ってるんだ?
足音。
話し声。
うるさい。
「お前正気か?」
足音。
話し声。男。女。ガキ。ジジイ。ババアの。
うるさい。
首。頭。
痛い、痛い。
ーーーそれはお前の方だ。さっきから少し様子がおかしいぞ。
足音。
話し声。
大きくなる。
呟いている。近づいている。
首。絞まる。
頭。重い。
「誰のせいだと思ってる」
ーーー…少なくとも、足音とやらには身に覚えがない。そもそも、この歩道橋はさっきから、誰も通ってないからな。
え?
喉まで出かけた言葉は、声にならなかった。
代わりにぞくりと、背筋を冷たいものが撫ぜた。
「…なんだって?」
---だからさ、誰一人通ってないんだよ。ここ。
誰一人通ってない
ーーーなぁ、お前が聞こえてる足音ってのは、誰のなんだ?
誰のなんだって。知るわけがない。
さっきからずっと俺の耳を、鼓膜を刺激している、このノイズみたいな足音は何だ。
ーーーおい、大丈夫か?
それだけじゃない。だんだん大きくなってる。
はるか遠くからゆっくりと近づくような。
「…じゃあ…この足音は…」
ーーー知らんよ。今も聞こえてるのか?
「…あぁ…聞こえてる…」
虚ろな声でそう返した。
ざわざわとした喧騒が、徐々に大きくなってくる。
「おい…吉川…悪い冗談言うなよ…」
ーーー冗談じゃない、画面を見ろ。
そういうと通話はビデオに切り替わった。
吉川が映す歩道橋は、低い山間の石段に続くその道には。
人っ子一人、居なかった。
愕然とした。
絶句とはこのことかと思った。
吉川が何か言っている。雑音で聞き取れない。
イヤフォンを外したい。
ーーー伊藤、聞いてるのか…?
話し声も聞こえてくる。
男とも女とも取れない。
いや違う。両方だ。
大勢の足音、話し声が。
これは吉川のいる歩道橋からしているはずだ。
俺はイヤフォンで両耳を塞いでいるのだから。
ーーー大丈夫じゃないよな、伊藤
「え…?」
---ところでお前、今どこにいるんだ?
「…家だけど」
---家?焼け跡の間違いだろう?
「…何を言っている」
---お前が火をつけたんだろう?覚えてないのか。
「あ、あぁ、あ…」
---おい、伊藤。落ち着け、よく聞け。
吉川が何事か呟いてる間に、俺はイヤフォンに手をかけ、耳から引きちぎろうとした。
でも、できない。
この足音が、話し声が、喧騒が、とっくにイヤフォンからではなく、自分のすぐ後ろの壁からしていることに気付いてしまうから。
吉川の声が、途切れ途切れに聞こえる。
---この歩道橋は、夜になるとどこからともなく大勢の足音が聞こえるらしい。加えて、此処には、禁忌がある。その足音が聞こえても、振り返ったり、誰何したり、とにかく反応してはいけないそうだ。もし、反応してしまえば…。
「…どうなるんだ」
---導かれるらしい。おいで、おいでとな。
ザザッと音がして、通話が途切れた。
いや、 掻き消されたんだ。
大勢の人間の、足音に。
暗闇の中、音が聞こえる。
足音はとうに止んでいた。
歩みを止めたのではない。
着いたのだ。
何とかしなければ。
そうだ。鍵を。鍵を閉めよう。
布団を跳ね除けるんだ。
だめだ。出来ない。
ドアまで行けない。地に足がつかない。浮かんでいる。吊るされている。
それにここは。ここはもう、俺の家じゃない。誰もいない。焼け跡のような。焦げ付いた匂いだ。
真っ暗だ。首が痛い。何か忘れてる。思い出したくない。見たくない。首に縄が巻かれている。いやだ。行きたくない。
耳鳴りがする。低い、ざらついた耳鳴り。違う。耳鳴りじゃない。声。こえ。コエ。聲。
おいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいえおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいえおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいで
昼下がりの教室の中のせわしなさをかいくぐり、それは耳の中に飛び込んできた。
視線を上げると、いつものようにニヤついた笑みを浮かべた吉川の顔があった。
「何がよ」
何時の間にか、教室には俺と吉川の二人だけになっていた。何とはなしに窓から覗き見た空には、粘ついた曇天が広がっている。少し前から、首を寝違えたらしいずきりとした痛みがうなじにかけてぐるっと喉を占めていた。
「何がって。幽霊だよ」
キョトンとした顔で吉川は言った。俺はげんなりしながら、
「もういいってそのたぐいの誘いは。お前そもそも怖がりじゃん」
そう零した。吉川は何となく不機嫌そうな顔で、
「馬鹿だなあ」
と、反転させていた身体を元に戻しつつぼやいた。
吉川は一見してみると、年相応の短く刈った髪形に、肩幅に対して少し身長の低い体格を伴ったごく普通の高校生である。ただしかし、彼には奇天烈というべきか、少しほかのクラスメートからは一線を画しているような妙な雰囲気があった。
彼が新クラスの中で浮いていたというのもあってか、半ば人助けのような感覚でもあった。だから俺は進級して数日後の昼休み、那久地行人の「緑腺奇談」というホラー小説を読みふけっていた彼のもとへ近づき、慎重に声をかけた。
「吉川君。那久地行人、好きなの?」
一瞬の間があって、彼はぴたりと活字を追う視線の歩みを止めた。
「ん」
短い声を発した後、文庫本を手の中でひっくり返した彼は、表表紙をまじまじと見つめた。
「ナクジっていうのか。読めなかったな」
何というか拍子抜けだった。那久地はオカルト界隈では一通り名が知れている奇譚の書き手だ。にもかかわらず彼はそれすら知らなかったのだ。俺は呆れて尋ねた。
「誰が書いたかも知らずに読んでたの?」
「別に。音楽もそうだけど、作者がどうとか気にならんかな」
吉川は俺に視線を合わさぬまま、文庫本を完全に閉じ、ぱたりと机に置いた。
吉川のこちらを一瞬たりとも見ようとしない様子に見くびられていると少し苛立ちを覚えた俺は、何とかしてこの仏頂面を篭絡してやろうと畳みかけた。
「でもさ、好みの内容だったら似たり寄ったりな話を書く可能性があるわけじゃんか。そういう無作為な選び方は、非効率的に思えるけど。俺だったらそんなことはしないなあ」
俺のこの理論にさしもの吉川も動揺したようで、短いため息の後こう言った。
「そういうことじゃなくて、俺はこういう世界観に確証をもって挑みたくないのさ」
「は?」
「例えばさ」
吉川はようやくこちらに向き直って話し始めた。切れ長の双眸の中で、やや大きめな黒目が鈍色に光る。
ようやく俺と話す気になったか。
「あらかじめ結末が分かってる映画とか、何がどのタイミングで出てくるか、全部わかってるお化け屋敷とか、人気出ると思う?」
「そんなの、人気が出るわけないだろ」
「だろ。俺が思うに、わからないことへ挑むってのはどこか快感があると思うんだ」
「ふうん」
なんとなく、わかるようなわからないような相槌を打ちつつ、俺は続けた。
「でもそれは何となくみんな、それが面白いってわかってていくんだろ。あの有名な監督が撮ってるからだとか、行列ができてるお化け屋敷とかにさ」
「俺はそれが気に食わないんだ。一期一会の瞬間に対していちいち裏打ちされた信用が無ければはした金ですら出しせびるその態度が気に食わない」
「ほぉ」
思わず、妙なため息が出てしまった。
なんとなく感じていたが、こいつ相当ひねくれている。
「お前今俺のことひねくれてるって思ったろ」
ドキリと心臓が高鳴ったが、なぜかこの時こいつを目前にして、それを隠して善人であろうとしても仕方がないと感じた。
「うん。あとお前じゃなくて伊藤。伊藤康太だよ」
「そっか。伊藤か。とにかく伊藤、俺はな。わからないことそのものを楽しみたいんだよ。それを前提に成り立ってるのがホラーってジャンルだ。だから俺はホラーが好きだし、わからないことが好きなんだ。それを解き明かすことじゃなくて、未知そのものに浸ってたいんだよ」
要約すると、恐怖の起源とは未知であり、ホラーを楽しむ者にとってはその未知をも呑み込み楽しむような器量が無ければいけないというのが、彼の持論だった。正直言えばこの持論にはそこまでの共感は示せないが、初対面にしては回りくどい話し様になにか人とは違う魅力を感じた俺は、その日から頻繁に吉川に話しかけるようになっていた。
ただそんなご立派な建前にしては、彼のホラーに対する挙動はずさんな収集家といった無作為なものだった。
その中で極めつけ、彼のオカルト愛好家っぷりが目立ったのは、心霊スポット巡りであった。
とにかく何かしらの奇談があれば、それが真実でもデマでも関係なく赴くのである。
そしてなぜか、その同行者として俺はよく誘われることがあった。
とはいえ俺は、吉川からそういった誘いのあるそのたびに何かと言い訳をこさえて断ってた。
というのも、彼は少し常識がないというか、そもそも心霊スポットなんぞが夜に行くものなのだからしょうがないのだが、さすがにできて間もない知人程度の仲では到底考えられないほど深夜遅くに時間を指定してくることがほとんどだった。
彼はそのひねた性格からか友達といるのが少ないようだった。
それに少し同情を覚えた俺は、半ば人助けのような形で彼の語り草に度々付き合ってやっていた。
もう少し常識的な時間であれば、行ってやってもかまわないというのに。
ただ、この時は少し注文が異なっていた。
「わかってる。どうせお前は行かないっていうんだろ?」
「よくわかってるじゃないか。そもそも人を誘うんだったらもっと時間帯ってもんが」
吉川は言葉を遮って続けた。
「わかったわかった。お前のその常識人ぶりはよくわかったよ。だからな、考えたんだ」
「何を」
「お前さ、今週今日の九時以降暇か?」
「まあ何もないけど、その歩道橋ならいかんぞ」
「違う違う。お前にはリモートで参加してもらおうと思ってるんだ。ほら、ビデオ通話でもなんでも繋いでよ」
「あぁ…」
最終的には、根負けという言葉がよく似合う形で俺の九時から十時までの一時間は、吉川の趣味に拘束される形となった。
ーーーもしもーし!聞こえてるー?
口やかましい音が鳴り響いたのは九時きっかりになってからだった。
風呂上がりの体を覚めないように慎重に毛布でくるんだ後、俺は自室の壁にもたれかかるようにしてベッドの上に座った。
相変わらずじくじくと痛む首のせいでスマホの画面を見るのが辛い。
「聞こえてるし、見えてるよ、うるさいな。今イヤホン繋ぐから待ってろ」
ーーーはいはーい。
何処までも能天気な声に思わず舌打ちが出かける。
有線のイヤホンの絡まりを少しほぐしながら、端末につなげる。ざざっとしたノイズ音の後、数人が歩き去るような足音の中で、吉川の声が途切れ途切れに聞こえた。
「できたよ。そんでさ、聞きたいことがあったんだけど。その歩道橋ってどんな曰くがあるわけ?」
ーーーまだ説明してなかったっけ。まぁ、あれだな。それは明日以降話すよ。
「なんでだよ」
ーーーお前もせっかくなら、わからないを楽しめよ。
またこれだ。
心底呆れるというか、吉川は自分の感じている世界が、他人にもそうだと考えて当たり前だと思っている節がある。
「煙に巻くのが本当に好きだな」
今あるだけの不満を率直に声色に出した。
これにはさすがに吉川も焦ったらしい。なだめるような口調で、妙な提案をしてきた。
ーーーわかったよ。ここの曰くは未だ教えられないけど、緑腺奇譚に面白い話があったから、それを朗読してやる。心霊スポットでの怪談会だ。面白そうだろ?
「もう好きにしろよ」
投げやりな口調など意に介さず、吉川は語りだした。この時間帯は人気が意外とあるらしい、依然としてイヤホンからは吉川の声と共に騒々しい足音がしていた。
ーーーある男の話だ。暗い夜道を男が一人歩いている。
*********************
男は、諸國行脚の中途であった。
暗い山道は葉隠れした月明かりによって、ようやくその輪郭がまどろんだように浮き上がる程度である。
横を見れば、緑と土気色を闇潰す影が辺り一面に散らばっており、その中で奇怪な光がぼうっと浮き上がっては消え、こちらを覗き見ている。ぎゃあぎゃあと、虫か獣かわからぬ音色が、絶えずその中で響いている。
男は僧侶でもなければ、歌人でもなかった。
ぼろ布のような纏いに、崩れはてた編み笠をかぶり、杖と呼ぶにはお粗末な出来栄えの樹の棒を転々と地につけながら、緩やかな傾斜をただひたすらに上っていた。
突然、山道の生物から成るやかましい音色が、すっと熱が冷めたように落ち着いた。
辺りに、無感情な静寂が漂ったその時だった。
おうい、おうい。
やにわに、男の今まさに通って来た道から、軽やかな声が聞こえた。
だが、丑三つ時の山道には男のほかに、人の気配はない。あるわけがないのである。
おうい、そこな男。
また声がした。今度は、野太い粗野な声だった。さっきよりは少しだけ男の近くで声がしていた。
止まってくださいまし。
華奢な耳障りの、涼やかな女の声がした。
草木が夜に埋もれ、息も絶え絶えなその泥濘の中で、やがて男を呼ぶ声は絶えぬ合奏となった。
月が覗く、松の木のてっぺんから。
おいで。
男の足跡深々と残る、山道の虚から。
おいで。
暗幕垂れ下がる両側の暗闇の園から。
おいで。
その聲共はついに、男を取り囲むように方々から口々に呟いた。
おいで おいで おいで
男はただ、黙って歩いているだけである。
深く被った編み笠が捉えているのは、先達が幾人も通してやっとこさえられた、不出来なけもの道だけである。
幾たびの呼びかけにも関わらず、何の変哲もない男の様子に、聲どもは次第にあきらめたように一人、また一人と、そのおどろおどろしい合奏を降りて行った。
けもの道はそこで途切れていた。
何とか通れぬものか。
男はそう呟いた、つもりではあったが、彼のつぶやきは彼以外にはどもりのような、えてしてその内容をうかがい知れぬ雑音のようなものであった。
やがて男は、草木生い茂る夜の森の中を、なんとかかき分けながら進んでいった。
男の背中が溶けるようにして、雑然とした闇の中消え失せると、山道は元のやかましさを取り戻した。
*********************
これでおしまい。
そう、吉川が締めくくったころ、俺の風呂上りの体はすっかり冷え切っていた。
何故だか、むず痒いほどに体を悪寒が襲っている。吉川のいる歩道橋での雑然とした足音の勢いが少し増して、いくらか安堵した。
―――どうだ?怖かったか?
さっきとは一転して愉快な様子の吉川が呟いた。どうせ自分の反応を面白がっているに違いない。
「いやまあ面白かったけどさ。なんつーか、これこそ煙に巻いたような話だな」
―――…なるほど?
一拍の間の後、吉川の少し沈んだ声がこだまする。
「まぁ、暇つぶしにはちょうどいい話だったよ」
少し、意地悪しすぎただろうか。フォローを入れると、吉川は「ん」といつものそっけない様子で返した。
ーーーそろそろだな。
「何がだ?」
ーーーこの歩道橋にある言い伝えは、時間制限があるんだ。夜九時半から十時までの間ってな。
壁に掛けてある時計の長針は九時二十五分を指している。見上げた瞬間、また首が痛んだ。
「本当にもうそろそろだな。今辺りはどんな感じだ」
ーーーどうって、特に変わりはないな
変わりはない、か。
「そうか…」
違う、さっきから。何かおかしい。
首の痛みのせいだろうか、脳裏に何か引っかかるものがある。
一瞬の静寂を、騒々しい足音が塗りつぶしていく。
ああ、これだ。
さっきから通話の向こうでずっとしているこの足音。
ノイズのように聞こえて、聞いていてなんだか癪に障る。
首がじくじくと痛む。
頭がぼんやりしてきた。
「足音がうるさいな、随分と人気が多いんだな」
一瞬、吉川が返答を躊躇したのを感じた。
人の目が今になって気になりだしたのだろうか。これを機に、どこか静かなところへ行ってほしいものだ。
誰もいない教室のようなところへ。
ーーーん?あぁ、かもな。
「は?なんだ、かもなって」
妙に要領の得ない返事だった。
―まぁ、変わりはないよ。さっきと同じだ。
その言葉に少なからず安堵する自分に少し腹が立った。
「そうか。やっぱでまかせだったんだな」
続けざま自分に言い聞かせるように言うと、吉川は
ーーーいや、そうとも言い切れんよ。
何事か呟いたが、足音や何かの喋り声がして聞き取れなかった。
不愉快だ。
物事がうまく進まないときに感じる、どうしようもない苛立ちが胸を襲う。
それにさっきから。
「なんて?もっと大きな声でしゃべってくれ」
さっきから何か。忘れているような。
吉川は、かなり語気を荒めた俺の問いに応えなかった。
その代わり、一拍おいてこちらに質問を投げかけてきた。
―…。ところで伊藤はさ、この話のどこが、腑に落ちなかったんだ?
「うぅん。お前のへったくそな朗読のせいかもしれないから何とも言えないが」
吉川の「へっ」と気の抜けた笑いがした。
本当はへたくそなどではない、少し、否、かなり怖かった。
だがそれを底意地の悪い吉川に素直に話してしまえば、たちまち嘲笑の嵐を食らうに違いないと思ったから、余計な洒落を挟んだ。
「やっぱり、男の『聲』に対する徹底した無関心さが気に掛かるな。まるで…」
ーーーまるで、なんだ?
「聞こえないみたいだった。聲どころか、他の物音さえも」
ーーーなるほど…
それから、近くを通り過ぎる足音が暫くうるさく吠えていた。吉川は数分黙りこくっていた。
それも少しして止んでから、辺りは国道を通る車の轍のような音がするだけの、不気味な静けさに包まれた。
このころになると、俺にとって吉川の無言は苦痛だった。
首の痛みから気をそらすことができないし、さっきから頭の中にもやがかかったようで、忘れていた大事なことがあるようで、それを思い出すのを、首の痛みが留めているようで、依然気分はちっともマシにならない。
「…?もしもし?」
急かすような口調だった。まるで、吉川が俺の頭の中の靄を何とか振り払ってくれるような、そんな気がしたからだ。
ーーーあぁ、聞こえてるよ。ちょっとな。謝らないといけないことがあってな。
首が痛い、よく聞こえない。
「なんだって?よく聞こえないんだが」
また足音がしてきた。
首が痛い。
何か忘れている、思い出せない。
ーーーさっきの緑腺奇譚なんだが、読み飛ばしていたところがあったらしい。
「はぁ」
どうでもいい。首が痛い。腹が立つ。足音がうるさい。あっちへ行け。
ーーー最後から三行目、男の背中が宵闇に消え失せる前の一文。「男は、ろうあ者であった」との一文がある。
「はぁ?」
吉川は何て言った?
『ろうあ者』…。
確か耳の聞こえない人を指す言葉だ。そうなると、さっきの話の印象がガラッと変わってくる。
ーーーついうっかり読み飛ばしちまった。
男の周りで、執拗に男に付きまとっていた声共を、男は無視していたのではない。単に。
「…聞こえていなかっただけか」
ーーーそうなるな。それを聞いたうえで、この話のオチはどこだと思う?
「いや、さっき言った男がろうあ者って発覚した場面だろう」
ーーーそう思うか。俺は違う。
「なんなんだよじゃあ」
投げやりに答えた。
イヤフォンから流れる足音が耳鳴りのように頭に響いていたからだ。
ろくに考えもまとまりゃしない。
ーーー声が途切れた直後の、「けもの道は、そこで途切れていた」という所。
「それの何がオチなんだよ」
ーーーけものみちってのは、そこを通った先人がいることの証左だ。それが途切れているということは、それ以上先に進んだものはいない。この物語のプロットに沿えば、先達は聲に恐れおののいて退散したか、この山に住まう聲共の主に襲われたのだろう。だが、男がそうなることはなかった。何故だかわかるか?
「もったいぶるな」
ーーー無反応だったからだ。男はろうあ故に、聲共を感知することができず、聲共に対して何の恐れも、反応もしなかったことで、無事生き延びたと解釈できる。こういう怪異は、別にこの話に限った事じゃなしに、日本各地に散見できる。「振り返ってはいけない」、「返事してはいけない」、「目を合わせてはいけない」。伊藤も聞いたことがあるだろう。
なんだ。今、俺の名前が呼ばれたのか。
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首が痛い。息がしづらい。気持ちが悪い。頭が重い。
何か忘れている。
ーーーそれらすべてに、共通するのは『怪異の主を感知してはいけない』と言うことだ。幽世の存在は、常世の存在よりも、文字通り影が薄い、この世界に色濃く干渉する術を持ち合わせていないんだ。だから、常世の存在に自らを感知させ、干渉させようとする。もし何か、幽世の存在に対して反応を示してしまえば、思うつぼだ。相手に触れるとき、相手もまたこちらに触れているように。その人間に近づき、憑りつき、蝕み、殺すと。
「…何のために?」
ーーーさあね。
一拍置いて帰ってきた返事はかなり呆気ないものだった。
頭がぐわんと揺れてる。その中で足音が鳴っている。
意識が遠のくと思ったら、首元がずきりと痛む。
頭の中で何か叫んでいる。
ーーー不条理だから怖いんじゃないのか。
うるさい。なんだ偉そうに。
ーーー自分をつけ狙う悪鬼の動機が分からなければ、対処法もわからない。
うるさい、うるさい。口答えするな。
ーーーまさに手詰まりだ、だから怪異は恐ろしいんだ。
くそが、我慢の限界だ。
「ご高説ありがたいんだけどさ。お話が長いんだよ」
ーーーえ?
「もっと短くまとめろよ馬鹿が」
---それは…悪かったよ。
「そもそもお前なんて、俺がいなかったら誰も気にかけない可哀そうな小動物のくせして、グダグダグダグダ。偉そうに教授みてえな話し方しやがってよ」
あれ。
なにか、違う。
吉川ってそうだったよな。
いつもおどおどして、伏し目がちで、眼鏡かけて、くだらん映画の話して。
あれ、吉川の声ってこんな野太かったか?
こんなにはきはきと、言葉を紡いだことがあったか?
---それは悪かった。
違う、俺はただ、そこから去ってほしいだけだ。
この足音を止めてほしいだけだ。
この電話を切ってほしいだけだ。
「そもそもお前には配慮ってもんが足りない。さっきからずっとイライラしてるんだ」
ーーーどうしたんだよ。
「後ろで鳴ってる騒々しい足音だ!うるせえんだよガヤガヤと!」
---………。
「…おい、聞こえてるのか」
ーーー何言ってるんだ?
足音。
話し声。
うるさい。
「お前正気か?」
足音。
話し声。男。女。ガキ。ジジイ。ババアの。
うるさい。
首。頭。
痛い、痛い。
ーーーそれはお前の方だ。さっきから少し様子がおかしいぞ。
足音。
話し声。
大きくなる。
呟いている。近づいている。
首。絞まる。
頭。重い。
「誰のせいだと思ってる」
ーーー…少なくとも、足音とやらには身に覚えがない。そもそも、この歩道橋はさっきから、誰も通ってないからな。
え?
喉まで出かけた言葉は、声にならなかった。
代わりにぞくりと、背筋を冷たいものが撫ぜた。
「…なんだって?」
---だからさ、誰一人通ってないんだよ。ここ。
誰一人通ってない
ーーーなぁ、お前が聞こえてる足音ってのは、誰のなんだ?
誰のなんだって。知るわけがない。
さっきからずっと俺の耳を、鼓膜を刺激している、このノイズみたいな足音は何だ。
ーーーおい、大丈夫か?
それだけじゃない。だんだん大きくなってる。
はるか遠くからゆっくりと近づくような。
「…じゃあ…この足音は…」
ーーー知らんよ。今も聞こえてるのか?
「…あぁ…聞こえてる…」
虚ろな声でそう返した。
ざわざわとした喧騒が、徐々に大きくなってくる。
「おい…吉川…悪い冗談言うなよ…」
ーーー冗談じゃない、画面を見ろ。
そういうと通話はビデオに切り替わった。
吉川が映す歩道橋は、低い山間の石段に続くその道には。
人っ子一人、居なかった。
愕然とした。
絶句とはこのことかと思った。
吉川が何か言っている。雑音で聞き取れない。
イヤフォンを外したい。
ーーー伊藤、聞いてるのか…?
話し声も聞こえてくる。
男とも女とも取れない。
いや違う。両方だ。
大勢の足音、話し声が。
これは吉川のいる歩道橋からしているはずだ。
俺はイヤフォンで両耳を塞いでいるのだから。
ーーー大丈夫じゃないよな、伊藤
「え…?」
---ところでお前、今どこにいるんだ?
「…家だけど」
---家?焼け跡の間違いだろう?
「…何を言っている」
---お前が火をつけたんだろう?覚えてないのか。
「あ、あぁ、あ…」
---おい、伊藤。落ち着け、よく聞け。
吉川が何事か呟いてる間に、俺はイヤフォンに手をかけ、耳から引きちぎろうとした。
でも、できない。
この足音が、話し声が、喧騒が、とっくにイヤフォンからではなく、自分のすぐ後ろの壁からしていることに気付いてしまうから。
吉川の声が、途切れ途切れに聞こえる。
---この歩道橋は、夜になるとどこからともなく大勢の足音が聞こえるらしい。加えて、此処には、禁忌がある。その足音が聞こえても、振り返ったり、誰何したり、とにかく反応してはいけないそうだ。もし、反応してしまえば…。
「…どうなるんだ」
---導かれるらしい。おいで、おいでとな。
ザザッと音がして、通話が途切れた。
いや、 掻き消されたんだ。
大勢の人間の、足音に。
暗闇の中、音が聞こえる。
足音はとうに止んでいた。
歩みを止めたのではない。
着いたのだ。
何とかしなければ。
そうだ。鍵を。鍵を閉めよう。
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だめだ。出来ない。
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※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
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