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第1話 静かな離婚
しおりを挟む――愛人を取るなら、どうぞご自由に。私は、降ります。
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど心は静かだった。
夫であるギルベルト・アルヴェール伯爵が、執務室の中央で足を止める。隣に寄り添う若い女――最近、彼が「癒し」と称して連れ歩いている愛人、マルグリットは、勝ち誇ったように唇を歪めていた。
「……は?」
ギルベルトは聞き返す。まるで、冗談でも言われたかのような顔で。
「離婚を申し上げます」
私は丁寧にスカートをつまみ、形式通りに一礼した。
「伯爵夫人としての役目は、すでに果たし終えましたので」
室内の空気が、一瞬で凍りつく。
結婚して三年。私は一度も、彼の期待を裏切った覚えはない。領地の管理、使用人の統率、社交界での立ち回り。赤字だった財政は立て直し、伯爵家の評価も回復させた。誰が見ても「理想の妻」だったはずだ。
――それでも、足りなかったのだろう。
「待て、リュシエンヌ」
ギルベルトは不機嫌そうに眉を寄せた。
「突然何を言い出す。君も聞いただろう? 彼女はただの――」
「愛人、ですわね」
遮るように告げると、彼の言葉は止まった。
「社交界でも、すでに周知の事実です。隠すおつもりも、もうないのでしょう?」
マルグリットがくすりと笑う。
「伯爵様は正直な方なの。あなたみたいに堅苦しくなくて」
その言葉に、胸がわずかに疼いた。
けれど、表情は崩さない。
「……君は冷たすぎる」
ギルベルトは舌打ちするように言った。
「完璧で、正しくて、息が詰まるんだ。妻とは、もっと……癒しを与える存在であるべきだろう」
ああ、やはり。
何度も聞いた言葉だった。
「ですから、身を引きます」
私は淡々と続ける。
「癒しを求めるのでしたら、この方を正妻に迎えればよろしいでしょう」
マルグリットの目が大きく見開かれた。
「え……?」
「なにを勝手なことを」
ギルベルトは慌てて言うが、その声音には迷いが滲んでいた。
私は知っている。
彼が“失う覚悟”をしていないことを。
「慰謝料も、財産分与も不要です」
私は事前に用意していた書類を机に置いた。
「結婚前に持参した持参金のみ、お返しいただければ結構です」
「……強がりもいい加減にしろ」
ギルベルトは書類に目も向けず言った。
「君は伯爵夫人だ。その立場を失えば――」
「困りません」
きっぱりと答えると、彼は言葉を失った。
困らない。
本当に、それだけは確信していた。
この結婚は、政略だった。
愛情など、最初から期待していなかった。
それでも、夫として敬い、家のために尽くしてきた。
――けれど、それが「重い」のなら。
「冷たい女だな」
ギルベルトは吐き捨てるように言った。
「後悔しても、戻る場所はないぞ」
「承知しております」
私は再び一礼し、踵を返した。
背後で、マルグリットが小さく息を呑む音がした。
勝者のはずの彼女が、なぜか不安そうだったのが、少しだけ意外だった。
扉を閉めた瞬間、ようやく肩の力が抜ける。
――終わった。
そう思った、その時だった。
「……まさか、君の方から捨てるとはな」
低く、落ち着いた声。
振り返ると、廊下の影から一人の男が現れた。
端正な顔立ち、濃紺の外套。
見間違えるはずがない。
「セドリック……様?」
ヴァレンシュタイン公爵。
かつて、私の婚約者だった人。
驚きに言葉を失う私を、彼はじっと見つめる。
その瞳は、昔と変わらず静かで――そして、逃がさないと告げるように深かった。
「久しぶりだ、リュシエンヌ」
彼は微かに口角を上げる。
「……迎えに来た、と言ったら。君は困るだろうか」
心臓が、大きく跳ねた。
終わったはずの人生が、
今、音を立てて――動き出そうとしていた。
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