愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香

文字の大きさ
1 / 11

第1話 静かな離婚

しおりを挟む

 ――愛人を取るなら、どうぞご自由に。私は、降ります。

 その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど心は静かだった。

 夫であるギルベルト・アルヴェール伯爵が、執務室の中央で足を止める。隣に寄り添う若い女――最近、彼が「癒し」と称して連れ歩いている愛人、マルグリットは、勝ち誇ったように唇を歪めていた。

「……は?」

 ギルベルトは聞き返す。まるで、冗談でも言われたかのような顔で。

「離婚を申し上げます」

 私は丁寧にスカートをつまみ、形式通りに一礼した。

「伯爵夫人としての役目は、すでに果たし終えましたので」

 室内の空気が、一瞬で凍りつく。

 結婚して三年。私は一度も、彼の期待を裏切った覚えはない。領地の管理、使用人の統率、社交界での立ち回り。赤字だった財政は立て直し、伯爵家の評価も回復させた。誰が見ても「理想の妻」だったはずだ。

 ――それでも、足りなかったのだろう。

「待て、リュシエンヌ」

 ギルベルトは不機嫌そうに眉を寄せた。

「突然何を言い出す。君も聞いただろう? 彼女はただの――」

「愛人、ですわね」

 遮るように告げると、彼の言葉は止まった。

「社交界でも、すでに周知の事実です。隠すおつもりも、もうないのでしょう?」

 マルグリットがくすりと笑う。

「伯爵様は正直な方なの。あなたみたいに堅苦しくなくて」

 その言葉に、胸がわずかに疼いた。
 けれど、表情は崩さない。

「……君は冷たすぎる」

 ギルベルトは舌打ちするように言った。

「完璧で、正しくて、息が詰まるんだ。妻とは、もっと……癒しを与える存在であるべきだろう」

 ああ、やはり。
 何度も聞いた言葉だった。

「ですから、身を引きます」

 私は淡々と続ける。

「癒しを求めるのでしたら、この方を正妻に迎えればよろしいでしょう」

 マルグリットの目が大きく見開かれた。

「え……?」

「なにを勝手なことを」

 ギルベルトは慌てて言うが、その声音には迷いが滲んでいた。

 私は知っている。
 彼が“失う覚悟”をしていないことを。

「慰謝料も、財産分与も不要です」

 私は事前に用意していた書類を机に置いた。

「結婚前に持参した持参金のみ、お返しいただければ結構です」

「……強がりもいい加減にしろ」

 ギルベルトは書類に目も向けず言った。

「君は伯爵夫人だ。その立場を失えば――」

「困りません」

 きっぱりと答えると、彼は言葉を失った。

 困らない。
 本当に、それだけは確信していた。

 この結婚は、政略だった。
 愛情など、最初から期待していなかった。
 それでも、夫として敬い、家のために尽くしてきた。
 ――けれど、それが「重い」のなら。

「冷たい女だな」

 ギルベルトは吐き捨てるように言った。

「後悔しても、戻る場所はないぞ」

「承知しております」

 私は再び一礼し、踵を返した。

 背後で、マルグリットが小さく息を呑む音がした。
 勝者のはずの彼女が、なぜか不安そうだったのが、少しだけ意外だった。

 扉を閉めた瞬間、ようやく肩の力が抜ける。

 ――終わった。

 そう思った、その時だった。

「……まさか、君の方から捨てるとはな」

 低く、落ち着いた声。

 振り返ると、廊下の影から一人の男が現れた。
 端正な顔立ち、濃紺の外套。
 見間違えるはずがない。

「セドリック……様?」

 ヴァレンシュタイン公爵。
 かつて、私の婚約者だった人。

 驚きに言葉を失う私を、彼はじっと見つめる。
 その瞳は、昔と変わらず静かで――そして、逃がさないと告げるように深かった。

「久しぶりだ、リュシエンヌ」

 彼は微かに口角を上げる。

「……迎えに来た、と言ったら。君は困るだろうか」

 心臓が、大きく跳ねた。

 終わったはずの人生が、
 今、音を立てて――動き出そうとしていた。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

第一王子様が選んだのは、妹ではなく私でした!

睡蓮
恋愛
姉妹であるクレアとミリア、しかしその仲は決していいと言えるものではなかった。妹のミリアはずる賢く、姉のクレアの事を悪者に仕立て上げて自分を可愛く見せる事に必死になっており、二人の両親もまたそんなミリアに味方をし、クレアの事を冷遇していた。そんなある日の事、二人のもとにエバー第一王子からの招待状が届けられる。これは自分に対する好意に違いないと確信したミリアは有頂天になり、それまで以上にクレアの事を攻撃し始める。…しかし、エバー第一王子がその心に決めていたのはミリアではなく、クレアなのだった…!

『婚約破棄された公爵令嬢は、王と交わらない道を選ぶ』

ふわふわ
恋愛
婚約者である王太子アルベルトから、一方的に婚約破棄を告げられた公爵令嬢エレノア。 だが彼女は、涙も復讐も選ばなかった。 「婚約は、役目でしたもの。終わったのなら、それで結構ですわ」 王宮を去ったエレノアは、領地に戻り、 干渉しない・依存しない・無理をしない ただそれだけを軸に、静かに領地運営を始める。 一方、王となったアルベルトもまた、 彼女に頼らないことを選び、 「一人の判断に依存しない国」を作るための統治に身を投じていた。 復縁もしない。 恋にすがらない。 それでも、二人の選択は確かに国を安定へと導いていく。 これは、 交わらないことを選んだ二人が、 それぞれの場所で“続けられる世界”を完成させる物語。 派手なざまぁも、甘い溺愛もない。 けれど、静かに積み重なる判断と選択が、 やがて「誰にも壊せない秩序」へと変わっていく――。 婚約破棄から始まる、 大人のための静かなざまぁ恋愛ファンタジー

白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。 「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」 そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。 ——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。 「最近、おまえが気になるんだ」 「もっと夫婦としての時間を持たないか?」 今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。 愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。 わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。 政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ “白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!

婚約破棄ありがとう!と笑ったら、元婚約者が泣きながら復縁を迫ってきました

ほーみ
恋愛
「――婚約を破棄する!」  大広間に響いたその宣告は、きっと誰もが予想していたことだったのだろう。  けれど、当事者である私――エリス・ローレンツの胸の内には、不思議なほどの安堵しかなかった。  王太子殿下であるレオンハルト様に、婚約を破棄される。  婚約者として彼に尽くした八年間の努力は、彼のたった一言で終わった。  だが、私の唇からこぼれたのは悲鳴でも涙でもなく――。

「これは私ですが、そちらは私ではありません」

イチイ アキラ
恋愛
試験結果が貼り出された朝。 その掲示を見に来ていたマリアは、王子のハロルドに指をつきつけられ、告げられた。 「婚約破棄だ!」 と。 その理由は、マリアが試験に不正をしているからだという。 マリアの返事は…。 前世がある意味とんでもないひとりの女性のお話。

「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

葵 すみれ
恋愛
「無理をするな」と言いながら、仕事も責任も全部私に押しつけてきた婚約者。 倒れた私にかけたのは、労りではなく「失望した」の一言でした。 実家からも見限られ、すべてを失った私を拾い上げてくれたのは、黙って手を差し伸べてくれた、黒髪の騎士── 実は、大公家の第三公子でした。 もう言葉だけの優しさはいりません。 私は今、本当に無理をしなくていい場所で、大切にされています。 ※他サイトにも掲載しています

平手打ちされたので、婚約破棄宣言に拳でお答えしました

Megumi
恋愛
婚約破棄を告げられ、婚約者に平手打ちされた——その瞬間。 伯爵令嬢イヴの拳が炸裂した。 理不尽に耐える淑女の時代は、もう終わり。 これは“我慢しない令嬢”が、これまでの常識を覆す話。

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

処理中です...