愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香

文字の大きさ
3 / 11

第3話 失ってから気づくもの

しおりを挟む

 ――おかしい。

 ギルベルト・アルヴェール伯爵は、執務机に広げた帳簿を睨みながら、何度目かの舌打ちをした。

「……なぜ、こうなる」

 数字が合わない。
 いや、正確には「合っている」のだが、理解できない。

 ここ三か月で、領地からの上納金は確実に減っている。
 支出も増えている。
 それなのに、原因が分からない。

 ――いや、分かっているはずだ。

「伯爵様……」

 遠慮がちに声をかけてきたのは、古参の執事だった。
 かつてはリュシエンヌの指示を仰いでいた男だ。

「今月の交易契約ですが、先方から条件の見直しを求められております」

「は?」

「奥……いえ、前伯爵夫人様が個人的に築いておられた関係が失われたことで……」

 ギルベルトは顔をしかめた。

「彼女がいなくなった程度で、そんな影響が出るはずがない」

 そう言い切ったものの、執事は目を伏せる。

「……前夫人様は、相当細かく立ち回っておられましたので」

 胸の奥に、ちくりとした違和感が走った。

 ――立ち回り?
 あいつは、ただ堅苦しいだけの女だったはずだ。

 完璧で、正しくて、面白みがない。
 だから自分は、マルグリットを選んだのだ。

「伯爵様♡」

 噂をすれば影。
 軽やかな足取りで、マルグリットが執務室に入ってきた。

「今日の昼食、街で評判のお店にしましょう? 新作のドレスも――」

「今は忙しい」

 ぶっきらぼうに遮ると、彼女は目を丸くする。

「まあ……最近、冷たくありません?」

「そんなことはない」

 言いながら、ギルベルトは苛立ちを覚えていた。

 ――癒しのはずだった。
 そう、彼女は「癒し」であるべき存在だった。

 なのに、今はなぜか落ち着かない。
 屋敷は散らかり、使用人の動きは鈍く、社交界からの招待状は減った。

「……そういえば」

 マルグリットが何気なく言う。

「最近、皆さん、私を見る目が変じゃない?」

 ギルベルトは答えなかった。

 変わったのは、見る目ではない。
 立場だ。

 伯爵夫人という肩書きを失った彼女は、
 単なる“愛人上がりの女”でしかない。

 それを指摘すれば、泣き出すだろう。
 だから黙っているだけだ。

 ――面倒な。

 ふと、リュシエンヌの姿が脳裏をよぎる。

 彼女は泣かなかった。
 怒鳴りもしなかった。
 ただ、静かに頭を下げて、去っていった。

 あの時は、せいせいしたと思ったはずなのに。

「伯爵様!」

 執事が、慌てた様子で飛び込んでくる。

「ヴァレンシュタイン公爵家から、正式な通達が……」

「公爵家?」

 嫌な予感がした。

「前伯爵夫人様が、現在、公爵家に滞在されているとのことです」

「……は?」

 言葉が、理解を拒んだ。

「なぜ、あいつが……」

「また、社交界でも噂になり始めております」

 執事は言いにくそうに続ける。

「“公爵が、長年想っていた女性を迎え入れた”と」

 ――迎え入れた?

 胸が、どくりと嫌な音を立てた。

 思い出すのは、あの男の顔。
 冷静で、余裕があり、常に一歩引いていた公爵。

 まさか――。

「……冗談だろう」

 自分に言い聞かせるように呟く。

「リュシエンヌは、俺の妻だった女だぞ」

 だが、その言葉はむなしく宙に消えた。

 元妻だ。

 その事実が、今になって重くのしかかる。

 あいつは、伯爵夫人という地位にしがみつく女ではなかった。
 だからこそ、簡単に去った。

 ――簡単に、手放してしまったのだ。

「伯爵様……」

 執事が、躊躇いがちに言う。

「前夫人様は、領地の帳簿も、人脈も……全て、ご自分で築かれたものを持って出られました」

 頭を殴られたような衝撃。

「……そんなはずはない」

「ございます」

 静かな断言だった。

 その瞬間、ようやく理解した。

 自分が失ったのは、
 「堅苦しい妻」などではない。

 ――伯爵家そのものを、支えていた存在だ。

「……戻せばいい」

 思わず、口をついて出た。

 マルグリットが、ぎょっとした顔でこちらを見る。

「え……?」

「話し合えばいい。あいつは、情が深い女だ」

 そうだ。
 少し頭を下げてやれば、戻ってくる。

 そう思った瞬間。

「――遅い」

 自分の心の奥から、冷たい声がした。

 あの女は、もう。
 誰かの庇護を必要としない場所にいる。

 ヴァレンシュタイン公爵の隣。

 そこが、どれほど安全で、どれほど価値のある場所か。
 社交界にいれば、嫌でも分かる。

 ――まずい。

 初めて、はっきりとした焦りが胸を締めつけた。

 失ってから、ようやく気づく。
 それが、取り返しのつかないものであったことに。

 そしてその頃、彼女はまだ知らない。

 自分を手放した男が、
 どれほど惨めに、後悔を始めたのかを。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

第一王子様が選んだのは、妹ではなく私でした!

睡蓮
恋愛
姉妹であるクレアとミリア、しかしその仲は決していいと言えるものではなかった。妹のミリアはずる賢く、姉のクレアの事を悪者に仕立て上げて自分を可愛く見せる事に必死になっており、二人の両親もまたそんなミリアに味方をし、クレアの事を冷遇していた。そんなある日の事、二人のもとにエバー第一王子からの招待状が届けられる。これは自分に対する好意に違いないと確信したミリアは有頂天になり、それまで以上にクレアの事を攻撃し始める。…しかし、エバー第一王子がその心に決めていたのはミリアではなく、クレアなのだった…!

『婚約破棄された公爵令嬢は、王と交わらない道を選ぶ』

ふわふわ
恋愛
婚約者である王太子アルベルトから、一方的に婚約破棄を告げられた公爵令嬢エレノア。 だが彼女は、涙も復讐も選ばなかった。 「婚約は、役目でしたもの。終わったのなら、それで結構ですわ」 王宮を去ったエレノアは、領地に戻り、 干渉しない・依存しない・無理をしない ただそれだけを軸に、静かに領地運営を始める。 一方、王となったアルベルトもまた、 彼女に頼らないことを選び、 「一人の判断に依存しない国」を作るための統治に身を投じていた。 復縁もしない。 恋にすがらない。 それでも、二人の選択は確かに国を安定へと導いていく。 これは、 交わらないことを選んだ二人が、 それぞれの場所で“続けられる世界”を完成させる物語。 派手なざまぁも、甘い溺愛もない。 けれど、静かに積み重なる判断と選択が、 やがて「誰にも壊せない秩序」へと変わっていく――。 婚約破棄から始まる、 大人のための静かなざまぁ恋愛ファンタジー

白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。 「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」 そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。 ——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。 「最近、おまえが気になるんだ」 「もっと夫婦としての時間を持たないか?」 今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。 愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。 わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。 政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ “白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!

婚約破棄ありがとう!と笑ったら、元婚約者が泣きながら復縁を迫ってきました

ほーみ
恋愛
「――婚約を破棄する!」  大広間に響いたその宣告は、きっと誰もが予想していたことだったのだろう。  けれど、当事者である私――エリス・ローレンツの胸の内には、不思議なほどの安堵しかなかった。  王太子殿下であるレオンハルト様に、婚約を破棄される。  婚約者として彼に尽くした八年間の努力は、彼のたった一言で終わった。  だが、私の唇からこぼれたのは悲鳴でも涙でもなく――。

「これは私ですが、そちらは私ではありません」

イチイ アキラ
恋愛
試験結果が貼り出された朝。 その掲示を見に来ていたマリアは、王子のハロルドに指をつきつけられ、告げられた。 「婚約破棄だ!」 と。 その理由は、マリアが試験に不正をしているからだという。 マリアの返事は…。 前世がある意味とんでもないひとりの女性のお話。

「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

葵 すみれ
恋愛
「無理をするな」と言いながら、仕事も責任も全部私に押しつけてきた婚約者。 倒れた私にかけたのは、労りではなく「失望した」の一言でした。 実家からも見限られ、すべてを失った私を拾い上げてくれたのは、黙って手を差し伸べてくれた、黒髪の騎士── 実は、大公家の第三公子でした。 もう言葉だけの優しさはいりません。 私は今、本当に無理をしなくていい場所で、大切にされています。 ※他サイトにも掲載しています

平手打ちされたので、婚約破棄宣言に拳でお答えしました

Megumi
恋愛
婚約破棄を告げられ、婚約者に平手打ちされた——その瞬間。 伯爵令嬢イヴの拳が炸裂した。 理不尽に耐える淑女の時代は、もう終わり。 これは“我慢しない令嬢”が、これまでの常識を覆す話。

あなたが決めたことよ

アーエル
恋愛
その日は私の誕生日パーティーの三日前のことでした。 前触れもなく「婚約の話は無かったことにしよう」と言われたのです。 ‪✰他社でも公開

処理中です...