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第3話 失ってから気づくもの
しおりを挟む――おかしい。
ギルベルト・アルヴェール伯爵は、執務机に広げた帳簿を睨みながら、何度目かの舌打ちをした。
「……なぜ、こうなる」
数字が合わない。
いや、正確には「合っている」のだが、理解できない。
ここ三か月で、領地からの上納金は確実に減っている。
支出も増えている。
それなのに、原因が分からない。
――いや、分かっているはずだ。
「伯爵様……」
遠慮がちに声をかけてきたのは、古参の執事だった。
かつてはリュシエンヌの指示を仰いでいた男だ。
「今月の交易契約ですが、先方から条件の見直しを求められております」
「は?」
「奥……いえ、前伯爵夫人様が個人的に築いておられた関係が失われたことで……」
ギルベルトは顔をしかめた。
「彼女がいなくなった程度で、そんな影響が出るはずがない」
そう言い切ったものの、執事は目を伏せる。
「……前夫人様は、相当細かく立ち回っておられましたので」
胸の奥に、ちくりとした違和感が走った。
――立ち回り?
あいつは、ただ堅苦しいだけの女だったはずだ。
完璧で、正しくて、面白みがない。
だから自分は、マルグリットを選んだのだ。
「伯爵様♡」
噂をすれば影。
軽やかな足取りで、マルグリットが執務室に入ってきた。
「今日の昼食、街で評判のお店にしましょう? 新作のドレスも――」
「今は忙しい」
ぶっきらぼうに遮ると、彼女は目を丸くする。
「まあ……最近、冷たくありません?」
「そんなことはない」
言いながら、ギルベルトは苛立ちを覚えていた。
――癒しのはずだった。
そう、彼女は「癒し」であるべき存在だった。
なのに、今はなぜか落ち着かない。
屋敷は散らかり、使用人の動きは鈍く、社交界からの招待状は減った。
「……そういえば」
マルグリットが何気なく言う。
「最近、皆さん、私を見る目が変じゃない?」
ギルベルトは答えなかった。
変わったのは、見る目ではない。
立場だ。
伯爵夫人という肩書きを失った彼女は、
単なる“愛人上がりの女”でしかない。
それを指摘すれば、泣き出すだろう。
だから黙っているだけだ。
――面倒な。
ふと、リュシエンヌの姿が脳裏をよぎる。
彼女は泣かなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、静かに頭を下げて、去っていった。
あの時は、せいせいしたと思ったはずなのに。
「伯爵様!」
執事が、慌てた様子で飛び込んでくる。
「ヴァレンシュタイン公爵家から、正式な通達が……」
「公爵家?」
嫌な予感がした。
「前伯爵夫人様が、現在、公爵家に滞在されているとのことです」
「……は?」
言葉が、理解を拒んだ。
「なぜ、あいつが……」
「また、社交界でも噂になり始めております」
執事は言いにくそうに続ける。
「“公爵が、長年想っていた女性を迎え入れた”と」
――迎え入れた?
胸が、どくりと嫌な音を立てた。
思い出すのは、あの男の顔。
冷静で、余裕があり、常に一歩引いていた公爵。
まさか――。
「……冗談だろう」
自分に言い聞かせるように呟く。
「リュシエンヌは、俺の妻だった女だぞ」
だが、その言葉はむなしく宙に消えた。
元妻だ。
その事実が、今になって重くのしかかる。
あいつは、伯爵夫人という地位にしがみつく女ではなかった。
だからこそ、簡単に去った。
――簡単に、手放してしまったのだ。
「伯爵様……」
執事が、躊躇いがちに言う。
「前夫人様は、領地の帳簿も、人脈も……全て、ご自分で築かれたものを持って出られました」
頭を殴られたような衝撃。
「……そんなはずはない」
「ございます」
静かな断言だった。
その瞬間、ようやく理解した。
自分が失ったのは、
「堅苦しい妻」などではない。
――伯爵家そのものを、支えていた存在だ。
「……戻せばいい」
思わず、口をついて出た。
マルグリットが、ぎょっとした顔でこちらを見る。
「え……?」
「話し合えばいい。あいつは、情が深い女だ」
そうだ。
少し頭を下げてやれば、戻ってくる。
そう思った瞬間。
「――遅い」
自分の心の奥から、冷たい声がした。
あの女は、もう。
誰かの庇護を必要としない場所にいる。
ヴァレンシュタイン公爵の隣。
そこが、どれほど安全で、どれほど価値のある場所か。
社交界にいれば、嫌でも分かる。
――まずい。
初めて、はっきりとした焦りが胸を締めつけた。
失ってから、ようやく気づく。
それが、取り返しのつかないものであったことに。
そしてその頃、彼女はまだ知らない。
自分を手放した男が、
どれほど惨めに、後悔を始めたのかを。
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