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第8章「優しい拷問」
130話
しおりを挟む繋いでいた手と手が離れ、外気に晒された手のひらがひんやりと冷える。だが直ぐに手のひらは外気と馴染んだ。
彼もまた、はっと夢から醒めたような目つきで私を見たのち、睫毛を伏せた。
「…すみません。貴女を怖がらせるつもりはありませんでした。」
長い睫毛が深い翳を作り、目の奥の色をわかりにくくしている。そしてそれは、表情さえもわかりにくくしている為、正確な感情を読み取ることができない。
だが、月の光に照らされ静かに佇む彼からは哀愁とでも呼ぶべき何かが漂っていた。
「……。」
つくづく、彼の顏は厄介だ思う。このまま彼を見続けていたら思わず手を差し伸べてしまいそうだったので、私は彼から視線を逸らす。
すると視線を逸らした先、庭園の中央にある大きな柱に付いている扉の足元に、小さな鉢植えが置かれているのに気が付いた。まるで、周りの薔薇達から隠れるかのように、ひっそりと。
「…あれは?」
私の視線を追って後ろを振り返ったユリウスは一瞬だけ戸惑った様子をみせた。
「あれは…」
顎に手を当てしばらく逡巡していたのち、ユリウスは鉢植えに足を進めた。そんな彼の様子を不思議に思いつつも、私は彼の背中を追いかけた。
鉢植えの元に辿り着いたユリウスは、地面に置かれている鉢植えを両手で持ち上げ、私に見せる。遠くからは蔦薔薇に埋もれてよく見えなかったが、そこには1輪の小さな花が咲いていた。
色は白とくすんだ紫色の絞り模様で、大きさや形などはアネモネに良く似ていたが、茎にはびっしりと鋭い棘が付いている。おそらく初めて見る花のようだが…
「この花は?」
「…青薔薇です。」
「え、青薔薇?」
「えぇ、まぁ…一応。」
何だか歯切れが悪いなと思いつつ、私は鉢植えに咲いている花をまじまじと見つめた。
薔薇というにはあまりにも小さく、花びらの数も少ない。色も青と言うより紫寄りで、まだ紫薔薇と言われた方がしっくりくる。
そして、周りに咲いている立派な白薔薇と比べて、弱々しい印象を受けた。
「…なんだか…元気が無さそうね。」
「失敗作ですからね。」
「…失敗作?」
彼の棘のある言い方に思わず責めるような視線を向ければ、ユリウスは小さく肩を竦めてみせた。
「この花は少し特殊なんです。」
「特殊?…もしかして魔法で青い薔薇を作った…とか?」
この世界に青薔薇は存在しないが、青の魔力を持っている彼になら青薔薇を作り出すことは可能だろう。
だが、ユリウスは首を横に振った。
「魔法は…貴女が思っているほど万能なものではありませんよ。」
「え?」
「魔法を使って白薔薇を青く塗り替えることは出来ても、青薔薇という品種を生み出すことはできません。」
「…そう、なの?」
「えぇ。…魔法なんてものは、所詮その場しのぎのまがい物ですよ。」
「…。」
ユリウスは魔法を吐き捨てるように卑下した。魔力のない私から見れば魔法は十分、奇跡のような力だと思うが…。彼にとっては、そうでないらしい。
「なので僕は遺伝子組み換えという方法で青薔薇を作り出そうとしました。」
「遺伝子組み換え?」
突然、彼の口から初めて聞く単語が飛び出し、私は首を傾げた。ユリウスは「えぇ。」と言い、話を続ける。
「花の色は、アントシアニジンという物質に大きく影響されます。」
「あ、あんと…?にしん…?」
「アントシアニジン。この物質にはシアニジン、ペラルゴニジン、デルフィニジンの3種類に分類されまして、このうちのデルフィニジンは青や紫色の花に多く含まれています。薔薇に青い品種が存在しないのは、このデルフィニジンが蓄積できないから、と言われておりまして……」
「……???」
「…簡単に言えば、青い色素を持つ花の遺伝子を白薔薇の遺伝子に組み込んで、青い薔薇を作ろうとしていました。」
「な、なるほど…。でも、そんなことが可能なの?」
「理論上は。……魔法で成長を早めてみたり環境を変えてみたりと色々と試行錯誤した結果、咲いてくれたのはこの失敗作だけですけどね。」
自嘲的に小さく笑うユリウス。そんな彼をあまり見たくなくて、私は視線を再び鉢植えに咲いている薔薇に戻す。
「…。」
失敗作だなんて、酷い言われようだ。
確かに周りに咲いている白薔薇と比べれば見劣りしてしまうかもしれないが、同じ花に変わりはない。
私はそんなことを考えながら青薔薇に手を伸ばした。
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