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四章 英雄となった男(4)下
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幼馴染と魔王のやりとりを聞いて、ティーゼは、強い魔族は名前で何かしらの契約を行えてしまえるのか、と考えた。
そのような事はしていないとルイは否定してくれたが、内容がよく分からないうえ、魔力を感じられない身としては気になった。クリストファーが珍しく緊張感を漂わせているので、軽々しい内容のものではないとは察せる。
そういえば、もう一人確認しておくべき人物がいたと思い出し、ティーゼは慌ててルチアーノの袖を引っ張り尋ねた。
「あの、契約とかよく分からないんですけど、ルチアーノさんも違いますよねッ?」
「私も陛下と同様に、あなたに対して口頭で正式に名乗っておりません。むしろ自己紹介もしていないのに、あなたが勝手に私の名前を呼んでいるだけです。そもそも、『悪魔の恩恵』は簡単に与えられるものではありませんし、人間の騎士が姫に忠誠を誓う儀式と同じレベルで手順を踏まなければ、発動しません」
あ、そうなんだ。心配して損し――……ん?
胸を撫で下ろしかけたティーゼは、ハッとしてルチアーノの美貌を見上げた。
「確かに私、ルチアーノさんの名前を勝手に呼んでいました。貴族社会の礼儀作法ってよく分からないのですが、これって国際問題並みの失態ですかねッ? 今からでも『宰相様』って呼んだほうがいいんでしょうか!?」
「もう少し落ち着いたらどうですか」
話しながら次第に混乱するティーゼを見て、ルチアーノが呆れたように眉根を寄せた。
「悪魔の貴族としての礼儀作法で言えば、あなたに名を呼ばれる事を、私が一度も口で否定していませんので問題にはなりません。あなたに今更『宰相様』と呼ばれる方が気持ち悪――気味が悪くて不慣れです」
なんで似たような言葉で言い直した。何も変わってないからな?
ティーゼは、どこにいても失礼な宰相に反論しようとしたのだが、ルイと見つめ合っていたはずのクリストファーが睨みつけるようにこちらを向いたので、咄嗟に口をつぐんだ。
二人の魔族から契約を否定されても、クリストファーの雰囲気はピリピリとしたままだった。出来るだけ無駄だと思われるような発言は控えたほうが良さそうだと思えたが、ルイがマーガリー嬢に手紙を手渡せるタイミングを逃してしまわないか心配もあった。
先程、手紙を返しながら促したにも気関わらず、ルイは行動を起こそうとしてくれないし、ルチアーノも上司に従って動こうとしない。
つまり、この状況を長引かせると、手紙を渡せるタイミングが後にずれる可能性がある。こうなったら、自分がどうにかするしかないだろう。
ティーゼは、クリストファーに説明する事を決意して向き直った。
「あのさ、クリストファー? 確かにギルドのお仕事は終わったけど、ルイさんってこう見えてすごく純情で、それで私が少しだけ協力しているんだけど――」
「魔王陛下の事は愛称で呼ぶのに、僕の名前は、愛称で呼んでくれないんだね」
「え」
「僕が貴族だから、慣れ慣れしく呼ぶなと誰かに言われたの? それとも、年頃だからそうすべきだとでも誰かに教えられた? カルザークやジェラルド達の事は、ずっと親しげに呼んでいるのに?」
「は? あの、カルやジェンはずっとそう呼んできたから……」
というか、なんでそこで幼馴染達の名前が出た?
唐突に仲間達の名前を挙げられ、ティーゼは困惑した。彼らは町に残っている昔の仲間で、現在も友人として交流は続いていた。カルザークは腕に、ジェラルドは首から肩にかけて傷跡が残っている。
というより、なぜ最近の事を知っているのだろうか。カルザークとジェラルドは、仕事の都合もあって、あまりクリストファーとは会えていないと寂しがっていた。ティーゼも、クリストファーには「皆も会いたがってたよ」というに留めて、深く話し聞かせていない。
そもそも名前を呼ぶことに関して、年頃だからという妙な理由一つで、何かしらの礼儀作法でもあるのだろうか?
ティーゼは、悩ましげに眉を寄せた。
「……君にそういうつもりがなくとも、僕としてはすごく気になるよ。例えば、魔界の『氷の宰相』が、ああやって自由に名前を呼ばせているという事実だけで――」
視線をルチアーノへと移したクリストファーの語尾が小さくなり、声が途切れた。端正な唇だけが、言葉を刻むように微かに動かされて閉じられる。
ティーゼは聞き取れずに「なに?」と尋ね返したが、クリストファーは、私情の読めない眼差しで絡みつくように見つめ返すだけで、何を言ったのか教えてくれなかった。
人間より五感の優れているルイとルチアーノは、彼の口の中に消えた言葉を聞き取れたようだ。ルイがようやく腑に落ちたとばかりに「うーん、どうしたものか……」と困ったように頬をかき、そのそばで、ルチアーノが露骨に怪訝な表情を浮かべた。
「失礼ですが英雄殿、私がいつこの貧乳に気を持ったと? コレは下心さえ誘わない残念な体系のうえ頭も弱いですし、そもそも女としての色気もゼロで、背も胸もない」
「ぐぅッ。色気は仕方ないにしても、胸は盛ってないだけだって言ったじゃん!」
この嫌味宰相めッ、隙あらば人のコンプレックスを抉りに来やがって……!
ティーゼは思わず「なんでこのタイミングで、この話題をぶり返すんですか!」と言い返した。十六歳女性の平均には届いていないかもしれないが、それなりに膨らみはあるのだ。男性服は少々生地が重いから、隠れてしまうだけである。
ルチアーノは、ティーゼの無礼な口調を咎める事もなく、睨む彼女の視線を横顔受け止めながら、心底面倒そうな顔をクリストファーに向けていた。
「――へぇ、二人はそんな話しも出来る仲なんだ?」
気のせいか、クリストファーの周囲の温度が下がったように感じた。
一体どうしろというのだ。というより、何故クリストファーはこんなにも怒っているのだろうか。ルチアーノの失礼な物言いも原因の一つではあるだろうし、彼は半分ぐらいティーゼに協力すべきだろう。
ティーゼはそう考え、ここぞとばかりにルチアーノを振り返った。
「ルチアーノさん!」
「今、名前を呼ぶのは得策ではないかと」
「は?」
振り返り様に手で制してくるルチアーノを、ティーゼは信じられない思いで見つめた。余計な一言二言で状況を悪化させておきながら、彼は完全にティーゼに任せてしまう気なのだ。
いやいやいや、ちょっとぐらいは協力しようよ!?
普段穏やかな幼馴染には責められるし、優しくない宰相は肝心な時にも嫌がらせのように身を引いてしまうし、ティーゼは泣きたくなった。
すると、様子を窺っていたルイがこう言った。
「僕には想い人がいるんだよ、クリス。その件で、彼女には少し協力をお願いしていたんだけれど。僕が彼女と友達であるように、ルチアーノとティーゼも仲の良い友達同士だ。あまり彼女を責めないであげて」
ルイは大人びた優しげな微笑みを浮かべ、諭すようにクリストファーへ言葉を続けた。
「久しぶりの再会だったら、ゆっくり話し合わなくちゃ分からない事もあるだろう。もし良ければ、後で僕の別荘へおいで。美味しい紅茶もあるから、そこでティーゼと話すといい」
ルイの提案に、クリストファーは反論しなかった。ティーゼを見ると、普段の落ち着いた様子で「ごめん」と小さく詫びて、悲しそうに視線を落とした。
「――僕は、ティーゼが遠くへいってしまうと考えるだけで怖くて、心配になるんだよ…………」
本心を吐露するような声を聞いて、ティーゼは、必要以上の心配を彼にかけてしまっている現状に胸が痛んだ。
クリス、あなたは私に何も悪い事なんてしていないのだから、ずっと気にかけ続ける必要なんて、何処にもないんだよ。
半魔族の奇襲に遭った経験のせいで、目の届かないところに消えてしまうと、彼は不安に駆られるのかもしれない。ティーゼは、申し訳なさを覚えた。彼が半魔族の王を倒しに行くよりも前に、もう大丈夫だよ、と彼を安心させるべきだった。
しかし、声を掛ける前に、クリストファーが「じゃあ後でね」小さな声を残して町の方へと歩いていってしまい、ティーゼは、話すタイミングを逃して立ち尽くした。
彼を見送るティーゼの後ろで、ルイが「若いねぇ」と微笑ましいものを見るような笑顔を浮かべ、ルチアーノが目頭を指で押さえて、盛大な溜息をこぼした。
そのような事はしていないとルイは否定してくれたが、内容がよく分からないうえ、魔力を感じられない身としては気になった。クリストファーが珍しく緊張感を漂わせているので、軽々しい内容のものではないとは察せる。
そういえば、もう一人確認しておくべき人物がいたと思い出し、ティーゼは慌ててルチアーノの袖を引っ張り尋ねた。
「あの、契約とかよく分からないんですけど、ルチアーノさんも違いますよねッ?」
「私も陛下と同様に、あなたに対して口頭で正式に名乗っておりません。むしろ自己紹介もしていないのに、あなたが勝手に私の名前を呼んでいるだけです。そもそも、『悪魔の恩恵』は簡単に与えられるものではありませんし、人間の騎士が姫に忠誠を誓う儀式と同じレベルで手順を踏まなければ、発動しません」
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「確かに私、ルチアーノさんの名前を勝手に呼んでいました。貴族社会の礼儀作法ってよく分からないのですが、これって国際問題並みの失態ですかねッ? 今からでも『宰相様』って呼んだほうがいいんでしょうか!?」
「もう少し落ち着いたらどうですか」
話しながら次第に混乱するティーゼを見て、ルチアーノが呆れたように眉根を寄せた。
「悪魔の貴族としての礼儀作法で言えば、あなたに名を呼ばれる事を、私が一度も口で否定していませんので問題にはなりません。あなたに今更『宰相様』と呼ばれる方が気持ち悪――気味が悪くて不慣れです」
なんで似たような言葉で言い直した。何も変わってないからな?
ティーゼは、どこにいても失礼な宰相に反論しようとしたのだが、ルイと見つめ合っていたはずのクリストファーが睨みつけるようにこちらを向いたので、咄嗟に口をつぐんだ。
二人の魔族から契約を否定されても、クリストファーの雰囲気はピリピリとしたままだった。出来るだけ無駄だと思われるような発言は控えたほうが良さそうだと思えたが、ルイがマーガリー嬢に手紙を手渡せるタイミングを逃してしまわないか心配もあった。
先程、手紙を返しながら促したにも気関わらず、ルイは行動を起こそうとしてくれないし、ルチアーノも上司に従って動こうとしない。
つまり、この状況を長引かせると、手紙を渡せるタイミングが後にずれる可能性がある。こうなったら、自分がどうにかするしかないだろう。
ティーゼは、クリストファーに説明する事を決意して向き直った。
「あのさ、クリストファー? 確かにギルドのお仕事は終わったけど、ルイさんってこう見えてすごく純情で、それで私が少しだけ協力しているんだけど――」
「魔王陛下の事は愛称で呼ぶのに、僕の名前は、愛称で呼んでくれないんだね」
「え」
「僕が貴族だから、慣れ慣れしく呼ぶなと誰かに言われたの? それとも、年頃だからそうすべきだとでも誰かに教えられた? カルザークやジェラルド達の事は、ずっと親しげに呼んでいるのに?」
「は? あの、カルやジェンはずっとそう呼んできたから……」
というか、なんでそこで幼馴染達の名前が出た?
唐突に仲間達の名前を挙げられ、ティーゼは困惑した。彼らは町に残っている昔の仲間で、現在も友人として交流は続いていた。カルザークは腕に、ジェラルドは首から肩にかけて傷跡が残っている。
というより、なぜ最近の事を知っているのだろうか。カルザークとジェラルドは、仕事の都合もあって、あまりクリストファーとは会えていないと寂しがっていた。ティーゼも、クリストファーには「皆も会いたがってたよ」というに留めて、深く話し聞かせていない。
そもそも名前を呼ぶことに関して、年頃だからという妙な理由一つで、何かしらの礼儀作法でもあるのだろうか?
ティーゼは、悩ましげに眉を寄せた。
「……君にそういうつもりがなくとも、僕としてはすごく気になるよ。例えば、魔界の『氷の宰相』が、ああやって自由に名前を呼ばせているという事実だけで――」
視線をルチアーノへと移したクリストファーの語尾が小さくなり、声が途切れた。端正な唇だけが、言葉を刻むように微かに動かされて閉じられる。
ティーゼは聞き取れずに「なに?」と尋ね返したが、クリストファーは、私情の読めない眼差しで絡みつくように見つめ返すだけで、何を言ったのか教えてくれなかった。
人間より五感の優れているルイとルチアーノは、彼の口の中に消えた言葉を聞き取れたようだ。ルイがようやく腑に落ちたとばかりに「うーん、どうしたものか……」と困ったように頬をかき、そのそばで、ルチアーノが露骨に怪訝な表情を浮かべた。
「失礼ですが英雄殿、私がいつこの貧乳に気を持ったと? コレは下心さえ誘わない残念な体系のうえ頭も弱いですし、そもそも女としての色気もゼロで、背も胸もない」
「ぐぅッ。色気は仕方ないにしても、胸は盛ってないだけだって言ったじゃん!」
この嫌味宰相めッ、隙あらば人のコンプレックスを抉りに来やがって……!
ティーゼは思わず「なんでこのタイミングで、この話題をぶり返すんですか!」と言い返した。十六歳女性の平均には届いていないかもしれないが、それなりに膨らみはあるのだ。男性服は少々生地が重いから、隠れてしまうだけである。
ルチアーノは、ティーゼの無礼な口調を咎める事もなく、睨む彼女の視線を横顔受け止めながら、心底面倒そうな顔をクリストファーに向けていた。
「――へぇ、二人はそんな話しも出来る仲なんだ?」
気のせいか、クリストファーの周囲の温度が下がったように感じた。
一体どうしろというのだ。というより、何故クリストファーはこんなにも怒っているのだろうか。ルチアーノの失礼な物言いも原因の一つではあるだろうし、彼は半分ぐらいティーゼに協力すべきだろう。
ティーゼはそう考え、ここぞとばかりにルチアーノを振り返った。
「ルチアーノさん!」
「今、名前を呼ぶのは得策ではないかと」
「は?」
振り返り様に手で制してくるルチアーノを、ティーゼは信じられない思いで見つめた。余計な一言二言で状況を悪化させておきながら、彼は完全にティーゼに任せてしまう気なのだ。
いやいやいや、ちょっとぐらいは協力しようよ!?
普段穏やかな幼馴染には責められるし、優しくない宰相は肝心な時にも嫌がらせのように身を引いてしまうし、ティーゼは泣きたくなった。
すると、様子を窺っていたルイがこう言った。
「僕には想い人がいるんだよ、クリス。その件で、彼女には少し協力をお願いしていたんだけれど。僕が彼女と友達であるように、ルチアーノとティーゼも仲の良い友達同士だ。あまり彼女を責めないであげて」
ルイは大人びた優しげな微笑みを浮かべ、諭すようにクリストファーへ言葉を続けた。
「久しぶりの再会だったら、ゆっくり話し合わなくちゃ分からない事もあるだろう。もし良ければ、後で僕の別荘へおいで。美味しい紅茶もあるから、そこでティーゼと話すといい」
ルイの提案に、クリストファーは反論しなかった。ティーゼを見ると、普段の落ち着いた様子で「ごめん」と小さく詫びて、悲しそうに視線を落とした。
「――僕は、ティーゼが遠くへいってしまうと考えるだけで怖くて、心配になるんだよ…………」
本心を吐露するような声を聞いて、ティーゼは、必要以上の心配を彼にかけてしまっている現状に胸が痛んだ。
クリス、あなたは私に何も悪い事なんてしていないのだから、ずっと気にかけ続ける必要なんて、何処にもないんだよ。
半魔族の奇襲に遭った経験のせいで、目の届かないところに消えてしまうと、彼は不安に駆られるのかもしれない。ティーゼは、申し訳なさを覚えた。彼が半魔族の王を倒しに行くよりも前に、もう大丈夫だよ、と彼を安心させるべきだった。
しかし、声を掛ける前に、クリストファーが「じゃあ後でね」小さな声を残して町の方へと歩いていってしまい、ティーゼは、話すタイミングを逃して立ち尽くした。
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