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二章 王都編~伯爵邸での再会~(2)
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伯爵邸一階にある、扉が開かれた広々とした一室に、ヒューガノーズ夫妻が揃っていた。チラリと見えたテーブルには、装飾の美しい容器にスコーンが盛り付けられており、二人分の珈琲が並んでいた。
一つの長ソファに夫と仲良く腰かけていた伯爵夫人が、廊下にいるラビ達に気付いて「あら」と目尻に薄い笑い皺を刻んで微笑する。実年齢よりも張りのある頬は血色が良く、キャラメル色の髪も、普段よりもしっかりと結い上げられて髪飾りがされていた。
ホノワ村にいた時とは違い、外装用としても見劣りしない落ち着いた色合いのドレスに身を包んでいた。襟元を留めるスカーフには宝石のブローチがされ、その膝の上には、ふわふわとした長い毛並みの一匹の白い猫が丸くなっている。
数年前、ホノワ村で夫人と出会い、家族として愛情たっぷりに育てられている白い雌猫だ。名前はビアンカ。埃アレルギーを持った繊細なお嬢様猫で、ノエルは出会い頭に鼻先を引っ掻かれてから、彼女を苦手としていた。
「ラビ、いらっしゃい。到着を今か今かと待っていたところよ」
「お久しぶりです。元気そうで良かった」
ラビがそう答える間にも、伯爵夫人はビアンカを抱えて立ち上がっていた。
ホノワ村では、使用人と一緒に趣味の菜園も行っていたくらい活発な貴婦人である彼女は、次に、ラビの手を残念そうにそっと離した息子セドリックを見て、どこか微笑ましそうに目元を和らげながら「おかえりなさい」とにっこりした。
「またこの後、お仕事に戻るのでしょう? 多めに作ったのよ。まだお昼には早いから、沢山スコーンを食べて行ってね?」
「ありがとうございます、母上」
「うふふ、良かったわねぇ。いつの日か楽しみにしているわ」
「その、タイミングが……気持ちも確認しないといけないですし……」
「あら、照れちゃってまぁ。私は大丈夫だと思うけれど。そうね、まだまだ子供みたいなところがあるから、ゆっくり時間をかけるのも大切かもしれないわね」
そんな母と子の、ふわふわとした穏やかなやりとりのそばで――
まるで標的をロックオンするように、エメラルドの瞳孔を開かせた白猫ビアンカが、絶対零度の眼差しをノエルに向けていた。
それを受け止める彼の口許は、引き攣っている。
『犬臭いですわ。そして、ラビィとセドリック様と一緒に堂々とやってきたあなたには、心底失望致しました』
『久々に顔合わせたと思ったら、すぐこれかよ……』
『空気を読んで、少し離れて見守るくらい出来ませんの?』
『おいおい、恋人を実家に連れてくるってイベントでもねぇのに、それ必要か? ラビにとっちゃあいつは、まだまだ幼馴染の弟枠のまんまなんだぜ?』
ラビは後半の伯爵母子の会話と、ノエル達の会話を聞いていなかった。夫人に続いて、一人のややふっくらとした大男が部屋から飛び出してきて、抱き上げられたと思ったらもみくちゃにされていたからだ。
「今日も見事な金髪だねラビィ! ああ、すまない『ラビ』だったね。あああああああもうなんって可愛いんだろう! ちょっと見ない間にますます美人さんになっちゃって!」
「うっぎゃああああああ! 鬚がじょわじょわするぅぅうううう!?」
こんな娘が欲しかったと続けて主張しながら、小さなラビをぎゅうぎゅうに抱き締めているのは、セドリックとルーファスの父親であるヒューガノーズ伯爵である。
見栄えのする正装服に身を包んでおり、彫りは深い顔立ちながら、人の良さや持ち前の愛想が滲む子供のような丸い目をしている。息子達と違って濃い蒼灰色の髪色をしており、口許にはトレードマークのように形を整えた髭があった。
なんでこの人は、こう毎回のスキンシツップが激しいのだろうか。
ラビは、無駄に馬鹿力でもあるヒューガノーズ伯爵の腕の中で、酸欠を起こしかけながらそう思った。そこは息子達と全く違っている。すぐ抱き締めたがるし、膝の上においでと誘ってくるし、色々と洋服をつけさせたがるのである。
昔、伯爵に直接「セドリック達に似てないところだよ」と指摘したら、「いやいや、セドリックは私似になるかもしれないよ?」とどこか含む笑顔で返された。もしや大人になったら、ルーファスもセドリックもこんな感じになるのかと想像して、ドン引きしかけたが――
ラビは、すぐにそれが伯爵の嘘だと分かった。
だって、大きくなったのに抱き上げるとか、普通はやらないと思う。
ただ単に伯爵がそうしたいだけであると解釈して、ラビは昔から「セドリック達はそんな事しないよッ」と主張し、抱きしめたりするのはやめて欲しいと言った。
しかし、そう告げるたびヒューガノーズ伯爵は、「なんならセドリックに『お前はやりたいと思うか?』と訊いてごらん。絶対に私と同意見だと思うね!」と自信たっぷりに言って、今でも抱き締め癖をやめてくれなかった。
そういえば、そんな事は有り得ないと思って、セドリック本人に訊いて確かめた事はなかったな……
ヒューガノーズ伯爵に容赦なく抱き締められて背骨が軋む中、ラビは「死にそうだ……」と呟きながらそれを思い返した。その様子を、セドリックが父親を止める訳でもなく、どこかそわそわと見つめていた。
『説教に付き合ってられるかってんだッ』
『あッ、お待ちなさいな! まだ終わっていませんわよ!』
白猫ビアンカに甲高い声で説教され続けていたノエルが、我慢ならなくなったとばかりに屋敷の奥に向かって廊下を走り出した。その後ろを、長く白い毛並みを揺らせてビアンカが追い駆ける。
突然飼い猫が興奮した様子で走り出したのを見て、伯爵夫人は目を丸くした。今日は随分元気ねぇと見送った後、薬草師であったオーディン夫妻の一人娘『ラビィ』を幼い頃から、心底可愛がっていた夫のはしゃぎようへと視線を戻して、小さく息を吐いた。
「あなた、ラビが可愛いのは分かりますけれど、少し落ち着いて下さいな」
「小さいところもまた可愛いなぁ! ああ、甘やかしたくてたまらないッ」
「まったく、こちらの話しも聞こえていないのね……。セドリックも、分かると言う顔をしないで、あの人を止めてあげて」
もう意識が飛ぶと思ったところで、ラビは、気付いたヒューガノーズ伯爵の腕からようやく解放された。ぐしゃぐしゃになった髪を、彼が「済まないね、うっかり」と、全く悪びれもなさそうに言いながら整え直す。
その時、ラビは自分に向けられている強い視線に気付いた。
なんだろうか、と思って目を向けると、そこには髪を触る父親の手の動きを、やたら注目しているセドリックがいた。
「セドリック、どうしたの?」
「いえ、なんでもないです…………」
気のせいか、視線をそらしたセドリックは、なんだかそわそわしているようにも見えた。思い返せば、ヒューガノーズ伯爵に迷惑な大歓迎を受けるたび、この幼馴染は大人しくなっているような――
あれ、そういえばノエルはどこに行った?
ラビはセドリックの事も忘れて、辺りを見回し、ビアンカもいなくなっているなと首を捻った。一度髪から手を離したヒューガノーズ伯爵が、これはチャンスだと言わんばかりに「えっほん」と下手くそな咳払いをした。
「それにしても、ラビ? 今日から王都が拠点になるのだろう? 部屋なら沢山あるから、ウチに泊まっていってもいいんだぞ?」
「ううん、費用は騎士団持ちだから平気」
辺りを窺いながら、ラビは間髪入れずそう答えた。
ヒューガノーズ伯爵は、途端にショックを受けたように項垂れた。しかし、彼女の髪を再び整え直し、改めてその顔を見たところで、可愛いなぁと露骨に顔に浮かべて目尻を下げた。
その様子を見ていた夫人が「あなた……」と呟いて、困ったように微笑んだ。しかし、彼女は気を取り直すように小さく首を振ると「ほら、二人ともいらっしゃい」と声を掛けて、夫の腕に手を絡めて歩き出した。
伯爵夫妻が部屋へと戻る中、ラビは気になって、親友ノエルの姿がないか廊下の奥へ目を凝らした。
追加の紅茶とスコーンを持った二人のメイドが、廊下で立ち止まったままのこちらに気付いて入室を促してきたので、すぐに伯爵達の後に続きますから、と伝えるようにぎこちなく愛想笑いを返しておいた。
恐らく、ノエルはまたしてもビアンカに追いかけられるような失言でもしたのかな……とは推測していた。屋敷内の道順を把握している訳ではないから、そう遠くは離れないだろうけれど。
ノエルが迷子になった事はないし、いつも道を間違えてしまうのは自分の方であるのだけれど、それでも心配してしまうのだ。誰の目にも見えない彼は、何かあったとしても「道を教えてくれないか」と尋ねる事もしないだろうから。
賢いノエルの事だから、きっと遠くへは行かないだろう。
スコーンの匂いに誘われて、すぐに戻ってくるかもしれない。
そう考え直して歩き出そうとした時、ラビは服の袖を控えめに引っ張られて足を止めた。振り返ると、優しげな藍色の瞳で、どこか落ち着かない様子でこちらを見下ろしているセドリックがおり、その指先がジャケットを軽くつまんでいた。
何か用があるのなら堂々と手を取ればいいのに、変な幼馴染である。優し過ぎるところがあるというか、相変わらず妙なところで遠慮するよなぁ、とラビは不思議に思った。
廊下には二人しかいなくて、部屋の向こうから伯爵達の声が聞こえていた。
きょとんとして見つめ返していると、そっと手を離したセドリックが、視線を泳がせて「あの」と歯切れ悪く言葉を切り出した。
「先程、ビアンカが走って行くのが見えたのですが、『彼』は動物には見えるということでしたよね? もしかしてビアンカは、ノエルと一緒に走っていってしまったという事でしょうか?」
「うん、そうだと思うよ。いつも追いかけられているんだ」
「えぇと、その、少しだけお時間をくれませんか……?」
「別にいいけど、何かお話でもあるの?」
尋ね返した途端、何故かセドリックが「……お話」と口の中で反芻し、固まってしまった。口許に手をあてたかと思うと、ゆっくりと顔をそらしていく。
ラビは、そんな幼馴染に疑問を覚え、少し歩み寄って下から顔を覗きこんでみた。すると、チラリとこちらを見つめ返した彼が、すぐに視線を外して、まるで話の矛先を変えるようにこんな話題を振ってきた。
「…………実を言うと昔から、背の低いあなたが、こうして近くから僕を見上げてくれる感じが一心に話を聞いてくれているみたいで、とても嬉しいと言いますか……」
なんだそれは、つまりチビだと言いたいのか?
そう解釈して、ラビはむっとした。幼い頃は身長差もそこまで大きくなかったというのに、セドリックは騎士学校に通い始めた頃から、急にぐんと身長が伸び始めたのだ。
ヒューガノーズ伯爵も長身なので、恐らく父親似なのだとは思う。おかげで、今では彼の顔をずっと見ていると首が痛くなる事もあった。
「言っておくけど、オレの身長はこれから伸びる予定なのッ」
「いえ、小さいままでもかわ――」
そう言いかけて、セドリックは言葉を切った。余計に彼女を怒らせてしまいそうだと察し、口許から手を離すと、ラビを真っ直ぐ見下ろしてそっと目を細めた。
「ラビ。もし良かったら、あなたの髪に触れ――」
ラビは、「もし良かったら」という言葉を聞く事も、こちらにそっと伸ばされた手を見る事も出来なかった。
セドリックの向こうに、こちらに向かって猛進してくるノエルとビアンカの姿があった。ノエルの後ろには、威嚇モードで彼を追うビアンカがいて『大きい身体をしてくる癖に、ちょこまかと避けて憎ったらしいですわ!』と叫んで跳躍する。
しかし、ビアンカは、ジャンプが苦手な猫である。
勢いよく飛んだのはいいものの、軌道がノエルから大きく外れて、ビアンカがセドリックの後頭部向かってくるのが見えて、ラビは目を丸くした。
その直後、何事か言いかけたセドリックの後頭部に、飛び込んできたビアンカが直撃していた。お世辞にも軽いとは言えない白猫を、後頭部で受け止めた彼が前のめりになって崩れ落ちた。
ラビの後ろに回ったノエルが、その様子を見て『あ』と間の抜けた声を上げた。
『…………すまん。なんか大事な話でもしていたところだったか?』
「いや、特にこれといって大事な話はされていないけど……」
ラビはそう答えながら、廊下に突っ伏したセドリックの頭にしがみついて、茫然としているビアンカへ視線を戻した。
「……えっと、二人とも大丈夫?」
猫も家族として扱うような、優しい台詞である。
そう解釈したセドリックは、床に伏したまま「僕は大丈夫ですよ」と諦めたような声で答えた。込み上げる溜息を抑えて、ゆっくり身を起こすと、彼女と母が大事にしている白猫に怪我がないかどうか確かめたのだった。
一つの長ソファに夫と仲良く腰かけていた伯爵夫人が、廊下にいるラビ達に気付いて「あら」と目尻に薄い笑い皺を刻んで微笑する。実年齢よりも張りのある頬は血色が良く、キャラメル色の髪も、普段よりもしっかりと結い上げられて髪飾りがされていた。
ホノワ村にいた時とは違い、外装用としても見劣りしない落ち着いた色合いのドレスに身を包んでいた。襟元を留めるスカーフには宝石のブローチがされ、その膝の上には、ふわふわとした長い毛並みの一匹の白い猫が丸くなっている。
数年前、ホノワ村で夫人と出会い、家族として愛情たっぷりに育てられている白い雌猫だ。名前はビアンカ。埃アレルギーを持った繊細なお嬢様猫で、ノエルは出会い頭に鼻先を引っ掻かれてから、彼女を苦手としていた。
「ラビ、いらっしゃい。到着を今か今かと待っていたところよ」
「お久しぶりです。元気そうで良かった」
ラビがそう答える間にも、伯爵夫人はビアンカを抱えて立ち上がっていた。
ホノワ村では、使用人と一緒に趣味の菜園も行っていたくらい活発な貴婦人である彼女は、次に、ラビの手を残念そうにそっと離した息子セドリックを見て、どこか微笑ましそうに目元を和らげながら「おかえりなさい」とにっこりした。
「またこの後、お仕事に戻るのでしょう? 多めに作ったのよ。まだお昼には早いから、沢山スコーンを食べて行ってね?」
「ありがとうございます、母上」
「うふふ、良かったわねぇ。いつの日か楽しみにしているわ」
「その、タイミングが……気持ちも確認しないといけないですし……」
「あら、照れちゃってまぁ。私は大丈夫だと思うけれど。そうね、まだまだ子供みたいなところがあるから、ゆっくり時間をかけるのも大切かもしれないわね」
そんな母と子の、ふわふわとした穏やかなやりとりのそばで――
まるで標的をロックオンするように、エメラルドの瞳孔を開かせた白猫ビアンカが、絶対零度の眼差しをノエルに向けていた。
それを受け止める彼の口許は、引き攣っている。
『犬臭いですわ。そして、ラビィとセドリック様と一緒に堂々とやってきたあなたには、心底失望致しました』
『久々に顔合わせたと思ったら、すぐこれかよ……』
『空気を読んで、少し離れて見守るくらい出来ませんの?』
『おいおい、恋人を実家に連れてくるってイベントでもねぇのに、それ必要か? ラビにとっちゃあいつは、まだまだ幼馴染の弟枠のまんまなんだぜ?』
ラビは後半の伯爵母子の会話と、ノエル達の会話を聞いていなかった。夫人に続いて、一人のややふっくらとした大男が部屋から飛び出してきて、抱き上げられたと思ったらもみくちゃにされていたからだ。
「今日も見事な金髪だねラビィ! ああ、すまない『ラビ』だったね。あああああああもうなんって可愛いんだろう! ちょっと見ない間にますます美人さんになっちゃって!」
「うっぎゃああああああ! 鬚がじょわじょわするぅぅうううう!?」
こんな娘が欲しかったと続けて主張しながら、小さなラビをぎゅうぎゅうに抱き締めているのは、セドリックとルーファスの父親であるヒューガノーズ伯爵である。
見栄えのする正装服に身を包んでおり、彫りは深い顔立ちながら、人の良さや持ち前の愛想が滲む子供のような丸い目をしている。息子達と違って濃い蒼灰色の髪色をしており、口許にはトレードマークのように形を整えた髭があった。
なんでこの人は、こう毎回のスキンシツップが激しいのだろうか。
ラビは、無駄に馬鹿力でもあるヒューガノーズ伯爵の腕の中で、酸欠を起こしかけながらそう思った。そこは息子達と全く違っている。すぐ抱き締めたがるし、膝の上においでと誘ってくるし、色々と洋服をつけさせたがるのである。
昔、伯爵に直接「セドリック達に似てないところだよ」と指摘したら、「いやいや、セドリックは私似になるかもしれないよ?」とどこか含む笑顔で返された。もしや大人になったら、ルーファスもセドリックもこんな感じになるのかと想像して、ドン引きしかけたが――
ラビは、すぐにそれが伯爵の嘘だと分かった。
だって、大きくなったのに抱き上げるとか、普通はやらないと思う。
ただ単に伯爵がそうしたいだけであると解釈して、ラビは昔から「セドリック達はそんな事しないよッ」と主張し、抱きしめたりするのはやめて欲しいと言った。
しかし、そう告げるたびヒューガノーズ伯爵は、「なんならセドリックに『お前はやりたいと思うか?』と訊いてごらん。絶対に私と同意見だと思うね!」と自信たっぷりに言って、今でも抱き締め癖をやめてくれなかった。
そういえば、そんな事は有り得ないと思って、セドリック本人に訊いて確かめた事はなかったな……
ヒューガノーズ伯爵に容赦なく抱き締められて背骨が軋む中、ラビは「死にそうだ……」と呟きながらそれを思い返した。その様子を、セドリックが父親を止める訳でもなく、どこかそわそわと見つめていた。
『説教に付き合ってられるかってんだッ』
『あッ、お待ちなさいな! まだ終わっていませんわよ!』
白猫ビアンカに甲高い声で説教され続けていたノエルが、我慢ならなくなったとばかりに屋敷の奥に向かって廊下を走り出した。その後ろを、長く白い毛並みを揺らせてビアンカが追い駆ける。
突然飼い猫が興奮した様子で走り出したのを見て、伯爵夫人は目を丸くした。今日は随分元気ねぇと見送った後、薬草師であったオーディン夫妻の一人娘『ラビィ』を幼い頃から、心底可愛がっていた夫のはしゃぎようへと視線を戻して、小さく息を吐いた。
「あなた、ラビが可愛いのは分かりますけれど、少し落ち着いて下さいな」
「小さいところもまた可愛いなぁ! ああ、甘やかしたくてたまらないッ」
「まったく、こちらの話しも聞こえていないのね……。セドリックも、分かると言う顔をしないで、あの人を止めてあげて」
もう意識が飛ぶと思ったところで、ラビは、気付いたヒューガノーズ伯爵の腕からようやく解放された。ぐしゃぐしゃになった髪を、彼が「済まないね、うっかり」と、全く悪びれもなさそうに言いながら整え直す。
その時、ラビは自分に向けられている強い視線に気付いた。
なんだろうか、と思って目を向けると、そこには髪を触る父親の手の動きを、やたら注目しているセドリックがいた。
「セドリック、どうしたの?」
「いえ、なんでもないです…………」
気のせいか、視線をそらしたセドリックは、なんだかそわそわしているようにも見えた。思い返せば、ヒューガノーズ伯爵に迷惑な大歓迎を受けるたび、この幼馴染は大人しくなっているような――
あれ、そういえばノエルはどこに行った?
ラビはセドリックの事も忘れて、辺りを見回し、ビアンカもいなくなっているなと首を捻った。一度髪から手を離したヒューガノーズ伯爵が、これはチャンスだと言わんばかりに「えっほん」と下手くそな咳払いをした。
「それにしても、ラビ? 今日から王都が拠点になるのだろう? 部屋なら沢山あるから、ウチに泊まっていってもいいんだぞ?」
「ううん、費用は騎士団持ちだから平気」
辺りを窺いながら、ラビは間髪入れずそう答えた。
ヒューガノーズ伯爵は、途端にショックを受けたように項垂れた。しかし、彼女の髪を再び整え直し、改めてその顔を見たところで、可愛いなぁと露骨に顔に浮かべて目尻を下げた。
その様子を見ていた夫人が「あなた……」と呟いて、困ったように微笑んだ。しかし、彼女は気を取り直すように小さく首を振ると「ほら、二人ともいらっしゃい」と声を掛けて、夫の腕に手を絡めて歩き出した。
伯爵夫妻が部屋へと戻る中、ラビは気になって、親友ノエルの姿がないか廊下の奥へ目を凝らした。
追加の紅茶とスコーンを持った二人のメイドが、廊下で立ち止まったままのこちらに気付いて入室を促してきたので、すぐに伯爵達の後に続きますから、と伝えるようにぎこちなく愛想笑いを返しておいた。
恐らく、ノエルはまたしてもビアンカに追いかけられるような失言でもしたのかな……とは推測していた。屋敷内の道順を把握している訳ではないから、そう遠くは離れないだろうけれど。
ノエルが迷子になった事はないし、いつも道を間違えてしまうのは自分の方であるのだけれど、それでも心配してしまうのだ。誰の目にも見えない彼は、何かあったとしても「道を教えてくれないか」と尋ねる事もしないだろうから。
賢いノエルの事だから、きっと遠くへは行かないだろう。
スコーンの匂いに誘われて、すぐに戻ってくるかもしれない。
そう考え直して歩き出そうとした時、ラビは服の袖を控えめに引っ張られて足を止めた。振り返ると、優しげな藍色の瞳で、どこか落ち着かない様子でこちらを見下ろしているセドリックがおり、その指先がジャケットを軽くつまんでいた。
何か用があるのなら堂々と手を取ればいいのに、変な幼馴染である。優し過ぎるところがあるというか、相変わらず妙なところで遠慮するよなぁ、とラビは不思議に思った。
廊下には二人しかいなくて、部屋の向こうから伯爵達の声が聞こえていた。
きょとんとして見つめ返していると、そっと手を離したセドリックが、視線を泳がせて「あの」と歯切れ悪く言葉を切り出した。
「先程、ビアンカが走って行くのが見えたのですが、『彼』は動物には見えるということでしたよね? もしかしてビアンカは、ノエルと一緒に走っていってしまったという事でしょうか?」
「うん、そうだと思うよ。いつも追いかけられているんだ」
「えぇと、その、少しだけお時間をくれませんか……?」
「別にいいけど、何かお話でもあるの?」
尋ね返した途端、何故かセドリックが「……お話」と口の中で反芻し、固まってしまった。口許に手をあてたかと思うと、ゆっくりと顔をそらしていく。
ラビは、そんな幼馴染に疑問を覚え、少し歩み寄って下から顔を覗きこんでみた。すると、チラリとこちらを見つめ返した彼が、すぐに視線を外して、まるで話の矛先を変えるようにこんな話題を振ってきた。
「…………実を言うと昔から、背の低いあなたが、こうして近くから僕を見上げてくれる感じが一心に話を聞いてくれているみたいで、とても嬉しいと言いますか……」
なんだそれは、つまりチビだと言いたいのか?
そう解釈して、ラビはむっとした。幼い頃は身長差もそこまで大きくなかったというのに、セドリックは騎士学校に通い始めた頃から、急にぐんと身長が伸び始めたのだ。
ヒューガノーズ伯爵も長身なので、恐らく父親似なのだとは思う。おかげで、今では彼の顔をずっと見ていると首が痛くなる事もあった。
「言っておくけど、オレの身長はこれから伸びる予定なのッ」
「いえ、小さいままでもかわ――」
そう言いかけて、セドリックは言葉を切った。余計に彼女を怒らせてしまいそうだと察し、口許から手を離すと、ラビを真っ直ぐ見下ろしてそっと目を細めた。
「ラビ。もし良かったら、あなたの髪に触れ――」
ラビは、「もし良かったら」という言葉を聞く事も、こちらにそっと伸ばされた手を見る事も出来なかった。
セドリックの向こうに、こちらに向かって猛進してくるノエルとビアンカの姿があった。ノエルの後ろには、威嚇モードで彼を追うビアンカがいて『大きい身体をしてくる癖に、ちょこまかと避けて憎ったらしいですわ!』と叫んで跳躍する。
しかし、ビアンカは、ジャンプが苦手な猫である。
勢いよく飛んだのはいいものの、軌道がノエルから大きく外れて、ビアンカがセドリックの後頭部向かってくるのが見えて、ラビは目を丸くした。
その直後、何事か言いかけたセドリックの後頭部に、飛び込んできたビアンカが直撃していた。お世辞にも軽いとは言えない白猫を、後頭部で受け止めた彼が前のめりになって崩れ落ちた。
ラビの後ろに回ったノエルが、その様子を見て『あ』と間の抜けた声を上げた。
『…………すまん。なんか大事な話でもしていたところだったか?』
「いや、特にこれといって大事な話はされていないけど……」
ラビはそう答えながら、廊下に突っ伏したセドリックの頭にしがみついて、茫然としているビアンカへ視線を戻した。
「……えっと、二人とも大丈夫?」
猫も家族として扱うような、優しい台詞である。
そう解釈したセドリックは、床に伏したまま「僕は大丈夫ですよ」と諦めたような声で答えた。込み上げる溜息を抑えて、ゆっくり身を起こすと、彼女と母が大事にしている白猫に怪我がないかどうか確かめたのだった。
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