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――やばい、やばい、やばい。
ルーチェは脱兎の勢いで舞踏会の会場を抜け出し、馬車に飛び乗り、公爵家の屋敷へと戻ってきた。広い玄関を駆け抜け、侍女の問いかけも無視してドレスの裾を抱えて階段を駆け上り、部屋にかかっている大きな姿見を覗き込む。
緩く巻かれた艶のある栗色の髪、明るいグリーンの瞳、広く開いたデコルテに、「ここに注目してください」と言わんばかりに主張する胸の谷間。
ルーチェの中にある記憶の通りだった。
「ま、ま、間違いない……! 私が悪役令嬢のルーチェ!」
ルーチェは一声叫んでドレスを脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。
「どうして、今更……!」
もしゲームの通りにこの世界が動くのならば、今後の展望は真っ暗だ。
ルーチェは寝返りを打ち、天井を見つめながらゲームの登場人物である悪役令嬢ルーチェ・エドマンズの転落人生について思いを馳せる。
ゲームのストーリーはこうだ。ある日、この国の王子であるエリアスが原因不明の病に倒れ、どんな医師にも治せないと匙を投げられてしまう。
そこに現れるのが、世にも不思議な聖なる癒しの力を持つヒロイン。彼女が王子を救い、そこから男爵家の養女であるヒロインは城で重宝されるようになり、二人は急速に接近していく。
エリアスは最初こそヒロインに冷たく接するが、病から救われたことをきっかけに彼女に心を許していく。
エリアスは、乙女ゲームの中でも「チョロい」攻略対象なのだ。
「好感度が上がりやすくて、何をしても簡単にエンディングに行けるエリアス王子、ね……」
しかし、当のルーチェはエリアス王子の心を動かすことができなかった。エリアスがチョロいのはヒロインに対してだけなのだ。
「はあ~……」
ルーチェは顔を伏せ、枕に口元を埋めて長く息を吐いた。
もちろん、ゲーム開始前の段階でエリアスはルーチェと婚約している。けれど、それは貴族同士の決められた縁談。エリアスの心は最初からルーチェにはないのだから、誰と結婚するかは王子の心次第なのだ。
「……見苦しいわよね、私……」
ゲームのルーチェも、エリアスのことを身分関係なく一人の異性として好いていた。エリアスに振り向いてほしくて、愛されていると思いたくて必死だった。
それは前世の記憶を取り戻した今になっても変わらない。ルーチェもエリアスもこの世界で生きているのだ。
だから病に倒れたエリアスに何もしてあげられず、しかも突然現れたヒロインがエリアスの心を動かしたことを理解はしても納得はできなかった。
嫉妬に狂ったルーチェはヒロインに対して怒りを暴走させ、最終的にはエリアスの手によって、ルーチェは宮廷から追放され、修道院送りになる。
しかも救いがないのは、エリアスは簡単に攻略できてしまう──つまり、ヒロインがどのルートを通ったとしてもエリアスはヒロインに心を向けるので、ルーチェは必ず彼女に対して怒りを向けることになるのだ。
「でも……まだ……間に合うわよね」
ルーチェはごろりと寝返りを打った。
だってゲームはまだ始まっていないから、悪事を行っていない。現にルーチェが今感じているのは怒りではなく焦りや悲しみだ。
「このままなら、悪役令嬢としての未来を回避できる可能性だって、あるはずよね?」
問題点はルーチェがエリアスへの叶わぬ恋に狂ったことだ。
ルーチェは胸元をぎゅっと押さえた。
自分がエリアスに抱いていた想いは、婚約者としての義務や建前ではない。
もっとずっと根深くて、強くて、切実な恋だった。
彼の笑顔を見るたびに胸が高鳴って、ほんの一言で浮かれて、沈んで。王子としての彼ではなく、幼なじみとしてのエリアスに惹かれていた。
そのくせ、彼が何を望んでいるのか、何を考えているのか分からなくて、苦しかった。
「……だから、すがってしまったのよね」
婚約者という立場に、感情を支えてもらっていた。結婚すれば、いつかは自分のものになってくれる。
そんな淡い幻想にしがみついて――そして今夜、ぽっきりと心は折れてしまった。
「でも、手を出されないってことは、そういうこと……よね」
小さな声でぼやきながら、ルーチェはぎゅっとシーツを握った。
あれほど熱烈に想いを寄せていたのに、エリアスは終始優しく、けれどどこか遠くにいた。
冷たいわけではなかった。誠実で、大切にしてくれているのは分かっていた。
けれど、まるで崖下に咲いている花を眺めるような目で、エリアスはルーチェに近づいてこなかった。
だからこそずれている、間違った行動だと分かっていても、エリアスへ自ら手を伸ばさずにはいられなかった。
「もう、どうしてよエリアス様、ルーチェは美人だし、胸だってこんなに大きいのに……!」
ルーチェは自分の胸の豊かな膨らみを掴んで、またため息をついた。どんなに美しくても、求めた相手に愛してもらえないのではなんの意味もない。
「……仕方ない、わよね」
エリアスは真面目な王子だ。彼の魂が、ルーチェは運命の人ではないと警告を発し続けていたのだろう。
「諦めるしかないのよ。私が悪役令嬢に生まれてしまった以上は――そうするしかないの」
悔しさや無力感、エリアスへの未練とがぐしゃぐしゃに混ざり合っていた。
けれど王子に捨てられる前に――こちらから捨てるしかない。それがルーチェの最後のプライドだった。
ルーチェは身体を起こし、机の上に目を向けた。
そこにはきっちりと製本された革表紙の冊子が山積みになっていた。
――新婚旅行の計画書だ。
来るべき日の為に、ルーチェがあれこれ苦心して作成したものだ。しかしそれらの旅程が実現することはない。
「これからは、ひとりで旅の計画を立てるわ。エリアス様抜きで、ね……」
ルーチェはそう言って、計画書に手を伸ばした。
ルーチェは脱兎の勢いで舞踏会の会場を抜け出し、馬車に飛び乗り、公爵家の屋敷へと戻ってきた。広い玄関を駆け抜け、侍女の問いかけも無視してドレスの裾を抱えて階段を駆け上り、部屋にかかっている大きな姿見を覗き込む。
緩く巻かれた艶のある栗色の髪、明るいグリーンの瞳、広く開いたデコルテに、「ここに注目してください」と言わんばかりに主張する胸の谷間。
ルーチェの中にある記憶の通りだった。
「ま、ま、間違いない……! 私が悪役令嬢のルーチェ!」
ルーチェは一声叫んでドレスを脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込んだ。
「どうして、今更……!」
もしゲームの通りにこの世界が動くのならば、今後の展望は真っ暗だ。
ルーチェは寝返りを打ち、天井を見つめながらゲームの登場人物である悪役令嬢ルーチェ・エドマンズの転落人生について思いを馳せる。
ゲームのストーリーはこうだ。ある日、この国の王子であるエリアスが原因不明の病に倒れ、どんな医師にも治せないと匙を投げられてしまう。
そこに現れるのが、世にも不思議な聖なる癒しの力を持つヒロイン。彼女が王子を救い、そこから男爵家の養女であるヒロインは城で重宝されるようになり、二人は急速に接近していく。
エリアスは最初こそヒロインに冷たく接するが、病から救われたことをきっかけに彼女に心を許していく。
エリアスは、乙女ゲームの中でも「チョロい」攻略対象なのだ。
「好感度が上がりやすくて、何をしても簡単にエンディングに行けるエリアス王子、ね……」
しかし、当のルーチェはエリアス王子の心を動かすことができなかった。エリアスがチョロいのはヒロインに対してだけなのだ。
「はあ~……」
ルーチェは顔を伏せ、枕に口元を埋めて長く息を吐いた。
もちろん、ゲーム開始前の段階でエリアスはルーチェと婚約している。けれど、それは貴族同士の決められた縁談。エリアスの心は最初からルーチェにはないのだから、誰と結婚するかは王子の心次第なのだ。
「……見苦しいわよね、私……」
ゲームのルーチェも、エリアスのことを身分関係なく一人の異性として好いていた。エリアスに振り向いてほしくて、愛されていると思いたくて必死だった。
それは前世の記憶を取り戻した今になっても変わらない。ルーチェもエリアスもこの世界で生きているのだ。
だから病に倒れたエリアスに何もしてあげられず、しかも突然現れたヒロインがエリアスの心を動かしたことを理解はしても納得はできなかった。
嫉妬に狂ったルーチェはヒロインに対して怒りを暴走させ、最終的にはエリアスの手によって、ルーチェは宮廷から追放され、修道院送りになる。
しかも救いがないのは、エリアスは簡単に攻略できてしまう──つまり、ヒロインがどのルートを通ったとしてもエリアスはヒロインに心を向けるので、ルーチェは必ず彼女に対して怒りを向けることになるのだ。
「でも……まだ……間に合うわよね」
ルーチェはごろりと寝返りを打った。
だってゲームはまだ始まっていないから、悪事を行っていない。現にルーチェが今感じているのは怒りではなく焦りや悲しみだ。
「このままなら、悪役令嬢としての未来を回避できる可能性だって、あるはずよね?」
問題点はルーチェがエリアスへの叶わぬ恋に狂ったことだ。
ルーチェは胸元をぎゅっと押さえた。
自分がエリアスに抱いていた想いは、婚約者としての義務や建前ではない。
もっとずっと根深くて、強くて、切実な恋だった。
彼の笑顔を見るたびに胸が高鳴って、ほんの一言で浮かれて、沈んで。王子としての彼ではなく、幼なじみとしてのエリアスに惹かれていた。
そのくせ、彼が何を望んでいるのか、何を考えているのか分からなくて、苦しかった。
「……だから、すがってしまったのよね」
婚約者という立場に、感情を支えてもらっていた。結婚すれば、いつかは自分のものになってくれる。
そんな淡い幻想にしがみついて――そして今夜、ぽっきりと心は折れてしまった。
「でも、手を出されないってことは、そういうこと……よね」
小さな声でぼやきながら、ルーチェはぎゅっとシーツを握った。
あれほど熱烈に想いを寄せていたのに、エリアスは終始優しく、けれどどこか遠くにいた。
冷たいわけではなかった。誠実で、大切にしてくれているのは分かっていた。
けれど、まるで崖下に咲いている花を眺めるような目で、エリアスはルーチェに近づいてこなかった。
だからこそずれている、間違った行動だと分かっていても、エリアスへ自ら手を伸ばさずにはいられなかった。
「もう、どうしてよエリアス様、ルーチェは美人だし、胸だってこんなに大きいのに……!」
ルーチェは自分の胸の豊かな膨らみを掴んで、またため息をついた。どんなに美しくても、求めた相手に愛してもらえないのではなんの意味もない。
「……仕方ない、わよね」
エリアスは真面目な王子だ。彼の魂が、ルーチェは運命の人ではないと警告を発し続けていたのだろう。
「諦めるしかないのよ。私が悪役令嬢に生まれてしまった以上は――そうするしかないの」
悔しさや無力感、エリアスへの未練とがぐしゃぐしゃに混ざり合っていた。
けれど王子に捨てられる前に――こちらから捨てるしかない。それがルーチェの最後のプライドだった。
ルーチェは身体を起こし、机の上に目を向けた。
そこにはきっちりと製本された革表紙の冊子が山積みになっていた。
――新婚旅行の計画書だ。
来るべき日の為に、ルーチェがあれこれ苦心して作成したものだ。しかしそれらの旅程が実現することはない。
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