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しおりを挟む甲板へ出ると、爽やかに吹き抜けた早朝の潮風が頬の火照りを冷ましてくれた。
「ふぅ……」
ルーチェはため息をついた。次の寄港地まではまだかなりかかる。それまで、エリアスと密室で二人きりなのだ。
──少し触れただけで、あんなにもドキドキするのに私はこれから、大丈夫なのかしら。いいえ、もうエリアス様のことでうじうじ悩んだり、振り回されたりするのはやめると決めたのだから、日中は別行動をすればいいの。あと数日の辛抱なのだし。
ルーチェが甲板に身を預け、ぎゅっとこぶしを握ったそのときだった。
「ねぇねぇ、君」
「はい?」
不意に声をかけられて、ルーチェはついつい返事をしてしまった。ルーチェ・エドマンズ公爵令嬢という身分から解き放たれた旅の開放感がそうさせたのは間違いがなかった。
しかし、ルーチェはその軽はずみな言動をすぐに後悔することになる。
「あ、やっぱり。君ってかわいいねー!」
「……」
振り向いてすぐに、ルーチェはこれが「ナンパ」だと理解した。
声をかけてきた人物は年のころは二十代なかばで、エリアスよりはいくつか年上に見えた。帽子を斜めにかぶり、高級そうな衣服を着ているものの、どこか着こなしがだらしなく、朝から香水の匂いをぷんぷんとさせている。
「こんな朝から、ぽつんと寂しそうにしちゃって、もしかして一人旅?」
「……」
外見よりも、ルーチェを辟易とさせたのはその馴れ馴れしさだ。男はルーチェの隣に立ち、まるで品定めでもするようにじろじろと全身をなめ回すように見ている。
「ねえ、今暇?」
ルーチェの無視にもかかわらず、男はぐいぐいと距離を詰めてくる。ルーチェが後ずされば相手も同じだけ前に進むのだ。
「……お答えする必要なないかと」
「ってことは、ヒマってことで合ってる?」
「……いえ。忙しいです」
「またまた~。ちょっとでいいから、俺と付き合ってよ。船の中って退屈でさ、こう……話し相手がほしくて」
無言は拒絶の意思表示のつもりだったが、このナンパ男には通用しないようで、彼はルーチェのそばから離れない。
「俺の実家は商会をやっていて、この船の調度品を揃えたのはウチなんだ。その縁で客室を用意して貰っていて。著名人を招いて船上パーティーをやっているんだ。君も良かったら……」
男はペラペラとルーチェにとっては面白くもなんともない自慢話をしてくる。
使い古された口説き文句とずうずうしい間合いの詰め方に辟易として、ルーチェはその場を立ち去ろうとした。
「私、次の用事がありますので失礼しま……」
「そんなつれないこと言うなよ! 男漁りに来てるんだろ?」
言いかけたその瞬間に男の手がぬっと伸びてきて、ルーチェは思わず小さく声を上げた。それとほとんど同時に、ぐいっと強い腕が背中から回り込んでルーチェの肩を抱き寄せた。
驚きで硬直してしまったルーチェの耳元で、よく通る声が風を裂いた。
「彼女は、僕の婚約者だ」
「エ、エリアス様……!」
「勝手に触れるのはやめていただけるかな」
──怒ってる!
口調は丁寧だが、ルーチェにはそれがはっきりとわかった。
温厚なエリアスが怒ったところを、ルーチェは見たことがなかった。正しくは、ゲームのスチルでなら見たことがあるのだが。
「そ、そうでしたか。これは失礼を……」
気圧されたのか、男は気まずそうに帽子を取ってルーチェに謝罪した。だが、エリアスの表情は笑顔を貼り付けたままで動かない。これは相手を威嚇するための笑顔だとルーチェは知っている。
「もし、彼女がパーティーに参加したいようなら、僕もぜひ同席させていただきたいね」
「はは、いやあ、それは……じゃあ、失礼するよ」
男は気まずさをごまかすように笑い、足早に踵を返して去っていった。
エリアスは腕の中にしっかりとルーチェを抱き抱えたまま、その後ろ姿を無言で見送った。やがて足音が消えたのを確認してから、ルーチェはようやく開放された。
「ごめん。ちょっと強引だったかな」
その声はさっきとは打って変わって柔らかくて、温度差で風邪を引きそうだとルーチェは思う。
「……あれくらい、ひとりでどうにかなりました」
赤くなった顔を隠すために、ルーチェはそっぽをむいた。
「本当?」
「で、できましたってば……」
背中にエリアスの視線を感じて、ルーチェは視線を泳がせた。
「でも……ありがとうございます。心配して、様子を見に来てくれたんですね」
「もちろん。僕はどこまでも君についていく」
「またそんなことを……」
本当に、ルーチェを連れ戻すためにここまで下手に出るなんて、本当に王子としての使命感に溢れた人だとルーチェは思う。
「気を取り直して。……散歩に、行ってきます」
「僕もついていくよ。まだ心配だから」
「……ご、ご自由にどうぞ」
トラブルに巻き込まれてしまった後では、突き放すこともできず、ルーチェはエリアスと朝の散歩に臨むことになったのだった。
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