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「船が停泊できないって……」
ルーチェは船内コンシェルジュのカウンターに腕を乗せながら、ため息をついた。
「申し訳ございません、安全上の規則のため……」
コンシェルジュは申し訳なさそうに目を伏せた。
ルーチェがエリアスの腕から逃れてすぐに雨が降り出してしまって、そのまま船は嵐に巻き込まれた。
大型の客船はそれだけでは命の危険にさらされることはないが、次の寄港地である港は入口が小さく、波が高くなってしまうため乗客が降り立つことはできないと連絡が入ったのは早朝のことだ。
港街は王国の領土で、ルーチェはエリアスをそこで降ろすつもりだった。現在はまだ領海の範疇だが、そこを越えると本当に国境から出てしまうからだ。
次に訪れる国は同盟国であり、高位貴族や王族が出入りすることに政治的な問題はないのだが、このままエリアスを乗せて出国していいものかと不安が募る。
「乗客の皆様には、ご契約の際にこういったことがあるというご説明を……」
「分かってるわ。ええ、別に責めたい訳ではないから」
ルーチェは身をかがめて小さくなり、そっと懐からスイートルームのルームキーを取り出して見せた。
同じ乗客でも、払っている金額は段違いだということを見せつけるためだ。
「この場合、ここまでの切符しか持っていない人はどうなるの?」
「それはですね……」
コンシェルジュはあたりをちらちらと確認してから、小さく口を開いた。
ルーチェが新聞を手にスイートルームへ戻ると、エリアスは心底楽しそうな顔で雨が吹き荒れる嵐の海を眺めていた。嵐に巻き込まれた船は一瞬もとどまる時がなく、ぐあんぐあんと大きく揺れていて全ての催しものも、デッキも図書室も封鎖されているありさまだががエリアスは三半規管が強く、船酔いはしない体質のようだった。
「おかえり、ルーチェ」
エリアスは立ち上がってルーチェを出迎えた。エドマンズ公爵家で飼っている猫だって、こんなにルーチェを熱烈に出迎えてくれることはない。
「やはり、港には入れないそうです」
「そうなんだ。残念だね」
まったく残念そうではない様子でエリアスはうんうんと頷いた。
「エリアス様」
「なんだい」
「この船、本当にお供の者はいないんですか?」
ルーチェはこの数日のあいだ抱いていた疑問を口にした。王子が一人で乗り込んでくるとは考えられなかったから、護衛がついていて──やっぱり、その気になれば軍船を横付けしてエリアスを回収してくれるのではないかと思っていたのだ。
しかし関係者らしき人影は今日に至るまで、船内の何処にもない。
「僕の知る限りは」
自分は現在、対外的には病気で王宮に引きこもっている設定になっているとエリアスは言った。
「事情を知っている方にはなんと?」
「自分探しの旅に出ると」
──まさかゲームの時も仮病だったりしたのかしら……。
仮病だと治癒の力もなにも関係ない。だからゲームでは誰も彼の病を治せなかったのかもしれない、とルーチェは思った。
「では、ここで降りなくてもパニックにはならないということですね……」
ふむ、とルーチェは顎に手をあてた。
他国ではあるが、ルーチェの血縁である叔母が治める土地でエリアスを降ろすのが最適なのかもしれない。叔母であればエリアスと知らない仲でもないのだし……とルーチェは思考を巡らせる。
「ここが終点の乗客は、こっそり貨物船に乗せて降ろしてくれる。ルーチェ、君は僕をそれに乗せるつもりだったね」
コンシェルジュからこっそり──降りれるとなると観光目当ての客が我が儘を言うから秘密裏に聞いた話を、なぜかエリアスが把握していてルーチェは驚いた。
「な、なぜそれを」
「仲良くなった船員たちが教えてくれたよ。ルーチェに何かあったときのために船についてできる限り知っておきたいと話しかけたら、皆教えてくれる」
「いつの間に……」
エリアスはぱっと見は柔和だがその実、見えない壁があって近寄りがたい──そんな印象を覆す日々の連続だ。
「船の構造を理解しておいて、降ろされそうになったら隠れて追っ手をやり過ごさないと」
大真面目なエリアスにルーチェはため息をつく。彼がやると言ったら本当にそれは実現するだろうから。
「少々、お待ちを」
ルーチェは持ち帰った新聞を開き、すみからすみまで内容を確認した。王家に関する記事は一つもない。だから大がかりな捜索になってはいない。
本当に、ルーチェとエリアスがこの船に乗っていることはほぼ誰も知らないのだ。
──となると、騒ぎを起こしても仕方がないわよね。降りたとしても、漁業と観光の街で王子をもてなす設備があるとは思えないし……。
「わかりました。ここではエリアス様を降ろしません。次に持ち越しです」
「ありがとう、ルーチェ」
──自分の意思の弱さに、辟易するわ……。
途中までは我ながらいい感じだと思ったのに、エリアスが合流した時点でルーチェの計画はめちゃくちゃになってしまった。
「寿命が伸びた」
「寿命って……」
あまりに大袈裟だと、ルーチェは思う。
「ここで降ろされたら、本当に心が病んでしまう」
エリアスの言葉が冗談に聞こえないほど、彼の瞳は真剣だった。
「……大げさですね」
そう言いながら、ルーチェはゆっくりとソファに腰を下ろした。すると当然のようにエリアスが隣に座ってきて、じわじわと距離を詰めてくる。
「……近いです」
「船の揺れのせいかな……」
「またそんなことを言って」
「なら、素直にくっつきたいと言ったら、了承してくれる?」
「だ……ダメですよ」
「お願い」
「お願いされても……ダメです。……ちなみに、私に何をしようとしてます?」
「膝枕」
身構えていたルーチェは思わず拍子抜けして、それならいいか……と思ってしまうのだった。
ルーチェはため息をひとつついて、スカートを整えた。
「……どうぞ、エリアス様」
「いいの?」
「い、一回だけですからね」
ソファに背を預けたルーチェの膝に、エリアスは遠慮がちに頭を預けた。
「本当にしてくれるんだ……」
「断ったら、もっと面倒なことになるかと思いまして」
ルーチェの憎まれ口に、エリアスはふっと小さく笑った。そのまま目を閉じたのか、部屋の中は静かになる。
ルーチェの指は自然に、ゆっくりとエリアスの髪を梳いていた。
「ありがとう。ちょうど撫でてくださいと頼むつもりだったんだ」
「頼んだらなんでもしてくれると思わないでくださいね」
「……わかってる。これが君の優しさだってことは」
──優しさ……。そうね。エリアス様は私が嫌々付き合ってくれていると思っている。でも、そうではないのに。
ルーチェは空いている方の手をぎゅっと握った。
「君の膝、あったかいな」
「人間ですからね……」
「ルーチェはいつも面白いことを言うね」
エリアスは楽しそうにくすくすと笑った。ルーチェの方でも、それを聞いて心がほんのりと温かくなる。
この時間は、いつまでも続かない。そう、人生の寄り道みたいなもの……。
──それなら、今だけは。
ルーチェはもう一度、そっとエリアスの髪を撫でた。
ぐらぐらと揺れる船の中で、自分の心までいっしょに揺れているとルーチェは思った。
ルーチェは船内コンシェルジュのカウンターに腕を乗せながら、ため息をついた。
「申し訳ございません、安全上の規則のため……」
コンシェルジュは申し訳なさそうに目を伏せた。
ルーチェがエリアスの腕から逃れてすぐに雨が降り出してしまって、そのまま船は嵐に巻き込まれた。
大型の客船はそれだけでは命の危険にさらされることはないが、次の寄港地である港は入口が小さく、波が高くなってしまうため乗客が降り立つことはできないと連絡が入ったのは早朝のことだ。
港街は王国の領土で、ルーチェはエリアスをそこで降ろすつもりだった。現在はまだ領海の範疇だが、そこを越えると本当に国境から出てしまうからだ。
次に訪れる国は同盟国であり、高位貴族や王族が出入りすることに政治的な問題はないのだが、このままエリアスを乗せて出国していいものかと不安が募る。
「乗客の皆様には、ご契約の際にこういったことがあるというご説明を……」
「分かってるわ。ええ、別に責めたい訳ではないから」
ルーチェは身をかがめて小さくなり、そっと懐からスイートルームのルームキーを取り出して見せた。
同じ乗客でも、払っている金額は段違いだということを見せつけるためだ。
「この場合、ここまでの切符しか持っていない人はどうなるの?」
「それはですね……」
コンシェルジュはあたりをちらちらと確認してから、小さく口を開いた。
ルーチェが新聞を手にスイートルームへ戻ると、エリアスは心底楽しそうな顔で雨が吹き荒れる嵐の海を眺めていた。嵐に巻き込まれた船は一瞬もとどまる時がなく、ぐあんぐあんと大きく揺れていて全ての催しものも、デッキも図書室も封鎖されているありさまだががエリアスは三半規管が強く、船酔いはしない体質のようだった。
「おかえり、ルーチェ」
エリアスは立ち上がってルーチェを出迎えた。エドマンズ公爵家で飼っている猫だって、こんなにルーチェを熱烈に出迎えてくれることはない。
「やはり、港には入れないそうです」
「そうなんだ。残念だね」
まったく残念そうではない様子でエリアスはうんうんと頷いた。
「エリアス様」
「なんだい」
「この船、本当にお供の者はいないんですか?」
ルーチェはこの数日のあいだ抱いていた疑問を口にした。王子が一人で乗り込んでくるとは考えられなかったから、護衛がついていて──やっぱり、その気になれば軍船を横付けしてエリアスを回収してくれるのではないかと思っていたのだ。
しかし関係者らしき人影は今日に至るまで、船内の何処にもない。
「僕の知る限りは」
自分は現在、対外的には病気で王宮に引きこもっている設定になっているとエリアスは言った。
「事情を知っている方にはなんと?」
「自分探しの旅に出ると」
──まさかゲームの時も仮病だったりしたのかしら……。
仮病だと治癒の力もなにも関係ない。だからゲームでは誰も彼の病を治せなかったのかもしれない、とルーチェは思った。
「では、ここで降りなくてもパニックにはならないということですね……」
ふむ、とルーチェは顎に手をあてた。
他国ではあるが、ルーチェの血縁である叔母が治める土地でエリアスを降ろすのが最適なのかもしれない。叔母であればエリアスと知らない仲でもないのだし……とルーチェは思考を巡らせる。
「ここが終点の乗客は、こっそり貨物船に乗せて降ろしてくれる。ルーチェ、君は僕をそれに乗せるつもりだったね」
コンシェルジュからこっそり──降りれるとなると観光目当ての客が我が儘を言うから秘密裏に聞いた話を、なぜかエリアスが把握していてルーチェは驚いた。
「な、なぜそれを」
「仲良くなった船員たちが教えてくれたよ。ルーチェに何かあったときのために船についてできる限り知っておきたいと話しかけたら、皆教えてくれる」
「いつの間に……」
エリアスはぱっと見は柔和だがその実、見えない壁があって近寄りがたい──そんな印象を覆す日々の連続だ。
「船の構造を理解しておいて、降ろされそうになったら隠れて追っ手をやり過ごさないと」
大真面目なエリアスにルーチェはため息をつく。彼がやると言ったら本当にそれは実現するだろうから。
「少々、お待ちを」
ルーチェは持ち帰った新聞を開き、すみからすみまで内容を確認した。王家に関する記事は一つもない。だから大がかりな捜索になってはいない。
本当に、ルーチェとエリアスがこの船に乗っていることはほぼ誰も知らないのだ。
──となると、騒ぎを起こしても仕方がないわよね。降りたとしても、漁業と観光の街で王子をもてなす設備があるとは思えないし……。
「わかりました。ここではエリアス様を降ろしません。次に持ち越しです」
「ありがとう、ルーチェ」
──自分の意思の弱さに、辟易するわ……。
途中までは我ながらいい感じだと思ったのに、エリアスが合流した時点でルーチェの計画はめちゃくちゃになってしまった。
「寿命が伸びた」
「寿命って……」
あまりに大袈裟だと、ルーチェは思う。
「ここで降ろされたら、本当に心が病んでしまう」
エリアスの言葉が冗談に聞こえないほど、彼の瞳は真剣だった。
「……大げさですね」
そう言いながら、ルーチェはゆっくりとソファに腰を下ろした。すると当然のようにエリアスが隣に座ってきて、じわじわと距離を詰めてくる。
「……近いです」
「船の揺れのせいかな……」
「またそんなことを言って」
「なら、素直にくっつきたいと言ったら、了承してくれる?」
「だ……ダメですよ」
「お願い」
「お願いされても……ダメです。……ちなみに、私に何をしようとしてます?」
「膝枕」
身構えていたルーチェは思わず拍子抜けして、それならいいか……と思ってしまうのだった。
ルーチェはため息をひとつついて、スカートを整えた。
「……どうぞ、エリアス様」
「いいの?」
「い、一回だけですからね」
ソファに背を預けたルーチェの膝に、エリアスは遠慮がちに頭を預けた。
「本当にしてくれるんだ……」
「断ったら、もっと面倒なことになるかと思いまして」
ルーチェの憎まれ口に、エリアスはふっと小さく笑った。そのまま目を閉じたのか、部屋の中は静かになる。
ルーチェの指は自然に、ゆっくりとエリアスの髪を梳いていた。
「ありがとう。ちょうど撫でてくださいと頼むつもりだったんだ」
「頼んだらなんでもしてくれると思わないでくださいね」
「……わかってる。これが君の優しさだってことは」
──優しさ……。そうね。エリアス様は私が嫌々付き合ってくれていると思っている。でも、そうではないのに。
ルーチェは空いている方の手をぎゅっと握った。
「君の膝、あったかいな」
「人間ですからね……」
「ルーチェはいつも面白いことを言うね」
エリアスは楽しそうにくすくすと笑った。ルーチェの方でも、それを聞いて心がほんのりと温かくなる。
この時間は、いつまでも続かない。そう、人生の寄り道みたいなもの……。
──それなら、今だけは。
ルーチェはもう一度、そっとエリアスの髪を撫でた。
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