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嵐と共に港を過ぎると、海は嘘のように穏やかさを取り戻した。
ルーチェとエリアスの関係も、特に進展することもなく、静かに時間は過ぎている。
エリアスがぐいぐい来ることがなくなって、彼は船員たちと親しげに会話を楽しんでいたりして、ルーチェは彼が自分自身の心に折り合いをつけたのだと思っていた。ルーチェの方でも、海運の歴史について学んだり、そうかと思えば貝殻をあしらった額を作ってみたりと、好き勝手に過ごしている。
「ルーチェは、この後どうするんだい」
一つの寄港地を通り過ぎて、船がまた次の港へ向かい始めた時、沿岸の見送りに手を振りながらエリアスは言った。
「私ですか? 次の次の港街に叔母が嫁いでいるので、お見舞に行こうと。体調がすぐれないそうなので」
そう答えてから、ルーチェはエリアスはまだ元気そうだとまじまじと彼の顔を覗き込む。
「そう言えば、船上パーティ-が再開するらしいね」
エリアスは目を逸らしながらひとりごとのようにつぶやいた。
大きく揺れる船の上ではパーティーができないので、ここ数日は部屋食か、あるいはレストランで食事を取っていた。
「そうですね。……エリアス様は参加したいのですか?」
前にルーチェの着飾った姿を他の人が見るのが嫌だとエリアスは言っていた。当時のルーチェは大人っぽく、王子に釣り合うようにと大胆な衣装を着ていたので当然かもしれないが。
「……そうだね。久し振りに、ドレス姿のルーチェを見たい」
──前は、何を着ても決まりきった「かわいいね」しか言わなかったのに。
ルーチェは一瞬だけ目を伏せてから、小さく頷いた。
「せっかくの機会ですから、そうしましょうか」
もうすぐ彼を降ろす港に着く。そこで別れるのだ、それまでは一緒に過ごしてもいいかもしれない。
──二人でいるより、人が多いところの方が安全だし。
「華やかですね」
その日の夜、ルーチェは淡い桃色のドレスに身を包み、グラスを片手に会場を見渡していた。復活した船上パーティーには大勢の人がつめかけている。ルーチェとエリアスにとっては舞踏会のないだらだらとした日々が非日常だが、ここではもちろん少数派の考えなのだった。
「今日は、ダンスは?」
「……いいえ。もう、踊りません」
ルーチェはドレスの先からつま先を少し出して、くいくいと動かした。この前と同じく、お気に入りのミュールが輝いている。
「でも、マチルダさんから足の中敷きをいただいたのでもう大丈夫なんです。薄くて、つけていても目立たないので」
「随分と仲良くなったんだね」
「エリアス様こそ、誰彼構わず話しかけては世間話なんてして……」
ルーチェとエリアスはそれぞれの船旅を楽しんでいて、お互いの交友の全てを把握している訳ではなかった。他愛のない会話を続けていると、聞き覚えのある声がルーチェの耳に届いた。
「ああ、やっぱりいたわね。可愛いお嬢様」
振り向けば、深く胸の谷間が切れ込んだワインレッドのドレスをまとったマチルダだった。
「お会いできてうれしいわ。ほんと、今夜のあなたも素敵ね」
「お褒めにあずかり光栄です」
ルーチェは涼やかに微笑み、そしてマチルダの背後を見てぎょっとした。彼女に寄り添うようにマチルダの愛人の青年が立っていたのだから。
「もう行こうよ、マチルダ。人、多すぎる」
青年が甘えるような声で言うと、マチルダは肩をすくめて笑った。
「せっかくのパーティーなのに、退屈してるの?」
「ううん。退屈じゃないけど……マチルダが、他の人ばっかり見てる気がして。可愛いお嬢さんに夢中で、僕のこと忘れちゃったんじゃないかって」
マチルダは、そっと彼の鼻先を人差し指でつついた。
「そんなわけないでしょう? 拗ねた顔も可愛いけど」
「本当? このお嬢さんより?」
「それはなんとも言えないわ……」
そう言って、マチルダは青年の頬にキスをした。
「!」
──堂々としてるわ……本当に恋人みたい。
ルーチェはあまりじろじろ見ないように、極力興味のない振りをしてグラスに口をつけた。けれど、公衆の面前で仲睦まじく振る舞う二人の姿が、どうしても気になってしまう。
そして、思い浮かべてしまう。エリアスと自分が、同じように寄り添い合うさまを。
──唇を重ねて……この前のような触れるだけものではなくて、大人のキスで。耳元で名前を囁かれて、髪を撫でられて、そしたらあの夜の続きみたいな……。
「……ルーチェ?」
静かな声が、耳のそばで低く響いた。
「ひゃっ!」
驚いて振り返ると、すぐそばにエリアスがいた。
「え、えええエリアス様。いつからそこに?」
「僕は最初からずっと君のそばにいたけれど?」
「そ……そうでした、ね」
「顔、真っ赤だよ?」
エリアスはルーチェの額についた前髪をつまみ上げた。
「っ……なんでも、ないです」
「ルーチェはお酒に弱いから、あまり飲まない方がいいよ」
「だ、大丈夫です、大人ですしっ」
強がりとともに、ルーチェはぐいっとグラスをあおった。
「……もしかして、あのマチルダさんと愛人がこのあとどうするかを考えてた?」
「ち、ちが……っ! 何をそんな破廉恥な!」
とっさに否定したけれど、言葉に詰まってしまった。
「そう? 僕は気になるよ。……うらやましいかぎりだ」
唇が耳に触れそうなほど近くで囁かれて、ルーチェの胸はどきりと跳ねる。
「そっ、そんなこと……私は考えてませんから!」
ルーチェはエリアスから顔を背けて、顔を背けて、逃げるように一歩を踏み出した。
その瞬間だった。
「――きゃっ」
誰かと肩がぶつかり、ルーチェの胸元にばしゃりと何かが跳ねた。
「あっ、ごめんなさい!」
相手の声よりも先に目に入ったのは、ドレスに広がる赤だった。シャンパンのような薄い色ではない、はっきりとした染みが胸元を濡らしてしまったのだった。
ルーチェとエリアスの関係も、特に進展することもなく、静かに時間は過ぎている。
エリアスがぐいぐい来ることがなくなって、彼は船員たちと親しげに会話を楽しんでいたりして、ルーチェは彼が自分自身の心に折り合いをつけたのだと思っていた。ルーチェの方でも、海運の歴史について学んだり、そうかと思えば貝殻をあしらった額を作ってみたりと、好き勝手に過ごしている。
「ルーチェは、この後どうするんだい」
一つの寄港地を通り過ぎて、船がまた次の港へ向かい始めた時、沿岸の見送りに手を振りながらエリアスは言った。
「私ですか? 次の次の港街に叔母が嫁いでいるので、お見舞に行こうと。体調がすぐれないそうなので」
そう答えてから、ルーチェはエリアスはまだ元気そうだとまじまじと彼の顔を覗き込む。
「そう言えば、船上パーティ-が再開するらしいね」
エリアスは目を逸らしながらひとりごとのようにつぶやいた。
大きく揺れる船の上ではパーティーができないので、ここ数日は部屋食か、あるいはレストランで食事を取っていた。
「そうですね。……エリアス様は参加したいのですか?」
前にルーチェの着飾った姿を他の人が見るのが嫌だとエリアスは言っていた。当時のルーチェは大人っぽく、王子に釣り合うようにと大胆な衣装を着ていたので当然かもしれないが。
「……そうだね。久し振りに、ドレス姿のルーチェを見たい」
──前は、何を着ても決まりきった「かわいいね」しか言わなかったのに。
ルーチェは一瞬だけ目を伏せてから、小さく頷いた。
「せっかくの機会ですから、そうしましょうか」
もうすぐ彼を降ろす港に着く。そこで別れるのだ、それまでは一緒に過ごしてもいいかもしれない。
──二人でいるより、人が多いところの方が安全だし。
「華やかですね」
その日の夜、ルーチェは淡い桃色のドレスに身を包み、グラスを片手に会場を見渡していた。復活した船上パーティーには大勢の人がつめかけている。ルーチェとエリアスにとっては舞踏会のないだらだらとした日々が非日常だが、ここではもちろん少数派の考えなのだった。
「今日は、ダンスは?」
「……いいえ。もう、踊りません」
ルーチェはドレスの先からつま先を少し出して、くいくいと動かした。この前と同じく、お気に入りのミュールが輝いている。
「でも、マチルダさんから足の中敷きをいただいたのでもう大丈夫なんです。薄くて、つけていても目立たないので」
「随分と仲良くなったんだね」
「エリアス様こそ、誰彼構わず話しかけては世間話なんてして……」
ルーチェとエリアスはそれぞれの船旅を楽しんでいて、お互いの交友の全てを把握している訳ではなかった。他愛のない会話を続けていると、聞き覚えのある声がルーチェの耳に届いた。
「ああ、やっぱりいたわね。可愛いお嬢様」
振り向けば、深く胸の谷間が切れ込んだワインレッドのドレスをまとったマチルダだった。
「お会いできてうれしいわ。ほんと、今夜のあなたも素敵ね」
「お褒めにあずかり光栄です」
ルーチェは涼やかに微笑み、そしてマチルダの背後を見てぎょっとした。彼女に寄り添うようにマチルダの愛人の青年が立っていたのだから。
「もう行こうよ、マチルダ。人、多すぎる」
青年が甘えるような声で言うと、マチルダは肩をすくめて笑った。
「せっかくのパーティーなのに、退屈してるの?」
「ううん。退屈じゃないけど……マチルダが、他の人ばっかり見てる気がして。可愛いお嬢さんに夢中で、僕のこと忘れちゃったんじゃないかって」
マチルダは、そっと彼の鼻先を人差し指でつついた。
「そんなわけないでしょう? 拗ねた顔も可愛いけど」
「本当? このお嬢さんより?」
「それはなんとも言えないわ……」
そう言って、マチルダは青年の頬にキスをした。
「!」
──堂々としてるわ……本当に恋人みたい。
ルーチェはあまりじろじろ見ないように、極力興味のない振りをしてグラスに口をつけた。けれど、公衆の面前で仲睦まじく振る舞う二人の姿が、どうしても気になってしまう。
そして、思い浮かべてしまう。エリアスと自分が、同じように寄り添い合うさまを。
──唇を重ねて……この前のような触れるだけものではなくて、大人のキスで。耳元で名前を囁かれて、髪を撫でられて、そしたらあの夜の続きみたいな……。
「……ルーチェ?」
静かな声が、耳のそばで低く響いた。
「ひゃっ!」
驚いて振り返ると、すぐそばにエリアスがいた。
「え、えええエリアス様。いつからそこに?」
「僕は最初からずっと君のそばにいたけれど?」
「そ……そうでした、ね」
「顔、真っ赤だよ?」
エリアスはルーチェの額についた前髪をつまみ上げた。
「っ……なんでも、ないです」
「ルーチェはお酒に弱いから、あまり飲まない方がいいよ」
「だ、大丈夫です、大人ですしっ」
強がりとともに、ルーチェはぐいっとグラスをあおった。
「……もしかして、あのマチルダさんと愛人がこのあとどうするかを考えてた?」
「ち、ちが……っ! 何をそんな破廉恥な!」
とっさに否定したけれど、言葉に詰まってしまった。
「そう? 僕は気になるよ。……うらやましいかぎりだ」
唇が耳に触れそうなほど近くで囁かれて、ルーチェの胸はどきりと跳ねる。
「そっ、そんなこと……私は考えてませんから!」
ルーチェはエリアスから顔を背けて、顔を背けて、逃げるように一歩を踏み出した。
その瞬間だった。
「――きゃっ」
誰かと肩がぶつかり、ルーチェの胸元にばしゃりと何かが跳ねた。
「あっ、ごめんなさい!」
相手の声よりも先に目に入ったのは、ドレスに広がる赤だった。シャンパンのような薄い色ではない、はっきりとした染みが胸元を濡らしてしまったのだった。
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