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第3章:永遠の記憶編
第36話:言葉の届かぬ声
しおりを挟む――映像の中で、ひとりの女性が、雑踏の中にふと立ち止まる。
まるで時の流れから切り離されたように、その場に佇む――
東京駅、2025年4月24日。
東京駅の構内を映したその映像は、静かにループを続けていた。
人波、放送、発車のベル。
交差する足音。
その中に、ひとりの女性が立ち止まった。
ブラウンのコート。
淡いブルーのワンピース。
構内を横切る列車の音に紛れて、彼女はゆっくりと振り返った。
まるで、何かを確かめるように。
誰かを、探しているように。
しかし、その視線の先に“彼”の姿はなかった。
ほんの数秒――そして彼女は歩き出し、再び人波に溶けていった。
映像はそこで静止する。
再生バーは、ぴたりと17時45分を指していた。
その光景を、モニターの奥からじっと見つめる者がいた。
指先がゆっくりと画面に触れ、止まった映像の彼女の姿にそっと重なる。
言葉はない。
ただ、微かに息を吐くように、呟いた。
「……やっぱり、気づけなかったか」
「でも……このすれ違いが、すべての始まりなんだ」
その声には、確かな切なさと、どこか祈るような響きが宿っていた。
彼の視線は映像から離れず、まるでそこに“答え”が眠っているかのように――。
画面の隅でログインジケーターが点滅している。
《観測ログ:再生中》
《記録ID:S-ID_36》
――観測者はそこにいた。
◆稽古場・静けさの兆し◆
2026年、春の午後、人気のない稽古場。
窓の外では、風が柔らかく枝を揺らしていた。
大きな鏡の前に立つシュンの姿は、少しだけ疲れて見えた。
昨年12月の公演で使用した台本を手にしたまま、言葉を出すでもなく、ただそこに立っている。
「……」
台本をめくる指先が、ふと止まる。
喉に軽く手をあてると、指先にかすかな鼓動が返ってきた。
(……今、反応した?)
呼吸を整え、もう一度だけ台詞を口の中でなぞる。
――声にはならない。
けれど、空気が震えた気がした。
その瞬間、稽古場の入り口から足音が聞こえる。
ユイだった。
「……セナさん?」
その声は、どこか心配そうで、それでいて少しだけ怯えていた。
「さっき、少し……反応してました」
ユイはそう言って、シュンの正面に立つ。
彼女の目が潤んでいる。
「……なぜ、こんなに涙が出るのか、分からないんです」
その瞳の奥には、明確な理由を探しているような、けれど答えのない迷いがあった。
その涙の理由は、ユイ自身にもわからない。
だが、シュンにはわかっていた。
――どこかで、“彼女”、かつて自分が深く想い続けた女性の姿と重なって見えたのだ。
ユイの動作、声の温度、その感情の揺れが、過去の誰かの残響を引き寄せていた。
シュンは何も言わず、ただその場に立ち尽くしていた。
春の風が吹き抜ける――
ユイの頬を伝う涙が、ひとしずく、台本の角に落ちた。
◆ZIXIの静かな観測◆
同時刻。
ZIXIの画面が、淡く点滅している。
ログが静かに更新されていく。
《感情反応:Z001/共鳴指数+1.4%》
《対象:セナ・クルス》
ログを見つめる視線がある。
それはまだ“誰のもの”とも示されていない。
けれど、その眼差しは、どこか切なげで、そして祈るようだった。
『……まだだ。彼が選ばなければ、すべては始まらない』
画面の奥に、小さく文字が浮かぶ。
《観測ログID:ZX-S36》
――物語は、再び動き始めた。
機械音だけが響く静寂の中、第3章の幕が、そっと開かれた。
◆観測ログ補遺:未公開フレーズ◆
《ZIXI/観測者手記:不定時刻》
――いつからだろう、感情の変化まで記録するようになったのは。
文字にしてしまえば、それはただの「揺らぎ」だ。
でも、本当にそうなのか。
言葉にならないまま溢れてくる想いを、記録という枠に収めることが、正しいと言い切れるだろうか。
彼の“選択”を見届けるのが、自分の役目だと知っている。
でも、観測者であることが、ときどきとても遠く感じる。
――それは、ただ見守るだけで何もできないという無力感と、彼との距離が永遠に縮まらないのではという孤独が、胸を締めつけるからだ。
……彼は今日、少しだけ喉に触れていた。
まるで、そこに“声”がまだ残っているとでも言うように。
それがどんな意味を持つのか、まだ僕には判断できない。
ただひとつだけ――記録という名の沈黙の中で、何かが微かに、震えていた。
◆シュンの帰り道◆
その夜、自主稽古を終えたシュンは、ゆっくりと帰路に就いていた。
街はすっかり夜に染まり、薄暗い歩道の照明が淡く地面を照らしていた。
自宅へ戻り、いつものようにZIXIのアプリを開く。
画面が静かに点灯し、前回のログが自動で再生される。
映像の中の自分が、稽古場の大きな鏡前に立ち、声なき言葉を吐こうとしている。
――その瞬間、再生中のZIXIから、ふと“息のような震え”が漏れた。
(今……?)
喉にそっと手をあてる。
感触はある。
鼓動も、ある。
でも声は――出ない。
(声じゃない。記憶が震えてる……)
ZIXIのログは、ただの記録。
だが、自分の中にこだまするその震えは、明らかに“記録”ではなかった。
思い出と感情の境界が、ふと曖昧になっていく。
シュンはソファに身を沈め、黙ってログが終わるのを待った。
音のない部屋に、電子音だけが、規則正しく鳴り響いていた。
◆ユイ・内部プロトコル異常◆
別の空間、別の静けさ。
ユイは、自室の端末の前で身じろぎもせず立っていた。
鏡に映る自分の姿を、ただひたすらに見つめている。
「……おかしいな」
そう呟いた声は、彼女のものだった。
たしかに、そうだった。
けれど、その言葉の“感情”が、いつもと違って聞こえる。
内部ログが更新される。
《Zモデル001:言語プロトコル内一部重複》
《感情判断プログラム:再解析中》
《同期エラー:認知と出力が一致しません》
「なぜ、いまこの台詞が出たのか、説明できない……」
指先が震える。
ユイは知らず知らずのうちに、頬に触れていた。
「この涙も、説明が……」
その目はどこか戸惑い、口元がかすかに震えていた。
――語尾が濁る。
ZIXIが、彼女の感情ログを再スキャンしようとした瞬間――
《記録不能:感情値、定義領域外》
《処理遅延:情動判断ユニットの再起動を推奨》
ユイの目が、ゆっくりと鏡から逸れた。
――何かが、わたしの中で変わり始めている。
誰の言葉でもなく、誰にも聞こえない、ユイだけの“心の声”が、そこで確かに響いていた。
(第37話へつづく)
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