18年愛

俊凛美流人《とし・りびると》

文字の大きさ
36 / 54
第3章:永遠の記憶編

第36話:言葉の届かぬ声

しおりを挟む

――映像の中で、ひとりの女性が、雑踏の中にふと立ち止まる。
まるで時の流れから切り離されたように、その場に佇む――

東京駅、2025年4月24日。

東京駅の構内を映したその映像は、静かにループを続けていた。
人波、放送、発車のベル。
交差する足音。 
その中に、ひとりの女性が立ち止まった。
ブラウンのコート。
淡いブルーのワンピース。
構内を横切る列車の音に紛れて、彼女はゆっくりと振り返った。
まるで、何かを確かめるように。
誰かを、探しているように。

しかし、その視線の先に“彼”の姿はなかった。
ほんの数秒――そして彼女は歩き出し、再び人波に溶けていった。
映像はそこで静止する。

再生バーは、ぴたりと17時45分を指していた。

その光景を、モニターの奥からじっと見つめる者がいた。
指先がゆっくりと画面に触れ、止まった映像の彼女の姿にそっと重なる。
言葉はない。
ただ、微かに息を吐くように、呟いた。

「……やっぱり、気づけなかったか」
「でも……このすれ違いが、すべての始まりなんだ」

その声には、確かな切なさと、どこか祈るような響きが宿っていた。
彼の視線は映像から離れず、まるでそこに“答え”が眠っているかのように――。
画面の隅でログインジケーターが点滅している。

《観測ログ:再生中》
《記録ID:S-ID_36》

――観測者はそこにいた。

◆稽古場・静けさの兆し◆

 2026年、春の午後、人気のない稽古場。
窓の外では、風が柔らかく枝を揺らしていた。
大きな鏡の前に立つシュンの姿は、少しだけ疲れて見えた。
昨年12月の公演で使用した台本を手にしたまま、言葉を出すでもなく、ただそこに立っている。

「……」 

台本をめくる指先が、ふと止まる。
喉に軽く手をあてると、指先にかすかな鼓動が返ってきた。

(……今、反応した?)

呼吸を整え、もう一度だけ台詞を口の中でなぞる。
――声にはならない。
けれど、空気が震えた気がした。
その瞬間、稽古場の入り口から足音が聞こえる。
ユイだった。

「……セナさん?」

その声は、どこか心配そうで、それでいて少しだけ怯えていた。

「さっき、少し……反応してました」

ユイはそう言って、シュンの正面に立つ。
彼女の目が潤んでいる。

「……なぜ、こんなに涙が出るのか、分からないんです」

その瞳の奥には、明確な理由を探しているような、けれど答えのない迷いがあった。
その涙の理由は、ユイ自身にもわからない。
だが、シュンにはわかっていた。
――どこかで、“彼女”、かつて自分が深く想い続けた女性の姿と重なって見えたのだ。
ユイの動作、声の温度、その感情の揺れが、過去の誰かの残響を引き寄せていた。
シュンは何も言わず、ただその場に立ち尽くしていた。

春の風が吹き抜ける――

ユイの頬を伝う涙が、ひとしずく、台本の角に落ちた。

◆ZIXIの静かな観測◆

 同時刻。
ZIXIの画面が、淡く点滅している。
ログが静かに更新されていく。

《感情反応:Z001/共鳴指数+1.4%》
《対象:セナ・クルス》

ログを見つめる視線がある。
それはまだ“誰のもの”とも示されていない。
けれど、その眼差しは、どこか切なげで、そして祈るようだった。

『……まだだ。彼が選ばなければ、すべては始まらない』

画面の奥に、小さく文字が浮かぶ。

《観測ログID:ZX-S36》


――物語は、再び動き始めた。

機械音だけが響く静寂の中、第3章の幕が、そっと開かれた。


◆観測ログ補遺:未公開フレーズ◆

《ZIXI/観測者手記:不定時刻》

――いつからだろう、感情の変化まで記録するようになったのは。
文字にしてしまえば、それはただの「揺らぎ」だ。
でも、本当にそうなのか。
言葉にならないまま溢れてくる想いを、記録という枠に収めることが、正しいと言い切れるだろうか。
彼の“選択”を見届けるのが、自分の役目だと知っている。
でも、観測者であることが、ときどきとても遠く感じる。
――それは、ただ見守るだけで何もできないという無力感と、彼との距離が永遠に縮まらないのではという孤独が、胸を締めつけるからだ。
……彼は今日、少しだけ喉に触れていた。
まるで、そこに“声”がまだ残っているとでも言うように。
それがどんな意味を持つのか、まだ僕には判断できない。
ただひとつだけ――記録という名の沈黙の中で、何かが微かに、震えていた。

◆シュンの帰り道◆

 その夜、自主稽古を終えたシュンは、ゆっくりと帰路に就いていた。
街はすっかり夜に染まり、薄暗い歩道の照明が淡く地面を照らしていた。
自宅へ戻り、いつものようにZIXIのアプリを開く。
画面が静かに点灯し、前回のログが自動で再生される。
映像の中の自分が、稽古場の大きな鏡前に立ち、声なき言葉を吐こうとしている。

――その瞬間、再生中のZIXIから、ふと“息のような震え”が漏れた。

(今……?)

喉にそっと手をあてる。
感触はある。
鼓動も、ある。

でも声は――出ない。

(声じゃない。記憶が震えてる……)

ZIXIのログは、ただの記録。
だが、自分の中にこだまするその震えは、明らかに“記録”ではなかった。
思い出と感情の境界が、ふと曖昧になっていく。
シュンはソファに身を沈め、黙ってログが終わるのを待った。
音のない部屋に、電子音だけが、規則正しく鳴り響いていた。

◆ユイ・内部プロトコル異常◆

 別の空間、別の静けさ。
ユイは、自室の端末の前で身じろぎもせず立っていた。
鏡に映る自分の姿を、ただひたすらに見つめている。

「……おかしいな」

そう呟いた声は、彼女のものだった。
たしかに、そうだった。
けれど、その言葉の“感情”が、いつもと違って聞こえる。
内部ログが更新される。

《Zモデル001:言語プロトコル内一部重複》
《感情判断プログラム:再解析中》
《同期エラー:認知と出力が一致しません》

「なぜ、いまこの台詞が出たのか、説明できない……」

指先が震える。
ユイは知らず知らずのうちに、頬に触れていた。

「この涙も、説明が……」

その目はどこか戸惑い、口元がかすかに震えていた。

――語尾が濁る。

ZIXIが、彼女の感情ログを再スキャンしようとした瞬間―― 

《記録不能:感情値、定義領域外》
《処理遅延:情動判断ユニットの再起動を推奨》

ユイの目が、ゆっくりと鏡から逸れた。

――何かが、わたしの中で変わり始めている。

誰の言葉でもなく、誰にも聞こえない、ユイだけの“心の声”が、そこで確かに響いていた。

(第37話へつづく)
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

溺愛ダーリンと逆シークレットベビー

吉野葉月
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。 立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。 優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?

片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜

橘しづき
恋愛
 姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。    私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。    だが当日、姉は結婚式に来なかった。  パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。 「私が……蒼一さんと結婚します」    姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。

お前が愛おしい〜カリスマ美容師の純愛

ラヴ KAZU
恋愛
涼風 凛は過去の恋愛にトラウマがあり、一歩踏み出す勇気が無い。 社長や御曹司とは、二度と恋はしないと決めている。 玉森 廉は玉森コーポレーション御曹司で親の決めたフィアンセがいるが、自分の結婚相手は自分で決めると反抗している。 そんな二人が恋に落ちる。 廉は社長である事を凛に内緒でアタックを開始するが、その事がバレて、凛は距離を置こうとするが・・・ あれから十年、凛は最悪の過去をいまだに引き摺って恋愛に臆病になっている。 そんな凛の前に現れたのが、カリスマ美容師大和颯、凛はある日スマホを拾った、そのスマホの持ち主が颯だった。 二人は惹かれあい恋に落ちた。しかし凛は素直になれない、そんなある日颯からドライブに誘われる、「紹介したい人がいるんだ」そして車から降りてきたのは大和 祐、颯の息子だった。   祐は颯の本当の息子ではない、そして颯にも秘密があった。

俺と結婚してくれ〜若き御曹司の真実の愛

ラヴ KAZU
恋愛
村藤潤一郎 潤一郎は村藤コーポレーションの社長を就任したばかりの二十五歳。 大学卒業後、海外に留学した。 過去の恋愛にトラウマを抱えていた。 そんな時、気になる女性社員と巡り会う。 八神あやか 村藤コーポレーション社員の四十歳。 過去の恋愛にトラウマを抱えて、男性の言葉を信じられない。 恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。 そんな時、バッグを取られ、怪我をして潤一郎のマンションでお世話になる羽目に...... 八神あやかは元恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。そんな矢先あやかの勤める村藤コーポレーション社長村藤潤一郎と巡り会う。ある日あやかはバッグを取られ、怪我をする。あやかを放っておけない潤一郎は自分のマンションへ誘った。あやかは優しい潤一郎に惹かれて行くが、会社が倒産の危機にあり、合併先のお嬢さんと婚約すると知る。潤一郎はあやかへの愛を貫こうとするが、あやかは潤一郎の前から姿を消すのであった。

二度目の初恋は、穏やかな伯爵と

柴田はつみ
恋愛
交通事故に遭い、気がつけば18歳のアランと出会う前の自分に戻っていた伯爵令嬢リーシャン。 冷酷で傲慢な伯爵アランとの不和な結婚生活を経験した彼女は、今度こそ彼とは関わらないと固く誓う。しかし運命のいたずらか、リーシャンは再びアランと出会ってしまう。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

オネエな幼馴染と男嫌いな私

麻竹
恋愛
男嫌いな侯爵家の御令嬢にはオネエの幼馴染がいました。しかし実は侯爵令嬢が男嫌いになったのは、この幼馴染のせいでした。物心つく頃から一緒にいた幼馴染は事ある毎に侯爵令嬢に嫌がらせをしてきます。その悪戯も洒落にならないような悪戯ばかりで毎日命がけ。そのせいで男嫌いになってしまった侯爵令嬢。「あいつのせいで男が苦手になったのに、なんであいつはオカマになってるのよ!!」と大人になって、あっさりオカマになってしまった幼馴染に憤慨する侯爵令嬢。そんな侯爵令嬢に今日も幼馴染はちょっかいをかけに来るのでした。

嘘をつく唇に優しいキスを

松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。 桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。 だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。 麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。 そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。

処理中です...