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第2章
38.1歩進んで2歩下がる
しおりを挟む気がつくとレティシアは外にいた。
「ここは、公爵家の庭園だわ」
柔らかな風が吹き、サワサワと草木が揺れている。けれどレティシアにはその風を感じることは出来ない。
どころか、ふわふわと体が浮いていた。
魔法でも空を飛べないのにどうして、と考えてようやく察した。
「ああ、夢……か」
現実感のない状態に、出せる結論は一つだ。
夢とは言えただボーッとしているのも何なので、レティシアはふわふわ浮いたまま庭園を散策する。
少し移動すると、2人の人影が目に入った。
ぼんやりした輪郭だったが、目を凝らすとそれはバンジャマンとジュスタンだった。
「夢にまで出てくるなんて最悪だわ。これは悪夢ね。この2人が出てくると大体悪夢に変わるんだもの」
そのレティシアの考えは、すぐに当たることになる。
そこには幼い頃のレティシアもいた。
「お父様、あの……」
幼いレティシアは、バンジャマンの気を引こうと声をかける。
しかしそんなレティシアを完全に無視して、バンジャマンはジュスタンに話しかける。
「ジュスタン、本当にお前は我が家の誇りだ」
「ありがとうございます」
バンジャマンとジュスタンの表情はモヤがかかっていて分からないが、幼いレティシアの表情はくっきり見えていて、悲しそうに歪んでいる。
「ああ、私の子供はお前だけだ」
「お父様……」
その言葉に、幼いレティシアの瞳が潤む。
声を上げたレティシアに、バンジャマンがレティシアを見る。
それまでかかっていたモヤが晴れ、その醜悪に歪んだ表情が露わになった。
「お前に父なぞと呼ばれたくないわ。ここから立ち去れ」
「え……」
「ははっ! そうだ。お前はいらないんだ。ほら、どっか行けよ」
バンジャマンそっくりの顔で嗤うジュスタンに、ついにレティシアの瞳から涙が溢れる。
震える声で、ジュスタンに聞く。
「お兄様……私、何かしてしまったのでしょうか?」
「何か? そりゃあ、生きていることじゃあないか? 母上を殺して生まれてきたんだから!」
「わ、私……」
「行こうジュスタン。疫病神がいては、お前にも影響が出るかもしれない」
「分かりました」
そのまま2人はレティシアを置いていってしまう。
泣いている幼いレティシアを、レティシアはジッと見ていた。
「……何の罪も無い子供に良くもまあ、あんな言葉が吐けますこと」
それに対して、悲しみも怒りもない。
夢だから、というのもあるかもしれないが、これが彼らの本質だろうと思ったのだ。
今の状態は、きっと長く続かない。
拒絶し続ければ、自分達が可愛い彼らの事だ。レティシアのせいにして元のクズに戻るだろう。
プライドが傷つけられたと、騒ぎ立てる事だろう。
16年もその状態だったのだ。今更改心できるとも思えない。
「……面倒ね。アイツらの改心ごっこに付き合うなんてごめんだわ」
そうして目を閉じた。
◇◇◇
「――ま。おじょ――」
「ん……」
「お嬢様、大丈夫ですか?」
瞼を持ち上げると、視界がボヤけている。目の前に誰かいるのはわかるが、判別がつかない。
緩慢な動作で瞬きをすると、目尻に何か伝う感覚とともに、視界がクリアになる。
心配そうな表情で覗き込んでいたのは、ルネだった。
「るね……」
「大丈夫ですか? 魘されていたので、思わず起こしてしまったのですが」
「ゆめ……そう、夢を見ていたわ……」
「あんなことがあれば、きっと辛い夢だったのでしょう。リラックスできるお茶をご用意しました。飲みますか?」
「ええ……いただくわ」
ゆっくりと、重い身体を起こす。
顔が濡れていて煩わしいので、服の袖で乱暴に拭おうとしたが、ルネにそっと止められた。
「お嬢様、こちらのタオルをお使いください。目が腫れてしまいますよ」
そう言いながら、優しい手つきでレティシアの顔を拭ってくれる。
水で濡れていて、とても気持ちがいい。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ルネの雰囲気は、まるで母のように優しく温かい。
強張っていた身体の力が抜けた。
椅子に移動して、ルネの入れてくれたお茶を飲む。
身体が冷えていたのか、温かさがじんわりと全身を駆け巡り、自然と大きく息を吐く。
「わたくし、どのくらい寝ていたのかしら?」
「1時間もないと思いますよ」
「そう」
2人の間に沈黙が降りる。
レティシアは、無理に話させようとしないルネの優しさを感じた。本当に、自分勝手に振る舞うバンジャマン達とは大違いだ。
今は何を言えばいいか分からない。ただ、この静かな空間にいるだけで、傷ついた心が癒されていくような気がした。
「……お嬢様、ジョゼフさんが気にしています。……呼んできても大丈夫ですか?」
「ええ。ジョゼフから後で来ることは言われたわ。それに信頼しているから大丈夫よ」
「分かりました。待っててください」
ルネは扉に向かう。
扉を開けると、ジョゼフが立っていてさすがに驚いたようだ。
「ジョゼフさん。丁度呼びに行こうと思っていたんです。……なぜ扉の前に?」
「いえ、お嬢様の心労を考えてタイミングを考えていました」
「遠慮しないで、ジョゼフ。こちらへ」
2人のやり取りを見ていたレティシアは、ジョゼフに入室するよう促す。
ジョゼフは意を決したように、レティシアの前に来ると深々と頭を下げた。
「お嬢様、申し訳ございません。要らぬ心労をかけてしまいました」
「ジョゼフのせいではないでしょう? その様子だと、相談も受けていなかった。違う?」
「そうですが、もう少し旦那様の様子を注視しておくべきでした」
ジョゼフはまだバンジャマンの側近だ。確かに、バンジャマンの暴走を止められるのは、彼しかないだろう。実際、バンジャマン達を止めようとしていたのは分かった。
ただし引き継ぎ作業を進めていれば、その分バンジャマン達への優先度は低くなる。
どうしても抜けはできてしまうものだ。
「それにしても、お嬢様のことならジョゼフさんや私が適任なのに、どうして何も相談がないのでしょうね」
「推測ですが、自分達が何とかしないとと思っている、あとは今までのお嬢様の言動から使用人にも味方はいないだろうと思っているのでしょうね」
ルネの疑問に、ジョゼフが答える。
それは大変視野が狭いことで。とレティシアは思う。あんなに近くで諌めていたジョゼフのことすら、理解出来ていないのだ。
2人がいなければ、レティシアはとっくに死んでいる。それくらい、周りにお世話する人がいなかったのだ。そのことすら、把握していないのだろう。
「確かにお嬢様は私達のことを話しておられません」
「余計な火の粉が降りかからないようにするためよ。あの人達、見当違いから2人をとんでもない目に合わせるかもしれないじゃない」
「けれどそれでお嬢様がこんなにも辛そうにされては、本末転倒だと思います」
ルネの言葉に、レティシアは苦笑する。
確かにここまでバンジャマン達が行動を変えると思っていなかったので、想定外ではある。
「私もそう思います。なのでこれからは余計なことをしないように、釘は刺しておきました」
「あら、事後報告なのね」
「あの身勝手にはさすがに呆れましたので。お嬢様の気持ちを考えておらず、ご自分の都合で振り回しています。しかもそれを悪いと思っていないのが、余計にタチ悪いです」
ジョゼフの怒りを含んだ言葉に、レティシアは微かに微笑む。
本当に味方がいると、こんなにも心強い。きっとルネとジョゼフがいなかったら、使用人達はこっそりやって来てアレコレ言ってきただろう。
レティシアに負担を強いる形で。
「ありがとう。……これでも何かしてくるなら、考えないといけないわね」
「その時は全て捨ててしまいましょう。というよりセシルさんが知ったら、問答無用で攫われそうです」
「ふふっ。そうね」
ルネの言葉に、セシルの様子が目に浮かび、レティシアは思わず笑う。
「とりあえず暫くは大人しいでしょう。それにお嬢様も学園が始まるので、時間的にも難しくなるかと思います」
「そうね。学園でも関わりたくない人たちはいるけれど、ここに比べたらマシだわ」
主にオデットだけれど。別のベクトルでコレットやジルベールとも関わりたく無い。離れたところで、見守るくらいの距離感がいい。
出来ればクラスは全員と別れたいなあと思うレティシアだった。
◇◇◇
そして学園が始まる日。
レティシアは連日のストレスで、再び化粧に時間がかかるようになった。
むしろこれは今までで一番時間がかかっていると思われる。くっきりと浮かんだ隈に、自嘲の笑みが浮かんだ。
食事も喉を通らず、頬がこけた気がする。肌も唇もカサついていて、もうすぐ17歳とは思えない。
まさに一歩進んで2歩下がる状態だ。
「はあ。唇もカサついているし、頬もこけているわ。だってここ数日、本当に食欲がなくて食べられなかったもの。色々工夫してくれたルネには、申し訳ないわ」
流石に不健康である。それでもルネの献身的な看護のおかげで、なんとか人前に出られるくらいにはなった。あとはオーラで人を寄せ付けなければ、何とかなるだろう。
数日はせめて平和に過ごしたい。家と学園で両方ストレスばかりだったら、本当に倒れてしまう。
時間が迫っていたので、急いでレティシアは学園に向かう。
馬車で揺られるだけでも、体力を消耗してしまい、さらには酔ってきてしまう。
(ああ、これは今日、無事学園に最後までいられるかしら。いえ、その時は保健室に避難しましょう。屋敷に帰るなんて、余計に体調が悪化しますわ)
そう考えながら吐き気と戦っていると、学園に到着する。
ふらつきそうになるのを堪えながら、馬車から降りる。
今日は始業式が主で、授業はない。体調のことを考えると、好都合だ。
ちなみに入学式もあるが、代表としてジルベールが参加するだけで、レティシアには特に役目はない。
なのでまず目的地は、クラス分けが示されている掲示板だ。
(どうか、全員とクラスが離れていますように……)
そう願ったレティシアだが、現実は残酷だった。
そう、クラスはコレット含め、全員が同じクラスだったのである。
(ああ、イーリス様はわたくしに微笑んでくださらない。……いえ、待って。そうだわ。イーリスの祝福では、3年次は全員同じクラスだったわ。ああ、これは強制力とでもいうの? くっ。公爵達が余計なことしなければ喜べたのに、アイツらのせいで最悪だわ)
せめて今日だけは、平和であることを願うレティシアだった。
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