サインポールの下で、彼女は髪を切った

S.H.L

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サインポールの下で、彼女は髪を切った

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梅雨明け間近の、湿気を孕んだ重たい空気が街を覆っていた。アスファルトの隙間からは、粘りつくような夏の匂いが立ち上っている。サヤカは、長年連れ添った自分の髪の重さを、肩から背中にかけて改めて感じていた。腰のあたりまで伸びた黒髪は、彼女の象徴であり、同時に足枷でもあった。

美容院ではなく、床屋に来たのは初めてだった。それも、女性専用の店や、洗練された雰囲気のユニセックスなヘアサロンではない。駅前のロータリーから少し入った、古い商店街の一角にある「タケシ理容室」。

昔ながらのサインポールがくるくると回り、磨りガラスの引き戸には、色褪せた「男たちの社交場」のような文字が見える。場違いな自分が、この扉を開けても良いのだろうか。一瞬、躊躇が生まれたが、次の瞬間には、それを打ち消すかのように、強い衝動が背中を押した。

数日前、サヤカは長い関係に終止符を打ったばかりだった。三年。共に過ごした時間は、彼女の人生にとって決して短くはない。楽しかった思い出も、苦しかった記憶も、全てがこの髪の毛に絡みついているような気がしていた。新しい自分になりたい。過去と決別したい。その思いが、彼女をこの床屋へと向かわせた。美容院の柔らかな雰囲気では、恐らく「少し毛先を整える程度にしましょう」とか、「イメージを変えるなら、パーマやカラーはいかがですか?」といった提案で、結局大きな変化には至らないだろうと感じていた。求めているのは、そんな生半可な変化ではない。もっと、根本的な、物理的な変化。

引き戸に手をかけ、ガラス越しに中を伺う。古めかしい店内の様子がぼんやりと見えた。革張りの椅子が二脚、白いクロスが掛けられている。奥にはシャンプー台のようなものも見える。客はいないようだ。意を決して、引き戸を開けた。

「いらっしゃいませ」
奥から出てきたのは、年配の男性だった。白髪交じりの短髪に、少し猫背気味の背中。昔ながらの職人といった雰囲気だ。彼こそが、この店の主であり、タケシさんだろう。

「あの、すみません。ここで、女性でも、髪を切ってもらえますか?」
声が少し震えた。床屋という空間に、明らかに場違いな自分がいることへの戸惑いと、これから起こることへの緊張が混ざり合った声だった。
タケシさんは、一瞬怪訝な表情を見せたが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。

「ええ、構いませんよ。どうぞ、こちらへ」
促されるまま、入口近くの椅子に腰掛けた。座面の少し擦り切れた感触が、この椅子の歴史を物語っているようだ。タケシさんは、サヤカの長い髪を一瞥した。その視線に、何かを読み取るような、しかし無遠慮ではない、静かな観察を感じた。

「どうしましょう?何か希望はありますか?」
タケシさんの声は、落ち着いていて、心地よかった。

「あの、その…すごく、短くしたいんです」

「すごく、ですか」

タケシさんは、もう一度サヤカの髪を見た。腰まで届く、豊かな黒髪。それを「すごく短く」するという言葉の重みを、彼は理解したようだった。

「どのくらいに?例えば、肩くらいとか、耳が出るくらいとか…」

サヤカは、言葉に詰まった。どのくらい短くしたいのか。自分でも、具体的なイメージがあるわけではなかった。ただ、「今とは全く違う自分になりたい」という漠然とした、しかし強い思いだけがあった。

「あの、一番短く…できるだけ、短くしてもらえませんか?男の人みたいに、短く…」

最後の言葉は、ほとんど呟きに近かった。男の人みたいに、という言葉は、単に髪の長さを指しているわけではない。それは、強さ、しがらみからの解放、あるいは、何かの鎧を脱ぎ捨てること、そんな漠然としたイメージを込めた言葉だった。

タケシさんは、少しの間、黙ってサヤカの顔を見ていた。その瞳の奥に、好奇心や驚きといった感情はなく、ただ静かな理解のようなものが宿っているように感じられた。

「一番短く、ですか…坊主にする、ということですか?」

タケシさんは、ストレートに尋ねた。坊主。その言葉を、自分の口から出すのは躊躇われたが、他人の口から出されると、妙に現実味を帯びた。

「…はい。できれば、そうしたいです」

サヤカは、俯き加減に答えた。顔が熱くなるのを感じる。こんな要望を、こんな場所で伝えるのは、やはり少し恥ずかしかった。

タケシさんは、ふっと笑った。それは、嘲笑ではなく、むしろ、理解と、そして少しの面白がり、あるいは共感のようなものが混ざった笑みだった。

「なるほどね。いいでしょう。お姉さんの、覚悟、見せてもらいましょうか」

彼はそう言うと、準備に取り掛かった。椅子を少し倒し、首に白いペーパータオルを巻き付け、その上から大きなクロスをかけた。クロスが肩から膝までを覆い、サヤカの体は白い布に包まれた。鏡に映る自分の姿は、まるでこれから手術を受ける患者のようにも見えた。

タケシさんは、シャンプー台の方へ行き、何か準備をしている音が聞こえる。その間に、サヤカは鏡の中の自分と向き合った。長い髪が、クロスの上で豊かな塊となって乗っている。この髪が、もうすぐなくなるのだ。数えきれないほどの時間と共に過ごしてきた、分身のような髪が。喜び、悲しみ、怒り、全ての感情を吸収してきたかのような黒髪が。

後悔はなかった。いや、ほんの少し、不安がないと言えば嘘になる。この髪型にしたら、周りの人はどう思うだろう。もう、誰かに「綺麗だね」と言われることはなくなるかもしれない。女性らしさ、というものから遠ざかることになるのかもしれない。しかし、それと引き換えに、得られるものがあるはずだ。それは、まだ見ぬ、新しい自分。

タケシさんが戻ってきた。手には、霧吹きと、大きなハサミを持っている。

「まずは、洗ってから切りますね」

椅子をさらに倒され、シャンプー台へと移動した。温かいお湯が髪にかかる。タケシさんの指が、優しく頭皮をマッサージするように動く。その動きは、慣れていて、心地よかった。泡立てられたシャンプーの、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。まるで、これまでの自分を洗い流すような感覚だった。

シャンプーが終わり、タオルドライされた髪は、濡れてさらに重みを増したように感じられた。再びカット用の椅子に戻り、鏡の前に座る。濡れた黒髪が、肩にべっとりと張り付いている。その濡れた髪を見ていると、これから起こる変化が、より現実味を帯びてきた。
タケシさんは、サヤカの横に立った。手にしたハサミが、照明に鈍く光る。心臓の鼓動が、少し速くなった。

「では、始めていきましょうか」

彼の声に、サヤカは小さく頷いた。

最初のハサミは、躊躇なく、しかし丁寧に、後頭部の下の方に入った。ザクッ、という、乾いた、しかし重みのある音が響いた。その音と共に、一房の髪が、鏡越しに見える白いクロスの上に落ちた。思っていたよりも、大きな束だった。サヤカは、思わず息を呑んだ。

タケシさんは、黙々とハサミを動かしていく。彼の指は、まるで生き物のように、髪の毛を梳き、掴み、ハサミを入れていく。ザクッ、ザクッ、という音が、店内に響き渡る。落ちていく髪の毛の束が、クロスの上にどんどん増えていく。

まるで、自分の体の一部が切り離されていくような感覚だった。過去の自分が、物理的に取り除かれていく。一本一本の髪の毛に、色々な思い出が宿っていたような気がする。楽しかったデートの記憶、喧嘩して泣いた夜の記憶、試験勉強に追われた日々、友達と笑い合った放課後…。それらが、無機質なハサミの音と共に、ばっさりと切り落とされていく。

鏡に映る自分の姿が、見る見るうちに変化していく。肩まであった髪が、顎のライン、耳のあたりへと短くなっていく。首筋が露わになり、これまで隠されていた肌が見えてくる。なんだか、無防備になったような、恥ずかしいような感覚だった。同時に、肩のあたりが信じられないほど軽くなっていくのを感じる。

タケシさんは、サヤカの耳の後ろに手を回し、髪の毛を梳かした。そこにもハサミが入る。ジョキッという音。これまで、美容師に耳の後ろを触られるたびに、何となくくすぐったいような、ゾワゾワするような感覚があったが、今はそれどころではなかった。ただ、自分の髪が、躊躇なく切られていく様子を、鏡を通して見つめていた。

床には、サヤカの黒髪が、波のように広がっていく。まるで、命を失った海の生物の群れのようだ。一本一本は細く儚いのに、集まると、これほどの量になるのかと、驚いた。この髪一本一本に、自分の生きてきた時間が刻まれているのだと思うと、少し切ない気持ちになった。

「だいぶ軽くなったでしょう」

タケシさんが、静かに言った。

「はい。すごく…」

声が震えた。軽くなった、という言葉は、物理的な重さだけでなく、心の重さにもかかっているように感じられた。

カットはさらに進む。ハサミの音は変わらず続く。ザクッ、ジョキッ、ザクッ。まるで、何かのリズムを刻んでいるかのようだ。タケシさんの手つきは、迷いがなく、一定のペースで進んでいく。それは、長年の経験に裏打ちされた、確かな技術を感じさせた。

鏡の中の自分のシルエットは、もはや「女性らしい」という言葉からは程遠いものになっていた。首がすっきりと見え、耳が完全に露わになった。頭の形が、これまで髪に隠されていた部分が、はっきりと分かるようになる。少し歪んでいるかもしれない、後頭部の形も、襟足の生え際も。それらが全て、ありのままに晒されることへの、少しの抵抗と、しかしそれ以上の、解放感があった。

タケシさんは、静かにハサミを置いた。鏡の横、少し埃を被った棚から、使い込まれた電動バリカンを取り出す。シルバーのボディは鈍く光り、スイッチの部分は長年の使用で少し黒ずんでいる。それは、ハサミとは全く異なる、冷たく、機械的な存在感を放っていた。サヤカは、そのバリカンの無機質な姿に、思わず体が硬くなった。

タケシさんが電源を入れる。ブーン、という低い振動音が、サヤカの鼓膜を直接叩いた。それは、これから起こることに抗うことのできない、決定的な始まりの音のように響いた。

「襟足と、耳の周りは、バリカンで綺麗に剃り上げていきますね。一番短い設定でいきます」

タケシさんの声は、これまでと変わらず静かだった。しかし、「一番短い設定」という言葉が、サヤカの心臓をキュッと締め付けた。それは、文字通り「剃る」に等しいことを意味している。数ミリ、あるいはそれ以下。地肌がそのまま露わになる。

「はい…お願いします」

サヤカは、掠れた声で答えた。逃げ出したい気持ちと、もう後戻りはできないという覚悟が、せめぎ合っていた。

タケシさんの手が、サヤカの首筋に触れる。バリカンの、金属の冷たい刃が、うなじの柔らかい皮膚にそっと当てられた。ゾワッ、とした感覚が走る。髪の毛が触れただけでくすぐったく感じる敏感な場所に、無機質な機械が触れる。
ブーン、という低い振動音に、ザリザリザリ…という、細かな、しかし確実な毛が刈り取られる音が重なる。それは、ハサミで切る時の「ザクッ」という音とは全く違う、連続した、機械的な音だった。

鏡に映る自分の襟足が、みるみるうちに変化していく。これまで、産毛が柔らかくぼやけていた生え際が、バリカンが通った後には、驚くほどくっきりとした直線的なラインになって現れる。まるで、そこに黒いマジックで線を引いたかのようだ。地肌の色が露わになり、これまで髪に隠されていた白い首筋の皮膚が見える。それは、あまりにも無防備で、見慣れない自分の姿だった。

バリカンは、首筋のラインに沿って、丁寧に、しかし容赦なく進んでいく。下から上へ、左から右へ。タケシさんの手つきは、慣れていて、一切の迷いがない。彼の指が、サヤカの皮膚を軽く張りながら、バリカンの刃を滑らせていく。その感触は、少しヒリヒリするような、微細な刺激を伴っていた。

刈り取られた髪の毛は、もう長い束ではない。数ミリの長さになった細かな毛が、パラパラと音もなく、クロスの上に落ちていく。それは、まるで黒い雪のようだ。集積された長い髪の山の横に、新しく、細かな黒い粉が降り積もっていく。過去の上に、新しい破片が積み重なっていくような、不思議な光景だった。

襟足の作業が終わり、次は耳の周りだ。タケシさんは、サヤカの左耳を、指で優しく押さえた。その指の温かさに、少しだけ安心感を覚えた。

再び、ブーンというバリカンの音。刃が耳のすぐ横に当てられる。ザリザリザリ…という音が、耳元で直接響く。鼓膜を震わせるようなその音に、思わず肩が竦んだ。耳の後ろや、耳たぶの付け根など、これまで髪に隠されて完全に露出したことのない部分に、バリカンの刃が触れる。

耳の形が、はっきりと露わになる。耳たぶの丸み、軟骨の凹凸。これまで髪に覆われていた部分が、ありのままに晒される。なんだか、世界中の音が、これまでよりもダイレクトに耳に飛び込んでくるような気がした。

刈り取られた細かな毛が、耳の中に入りそうで、少し不快感があった。タケシさんは、それを察したのか、時折小さなブラシで払ってくれた。その、細やかな気遣いが、少しだけ救いになった。

右耳の周りも、同様に刈り上げられていく。ブーン、ザリザリザリ…。左右対称に、自分の頭の形が削り出されていくような感覚だった。鏡に映る自分の顔は、もはや女性的な柔らかなラインではなく、頭の形が強く主張する、骨ばった印象へと変わりつつあった。

襟足と耳周りの刈り上げが終わると、タケシさんは少し間を置いた。バリカンの音が止み、再び静寂が訪れる。その静寂が、これまでのバリカンの音を際立たせ、サヤカの変化を改めて突きつけた。鏡の中の自分は、首から上が、まるで男性のそれのように見える。

「次は、サイドと、頭頂部ですね」

タケシさんが言った。いよいよ、頭頂部まで刈り上げる。サヤカは、覚悟を決めて頷いた。
タケシさんは、バリカンの刃先を少し調整したように見えたが、設定を変えたのかどうかは分からなかった。再び、ブーン、とバリカンの音が鳴り響く。

今度は、バリカンの刃が、側頭部、つまり耳の上あたりに当てられる。これまでハサミで短くはなっていたものの、まだ数センチの長さが残っていた部分だ。刃が髪に食い込む。ザリザリザリ…という音は、襟足の時よりも、少しだけ重く、抵抗があるように聞こえた。

バリカンの刃が、頭のカーブに沿って、ゆっくりと、しかし着実に上に上がっていく。髪の毛が、束になるのではなく、短く切断されていく。刈り取られた髪の毛は、もう空中を舞うのではなく、バリカンの周りに張り付くか、そのままクロスの上に落ちていく。

鏡に映る自分のシルエットが、劇的に変化する。これまで、髪のボリュームがあった側頭部が、バリカンによって一気に削り取られる。頭の形が、そのまま露わになる。丸みを帯びた頭蓋骨の形。少し歪んでいるかもしれない、自分の頭の形。それは、これまで長い髪というベールに隠されて、誰にも見られたことのなかった、自分自身の剥き出しの姿だった。

バリカンが通った部分は、地肌がはっきりと見える。短い毛が、まるで黒いビロードのように頭皮を覆っている。その肌の色の違い、髪の毛の密度、頭皮の凹凸。全てが、ありのままに晒される。

右側、そして左側。タケシさんは、左右均等に、バリカンの刃を進めていく。ブーン、ザリザリザリ…。機械的な音は、まるでサヤカの思考を停止させるかのように、ただただ響き続ける。考えることはできない。ただ、自分の体が、髪の毛という一部を失っていく過程を、感覚を通して受け入れるだけだ。

そして、いよいよ、頭頂部へ。タケシさんは、一度バリカンを止め、サヤカの頭に触れた。残った数センチの髪の毛を、指先で確かめるように梳く。

「ここも、全部、いいんですね?」

彼の声に、迷いはなかった。ただ、サヤカの最後の意志を確認するだけだ。

「…はい。お願いします」

サヤカは、小さく頷いた。もう、何の躊躇もない。全てを、過去を、完全に刈り取ってしまいたい。中途半端に残った髪は、過去とのつながりを残してしまう気がした。

再び、ブーン、とバリカンの音が鳴り響く。今度は、バリカンの刃が、サヤカの頭頂部に当てられる。これまでで、最も長い髪が残っていた部分だ。刃が触れる。ザリザリザリザリ!連続した、そして少し抵抗を感じさせるような、けたたましい音が響いた。

髪の毛が、一気に、そして大量に刈り取られていく。それは、まるで雪崩のように、クロスの上に崩れ落ちていった。鏡に映る自分の頭は、見る見るうちにその高さを失い、平坦になっていく。頭頂部の、わずかに残っていた髪が、あっという間に数ミリの長さに刈り込まれる。

バリカンの刃が、頭皮を滑る。頭蓋骨の丸みが、そのままダイレクトに感じられる。頭のてっぺん、後頭部、側頭部。全ての部分が、数ミリの短い毛で覆われる。肌が透けて見え、頭の形がはっきりと分かる。

それは、これまで長い髪に隠されて、自分自身ですら意識していなかった、生身の、ありのままの自分だった。社会的な「女性らしさ」という髪の毛の鎧を脱ぎ捨て、剥き出しになった頭蓋骨。

刈り取られた細かな髪の毛が、顔や首筋にパラパラと降り注ぐ。チクチクとした、少し不快な感触。しかし、それすらも、新しい自分になった証のように思えた。

タケシさんは、丁寧に、頭全体をバリカンの刃で均していく。一度刈った部分を、角度を変えてもう一度。そしてもう一度。ブーン、ザリザリ…という音は続く。それは、まるで、自分の内面を、この機械で磨き上げているかのようだった。過去の垢を、一つ残らず削り取っているかのよう。

バリカンの振動が、頭蓋骨を通して体に響く。それは、どこか鎮静作用があるかのような、不思議な感覚だった。これまで張り詰めていた緊張が、少しずつ解けていくのを感じた。

どれくらいの時間が経っただろうか。数分だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。時間の感覚は曖昧になっていた。ただ、バリカンの音と振動、そして髪が刈り取られる感触だけがあった。

そして、突然、ブーン、というバリカンの音が止んだ。訪れたのは、完全な静寂だった。耳鳴りのように、その静寂が響く。

「はい、これで、バリカンは終わりです」

タケシさんの声が聞こえ、サヤカはゆっくりと、深呼吸をした。そして、鏡の中の自分を見た。

そこにいたのは、頭全体を数ミリの短い毛で覆われた、紛れもない自分自身だった。肌が透けて見え、頭の形が露わになった、ほぼ坊主頭の女性。それは、来店する前の自分からは想像もつかない姿だった。

信じられないような気持ちで、自分の頭にそっと両手を当ててみた。指先を通して伝わってくるのは、ザラザラとした短い毛の感触。温かい頭皮の感覚。それは、これまで経験したことのない、新しい感触だった。

鏡に映る自分の姿は、強烈なインパクトがあった。これまで「女性らしさ」を表現するために様々な髪型をしてきたが、この短い髪は、それら全てを否定するかのような姿だった。しかし、そこには、これまで感じたことのない、清々しいほどの解放感と、そして強い意志のようなものが宿っているように見えた。

床には、黒い絨毯のように、サヤカの髪が広がっていた。長い髪の束の上に、バリカンの刃で細かくされた短い髪の破片が降り積もっている。それは、過去の自分と、新しい自分の、物理的な痕跡だった。

タケシさんは、その髪を、手際良く掃き集め始めた。シャワシャワ、と乾いた音がする。あっという間に、サヤカの過去は、ゴミ箱へと消えていった。まるで、夢だったかのように。

サヤカは、鏡の中の自分から目を離せなかった。新しい自分。過去から解放された自分。この短い髪と共に、これからの人生を歩んでいく自分。

それは、不安もあるけれど、それ以上に、大きな希望に満ちた未来への第一歩だった。この髪型にしたことで、もう何も隠す必要はない。ありのままの自分で、この世界と向き合っていくのだ。

物理的に軽くなった頭は、心の重さまで取り払ってくれたかのようだった。そして、鏡の中の新しい自分は、静かに、しかし力強く、サヤカに微笑みかけているように見えた。

タケシさんは、クロスの上に積もった髪の毛を、大きなブラシで集め始めた。フワッ、と、軽い音を立てて、黒い髪の毛の山が動く。集められた髪の毛は、ゴミ箱へと捨てられる。それは、過去の自分との、物理的な別れだった。

クロスを外され、首筋や肩に残った細かな髪の毛を、丁寧にブラシで払ってもらった。そのブラシの感触さえも、新鮮に感じられた。

「どうですか?鏡で、よく見てみてください」

タケシさんに促され、サヤカはもう一度鏡を見た。

そこにいたのは、確かに自分自身だった。しかし、同時に、全く新しい自分だった。顔立ちは変わらない。しかし、髪型が変わっただけで、全体の印象がここまで変わるのかと、驚きを隠せなかった。顔の輪郭がシャープに見え、目が大きく見えるような気がした。これまで髪に隠されていた首筋は、驚くほど細く、長く見えた。

なんだか、自分自身の本質が露わになったような感覚だった。飾り立てるものがなくなり、内面がそのまま表面に出てきたかのようだ。

床には、まるで黒い絨毯のように、サヤカの髪が広がっていた。それを見ていると、これまでの自分の歴史が、ここに落ちているような気がした。楽しかった日々、悲しかった出来事、悩んだ時間、全ての記憶が、この髪と共に切り離された。

「綺麗に刈り上がりましたね」

タケシさんが、満足そうに言った。職人の、仕事に対する誇りを感じさせる声だった。

「はい…ありがとうございます」

サヤカは、掠れた声で答えた。まだ、この劇的な変化を受け止めきれていない自分がいた。

タケシさんは、鏡の横に置いてあった小さなホウキとチリトリで、床の髪の毛を掃き始めた。シャワシャワ…という、乾いた音がする。あっという間に、黒い髪の毛の絨毯は集められ、ゴミ箱へと消えていった。まるで、最初から何もなかったかのように。

彼の手際の良い動きを見ながら、サヤカは再び自分の頭に触れた。ザラザラとした、しかし少し柔らかい感触。それは、これからの自分の新しい感触だった。

タケシさんは、全ての片付けを終え、サヤカの方を向いた。

「さて、仕上げに、軽く流しましょうか」

再びシャンプー台へ。今度は、カットしたばかりの短い髪を流すだけなので、あっという間に終わった。頭皮に直接当たるお湯の感覚が、心地よかった。

席に戻り、軽くタオルで拭いてもらった後、タケシさんは小さなドライヤーを取り出した。ブォー、という音と共に、温かい風が直接頭皮に当たる。これまで、髪を乾かすのに長い時間がかかっていたのが嘘のようだ。すぐに頭は乾き、短い髪の毛がピンと立った。

最後に、タケシさんは、鏡を見ながら、サヤカの顔周りの細かな毛を、小さなハサミで整えてくれた。チョキチョキという、繊細な音がする。それは、これまでの大胆なカットとは対照的な、丁寧で細かい作業だった。

「はい、これで、終わりです」

タケシさんが言った。

サヤカは、鏡の中の自分と、改めて向き合った。

そこにいたのは、誰だろう。見慣れない、でも、どこか自分らしい気がする人物。目が、これまで以上に力強く見える。顔の輪郭が、はっきりと主張している。そして、何よりも、頭全体を覆う、数ミリの黒い毛。

「あの…代金は…」

サヤカは、財布を取り出しながら尋ねた。

「ああ、その前に」

タケシさんは、店の隅にあった、古い木製の棚から、何かを取り出した。それは、使い込まれた櫛だった。

「これを」

彼は、その櫛をサヤカに手渡した。

「私の、お守りみたいなもんです。これからの、お姉さんの新しい人生に、何か、役に立つことがあれば」

サヤカは、受け取った櫛をじっと見つめた。木目が美しく、手触りが滑らかだ。長年使い込まれてきたのだろう、角が丸くなっている。

「ありがとうございます」

サヤカは、深々と頭を下げた。この櫛に、タケシさんの職人としての思いや、彼女の新しい門出を祝う気持ちが込められているような気がした。

代金を支払い、店を出る準備をする。コートを羽織り、バッグを持つ。鏡の中の新しい自分に、もう一度視線を向けた。

その時、店の奥から、別の声がした。

「タケシさーん、今日の晩飯、何にするー?」

それは、タケシさんの奥さんの声だろうか。少し離れた場所から聞こえてくる、日常の音。サヤカが、この特別な空間で、劇的な変化を遂げている間も、外の世界は変わらず流れている。そのコントラストが、妙に心に響いた。

床屋の引き戸を開け、外に出た。梅雨明け間近の、湿気を含んだ空気が肌に触れる。そして、頭皮に、直接風が当たった。ゾクッとするような、しかし心地よい感触だった。これまでは、長い髪が風を遮っていた。今は、何も遮るものがない。世界の全てを、肌で直接感じられるような感覚だった。

商店街を歩く。道行く人々の視線が、自分に集まっているような気がした。それは、意識過剰かもしれない。しかし、これまで「長い髪の女性」として認識されていた自分が、突然「坊主頭の女性」になったのだ。周囲が反応するのは当然だろう。

ある女性が、サヤカを見て、驚いたように二度見した。ある男性は、露骨に怪訝な顔をした。子供が、好奇心いっぱいの目でサヤカを見上げている。

しかし、不思議と、嫌な気持ちはしなかった。むしろ、少しの優越感さえ感じていた。私は、あなたたちの予想を裏切ったでしょう?私は、あなたたちの常識の枠には収まらない存在になったのよ。

新しい髪型になった自分に、自信が湧いてくるのを感じていた。それは、見た目の変化だけでなく、内面の変化からくるものだった。長い髪という鎧を脱ぎ捨てたことで、自分自身の弱さも強さも、全てを受け入れられるようになったような気がした。

過去の自分は、この長い髪と共に、床屋に置いてきた。これからの自分は、この短い髪と共に、新しい一歩を踏み出す。

手に持ったタケシさんにもらった櫛を、そっと握りしめた。それは、これからの自分の人生を、自分で梳かしていくための、お守りになるだろう。

空を見上げると、厚い雲の隙間から、一筋の光が差していた。梅雨明けは、もうすぐだ。そして、サヤカの新しい夏も、始まったばかりだった。この短い髪で、どんな風を感じ、どんな景色を見るのだろう。どんな新しい出会いが待っているのだろう。

期待と、少しの不安。しかし、それを上回る、確かな希望が、サヤカの胸の中に広がっていた。
髪を切るという行為は、ただの物理的な変化ではなかった。それは、過去との決別であり、新しい自分への生まれ変わりだった。そして、その生まれ変わりは、この「タケシ理容室」で、一人の寡黙な職人の手によって行われたのだ。

サヤカは、振り返って「タケシ理容室」を見た。古めかしいサインポールが、くるくると回り続けている。その扉の向こうには、サヤカの過去の髪が、もう存在しない空間がある。

彼女は、もう一度前を向き、歩き出した。短い髪に当たる風が、これからのサヤカの人生を、祝福しているかのように感じられた。

もう、何も隠す必要はない。ありのままの自分で、生きていく。その決意を、サヤカは、短い髪と共に、確かに胸に刻み込んだのだった。そして、その小さな頭は、以前よりもずっと、強く、軽くなっていた。

この髪と共に、どこへでも行ける。何でもできる。そんな、根拠のない、しかし確かな自信が、サヤカの全身を満たしていた。
夏は、始まったばかりだ。
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