ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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ピーテルに消えた雨 Ⅰ

愛を知らない青年

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 ミハイルは様々な事業を取り持つ富豪一家の名を持ってはいたものの、正当な生まれではなく、一介の私生児に過ぎなかった。

 ミハイルの母親は農村地帯の生まれで、ミハイル自身も10歳までは父親の存在を知らずに、ピーテルには程遠い片田舎でひもじい思いをしながら過ごしていた。
 しかしある日、首都ピーテルにとある一家から母子揃って呼び戻され、その日を境にミハイルの世界は変わる。

 煌びやかな衣服に豪華な食事、高度な教育までを受けられる事になった。
 誰もが憧れるような暮らしが始まるかと思いきや、そこにミハイルが夢見た温もりや家族の愛情は存在しなかった。
 ミハイルは首都に出てくる際、母親と共にガーリン家に受け入れてもらえるものだと思っていたが、そんなに現実は甘くはなかった。

 ミハイルの母と父は一夜の過ち程度の関係だった為、二人の間に物語の中で見るような愛情は存在せず、呼び戻された母とミハイルは豪勢な別邸を用意されたものの、父が母を訪ねてくる事は一度も無かった。

 ガーリン家は代々続いてきた富豪の家系だった為、世間体を気にする親戚も多く、ミハイルはもちろん、何より血を受け継いでいないミハイルの母が肩身狭い思いをしていた。
 その姿を一番近くで見てきたミハイル。
 心身ともに縮こまっていく母を助けたいーー。その思いでミハイルは一心不乱に勉学に勤しんだ。
 しかし、付き合いで親戚の集いに行けば、徐々に頭角を現し始めた幼いミハイルに構うものは居ても、ミハイルの母に対してはまるで空気のような扱いだった。
 いや空気のような扱いならまだマシな方だった。ミハイルが頭角を現せば現すほどに、それは下劣な噂話やそれが派生して軽い嫌がらせまでがミハイルの母へと向かった。
 日に日に痩せこけ、心を病ませていく母と、いつまで経ってもガーリン家に受け入れて貰えない孤独の中でミハイル自身も辛い思いをしてきた。

 そんな日々の中で、幼いミハイルの唯一の救いになったのが信仰だった。
 熱心な正教徒の家庭教師の勧めで正教会に入信し、洗礼を受けてからは、ほぼ毎日教会に通い祈りを捧げた。
 全ての隣人を愛しなさい。罪人、己の敵さえ愛すのだとーーそんな教えは、ミハイルの胸の淀みを清らかなものにし、胸に光と慈愛を与えた。
 しかしそうやって救われていくミハイルに反して、田舎で暮らしていた時とは考えもつかないほどの高級品をまとう母の表情に光が灯ることは決して無かった事を、ミハイルは覚えている。

 そんな荒んだ日々の中でも自分を救ってくれた光に忠誠を誓い、慢心することなく、一生を神に捧げ、仕えようと覚悟を決めたミハイル。
 その人柄や才能も相まって父に事業の後継者として認められたのが20歳過ぎてからの事だった。
 父の紹介で同じ熱心な正教徒の妻も迎え、ミハイルの人生は軌道に乗っていく。

 しかし、そんなミハイルの努力が母に伝わることは無かった。
 結局ミハイルの母はここピーテルで孤独に苛まれ、心を病ませながら生き、ミハイルが23歳になった年に彼女は亡くなった。
 心を病ませたせいで支離滅裂な言動を繰り返すようになった彼女は、最期までガーリン家に受け入れられる事は無く、父から愛されることもなく、墓に入ることさえ許されなかった。

 既に後継者として認められていたミハイルは、流石にそれは酷いのではないかと父に直談判した事もあった。
 しかし
「皆の賛同が得られない限り無理だ」
 と、冷たく言い放たれ、悔しくて涙を流した日もある。
 愛を知らぬままこの世を去った母と、愛を知らぬまま育った自分が重なり、胸が重くなるのだ。

 そんな、自分の妻にも話せない過去をミハイルはレイラを見た時に思い出していた。
 それは決して穏やかではない感情なのに、どこか癖になるような息苦しさを持ち、良くないと分かっていながらも求めてしまう、まるで麻薬のような光だった。






 レイラとミハイルが初めて出会った日から数日経った翌週のこと。
 ミハイルはとある提案を胸に、やや緊張しながらその居酒屋の扉をくぐり抜けた。
「レイラ」
 その姿は一目で見つけられた。

「あ、ミハイル……さん?」
 前回よりもずっと身軽な服装をしていたミハイルにレイラは目を見張る。

「ミハイル、でいいよ」
 緊張していたミハイルだが、それがレイラに伝わる事はなかった。もっともレイラはあまりにも自然に笑うミハイルに、彼は女性慣れしていると思っていた。
 しかし以前ミハイルと話した時の胸の高鳴りを思い出し、ぎこちないながらも嫌われたくないとレイラは慌ててミハイルに駆け寄り、背の高い彼を見上げた。
「あの、おひとりで?」
「うん」
「お好きな席に……」
「今日も一緒に話せる?」
「えっと……今日は忙しくて。少し待ってもらうかもしれないんですけど」
「いいよ。全然待つ」
 笑ったミハイルにレイラは心底安心する。
 ひとつひとつの動作や言葉から真摯なものを感じるのと同時に、きっと高度な教育を受けたとても凄い人なのだと思うと、みすぼらしい格好をし教育さえ受けられない環境にいる自分が何だか惨めにも思えてきた。
 だが、そんなことを感じさせる暇もないほどその日は忙しく、レイラは「ありがとうございます」とミハイルに告げると、すぐに背を向けるのだった。



 ミハイルはこの数日間で忙しい仕事の合間を縫って、ピーテルでも治安の良い地域でのアパートを一室借りた。
 普段お金を使わないミハイルは、レイラの為に調度品も全て揃え、惜しみないほどに最高級のものを用意した。
 そう。ミハイルはレイラを引き取るつもりだった。
 そして、その事をレイラに伝えるつもりでミハイルは彼女に会いに行った。
 レイラはいつ来るのかと胸の奥は浮き立っていく。


「ごめんなさい。お待たせして……」
 ようやく落ち着いたレイラは、腰に巻いているエプロンを外しながら、ミハイルの前に座る。
 農村の現状について聞きに来たのだろうが、レイラ自身先日の話以上のエピソードを持ち合わせていないことから、ミハイルをガッカリさせてしまうのではないかと、若干の不安も持ち合わせていた。
「大丈夫。待ってないよ」
 ミハイルはレイラに笑顔を見せ、レイラは少しだけ身構える。
「どうされたんですか?」
「ひとつ提案があって」
「…………」

 提案ーーという言葉にレイラは眉をひそめた。
 その声色は優しくとも、身分が低い者に対してに真っ当な提案をする者はいないと、レイラは学んでいたのだ。
「ーーなんでしょう?」

「この店を、やめることは出来る?」
「えっ?」
「僕がアパートや生活費を渡すから、その代わりに」

 レイラは息を飲む。心が曇っていくのが分かった。
 しかしミハイルはそんなレイラを気にもせず、高揚した気持ちのまま言葉を続ける。
「読み書きを勉強してほしい」

「えーー?」
 思わず腑抜けた声が出る。
 ーーそれだけ?ーー
「え、いやでも……」

「講師は僕がやるし、他にも学びたいことがあったら教えるから言って。あとーーもしかしたら、観劇に同伴してもらうような事があるかもしれない。だからある程度のマナーとかも勉強して欲しいんだけーー」
「いや! 待ってください!」
 そうミハイルの早口をさえぎったレイラ。
 考え込んだ。
 要求が読み書きと観劇の同伴? そんな美味い話がある訳ない。きっと何かほかの要求もあるに違いない。
 そう思ったレイラは「私には勿体ない話なので、大丈夫です」と早口で断る。

 しかしミハイルは諦めきれない。
 信仰心で培ってきたミハイルの慈悲心は、真っ直ぐにレイラに向かっていた。
 本当はミハイルが何かレイラに要求することなど何も無かった。
 レイラと会えなかった期間、一人娘とレイラを重ね、もし娘がこのような境遇になったらと思うと居てもたってもいられなかった。
 このままここに居て、邪な男に目を付けられてもしたらーー。そんな恐れがミハイルを襲っていたのだ。

 レイラが恐れていることはしないと、どうすれば信じてくれるのか、ミハイルは必死に考えた。

「何か不安なことでもある?」

 不安なこと? 不安なことだらけよ!
 と言い放ちたいのを堪え、レイラは震える唇を動かした。
「まだ、2回しか会っていません。私は、ミハイルに何もあげられないし」
 ミハイルの慈悲心も伝わらず、レイラはただ恐怖を感じていた。
 愛人にされるーーきっと身体込みの提案をされているのだとーー。

「レイラ、よく聞いて」
「いいえ。聞けません」

「読み書きも、観劇の同伴も、立派な要求だ。マナーを覚えるのだって簡単な事じゃない」
 ミハイルは田舎から出てきては、ガーリン家の家庭教師に厳しく躾られた事を思い出し、少し悲しく微笑んだ。
 もちろん、ミハイルはレイラに厳しくする事は無いし、そんな思いもさせたくはない。
「何か、不安な事があるなら、それはきっと全部思い過ごしだと思ってくれて構わない」

 引き下がらないミハイルにどう対応すれば良いのか分からなくなったレイラは、「あの……ごめんなさい」と席を立とうとする。
 しかしミハイルはその手を掴んだ。

「実は僕は……熱心な正教徒だ。食事の前には常に祈りを欠かさないし、クリスマスやイースター以外の祭りごとにも参加しない。酒も飲まないし、女性に溺れることもしない。もちろん女性に対して邪な気持ちを抱く事もないし、そう言った場に行く事も自分に禁じている。常に清廉潔白であれるような行動を心がけているし、僕は一生神に仕える気持ちでいる。……そうやって、常に自分に制限を課して生きているから、僕がレイラに過度な要求をする事は、神に誓って、ない」
 正教徒であるミハイルはーー神に誓って、という最大の言葉を使った。
 レイラがミハイルを遠ざけようという気持ちの何倍もミハイルは真剣で必死だったのだ。

 しかし、レイラはそんなミハイルの姿を見ても、まだ完全に信じることは出来なかった。
 熱心な正教徒だということは分かって、様々な制限を自分に課しているのも理解した。
 だがレイラ自身、この選択ひとつで自分の世界が大きく変わってしまうことが何よりも恐ろしかった。

 ミハイルにとっては簡単な一言かもしれない。
 レイラがこの先ミハイルに関わろうと関わらまいと彼の人生は変わらない。所詮は金持ちの道楽だ。
 がしかしレイラはミハイルに人生を預ける覚悟で決めなくてはならない。
 この関係にずっとーーや永遠ーーはない。結局最後は捨てられるのだ。
 金銭や贅沢の為に心を犠牲にすることはできない。家族の為を思ったとしても、自分が働けばいいだけだから。
 そんな諦めがレイラの首を横に振らせた。
「……勿体ない話です」

「僕がレイラに何か制限することはない。自由に生活してくれて構わない」
 必死さが滲み出ては逆に警戒を強められると思ったミハイルは、やっとの思いで微笑む。
 彼女の中のなにがこの話を断ろうとしているのかミハイルにはよく分からなかった。
 ここまで言っても首を縦に振ってくれない人を前にしたら、普通の人なら諦めるだろう。
 しかしミハイルにとっては諦める理由を探す方が難しかった。

 微笑むミハイルを前に、レイラは重苦しく口を開く。
「……ミハイル。その気持ちはとても嬉しいけれど、まだ出会ったばかりの人の言葉を、信じることは出来ません」

 余りにも恵まれた提案に手を伸ばさず、瞳を伏せながら小さく呟くその言葉。
 ミハイルはハッとした。
 やっと、レイラの気持ちを置き去りにしミハイルだけが浮かれていた事に気付くのと同時に、その彼女の欲のなさが眩しく思えた。
 ガーリン家や、ミハイルが今まで接してきた人とは違う、純粋で欲のない人。
 レイラがそんな人なのだとしたら、余計にここに居させてはならないとミハイルは感じるのだ。

 ーー決して諦めはしないが、強引に進めてもならない。
 ミハイルは、そう自分に説教されているような気分になった。

「ごめん。いきなりの話で驚くのも無理はない。レイラの言う通りだ」
 ミハイルが少し引き下がったかのように見せかけた時、レイラは少し寂しそうに微笑んだ。
 自分から拒絶しておいて、いざ彼ともう二度と会えなくなると思うと、それはそれで寂しさを感じていた。
 今日ここで後ろ髪ひかれる思いで別れるくらいなら、今ここで席を立つべきだろうか。
 そんな事を考えながらも、ミハイルの前から去る事が出来ないレイラ。
「ごめんなさい」

 ミハイルは目の前に座る、小さくて線の細い少女をもう一度見つめた。
 再び自分の心に問いかける。
 ーー彼女を引き取り、彼女の叶えられなかった夢や未来を叶えてあげたい。
 その想いは決して変わらないと言えるのだろうか、と。
 その理由の在処を追求せずに、このまま押し通したいミハイルもいた。

 一人娘と重なったから。レイラに対する情が我が子のように想う慈愛なのだとしたら、それは納得出来るものになるだろうか。
 だが、ただそれだけの理由で突き動かされるほど、ミハイルは愛を知らなかった。
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