ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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ピーテルに消えた雨 Ⅰ

悩む心

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 レイラは終始戸惑っていた。
 この提案を断り続け、彼が怒るのなら分かる。今までの人達はそうだった。
 だがしかし、ミハイルはただ悲しい顔をするだけで、決してレイラの事を責めたり貶したりはしなかった。

 そんな彼の言葉や態度に特別なものを感じてしまう自分が、レイラはどうしても受け入れられなかった。
 淡い期待なんて抱くだけ無駄だという日々をこれまで過ごしてきたのだ。
 それが突然こんな恵まれた話が出てくるわけないとーー。
 そんな気持ちがレイラの表情を曇らせていた。
 もちろん彼に感謝がない訳でない。片田舎からでてきた娘に優しく接してくれた紳士はミハイルが初めてだった。
 出来ることなら別れたくないが、こんな失礼な態度を取り続けた娘と、また会いたいだなんてミハイルは思ってくれるのだろうかーー。

 俯き合う二人の間には、新鮮な花が萎れていくように不穏な空気が漂い始める。

しかしそれを破ったのはミハイルではなく、レイラの一言だった。

「……ミハイルのその要求を飲むことは出来ないですけど、でも、こうやってお話するのは楽しいです」
 やや緊張していたレイラは顔を上げることが出来なかったが、ミハイルは瞬時に顔を上げた。
 冷たくなっていた指先に仄かな熱が通っていく。

「ルーガから出てきて、友人もいなくて……。私、全然勉強とかしてないから分からない事も多いけど、博識な方と会話している自分がとても不思議です。とても運が良いと思います……私は。だから」

 ミハイルはただ黙ってレイラの言葉の行方を見守った。
 胸に柔いものが注がれていく感覚があった。

「だから、提案に応じる事は出来ないかもしれないですけど、また……会える日があれば嬉しいなって……失礼、ですよね、もう、なんか……」
 次第に自分でも何を言っているのか分からなくなり、レイラの声は小さくなって居酒屋の雑踏に消えようとしていたが、ミハイルはその一言一句を聞き逃せなかった。
「いや。僕も楽しいよ」
 そうすぐに返答し、乾いた口をジンジャエールで潤した。
 レイラは瞳に光が宿っていくミハイルを見て胸を撫で下ろす。
「良かった、です」

「また……会いに来てもいい?」
「えぇ、ぜひ」
「じゃあ、次はもっと色んな話を持ってくるよ」
「楽しみにしてますね」
 レイラはどこか遠慮がちに目の前に置かれているジンジャエールに口を付ける。
「おかわり飲む?」
「い、いえ! 大丈夫です!」
 急に焦って大きな声を出すレイラに、ミハイルは声を上げて笑った。

 そうして二人は徐々に明るさを取り戻していった。

 そして結局、また閉店間際まで二人の会話が途切れる事はなかった。
 別れ際。まだ微妙に距離のある二人に、ミハイルは勇気をだしてその口を開く。
「レイラ」

「ん? なんでしょう?」
「今日言ったことだけど」
「ーーーー」
 レイラの表情から微笑みが消えかけ、ミハイルの心は後ずさりする。
「もし信じられそうになったら……答えて」

 しかし、そのあまりにも切ない彼の表情に憐憫の念を覚えたレイラは思わず微笑んでいた。
「……いつになるか分かりませんが、分かりました」
「ありがとう」
 ミハイルは安心したように俯く。
「ではまた」
「あーー」
 あまりにも簡単に、すんなりと背を向けるレイラ。
 彼女に声をかけようとしたミハイルのその僅かな呟きは、街の静けさに飲まれていった。




 その日の夜、レイラは狭い部屋で考えていた。
 正直条件は悪くないどころか、有り得ないほどに良すぎる話だ。だから怖かった。
 ーーミハイルをどれだけ信じられるか。ただそれだけが不安でレイラは首を横に振り続けていた。
 彼は分かったようにレイラの望む言葉を吐き出したが、本来ならレイラと関わる事も無かったような階級の人。ミハイルにレイラの気持ちなど分かるわけが無い。

 田舎の煤けた家で、学ぶ事を望んでいないふりをしながら、お小遣いで本を買っていたこと。
 虚しい気持ちになりたくなかったから隠し続けていた。
 本当はいつだって自由に学べる機会が欲しかった。
 その気持ちを押し殺しながら、家族の為に首都に出てきたその覚悟が、ミハイルを前に、鈍い音をあげていた。

 こんな事が現実に起こるのだろうかーー。

 レイラはそんな事を思いながら、雪の降りしきる窓の外を眺める。
 暗くて僅かな灯りしか瞳に映せないのに、雪の音だけが聞こえる。
 いつもならそれが心強く思えるのに、どうしようもない寂しさに駆られるレイラがいた。


 


 その翌日、レイラは寝不足の目を擦りながら出勤すると、長年居酒屋で働くベテランのアンナに話し掛けられる。
 面倒見の良い世話焼きの中年女性だが、その暑苦しさにレイラは鬱陶しく思うこともあった。

「レイラ、最近若い男が会いに来てるらしいじゃない」
「あ、え? あ、そうみたいですね」
 色恋沙汰を話すような雰囲気に、一瞬誰のことを言っているのか分からなかったが、片手を上げて身長の高さを表すアンナを見て、ミハイルのことを言っているのだとレイラは理解した。

「でもね、いい男そうであるけど、やめときな! 年寄りなら死ぬまで面倒見てくれるかもしれないけど、若けりゃ他に目移りする。リスキーだよ」
「うーん、そんな遊ぶような人には見えなかったけど、でもその通りですよね」
「あんた可愛いんだから。遊んでおくのもいいけど、真剣な相手そろそろ見つけないと」
「家族に仕送りしなきゃいけないし、まだそんな事は考えられなさそうで……」
「そんな事言ったって、あんたの人生でしょ? 良い人がいるんだけど紹介しようか?」
「……いえ。今はまだ大丈夫です」
「あまり悩みすぎないようにね。ピーテルにはああいう男腐るほどいるんだから。あたしも昔はよく言い寄られたんだよ。こう見えて美人だったからね。ほら! ナーニャもそう思うだろ? 若い男は良くない」
「まぁ、金と地位を持ってる男は大抵遊び人ですよね」
「でも、あの人お酒も飲まずに一人で来ては、レイラ以外見向きもしなかったわ」
「リーナ、そうやって騙されていくんだよ、あんたも初心だね~。それも作戦のうちなんだよ」

 そうやって支度をするレイラの横でアンナはただひたすらに喋り続け、同僚達までもを巻き込んでいく。
 アンナに悪意が無い事は分かっていたが、こうやって噂の的になっていくのは良い気がしなかった。
 レイラは逃げるように、その輪から出ていく。

 ーーこの店を、やめることは出来る?
 ミハイルのその言葉が、ふと救いのように思えたレイラがいた。




 そして翌週ミハイルは、約束通り再びレイラの元を訪ねた。
 ミハイルがレイラを見つけるよりも先に、レイラは彼を見つける。
 胸にモヤを抱えながら、同僚に席を案内されるミハイルを横目で見て、忙しい店内を駆け回っていた。

 しかしふと、気を利かせた同僚がレイラの横へ来て「あの人また来てるよ。注文受けてきたら?」と微笑む。
「あ、ありがとう。リーナ」
「いいのよ。行ってらっしゃい」
 レイラよりも4歳年上のリーナは、レイラが持っていたトレーを優しく取り上げた。



「元気だった? 寒いけど体調とか崩してない?」
 ミハイルは少し顔色の悪いレイラを見て眉を寄せたが、
「はい。変わらず元気です」と、微笑んだ彼女に、一番最初に出会った日の眼差しを思い出す。
 笑顔を見せてくれるだけあの日よりずっとマシかーーと自らを嘲った。
「良かった」

「お飲み物はジンジャエールですか?」
「うん」
「すぐに持ってきますね」
 レイラの余所行きの笑みは冴えないながらも美しかったが、それが少しだけ寂しくも思う。
「ありがとう」

 二人の関係性は何ひとつとして変わらないのに、自分だけが欲深くなっている事に、ミハイルはまだ目を向けたくなかった。

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