ピーテルに消えた雨

藤沢はなび

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ピーテルに消えた雨 Ⅰ

来たる夏の日

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「ママ、あのね」
 幼いレイラは母マリーアの袖を引っ張る。
 珍しく晴れ渡った空を見て欲しかったのだ。
「レイラごめんね、後にしてくれる?」
「……もちろん!」
 酷くやつれた顔で軽くあしらわれた時、レイラは心から母を不憫に思った。
 こんな美しい景色に気が付けないほど働き詰めるその姿は、幸せとは程遠いものだと思ったのだ。


 そして、陽も落ちかける午後のこと。
 レイラは木の根元に咲く花を詰んで家に持ち帰り、花瓶に挿す。
 今日が何の日かさえ誰も知らないのに、幼いレイラだけが風に揺れる花びらを見て微笑んでいた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



  
 淡い緑のワンピースをまとったレイラは、いつものように扉の前で笑顔を作り、ひとつ深呼吸をしてからそのドアノブをひねる。
「こんにちーーは」
 しかし、その先の姿に作った笑顔は途端に消え去った。

「え、ね、これって……」
 レイラは口に手を当て驚いたようにミハイルを見上げる。
「忘れてると思った?」
 悪戯に微笑みながらひと言。
「おめでとう」

 ミハイルが慌ただしくしていたのは、ただこの日の為だった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 レイラの誕生日に向けて、ミハイルは白や紫のアネモネと向日葵の花束。
 そして、ティアドロップ型のブルーサファイアのネックレスと、観劇のチケットを用意しようとしていた。
 ミハイルが忘れたくとも忘れられないあのひと場面。

 警戒心が強く、決して心を開こうとしなかった少女が初めて笑ったあの話ーー。
 あの日の緊張と、手の震えが昨日の事のように思い出される。
 その度に、自分はとんでもないものを手に入れてしまったような気持ちになるのだ。

 来る夏の日は眩しいくらいに陽の光が照っていて、自室の窓から入る暖かさに思い出すのはあの無邪気な笑顔だった。
 権力との板挟み、信仰のこと、現状に抗いたいのに抗えない虚しさに溺れる日々が続く中、唯一心を休ませられる場所。

 花束は街で一番評判のいい花屋に連絡をとった。
 一番新鮮で美しい花束をと、仕事の傍ら自ら頼みに行った。
 ネックレスは、どの宝石にするか迷ったが、青が好きだと口にした時に「私も青が好きなの!」と嬉しそうに笑ったその表情に、ブルーサファイアを選んだ。
 もちろん他人になど任せられないから、自分でデザインも選んだ。

 そして一番苦労したのが観劇のチケットだった。
 正直、よく招待されるから観劇のチケットなんて余るほど手元にある。
 しかし、レイラが初めて目を通す世界はいつでも美しく彼女好みのものであってほしかった。



 その日は仕事が休みの日で、家を出る直前、イネッサとすれ違う。
「最近はまたあの娘の所へよく通っているようで。暇なんだか忙しいんだかよく分かりませんね」
 イネッサは嫌味っぽく微笑み、ミハイルのジャケットに付いていた糸くずを右手で払った。
「その言い方、何とかならないのか。そして別にレイラの所へ通っていたわけじゃない」
「言い方も何も、事実を述べているだけです。私は何とも思っていませんから。ただ神に背くようなーー」
「イネッサ」
 低く起伏のないその呼び掛けにイネッサは肩を震わせた。

「俺が、どれだけの思いで信仰を貫いてると思ってる? そこには一点の曇りもないし、全てをかけてきた。そんな疑いをかけるのはやめてほしい」
 ミハイルの真剣にただ嘘のない瞳にイネッサは小さくうろたえる。
 ーー遊びではない、と言われているようで、妻という立場が酷く滑稽に思えてきたのだ。


「それは……失礼しました。今日は……何時頃戻りますか?」
「分からない。でも、遅くはならないようにするから」
 いつもの瞳、声色なのにどこか素っ気なく感じるのは、レイラと二人でいるミハイルの笑顔を見てしまったからだろう。
「どうぞ、お気を付けて」
 小走りでミハイルの元を去るイネッサの想いをミハイルは知らない。




 妻の疑いなど目もくれず、花屋まで走るミハイル。
 花束を受け取り、馬車にも乗らずにピーテルの街を逸る胸を抑えながら歩いた。

 端正な顔立ちの紳士が、たいそう美しい花束を手に、薄手のジャケットを風になびかせ微笑む姿はピーテルの街の人を釘付けにした。
 しかし本人はその事に気付かない。
 心は少年に戻っていくのに、臆病でいつも人の目を気にしていた少年はそこにはいなかった。

 そして、心待ちにしたその日を、その言葉とともに目の前の少女に伝える。

「レイラ、誕生日おめでとう」

 レイラは、ぎこちなく花束を受け取りながら、まだ驚いている様子だった。
「ありがとう……」

 これまで彼女にとって誕生日は、特別な日ではなかった。
 働き詰めるレイラの親は、子の誕生日を覚えていられず、贈り物はおろか、「おめでとう」という言葉さえレイラは聞いたことがなかった。

 レイラはミハイルから手渡された花束を両手でぎゅっと強く抱える。
 大切にしたいーーそんな想いを初めて知った気がしたのだ。
 感情で覆い尽くされていく心と反してレイラの表情は固く、ミハイルは少し戸惑う。

「中に、入ってもいい?」
「あ、もちろんです」
 大切に花束を抱え、レイラはスタスタとリビングへ駆けた。
 ミハイルはやや小走りでレイラの後を追いかける。
 しかしリビングに入る直前でレイラは突如振り向いた。
「今日は授業は……」
「ないよ。レストランで食事でもしに行こう」
 眉を震わせながら小難しい表情を浮かべるレイラにミハイルは微笑む。
「誕生日、なんだから」
「はい」
 目を見開き、涙を堪えるように微笑み返したあと、レイラはミハイルに背を向け、早足でリビングに入った。


 その後レイラはミハイルに髪を結ってもらい、近所の小さなレストランへと足を運ぶ。
 先ほどまでの泣きべそもすっかり落ち着き、正教徒で食べられないものがあるミハイルとさり気なく同じものを選び、ナターシャの話や、最近気になっている本の話、どうやってアネモネを用意したのか、など他愛もない話に花を咲かせた。

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