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Case13.血と涙
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遠慮がちな態度は気味が悪いと思ったが、踏み止まる心があって良かったとも思う。この男が本当に手段を選ばなかったら、どれだけ法律を無視するか分かったものじゃない。
「こんな事態になった以上、早く解決するべきだ」
解決したところで、大勢の命が還ることはない。だが、この場においての最適解はそれしかなかった。
「今日は失礼しますね」
弱々しい笑みを浮かべる表情に合わせて、摺り足気味な足音が静かに響いた。
ーカイリ『炎の復讐』第4章ー
※
「東堂警部! 江本さん!」
「状況は?」
龍の質問に刑事は顔を歪ませた。
「酷いですよ。死傷者は増え続けるばかりで、行方不明者も多数います。ビルが崩壊する可能性があるので、少し離れたここで待機をしてくれと言われました」
刑事の言葉に頷きながら、龍はタワーマンションに視線を移した。何十台もの消防車が必死に消火活動を行なっているのが見えるが、そのスピードは緩やかだった。
「消火活動が上手く行っていないように見えるな」
龍の言葉に刑事は苦々しく頷いた。
「それが・・・・初めの爆弾以外にも、小さな爆弾が仕掛けられていたそうなんです。今は、それが爆発し続けていて・・・・。
消防隊員も危険なので、どうしても消火活動に時間がかかるんです」
龍は大きく舌打ちをした。あの爆発が始まりに過ぎないと思うと、犯人への怒りが収まらなかった。続けて、海里が明らかに普段より低い声を上げる。
「やはり、あの爆発が合図でしたね。1つの爆弾で建物を破壊することはよくありますが、今回のは少しばかり小規模でした。とめどない爆発は、消火と救出を阻むでしょう」
「ああ。そこら辺は俺たち警察の専門外だ。犯人も分かってるだろ」
海里は大きな溜息をついた。燃え盛る炎を睨み、何もできない自分の無力さを痛感する。
「容疑者4名の安否はどうなっていますか? もしこの事件で欠けた方がいたら犯人ではありません」
海里は刑事に尋ねた。刑事は同僚や消防隊員の報告を思い出しつつ答える。
「甘味穂花と皇幸二郎は死亡しました。爆弾は甘味穂花の部屋に仕掛けられていたようです」
「残りの2人は生きているんですね?」
「はい。消防隊に保護されています」
海里は考え込んだ。なぜ甘味穂花の部屋に爆弾があったのか。なぜ階が離れている皇幸二郎がなぜ死んだのか。他にも大勢の住人が命を落としただろうが、警察がマークしている2人の死は、彼に不信感をもたらした。
俯いていた顔をすぐに上げ、海里は続けた。
「とにかく、残りの2人に話を聞きましょう」
海里の発言に龍は一瞬言葉を失った。刑事も驚きを隠せていない。
龍は、己の混乱を鎮めるかのように、できる限り穏やかな声を出した。
「爆発に遭ったばかりだぞ? 必要なことだが、そんな急にやることじゃない」
「割り切って頂きます」
まずい、と感じた龍は語気を強めた。
「ダメだ、待て」
「嫌です」
龍は走り去ろうとする海里の肩を掴んだ。強い力に、海里は足を止められる。
「落ち着け。気持ちは分かるが、あの2人が犯人だと決まったわけじゃない。犯人なら許せないが、被害者だった場合、爆発の恐怖で体も心も弱っていることは明白だ。事件を解決して被害者を安心させなきゃならない俺たちが、余計な不安を抱かせることは許されない」
龍の落ち着きが、海里の焦りと苛立ちを誘った。
「そうだとしても犯人である可能性は高いんです! また事件が起こったらどうするんですか? そうならないために、今すぐ話を・・・・!」
「江本!」
龍は海里の頬を叩いた。鋭い振りだったが、どこか優しい痛みである気がした。
「それを止めるのが俺たちの役目だ。違うか?」
その言葉は簡潔だったが、海里を“探偵”に戻させるには十分だった。彼は大して痛まない右頬を押さえて脱力し、手を振り解くために上げていた左腕を下ろした。
「・・・・そうですね。失礼しました。少し、取り乱してしまって」
いつもの笑みを浮かべた海里を見て、龍は彼の肩から手を離し、一言だけ呟いた。
「分かったならいい」
消火活動が終わった後、海里たちは現場検証を行った。約200人の住人のうち、半分以上が死亡、及び重軽傷という最悪の結果だった。
「まだ血の臭いが残っていますね。煙と混ざって異臭になっている・・・・」
「きついなら、タオルか何かで鼻と口を押さえた方がいいぞ。警察官でも、死臭が原因で仕事に支障をきたすことがあるからな」
海里は言う通りにハンカチで鼻と口を押さえ、龍たちを手伝った。ビルは完全に崩壊し、瓦礫の下敷きになった者も、焼死した者も、煙を吸い込んで一酸化炭素中毒になった者もいた。どこもかしこも黒焦げで、犯人への募る怒りを象徴しているかのように思えた。
「東堂警部」
現場検証を始めて10分ほど経った時、龍は部下に呼ばれると不思議そうに振り返った。
「どうした?」
「あの子・・・・ご両親を探しているんです。危険だからダメだと言ったんですが、やめなくて。あの子自身も怪我をしていて、煙も吸っているので、早く病院へ搬送しないと・・・・」
部下の言葉を聞いて、龍は瓦礫を掻き分ける少年に視線を移した。怪我をしていても、涙で視界が揺らいでいても、なお、懸命に両親を探し続ける少年は、荒い呼吸を繰り返している。5、6歳くらいに見え、煤だらけの手は少年の悲哀を物語っていた。
しばしの間ぼんやりと少年を見ていた龍だったが、やがて近づき、小さな体の前に屈んで話しかけた。
「何してるんだ?」
優しく穏やかな龍の声に、少年は目を瞬かせた。しかし、すぐ警察だと分かったのか、口を開く。
「お父ちゃんとお母ちゃんを探してるんだ。ぜったいいるから、見つけなきゃいけないんだ」
「そうか。何階に住んでた?」
「5階。逃げる途中で、ビルがくずれてきて、ぼくだけ外に。ちょっとうでが痛いけど、こんくらい何ともない」
涙ながらに口にする少年の左腕は赤く腫れていた。折れてはいないだろうが、打撲しているように見える。龍は部下からタオルと水の入ったペットボトルを受け取り、水をタオルに垂らした。
一連の動作を、少年な不思議そうに見つめていたが、龍は「ちょっとごめんな」と言って少年の左腕に濡らしたタオルを当てた。
「いたっ・・・・」
身を捩った少年を、龍は最低限の力で引き留めた。
「こら、動いたら処置ができないだろ。こういう怪我は、まず冷やさないといけないんだよ。
でも、これだけじゃ治らないからな。早く病院に行った方がいい」
「でも、お父ちゃんとお母ちゃんが苦しんでいるかもしれないんだ! ぼく1人だけ逃げるなんていやだよ!」
「逃げるんじゃない。休むだけだ。いくらお父さんとお母さんを探し出したくても、この腕じゃ満足に探せない。
病院に行って、治してもらったら、俺たちと一緒に探そう。その方が、お父さんとお母さんも安心するから」
そう言いながら、龍は少年の頭を撫でた。優しい笑みを浮かべる彼は、警察官ではなく父親の表情をしていた。少年は涙ぐみながら頷き、濡れたタオルを当てたまま、彼の部下に連れられて救急車へ乗り込んだ。
海里は少し離れた場所からやり取りを見守った後、龍の隣へ立つ。
「子供の扱い、慣れているんですね」
「まあな」
お子さんがいたからですか、と聞こうとしてやめた。下手に口を開けば、今の自分は余計なことしか口にしない気がした。
迷った後、海里は躊躇いがちに、周囲に聞こえないように尋ねた。
「あの子の両親、見つかると思いますか?」
龍もまた、小さな声で応じた。
「難しいだろう。軽傷の住人や救急隊が必死に捜索しているが、こんな瓦礫の山から全員を見つけるのは不可能に近い。見つかったとしても、一酸化炭素中毒や火傷で亡くなっているか、体が瓦礫に押し潰されて圧死しているか。生還は、ほぼ奇跡だろうな」
龍は捜索の手伝いを部下に任せ、海里と共に瓦礫の前に立った。これ以上、ここでできることは何もない。しかし、やるべきことはあった。
海里も同じことを考えていたらしく、長い沈黙の後、踵を返しながら言った。
「容疑者2人は軽傷でしたね?」
「ああ。」
「では明日、話を聞きに行きましょう。・・・・構いませんか?」
自分が暴走したことを理解しているのか、遠慮がちな問いだった。普段なら、絶対に取らない態度だ。龍は頷く。
「構わない。こんなことになった以上、早く解決するべきだ。多大な犠牲の先に結果があるのは腹が立つが、仕方ない」
「ありがとうございます。じゃあ、今日はここで失礼しますね」
海里は肩越しに振り返って笑ったが、その後の言葉を発する直前、笑みを消した。
「これ以上ここにいると・・・・頭がおかしくなりそうですから」
※
「江本君も、そこまで冷静さを失うことがあるのか」
人の話し声が飛び交う飲み屋の隅の席で、浩史は興味深そうに言った。龍は頷く。
「止めるのに苦労しましたよ。まあ、あれが普通の態度なんでしょうね。大規模な犠牲を見慣れた立場からすると、あいつほどの怒りは持てません」
「警察官としては心強いことさ。実際、お前の冷静さが江本君を落ち着かせたのだから、結果としては悪くない」
浩史の評価に龍は苦笑いを浮かべた。恐らく彼は、自分以上に冷静な態度で、あの現場を見るのだろうと思った。
「しかし九重警視長。なぜ急に飲みに誘ったんですか? 明日も仕事でしょう」
「ん・・いや・・・・家に帰る気が起きなくてな。そろそろ美希子と会う予定なんだが、どうも心苦しくて」
珍しく弱気な言葉だった。龍は全てを知っているが故に、何かを取り繕うような発言を続ける。
「あなたのせいではないでしょう。あれはどうしようもなかったんです」
「どうしようもない、か。だが龍。“あの事件”は・・・・」
「分かっています。だからこそ腹が立つんです」
浩史は苦笑した。龍は眉を顰め、厳しい瞳で虚空を睨む。
「多くの人間の人生を壊してなお生き続ける犯人を、私は今でも許せない。“あの事件”だけは、警察官としての自分が存在しない気がしています。
逮捕後、犯人は完全黙秘を続け、私は事情聴取を許されず、何もかもが不明のまま、死刑判決が下った。私は下された判決を、ただ聞くことしかできなかった・・・・。あいつも、私も、警察官失格です」
「そう卑下するな。だが“あの事件”の真実が分からない上、事実もまた、上は公にしない。したくないと言うべきか。皮肉なことに、これは今は覆せない。
何ならーー“探偵”に頼むか?」
浩史の言葉が海里を指していることは明らかだった。だが、龍は静かに首を横に振る。
「江本は仕事上必要な協力者です。あいつが現場に居合わせた時だけ、協力を頼んでいます。それだけの関係なんです。
あいつに過去のことは何も話していませんし、あいつのことも何も知らない。そんな男に、過去の事件を解決して欲しい、なんて言いませんよ」
「そうか」
浩史は答えが分かっていた、とばかりに、短く答えた。龍は続ける。
「何より・・・・過去の事件を解決させる以上、過去を話さなくてはいけなくなる。私は過去を・・・・“あの事件”のことを、他人に軽々しく口走りたくはありません」
龍は溜息をついて酒を飲んだ。言葉が見つからずに窓の外を見ると、雨が降っていた。予報も夜から雨だと言っていたな、などと考えていると、雨は次第に強くなった。そして、その様子を見た瞬間、彼は窓の外から視線を逸らした。
「龍」
浩史がわずかに厳しさを含んだ声で名前を呼んだ。
「・・・・すみません」
何に謝っているのか、龍自身にも分からなかった。浩史は声音を変えぬまま続ける。
「お前が責任を感じることではない。私のせいでないと言っておきながら、自分だけ責めるなと何度も言っただろう」
「ええ、仰る通りです。矛盾していることは理解していますよ。
でも私は・・・・何もできなかった」
ーー本当に、何も。
頭の中で雨音が響いていた。“あの日”の雨なのか、今降っている雨なのかは、分からない。ただ、どちらにせよ、「うるさい」と叫びたくなるほどの音であることは同じだった。
しばらくすると、雨音が消え去り、人の声が響いた。永遠に聞いていたいと願い、しかし思い出すのが苦しい、懐かしい声が。
「あなた! 逃げて!」
悲鳴にも似た妻の甲高い声。
「お父さん、きちゃダメ!」
まだ舌足らずに感じる娘の声。
「父さんお願い・・・逃げて‼︎」
少し大人び始めた息子の声。
そして、今も心に重くのしかかる1人の言葉。重く感じてはならないと分かっていながら、思い出す度に、胸が貫かれているように痛む一言。
懐かしい声が通り過ぎた後、言葉は容赦なく龍の頭をよぎった。
「家族みーんな見捨てて、1人だけ生き残ったの? 君、本当に最低だね」
雨音から言葉までの記憶は、何度も頭の中で繰り返していた。
仕事をしている時も、過去と無関係な海里と話している時も、家で休んでいる時も・・・・。どんな時も、記憶から逃れられることはなかった。
龍は歯軋りをした。浩史の心配そうな視線を受けても、押し寄せる後悔が消えることはなかった。
分かっている。何もかも分かっている。俺が最低な人間だってことも、家族を見捨てたことも。
だからもう、繰り返さないでくれ。
「こんな事態になった以上、早く解決するべきだ」
解決したところで、大勢の命が還ることはない。だが、この場においての最適解はそれしかなかった。
「今日は失礼しますね」
弱々しい笑みを浮かべる表情に合わせて、摺り足気味な足音が静かに響いた。
ーカイリ『炎の復讐』第4章ー
※
「東堂警部! 江本さん!」
「状況は?」
龍の質問に刑事は顔を歪ませた。
「酷いですよ。死傷者は増え続けるばかりで、行方不明者も多数います。ビルが崩壊する可能性があるので、少し離れたここで待機をしてくれと言われました」
刑事の言葉に頷きながら、龍はタワーマンションに視線を移した。何十台もの消防車が必死に消火活動を行なっているのが見えるが、そのスピードは緩やかだった。
「消火活動が上手く行っていないように見えるな」
龍の言葉に刑事は苦々しく頷いた。
「それが・・・・初めの爆弾以外にも、小さな爆弾が仕掛けられていたそうなんです。今は、それが爆発し続けていて・・・・。
消防隊員も危険なので、どうしても消火活動に時間がかかるんです」
龍は大きく舌打ちをした。あの爆発が始まりに過ぎないと思うと、犯人への怒りが収まらなかった。続けて、海里が明らかに普段より低い声を上げる。
「やはり、あの爆発が合図でしたね。1つの爆弾で建物を破壊することはよくありますが、今回のは少しばかり小規模でした。とめどない爆発は、消火と救出を阻むでしょう」
「ああ。そこら辺は俺たち警察の専門外だ。犯人も分かってるだろ」
海里は大きな溜息をついた。燃え盛る炎を睨み、何もできない自分の無力さを痛感する。
「容疑者4名の安否はどうなっていますか? もしこの事件で欠けた方がいたら犯人ではありません」
海里は刑事に尋ねた。刑事は同僚や消防隊員の報告を思い出しつつ答える。
「甘味穂花と皇幸二郎は死亡しました。爆弾は甘味穂花の部屋に仕掛けられていたようです」
「残りの2人は生きているんですね?」
「はい。消防隊に保護されています」
海里は考え込んだ。なぜ甘味穂花の部屋に爆弾があったのか。なぜ階が離れている皇幸二郎がなぜ死んだのか。他にも大勢の住人が命を落としただろうが、警察がマークしている2人の死は、彼に不信感をもたらした。
俯いていた顔をすぐに上げ、海里は続けた。
「とにかく、残りの2人に話を聞きましょう」
海里の発言に龍は一瞬言葉を失った。刑事も驚きを隠せていない。
龍は、己の混乱を鎮めるかのように、できる限り穏やかな声を出した。
「爆発に遭ったばかりだぞ? 必要なことだが、そんな急にやることじゃない」
「割り切って頂きます」
まずい、と感じた龍は語気を強めた。
「ダメだ、待て」
「嫌です」
龍は走り去ろうとする海里の肩を掴んだ。強い力に、海里は足を止められる。
「落ち着け。気持ちは分かるが、あの2人が犯人だと決まったわけじゃない。犯人なら許せないが、被害者だった場合、爆発の恐怖で体も心も弱っていることは明白だ。事件を解決して被害者を安心させなきゃならない俺たちが、余計な不安を抱かせることは許されない」
龍の落ち着きが、海里の焦りと苛立ちを誘った。
「そうだとしても犯人である可能性は高いんです! また事件が起こったらどうするんですか? そうならないために、今すぐ話を・・・・!」
「江本!」
龍は海里の頬を叩いた。鋭い振りだったが、どこか優しい痛みである気がした。
「それを止めるのが俺たちの役目だ。違うか?」
その言葉は簡潔だったが、海里を“探偵”に戻させるには十分だった。彼は大して痛まない右頬を押さえて脱力し、手を振り解くために上げていた左腕を下ろした。
「・・・・そうですね。失礼しました。少し、取り乱してしまって」
いつもの笑みを浮かべた海里を見て、龍は彼の肩から手を離し、一言だけ呟いた。
「分かったならいい」
消火活動が終わった後、海里たちは現場検証を行った。約200人の住人のうち、半分以上が死亡、及び重軽傷という最悪の結果だった。
「まだ血の臭いが残っていますね。煙と混ざって異臭になっている・・・・」
「きついなら、タオルか何かで鼻と口を押さえた方がいいぞ。警察官でも、死臭が原因で仕事に支障をきたすことがあるからな」
海里は言う通りにハンカチで鼻と口を押さえ、龍たちを手伝った。ビルは完全に崩壊し、瓦礫の下敷きになった者も、焼死した者も、煙を吸い込んで一酸化炭素中毒になった者もいた。どこもかしこも黒焦げで、犯人への募る怒りを象徴しているかのように思えた。
「東堂警部」
現場検証を始めて10分ほど経った時、龍は部下に呼ばれると不思議そうに振り返った。
「どうした?」
「あの子・・・・ご両親を探しているんです。危険だからダメだと言ったんですが、やめなくて。あの子自身も怪我をしていて、煙も吸っているので、早く病院へ搬送しないと・・・・」
部下の言葉を聞いて、龍は瓦礫を掻き分ける少年に視線を移した。怪我をしていても、涙で視界が揺らいでいても、なお、懸命に両親を探し続ける少年は、荒い呼吸を繰り返している。5、6歳くらいに見え、煤だらけの手は少年の悲哀を物語っていた。
しばしの間ぼんやりと少年を見ていた龍だったが、やがて近づき、小さな体の前に屈んで話しかけた。
「何してるんだ?」
優しく穏やかな龍の声に、少年は目を瞬かせた。しかし、すぐ警察だと分かったのか、口を開く。
「お父ちゃんとお母ちゃんを探してるんだ。ぜったいいるから、見つけなきゃいけないんだ」
「そうか。何階に住んでた?」
「5階。逃げる途中で、ビルがくずれてきて、ぼくだけ外に。ちょっとうでが痛いけど、こんくらい何ともない」
涙ながらに口にする少年の左腕は赤く腫れていた。折れてはいないだろうが、打撲しているように見える。龍は部下からタオルと水の入ったペットボトルを受け取り、水をタオルに垂らした。
一連の動作を、少年な不思議そうに見つめていたが、龍は「ちょっとごめんな」と言って少年の左腕に濡らしたタオルを当てた。
「いたっ・・・・」
身を捩った少年を、龍は最低限の力で引き留めた。
「こら、動いたら処置ができないだろ。こういう怪我は、まず冷やさないといけないんだよ。
でも、これだけじゃ治らないからな。早く病院に行った方がいい」
「でも、お父ちゃんとお母ちゃんが苦しんでいるかもしれないんだ! ぼく1人だけ逃げるなんていやだよ!」
「逃げるんじゃない。休むだけだ。いくらお父さんとお母さんを探し出したくても、この腕じゃ満足に探せない。
病院に行って、治してもらったら、俺たちと一緒に探そう。その方が、お父さんとお母さんも安心するから」
そう言いながら、龍は少年の頭を撫でた。優しい笑みを浮かべる彼は、警察官ではなく父親の表情をしていた。少年は涙ぐみながら頷き、濡れたタオルを当てたまま、彼の部下に連れられて救急車へ乗り込んだ。
海里は少し離れた場所からやり取りを見守った後、龍の隣へ立つ。
「子供の扱い、慣れているんですね」
「まあな」
お子さんがいたからですか、と聞こうとしてやめた。下手に口を開けば、今の自分は余計なことしか口にしない気がした。
迷った後、海里は躊躇いがちに、周囲に聞こえないように尋ねた。
「あの子の両親、見つかると思いますか?」
龍もまた、小さな声で応じた。
「難しいだろう。軽傷の住人や救急隊が必死に捜索しているが、こんな瓦礫の山から全員を見つけるのは不可能に近い。見つかったとしても、一酸化炭素中毒や火傷で亡くなっているか、体が瓦礫に押し潰されて圧死しているか。生還は、ほぼ奇跡だろうな」
龍は捜索の手伝いを部下に任せ、海里と共に瓦礫の前に立った。これ以上、ここでできることは何もない。しかし、やるべきことはあった。
海里も同じことを考えていたらしく、長い沈黙の後、踵を返しながら言った。
「容疑者2人は軽傷でしたね?」
「ああ。」
「では明日、話を聞きに行きましょう。・・・・構いませんか?」
自分が暴走したことを理解しているのか、遠慮がちな問いだった。普段なら、絶対に取らない態度だ。龍は頷く。
「構わない。こんなことになった以上、早く解決するべきだ。多大な犠牲の先に結果があるのは腹が立つが、仕方ない」
「ありがとうございます。じゃあ、今日はここで失礼しますね」
海里は肩越しに振り返って笑ったが、その後の言葉を発する直前、笑みを消した。
「これ以上ここにいると・・・・頭がおかしくなりそうですから」
※
「江本君も、そこまで冷静さを失うことがあるのか」
人の話し声が飛び交う飲み屋の隅の席で、浩史は興味深そうに言った。龍は頷く。
「止めるのに苦労しましたよ。まあ、あれが普通の態度なんでしょうね。大規模な犠牲を見慣れた立場からすると、あいつほどの怒りは持てません」
「警察官としては心強いことさ。実際、お前の冷静さが江本君を落ち着かせたのだから、結果としては悪くない」
浩史の評価に龍は苦笑いを浮かべた。恐らく彼は、自分以上に冷静な態度で、あの現場を見るのだろうと思った。
「しかし九重警視長。なぜ急に飲みに誘ったんですか? 明日も仕事でしょう」
「ん・・いや・・・・家に帰る気が起きなくてな。そろそろ美希子と会う予定なんだが、どうも心苦しくて」
珍しく弱気な言葉だった。龍は全てを知っているが故に、何かを取り繕うような発言を続ける。
「あなたのせいではないでしょう。あれはどうしようもなかったんです」
「どうしようもない、か。だが龍。“あの事件”は・・・・」
「分かっています。だからこそ腹が立つんです」
浩史は苦笑した。龍は眉を顰め、厳しい瞳で虚空を睨む。
「多くの人間の人生を壊してなお生き続ける犯人を、私は今でも許せない。“あの事件”だけは、警察官としての自分が存在しない気がしています。
逮捕後、犯人は完全黙秘を続け、私は事情聴取を許されず、何もかもが不明のまま、死刑判決が下った。私は下された判決を、ただ聞くことしかできなかった・・・・。あいつも、私も、警察官失格です」
「そう卑下するな。だが“あの事件”の真実が分からない上、事実もまた、上は公にしない。したくないと言うべきか。皮肉なことに、これは今は覆せない。
何ならーー“探偵”に頼むか?」
浩史の言葉が海里を指していることは明らかだった。だが、龍は静かに首を横に振る。
「江本は仕事上必要な協力者です。あいつが現場に居合わせた時だけ、協力を頼んでいます。それだけの関係なんです。
あいつに過去のことは何も話していませんし、あいつのことも何も知らない。そんな男に、過去の事件を解決して欲しい、なんて言いませんよ」
「そうか」
浩史は答えが分かっていた、とばかりに、短く答えた。龍は続ける。
「何より・・・・過去の事件を解決させる以上、過去を話さなくてはいけなくなる。私は過去を・・・・“あの事件”のことを、他人に軽々しく口走りたくはありません」
龍は溜息をついて酒を飲んだ。言葉が見つからずに窓の外を見ると、雨が降っていた。予報も夜から雨だと言っていたな、などと考えていると、雨は次第に強くなった。そして、その様子を見た瞬間、彼は窓の外から視線を逸らした。
「龍」
浩史がわずかに厳しさを含んだ声で名前を呼んだ。
「・・・・すみません」
何に謝っているのか、龍自身にも分からなかった。浩史は声音を変えぬまま続ける。
「お前が責任を感じることではない。私のせいでないと言っておきながら、自分だけ責めるなと何度も言っただろう」
「ええ、仰る通りです。矛盾していることは理解していますよ。
でも私は・・・・何もできなかった」
ーー本当に、何も。
頭の中で雨音が響いていた。“あの日”の雨なのか、今降っている雨なのかは、分からない。ただ、どちらにせよ、「うるさい」と叫びたくなるほどの音であることは同じだった。
しばらくすると、雨音が消え去り、人の声が響いた。永遠に聞いていたいと願い、しかし思い出すのが苦しい、懐かしい声が。
「あなた! 逃げて!」
悲鳴にも似た妻の甲高い声。
「お父さん、きちゃダメ!」
まだ舌足らずに感じる娘の声。
「父さんお願い・・・逃げて‼︎」
少し大人び始めた息子の声。
そして、今も心に重くのしかかる1人の言葉。重く感じてはならないと分かっていながら、思い出す度に、胸が貫かれているように痛む一言。
懐かしい声が通り過ぎた後、言葉は容赦なく龍の頭をよぎった。
「家族みーんな見捨てて、1人だけ生き残ったの? 君、本当に最低だね」
雨音から言葉までの記憶は、何度も頭の中で繰り返していた。
仕事をしている時も、過去と無関係な海里と話している時も、家で休んでいる時も・・・・。どんな時も、記憶から逃れられることはなかった。
龍は歯軋りをした。浩史の心配そうな視線を受けても、押し寄せる後悔が消えることはなかった。
分かっている。何もかも分かっている。俺が最低な人間だってことも、家族を見捨てたことも。
だからもう、繰り返さないでくれ。
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この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
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