久遠の呪祓師―― 怪異探偵犬神零の大正帝都アヤカシ奇譚

山岸マロニィ

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第参話──九十九ノ段

【玖】花魁

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 ――襖を開けた途端。
 激しい目眩が零を襲った。
 ……いや、階段自体が歪んでいる。
 整然と並んでいたはずの段板が奇妙に浮き上がり、捻れる。天井絵の錦鯉は立体となり、金張りの天井板から抜き出ていく。

 零は咄嗟に襖を閉じた。そして、肩でパタパタと翅を揺らす蛾を手に取った。
「何をしてるんですか――ハルアキ」

 蛾――に変化へんげしたハルアキは、細い脚を動かして、フサフサとした触角を零に向ける。
「今まで気付かぬとは、油断にも程がある」
「気付いてましたよ。桜子さんにくっ付いて来たでしょう? 女将さんに目眩ししましたよね」
「…………」
「私に任せるんじゃなかったんですか?」
「別に、そなたなどを心配してはおらぬ。……ただ、余が役立たぬと申した言葉は許せぬ」
「はいはい。……では」
 零はニコリと蛾を見つめる。
「この階段に巣食う怪異の正体を、桜子さんと一緒に明かしてください。――私が、死ぬ前に」
 そう言うと、零は蛾を襖の隙間に放り込んだ。
「うわっ! 何をす……」
 そして叫び声を遮るように、ピシャリと襖を閉めた。

 ――するとそこは、既に『異空間』と化していた。
 階段であったモノは無限に延び、歪み、捻じれ、絡み合う。
 果てしなく碧い空間に、上に下に、それはまるで蜘蛛の巣のように伸びていく。
 そして今も、空間は蠢く。頭上すぐを、逆さまになった階段が蛇のように滑っていき、零は髪を揺らして身を屈めた。
 その網の目の狭間に広がる、底知れぬ碧の中を、巨大な錦鯉が縫うようにゆったりと泳いでいる。
 閉じたばかりの襖も、空間に飲まれて跡形もない。

 零は目を細めた。
 ――ここは、妖の考える、『九十九段』という存在を抽象化した概念だろう。
 そう察した彼の背筋を悪寒が奔る。――まさか、ここに潜む妖に、これまでの力があるとは。

 妖とひとえに呼ぶものの、その能力は様々だ。ただ存在しているだけの無害なもの、積極的に人に干渉しようとするもの、人に明確な悪意を向けるもの。
 それらの妖のうち、人に害をなすものを『鬼』と呼ぶ。
 鬼の中でも、異空間を発する力を持つものはごく一部。多くの悪意を取り込み、ひとつの『器』に収まりきらなくなった存在。

 ハルアキに忠告されるまでもなく、ここに来る前から、嫌な予感はあった。しかし、これほどとは……。これも、彼の見込みの甘さだ。
 鬼の持つ悪意――呪いを祓うには、零だけの力では及ばないだろう。勿論、ハルアキ――現在の安倍晴明の力を借りたとて同じ事。
 ならば、『あの方』を頼るしかない。
 となると、この場に零以外の存在があってはならないのだ。

 零は懐に手を入れる。そして、漆黒の鞘に収められた短刀を取り出した。
 ――かげ太刀たち
 怪異を断罪する刃。――この世とあの世の秩序の番人、太乙たいおつしもべとして、役割を全うするためのもの。
 そして、零と彼女を繋ぐもの。

 すると、帯にぶら下げた煙草入れの根付が激しく揺れた。零は宥めるようにそれを撫でる。
「もう少し待っていてください、――小丸こまる
 そこに封じられているものは、犬神――彼の相棒だ。妖を感じ取り、早く出せと急かすのだ。

 縦横無尽に動き回る階段の奥を眺める。ある場所は交差し、ある場所は螺旋を描き、その奥行は八方に膨張していく。
 こうも広くては、この異空間の主を探すのに骨が折れそうだ。

 零は煙草入れから煙管キセルを取り出し、そこに刻み煙草を詰め、火を点けた。その煙を頭上に掲げ流れを見る。
「…………」
 これは、妖の存在を探るものだ。その位置、強さを、煙の動きから測る。
 火皿から立ち上る紫煙は、緩やかに周囲に流れる。動き回る階段に乱されながらも、やがてそれは一定の方向へと向かいだした。
「……行きましょう、小丸」
 零は階段に足を踏み出した。

 だが階段は、易々と彼を通す気はないようだ。足元がうねり、零は宙に投げ出された。咄嗟に段を蹴り、横を奔る階段に飛び乗る。
 異空間と言えど、上下の感覚はある。横向きでは体勢を保てず、すぐに別の階段へ移動せねばならない。
 巨蛇のように空間を這い回る階段。そこを次々と飛び移っていく。
 そうして紫煙を追ううち、零は気付いた。
 この階段の動き。これは彼を拒絶しているのではない。――導いているのだ。

 やがて、階段は螺旋に渦を巻いた。零の立つ階段がその中心を滑っていく。その回廊を抜けた先――。

 一本の階段が、天に向けて延びている。
 それを跨いで立つアーチ型の門。その傍らに、柳が枝を揺らす。
 その向こうにあるのは、赤提灯が飾られた二階建ての建物の列。

 ――吉原である。九十九段の突き当たりの屏風に描かれていた名所絵。そのままの景色が、そこにあった。

 弁財天の見下ろす吉原大門おおもんの向こうに立つ、花魁。

 青、翠、赤、紫、黄、白――。
 艶やかな色彩の打掛に、眩い網目模様の金襴の帯、そして、伊達兵庫髷だてひょうごまげに挿した鼈甲べっこうかんざし……。
 白塗りに深紅の紅が微笑んだ。
「やっとおいでんなした、お待ちしており申した」
 この異空間の『主』。花魁の姿をした鬼は、艶っぽい瞳で見下ろしている。

 零は大門の前に乗り移る。鋼鉄製の門は、美しく飾られながらも、冷たい色をしていた。
 ……まるで牢獄の鉄扉のように。
 もしかしたら、この花魁はこの門からは出られないのではなかろうか。ふと零はそんな風に感じた。

 花魁の白い手が伸び、緩やかな動きで彼を招く。
「こっちにお来んさい。わちきとの約束、果たしてくんなまし」
 ――約束?
 零は目を細めた。そして悟った。
 ……やはり、この花魁は、お陸ではない。
 お陸は、死後は別々となったとはいえ、一旦は平政と本懐を遂げている。
 それに、お陸は岡場所の湯女である。吉原の花魁ではない。
 ――ならば、この花魁は何者だ?

 零は身構えた。門を抜ければ、鬼の手の内。完全に彼女に取り込まれるだろう。
 すると花魁は小首を傾げる。
「おやまあ、つれないお人でありんすなぁ。……もしや、わちきの顔をお忘れなすったか」

 ――その時、花魁の背後に何かが動いた。
 それは左右に細長く、八本に伸びる。――蜘蛛だ。黒い産毛うぶげで覆われた脚が半ばで折れ、こちらに尖った爪の先を向ける。
「なら、もっと近くで見てくんなまし」

 花魁の帯が解ける。それは鞭のようにしなり、門を抜け零に向けて飛んだ。
 狭い階段、逃げ場はない。咄嗟に手の短剣を抜く。
 ――だが陰の太刀はやはり、その姿を現さない。
 冴えない銀色の刀身に目を遣り、零は息を吐いた。

 この短剣は、怪異の正体――呪いの形を見極めねば、真の姿を現さない。それは、この持ち主である太乙との契約のひとつであり――零自身が掛けた制約でもある。
 彼が、人間としての意識を保つための、制約。

 そうは言うものの、自らその懐へ飛び込んだとはいえ、このまま捕らえられるのは気が進まない。
「痛い目を見るのは、趣味じゃありませんね」
 零は階段から身を投げた。他の階段に飛び移り、帯を避けようとしたのだ。
 ……しかし、その向こうに現れた、投網のような蜘蛛の巣は避けられない。
「――――!」
 刃を閃かせる。しかしこの短刀は、この姿では紙も切れない約立たずなのだ。いとも簡単に絡め取られ、零は情けない姿で階段から吊り下げられた。

 階段の上を見上げる。
 花魁はその場を動かない。逆に蜘蛛の巣がするすると巻き取られ、彼は門の中へ放り込まれた。
 その体を花魁の蜘蛛の脚が受け止める。
「野暮な物をお持ちでやんすな」
 零はその抱擁に身を任せる――と見せかけ、短刀を花魁の首元に突き立てた。切れはせずとも、脅しくらいにはなるだろう、そう思ったのだ。

 だがその切先は、白い首に届く事はなかった。
 蜘蛛の糸が、短刀を握る手首を捻り上げる。
「クッ……!」
 鈍い音と痛みが奔る。
 握力を失った手から短刀が離れ、階段に落ちた。そして数段を滑り落ちると、階段を外れ虚空へ吸い込まれていった。

 咄嗟に零は身を捻る。
 ――小丸、頼みましたよ。
 零は心で念じ、自由な左手を背後に隠し、煙草入れの根付を外す。それは短剣を追うように転がっていった。

 花魁に目を戻す。
 彼女は零に顔を寄せ、じっと零の顔を見ていた。……恐らく、小丸には気付いていない。
 白塗りしたその顔立ちは、傑作と称される絵から抜け出したような美しさだ。
 ――ただ、その目には白目がない。
 ぬめぬめと光る漆黒の眼球が、零を無表情に見下ろしていた。

「野暮は嫌いと言ったじゃありんせんか」
 鋭く黒い爪のある両手が、彼の頬を覆った。
 甘い吐息が耳元に囁く。
「わちきの事、思い出させてあげんす」
 身動きの取れない顔に、花魁の唇が重なる。
 ――その舌先に感じた強烈な痺れが、零の視界を滲ませた。

 命運をハルアキに託したとはいえ、余りに情けないザマだ。零は自嘲した。
 しばらく、こちらからは手出しをできないだろう。……この先は、彼らを信じるしかない。

 だがその意識の糸が途切れる寸前、彼はもうひとつの謎に気付いてしまった。
 ――屏風絵にあった、二人の禿が、ここにはいない。
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