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第肆話──壺
【拾玖】屋根上ノ散歩者
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――だが。
事務所に入るなり異変に気付き、ハルアキは愕然とした。
もぬけの殻の事務所の左手にある、開け放たれた納戸への扉。
その奥の棚の隙間に鎮座する、黒い金庫の扉が開き、その前には破れた護符と、空の蜂蜜壺が転がっている。
「…………!」
ハルアキの背筋が冷える。最悪の事態になっていると予測するのは容易だった。
悪魔が桜子に取り憑き、零を連れ出したに違いない。あの女子を人質に取られては、零は手も足も出るまい。
何という事だ――!
……と、その時。
応援に置かれたコート掛けから、カタカタと音がした。見ると、根付の髑髏が顎を鳴らしている。
零の相棒の犬神である。
危急を知らせるために、奴が密かに置いていったのだろう。
ハルアキは駆け寄り、小さな髑髏を手に取った。
「小丸! おぬしの主人はどこじゃ?」
しかし、髑髏はカタカタと顎を鳴らすだけだ。
「…………」
ハルアキは考えた。
犬は嗅覚が鋭い。警察の捜査に使われるほどだ。
多分犬神も、その特徴を引き継いでいるに違いない。匂いから零の気配を追うのは可能だろう。
だがハルアキは、下等な獣から作られた犬神など使った事がない。
とはいえ、犬神といえど式神の一種だ。召喚できない事はないだろう――いや、ただの犬神ならともかく、小丸の元は狼だ。他人に懐かず喰い付かれたらたまらない……その上彼には、狼……山犬に対して、どうにも拭えない苦手意識があった。
髑髏はハルアキの手の上で、懸命に彼を見上げている。
カタカタカタカタ……と顎を鳴らす様は、何かを訴えているようだ。
ハルアキはそっと、その額を指先で撫でてみた。
「呼び出して欲しいと申しておるのか」
……カタカタカタカタカタ。
「噛み付かんかの?」
……カタカタカタカタカタ。
ハルアキは考える。
いくら犬が苦手とはいえ、こうしていても仕方がない――小丸を信じるとしよう。
ハルアキは思い切って根付を振り上げ、床に向けて放り投げた。
「――犬神よ、出よ」
その途端。
根付は光の球と化し、みるみる膨張する。
そして床に落ちる頃には、白銀の狼の姿となっていた。
……ハルアキは一瞬身構えた。しかし小丸に、彼を害する意思はないようだ。じっと物言いだげな金色の目を、ハルアキに向けている。
ならば……と、ハルアキは小丸に命じた。
「そなたの主のところへ余を連れて行け」
しかし、小丸は動かない。頭を低くして、じっとハルアキを見上げる。
「どうした? 主の居場所が分からぬのか?」
すると小丸は、低く「ゥワン」と吠えた。分かってないのはそちらだとでも言いたげな声だ。
「何が言いたい?」
ハルアキが問うと、小丸は彼に尻尾を向けた。そして振り向き再び「ゥワン」と鳴く。
ハルアキはようやく気付いた。
背に乗れ、と言いたいのだ。
「……大丈夫かの?」
ハルアキは、手にしたままの青い本をニッカポッカに挟み、恐る恐る白銀の毛皮に跨る。
その瞬間――。
「ウオーン」
遠吠えを一声放ち、小丸は猛然と駆け出した。
軽く床を蹴り、事務机を足場にして、開け放たれた窓から外に飛び出す。
叫んだのはハルアキだ。事務所は二階。落ちれば擦り傷では済まない。
「うわあああ!!」
振り落とされないよう、分厚い首の毛皮にしがみ付く。
ハルアキの心配をよそに、小丸の体は通りを軽く飛び越え、向かいの家の屋根に飛び乗った。
そして、跳躍を繰り返し、家々の屋根をピョンピョンと渡っていくのだ。
「き、聞いておらぬぞ……!」
警察犬のように、匂いを嗅ぎながら歩くのではないのか――!
ハルアキは青くなると同時に納得した。
小丸と零は、運命共同体。
主の居場所は、匂いに頼らずとも分かるのだ。
ハルアキは高い所が苦手という訳ではない。むしろ、鳥に変化して空を翔けるのは心地好いと思うほどだ。
……振り落とされそうになりながら犬の背に張り付いているのとは訳が違う。
「ヒイイイィ……」
と変な声を漏らしつつ、ハルアキは必死で辺りを伺う。
犬神は式神の一種のため、常人には見えない。しかし、ハルアキはどうだ。誰かが気まぐれに空を見上げれば、目が合うのではなかろうか。
だが、心配すべきはそこではなかった。
どうやら小丸は、秋葉原へと向かっているようだ。
その道中。目前に、市電の走る大通りが迫っていたのである。
ハルアキは震え声を上げた。
「……もしかして、あそこを飛び越えるとは言わぬな?」
小丸は答えない。むしろ、速度を上げているように感じる。
「おい、よせ。止まれ、止まるのじゃ」
だが、小丸は止まらない。更には、大通りに近付くに従い、建物が高くなっていくからたまらない。
足下の景色が遠ざかる。頬を叩く風が圧を増す。
「止まらぬか、たわけ! 余を下ろせ!」
ハルアキは叫ぶ。だが小丸は耳を貸さない。
やがてコンクリート作りの四階建てのビルの、三角屋根を飛び越える段になって、ハルアキはいよいよ悲鳴を上げた。
「助けてたもれえええ!」
ふわりと体が浮き上がる感覚があった。脳が置いていかれるような感覚。
耳の奥がキーンと鳴り、激しい目眩がハルアキを襲う。
「…………」
ハルアキの体がぐらりと揺れた。
小丸の首から手が離れ、小さい体は後ろに反る……その目は白目を剥き、意識はどこかへ飛び去っている。
足下の中央通りで市電がすれ違う。その最中へ真っ逆さまに落ちようとする体を、隼のように宙を翔ける黒い影が受け止めた。
「……全く、困った坊やだね」
鴉面に漆黒のケープ――鴉揚羽である。
彼女はハルアキを抱きかかえ、市電の電柱の上をポンと蹴ると、再び宙へ飛び上がる。
そして、軽々とビルを飛び越え、工事中の高架橋を渡ると、屋根を滑るように進む白銀の背中を追い掛けた。
事務所に入るなり異変に気付き、ハルアキは愕然とした。
もぬけの殻の事務所の左手にある、開け放たれた納戸への扉。
その奥の棚の隙間に鎮座する、黒い金庫の扉が開き、その前には破れた護符と、空の蜂蜜壺が転がっている。
「…………!」
ハルアキの背筋が冷える。最悪の事態になっていると予測するのは容易だった。
悪魔が桜子に取り憑き、零を連れ出したに違いない。あの女子を人質に取られては、零は手も足も出るまい。
何という事だ――!
……と、その時。
応援に置かれたコート掛けから、カタカタと音がした。見ると、根付の髑髏が顎を鳴らしている。
零の相棒の犬神である。
危急を知らせるために、奴が密かに置いていったのだろう。
ハルアキは駆け寄り、小さな髑髏を手に取った。
「小丸! おぬしの主人はどこじゃ?」
しかし、髑髏はカタカタと顎を鳴らすだけだ。
「…………」
ハルアキは考えた。
犬は嗅覚が鋭い。警察の捜査に使われるほどだ。
多分犬神も、その特徴を引き継いでいるに違いない。匂いから零の気配を追うのは可能だろう。
だがハルアキは、下等な獣から作られた犬神など使った事がない。
とはいえ、犬神といえど式神の一種だ。召喚できない事はないだろう――いや、ただの犬神ならともかく、小丸の元は狼だ。他人に懐かず喰い付かれたらたまらない……その上彼には、狼……山犬に対して、どうにも拭えない苦手意識があった。
髑髏はハルアキの手の上で、懸命に彼を見上げている。
カタカタカタカタ……と顎を鳴らす様は、何かを訴えているようだ。
ハルアキはそっと、その額を指先で撫でてみた。
「呼び出して欲しいと申しておるのか」
……カタカタカタカタカタ。
「噛み付かんかの?」
……カタカタカタカタカタ。
ハルアキは考える。
いくら犬が苦手とはいえ、こうしていても仕方がない――小丸を信じるとしよう。
ハルアキは思い切って根付を振り上げ、床に向けて放り投げた。
「――犬神よ、出よ」
その途端。
根付は光の球と化し、みるみる膨張する。
そして床に落ちる頃には、白銀の狼の姿となっていた。
……ハルアキは一瞬身構えた。しかし小丸に、彼を害する意思はないようだ。じっと物言いだげな金色の目を、ハルアキに向けている。
ならば……と、ハルアキは小丸に命じた。
「そなたの主のところへ余を連れて行け」
しかし、小丸は動かない。頭を低くして、じっとハルアキを見上げる。
「どうした? 主の居場所が分からぬのか?」
すると小丸は、低く「ゥワン」と吠えた。分かってないのはそちらだとでも言いたげな声だ。
「何が言いたい?」
ハルアキが問うと、小丸は彼に尻尾を向けた。そして振り向き再び「ゥワン」と鳴く。
ハルアキはようやく気付いた。
背に乗れ、と言いたいのだ。
「……大丈夫かの?」
ハルアキは、手にしたままの青い本をニッカポッカに挟み、恐る恐る白銀の毛皮に跨る。
その瞬間――。
「ウオーン」
遠吠えを一声放ち、小丸は猛然と駆け出した。
軽く床を蹴り、事務机を足場にして、開け放たれた窓から外に飛び出す。
叫んだのはハルアキだ。事務所は二階。落ちれば擦り傷では済まない。
「うわあああ!!」
振り落とされないよう、分厚い首の毛皮にしがみ付く。
ハルアキの心配をよそに、小丸の体は通りを軽く飛び越え、向かいの家の屋根に飛び乗った。
そして、跳躍を繰り返し、家々の屋根をピョンピョンと渡っていくのだ。
「き、聞いておらぬぞ……!」
警察犬のように、匂いを嗅ぎながら歩くのではないのか――!
ハルアキは青くなると同時に納得した。
小丸と零は、運命共同体。
主の居場所は、匂いに頼らずとも分かるのだ。
ハルアキは高い所が苦手という訳ではない。むしろ、鳥に変化して空を翔けるのは心地好いと思うほどだ。
……振り落とされそうになりながら犬の背に張り付いているのとは訳が違う。
「ヒイイイィ……」
と変な声を漏らしつつ、ハルアキは必死で辺りを伺う。
犬神は式神の一種のため、常人には見えない。しかし、ハルアキはどうだ。誰かが気まぐれに空を見上げれば、目が合うのではなかろうか。
だが、心配すべきはそこではなかった。
どうやら小丸は、秋葉原へと向かっているようだ。
その道中。目前に、市電の走る大通りが迫っていたのである。
ハルアキは震え声を上げた。
「……もしかして、あそこを飛び越えるとは言わぬな?」
小丸は答えない。むしろ、速度を上げているように感じる。
「おい、よせ。止まれ、止まるのじゃ」
だが、小丸は止まらない。更には、大通りに近付くに従い、建物が高くなっていくからたまらない。
足下の景色が遠ざかる。頬を叩く風が圧を増す。
「止まらぬか、たわけ! 余を下ろせ!」
ハルアキは叫ぶ。だが小丸は耳を貸さない。
やがてコンクリート作りの四階建てのビルの、三角屋根を飛び越える段になって、ハルアキはいよいよ悲鳴を上げた。
「助けてたもれえええ!」
ふわりと体が浮き上がる感覚があった。脳が置いていかれるような感覚。
耳の奥がキーンと鳴り、激しい目眩がハルアキを襲う。
「…………」
ハルアキの体がぐらりと揺れた。
小丸の首から手が離れ、小さい体は後ろに反る……その目は白目を剥き、意識はどこかへ飛び去っている。
足下の中央通りで市電がすれ違う。その最中へ真っ逆さまに落ちようとする体を、隼のように宙を翔ける黒い影が受け止めた。
「……全く、困った坊やだね」
鴉面に漆黒のケープ――鴉揚羽である。
彼女はハルアキを抱きかかえ、市電の電柱の上をポンと蹴ると、再び宙へ飛び上がる。
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