ピアニストは御曹司の盲愛から逃れられない

花里 美佐

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めぐりあい

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 黎はテムズ川沿いの道を歩いていた。三月のイギリスはまだ寒く、コートの襟を立てていた。

 ビックベンの前まで来ると川を向いて止まった。

 イギリスは今回で三回目。

 母が療養でイギリスの空気が綺麗な田舎町で年の半分は過ごすようになって、父と交代でイギリスへ来るようになった。

 母のいる湖水地方を訪ねてから、ロンドンの支社で仕事をし、東京へ戻るという段取りだ。

 今日はロンドンで少し早めに仕事を終えて、昼間は天気が良かったので少しのんびりと歩いて戻るところだった。

 夕方に入り、川風も手伝ってさらに寒くなってきた。

 すると目の前をピンク色のスカーフが左側から風に飛ばされて空を泳いでいる。

 手を伸ばしても届かない所まで飛んでいき、徐々にテムズ川へ落ちていった。

 「あー、もう!いやだ、どうしよう……」

 日本語が聞こえる。

 左側を見ると、欄干をつかんでつま先立ちで手を伸ばしている女性がいる。

 「危ないですよ、諦めた方がいい」

 すぐに彼女へ声をかけた。

 すると、水色の冬のコートを着た黒髪の女性が大きな目を見開いてこちらを見た。

 「え?日本語……」

 「いや、日本人だからそりゃあ日本語でしょう……」

 黎は呆れた顔をして彼女を見た。

 「ハックシュン!」

 彼女は大きなくしゃみをして、両手で口を押さえた。

 「大丈夫?」

 「……は、い、ックション!」

 続けてくしゃみをする彼女はブルッと身体を震わせ両手で身体を抱きしめた。

 「スカーフなくなっちゃって、寒くなっちゃった」

 茶目っ気のあるくりっとした瞳をこちらに向けた。
 笑顔が可愛い。

 「良かったら、これを……」

 黎はそう言って、たたんで鞄に入れていた自分の薄いブルーのマフラーを広げて彼女の首にかけた。

 「え?」

 びっくりしたのか、後ずさっている彼女を見て、黎は苦笑いした。

 「あ、すまない。知りもしない男からもらったマフラーなんてしたくないか?」

 「え、っと。あの、これからお帰りになるんですよね?お返しできなくなるので、いいです……」

 彼女が首からマフラーを離そうとしたので、黎は手を上げた。

 「お気になさらず。そのマフラーは新品です。先ほど母からもらったものなのでね。今僕はこの通りしているマフラーがありますので、良かったらその新品を使って下さい。それにここは寒いですよ。そのコートは襟がないのでスカーフがないとさぞかし寒いでしょう」

 「ありがとうございます。でも、お返ししないといけないし……ハ、ハックション!」

 彼女はまた身体を折ってくしゃみをしている。

 「もし、時間があるようならこの近くのカフェで温かいものでもどうですか?日本語で話すのも楽しいのでね。身体をあたためた方がいいんじゃないかな?」

 彼女は少し考えていたが、にっこり笑ってうなずいた。

 黎は彼女をエスコートしてカフェまで案内した。

 カフェへ入ると、向かい合って座った。

 お互い何故か同じ銘柄のアールグレイの紅茶を選んだ。

 「……あ、美味しい。身体が暖まるし、手も温かくなったわ」

 両手でカップを持って手を温めている。

 白い綺麗な手に目を奪われた。

 正面から彼女の顔をしっかり見て初めて気付いたが、どこかで見た気がする。

 黎は少し考えたが思い出せない。美人だし、会ったことがあるなら忘れないと思うのだが、何だろうと考えた。

 「あの……イギリスにはお仕事か何かでいらしたんですか?」

 「……え?あ、そう。仕事とプライベートの用事をかねて来ているんだ。君は?」

 「私は、演奏会で来ています。それも、仕事ですね」

 「演奏会が仕事?もしかして……」

 黎は彼女の顔を見て、思い出した。

 そうだ、昨年の日本の音楽コンクールの受賞者の中に彼女を見た気がする。

 「……ピアニストなんです。駆け出しですけど」

 「君、去年日本で九月に開催された音楽コンクールの受賞者だよね?見たことあると思ったんだ」

 黎が身を乗り出して話す。彼女はびっくりしたのか、黎を見つめていた。

 「そうです。よくご存じですね?すみません、関係者の方でしたか?私、よく覚えてなくて……」

 黎は目の前で手を左右に振って否定した。

 「いやいや、関係者とかじゃないから安心して。音楽が好きでね。良くチェックしているんだ。確か、チャイコフスキーのコンチェルト弾いていたよね」

 「ええ。よく覚えていらっしゃいましたね。あ、私は栗原百合です。ご記憶と合ってます?」

 「もちろん。こんな美人だしどこかで見たと思ったんだ。知り合いかとも思ったけど、なんか違うと思ってね。君のピアノを弾いている横顔しかあまり記憶になくて、思い出すのが遅れたよ」

 百合は恥ずかしそうに首まで赤くして下を向いた。

 照れてるのか、可愛いな。黎は彼女のそんな姿に胸を打ち抜かれた。

 「あ、ごめん。俺の名前は堂本黎。どうぞよろしく」

 彼女に向かって笑顔を向けた。すると、顔を上げてこちらを見た彼女はまた赤くなった。

 やはり可愛い。美人なのだが、しゃべると構えたところがなくて、余計かわいらしさを感じる。

 「コンサートはいつ?ロンドンで?」

 たたみかけるように彼女に質問してしまう。

 「あ、はい。明後日の夜です。ロンドンの音楽ホールで。ロンドンの交響楽団と共演します」

 「あさってか……夜だよね?」

 「はいそうですね」

 「まだ、チケットあるかな?」

 「えーっと、聞いてみましょうか?」

 「いや、自分で何とかするよ。明後日の夜までならこちらにいるからギリギリ間に合う」

 「そうなんですね?日本へ翌日お帰りですか?」

 「そうだね。その予定。君はまだいるの?」

 「二日間公演なので、その翌日まではいますね」

 「今は、ホテル?」

 「はい、そうです」

 ふたりで顔を見合わせて無言で紅茶を飲んだ。

 「……あの。マフラー、お母様から頂いたっておっしゃってましたよね?お返しした方がいいと思うんです」

 黎は頬杖をつきながら彼女を見る。

 「そうだな。次に会ったときに返してもらおうかな?」

 「次?」

 「そう。コンサートに行けたら、その時にでもね……」

 「え?」
 
 彼女は困惑の表情を浮かべた。

 「今はいらないよ。寒いからね、きちんと首に巻いて今日は帰りなさい。風邪を引いたらコンサートに出られなくなるぞ。オケの人や楽しみにしているお客様に迷惑をかけるだろ?」

 百合はそう言われたら何も言い返せなかった。

 「わかりました。お気持ちありがたく頂きます。当日受付に預けておきますね」

 「いや、楽屋へ伺うから終演後待っていて欲しい」

 「……あの、えっと」

 黎は腕時計を見ると、彼女の言葉を遮った。

 「ごめん、時間がないからこれで失礼するよ。タクシー拾ってあげようか?どこのホテル?」

 「いえ、大丈夫です。あと、三十分くらいで近くにマネージャーが迎えに来ますので」

 「そう。じゃあ、ここでゆっくりしていたら?お支払いはしておくからね」

 そう言うと、名刺を出して裏に電話番号とメアドを書く。

 「これが俺のプライベートの番号。何かあれば連絡して」

 「あ、あの、私の番号は……」

 「あさって、必ず行く。その時に教えてくれ。じゃあ、演奏を楽しみにしているよ」

 そう言って、黎は出口でふたり分の支払いを済ませると出て行った。

 彼は、満足げに久しぶりの笑顔を浮かべていることに自分では気付いていなかった。

 百合は取り残されてその名刺を手に取り、じっと見つめた。

 『堂本コーポレーション 東京営業本部 堂本 黎』

 そう書かれていた。堂本コーポレーション……聞いたことがある。結構大きな会社のような……。

 しかも、同じ名字。もしかして、会社の関係者?

 百合は社会的なことをあまり知らず、音楽ばかりやってきたので、その会社が日本では同業他社の中で一番大手であることさえ知らなかった。

 でも、目の前の彼は身なりも良く、美男子で、女性の扱いに慣れている風だった。

 百合は初対面で、しかも男性なのに、お茶に誘われなんで付いてきてしまったのだろうと今頃気付いて考えた。

 日本だったら絶対こんなことはない。

 おそらく、異国の地で困っていたときに声をかけられたから、つい心を許してしまったのかも知れないと自分を納得させた。

 しかも、自分を知っていた。それは彼女にとって、とても嬉しい出来事だった。

 実は、テムズ川を見ながら落ち込んでいたのだ。

 コンクールの受賞者とはいえ、まだ演奏活動を始めてから一年と経っていない。

 自分に自信がなくて、演奏に迷いがあり、ぼおっとしていたせいもあってスカーフをなくしたのだ。
 
 自分の実力がどの程度か、指揮者だけでなく、オーケストラのメンバーからどう思われているのかそんなことばかり気になってしまい、今日の練習でも気がそぞろで演奏を止められた。

 そんなとき、彼に声をかけられ、しかも自分を知っていると言われたのが認められているかのように聞こえて嬉しかった。
 
 話してみれば気さくでいい人だった。

 音楽が好きらしいのはすぐにわかったし、演奏を聴きたいと言ってくれた言葉が、彼女に自分を取り戻させた。

 コンサートに向けて心を前向きにさせてくれた。

 彼に褒めてもらえるような演奏をしたい。百合はその時そう思ったのだ。

 気付くと、窓をマネージャーがトントンと叩いている。外は暗くなってしまっていた。

 彼女はマフラーを巻き、コートを着て身支度をして、席を立った。この後は、事務所関係者とディナーの予定だった。

 マネージャーの神楽は今日の昼間、リハーサル後百合と別れたとき、元気がなかったのを心配していた。

 ところが、今は明るく元気な彼女に戻っていたので安心した。どうやって元気づけようかと考えながら来たからだ。

 とりあえず、良かったと彼女を見つめる。

 すると、百合が昼間していたスカーフが男物らしきマフラーに変わっているのをめざとく見つけると、問いただした。

 「百合、そのマフラー買ったのかい?男物みたいに見えるけど……」
 
 「え?あ、スカーフをテムズ川へ落としてしまったの。そしたら側に日本人の男性がいて、くしゃみをしている私にたまたま持っていた新品の予備のマフラーを貸してくれたの」

 「貸してくれた?」

 「そうなの。音楽好きな人で私のことを知っていたの。コンクールの受賞者だということを言い当てられた」

 「へえ?それはすごいね。嬉しかっただろ?」

 百合が自信をなくしているのを今日のリハーサルでも目にしていたので、急に元気になっている今の状況はそういった理由だったんだろうと勘のいい神楽はピンときた。

 顔を赤くして照れる百合は可愛かった。

 「……そうね。それで、あさってのコンサートに席を探して必ず行くからその時に返して欲しいと言われたの。終演後楽屋を訪ねると言ってたわ。チケットってまだあるの?」

 「あさってかい?うーん。もしかするともうないかもしれないな」

 「え?それはまずいわ。このマフラー、その人へのお母様からのプレゼントだったらしいの」

 「名前とか聞いている?もしそれならこちらで関係者席を一席空けて受付でチケットを渡してもいいが……」

 百合は鞄から先ほどもらった名刺を取り出して神楽へ見せた。

 神楽はその名刺を見て、固まった。

 堂本黎。大学の同窓だった。堂本コーポレーションの御曹司だ。

 神楽の頭に黎の端正な顔立ちがすぐに思い浮かんだ。
 
 彼は学業においても非常に優秀で、卒業時に学部生代表として答辞を読んだ。

 確か、お父上が社長でそのまま会社へ入社したはず。
 
 名刺にもう一度目をやると、東京営業本部とある。やはり、東京勤務だ。

 なぜ、ロンドンにいたのだろう。
 
 神楽も黎と同じ経営学部だった。

 ただ、神楽は吹奏楽の経験者で音楽関係のプロダクションへの入社を希望していた。いずれ、独立したいという野望もあり、経営を学んでいたのだ。
 
 今は、希望通りクラシック関係のプロダクションへ入社して彼女のマネージャーをしている。

 百合は逸材だ。彼女を育てることを社長から厳命されている。
 
 それだけではない。神楽は彼女に惹かれていた。百合は美人だ。そして鷹揚で少し世間知らずなところもあり、ウブだ。
 そういう彼女を好きになってしまったが、仕事だから神楽は自分の気持ちに鍵をかけている。

 名刺を見たまま固まっている自分を不思議そうに百合が見つめている。

 確かに黎は、音楽が大好きだった。自分では演奏はしないが、クラシックが好きらしい。
 
 母親がクラシック好きで小さいときから家で曲が流されていたと昔言っていた。妙に曲名や演奏者に詳しい。

 ピアノなどを習いたかったが、父親がそういうものではなく、英会話や水泳など英才教育ばかりを習わせたらしい。
 
 そういう話を聞きながら一緒にコンサートへ行ったことも一度ある。

 とはいえ、神楽は奨学金を利用して大学に進んでいた。

 相手は御曹司。神楽にとって、まぶしい存在であり、妬ましさも少なからずあった。

 彼の周りには同じ御曹司の友がいて、幼稚舎からずっと一緒の幼馴染みもいたようだ。

 執事らしき人物を見たこともある。住む世界が違うとその頃から距離を取った。

 女性にも非常にモテた。周りを多くの女性達が囲んでいた。

 彼は、美男であったので、それもあってのことだったろう。

 神楽は百合をじっと見つめた。まさか……いや、そんなことはないだろう。
 
 さっきも偶然だと言っていた。だいたい、モテる黎がわざわざ百合を口説く必要などない。住む世界も違う。大丈夫だろうと思い直した。

 「百合。彼は知り合いだよ。堂本コーポレーションの御曹司。そして僕の大学の同窓生だ」
 
 「え?本当に?すごい偶然ね」
 
 「ああ、すごい偶然だ。卒業してから会ったことはない。五年ぶりだ。元気だったか?」
 
 「ええ。何か、お仕事とプライベートの両方でこちらに来ているとか言ってたわ」
 
 「チケットの件。僕から連絡しておこう」
 
 「そう?ならお願いします」
 
 「……それから。彼から、何か言われた?」
 
 「……え?特に何も言われてないけど」
 
 神楽は安心した。その後、食事をしてホテルへ入った。

 神楽は黎に電話をするか、メールをするか迷った。

 電話をしていい時間かどうかもわからないので、メールにした。

 事の次第をメールに書いて、あさっての受付に名前を言えばチケットを受け取れるようにしたと連絡する。

 メールを書いてしばらくすると、返事が来た。

 チケットが売り切れていてとても助かった。ありがたくそうさせてもらうと書いてあった。そして、神楽との再会を楽しみにしていると……。
 
 そのメールを見た黎は正直驚いていた。

 まさか、大学の時のあの神楽が百合のマネージャーだったとは、運命のいたずらとしか思えない。

 実は調べたら明後日のチケットが売り切れで取れなかった。どうやって彼女へ会ったらいいか頭を悩ませていたところへ救いの神が現れた。

 そんなことより、彼女にもう一度会える。そして彼女の演奏を聞くことができる。

 それだけで黎はわくわくドキドキしている自分にようやく気付いて、これからどうやって彼女と友人になろうかと作戦を練りはじめた。

 そう、友人。大好きな音楽の友人だ。神楽を通して紹介してもらうのがいいかもしれない。

 黎は非常にモテたが、自分から好きになる女性はなかなかいない。

 姉が二人いて、年が離れていたせいか、母親が三人いるような家だった。

 常に、見張られている感があり、女性に対して夢が持てなかったのもある。

 女性に甘えられると気持ちが悪かった。姉たちは父に甘えるときは何か裏があった。今の彼女の夫達にも同じことをしていた。それを見ていたからだと思う。

 それに、自分ではなく、御曹司としての自分を求められている気がして、嫌だった。
 
 御曹司の友達はそういう黎を女性を集めるために利用していたが、黎自身は女性を上手にはぐらかし、うまくさばいていた。女性の裏を感じることもできるし、どういう意図かも知っていたからだ。

 そんな黎が、はじめて自分から可愛いと思った女性。それがさっきの百合だった。

 だが、自分の生活や彼女の職業を考えると接点がほとんどない。でも、神楽を通して友人になればたまに会うことができるかもしれない。コンサートが待ち遠しかった。
 
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