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ふたりのアプローチ
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百合は悩んでいる。
それは、もちろん黎のこと。
先々週は美術館へ行った。昨日はオペラ。
とても勉強になった。そして……楽しかった。
どうしよう。また……約束してしまった。勉強のためだよって、あの顔で私に言うの。
友達だから、いいだろって言うの……あの笑顔で。
迷っている私を笑うように見ている。
そして、私の片手を左手で握ってポンポンと右手で叩くの。大丈夫だよって。
はあ。
またため息が出てしまう。だって、何か勉強とは違うと思うの。
やっぱり、なんとなく自信過剰かもしれないけど、いっつも特別だよって言って何か買ってくれたり、プレゼントくれたり。
私は友達にそんなにプレゼントしないって怒ったの。プレゼントは誕生日とか、特別なときだけ。だから、やめてって頼んだ。
そうしたら、悲しそうな顔をする。もう、どうしたらいいの。今回だけよって言うと嬉しそうに笑う。その笑顔を見ると、何でも許してしまいそうになる。
ただの友達なのに……ダメ、それ以上になってはダメ。
むかし、むかしのはなし。
まだ、高校生の頃、同じピアノコンクールの常連で同じ先生に習っていた男の子に告白された。
私は特別に思っていなかった。でも、彼が特別に思っているかも知れないと大分前から気付いていた。でも、冷たく出来ないし、困っていた。
付き合えないと断った。
すると、彼が豹変した。断ったのに、抱きついてきたり、手を握ってきたり。
しまいには、彼の演奏もおかしくなっていった。先生はなんとなく気付いていたのだろう。ある日問い詰められた。泣き出した私を背中を撫でながら慰めてくれた。
彼は、ピアノコンクールに出ることはなくなった。そして、教室をやめていった。
怖かった。たまに、コンクールを見に来ていて、挨拶されたりした。あの目。今でも忘れられない。
先生が、恋愛経験はないよりは絶対あったほうがいいという。弾いたときに良い影響があると……。
好きな人を想う気持ちを曲に乗せて作った作曲家もいるし、ショパンのような恋を思い起こさせる曲が多い作曲家を弾く時はそうかもしれないと思うのだ。
でも……怖い。あの時のあの彼の目。そして、執着。忘れられない恐怖。
それ以降、どうしても男性に笑顔を向けるのが怖い。音楽だけに集中しているときが幸せだったのに……。
黎さんはとても素敵な人だ。会えば会うほどそう思う。
見た目はもちろん美男子だと思う。それに、社会的にも有名な会社の御曹司という立場らしい。
女性をエスコートして歩くのも慣れているんだろうと思う。
それに女性に対して、君は特別とか言い慣れていそう。わかっているのに、その言葉を向けられると嬉しい。はあ、どうしよう。
「百合。いいか?」
控え室にいる私を訪ねてきたのはマネージャーの神楽さん。
彼も優しい。気配りが出来る人でとても助かっている。
「はい。どうぞ」
椅子に座ると私にも前に座るよう指示する。
ピアノの前を離れてソファ席に座る。
「百合。堂本のプロジェクトでコンサートが決まった。お前ひとりだ」
「え?」
「ベートーヴェンのソナタ全曲演奏を掲げて全国を回る。レコーディングして先に発売する。発売記念リサイタルとして回るんだ」
びっくりした。この間、私がやりたいこととしてあげたことのひとつだ。
まさか、実現するなんて……堂本さんってすごい。
「……あ、あの。やります、もちろん。頑張ります」
神楽はじっと百合を見つめた。
そして、ため息をついた。
「忙しくなるぞ。練習もしないとレコーディング出来ないし、大学もあるだろ。少し大学とは調整が必要だと思う」
「もちろん覚悟の上です。やりたかったので、嬉しいです」
笑顔の百合を見て、神楽は聞いた。
「この内容。もしかして、お前が堂本に提案したのか?」
「え?」
「前に言ってただろ。ベートーベンのソナタやりたいって」
「……はい、そうです」
下を向いて答える。怒られるかしら。
だって、会社では私より先輩のピアニストが予定しているって聞いていたから、私は出来ないと諦めてた。
だから以前神楽さんには冗談めかして私もいつかやりたいなって言ったのだ。
「はあ。やはりそうか。堂本が絶対やりたいって言うと思うって妙に自信ありげなんだ。おかしいと思ったよ」
「……ごめんなさい」
神楽は百合を見た。申し訳なさそうに小さくなっている。彼女なりに、このプロダクションでの立場を考えている。
いくらコンクールの受賞者であっても、若くてまだ経験が浅いとプライドの高い年配のピアニストに自分のやりたい曲を譲ってくれとも言えないし、同じ曲をレコーディングして同じ時期に発売なんて絶対無理だ。
反面、若いからこそ練習時間も取れるし、伸び盛りだ。
新しい曲の吸収も早い。できるならやらせてやりたいというのが俺の気持ちだ。
残念ながら俺にはまだ権限はない。ただ、今回の出資者の意向というのは上層部には強い。百合はラッキーだ。
「いや。良かったな。堂本に礼を言っておいた方がいいかもな。あいつはあいつで、社内で色々揉まれてるんだろうし……。お前を優先してくれるようプレゼンしたんだろう」
百合は嬉しそうに笑顔を見せた。
「はい。今度お目にかかったときにお礼を言います」
神楽は嫌な予感がしたので、一応かまをかけてみた。
「堂本とは友人として付き合っているんだろ?あれからふたりで会ったのか?」
「……そうです。たまに……勉強に連れて行ってくれます」
「は?勉強ってなんだ?」
「……えっと。絵を見に行ったりして、同時代の作曲家の交流を考えたり、とか」
驚いた。そんなことをしているのか。真面目に百合のためになることを考えているんだとびっくりした。
「へえ。それはすごいね。堂本に誘われて、連れて行ってもらったのか?」
「はい。とても博識なんです。色々教えてもらってます」
目を輝かせて話し出す。
あれも教えてくれた、これも教えてくれた、美味しい店も知っていたとか、色々と彼の話をし出した。
どういうことだ?まさか、美術館だけじゃないのか?
「もしかして、何回か一緒に出かけてる?」
はっとしたような顔をして、口をつぐむ。
「……い、いえ。そんなに出かけてません。大丈夫です」
小さい声で話す。何が大丈夫なものか。
そんなに目を輝かせて話すこと自体、ちっとも大丈夫じゃないと神楽は焦った。
「百合。もしかして、堂本のこと意識してる?」
彼女ははじかれたように顔を上げた。そして、頬を赤らめた。
「……っ!」
神楽は目の前の百合を見て、ギリギリと歯を食いしばった。
恐れていたことが起きた。すると、急に百合が言う。
「あ、あの。意識とかしてません。ただのお友達です。心配ないですから……」
早口でまくしたてる。言い訳する子供みたいだ。神楽は今しかないと決心した。
「……百合。俺、お前のこと実は女として意識してる。今まで言わないできたが、少し考えてくれないか?」
「え?」
百合はびっくりした。思いもしない発言だった。
「お前は音楽が一番大切だろ?今まで支えてきたが、男性関係は影が見当たらなかったから、音楽一筋だったんだろ?俺はお前の大事な音楽を近くで支えてやれるし、プライベートも管理してやれる。お前は俺のこと嫌いではなさそうだし。俺の思い上がりかな……素顔を見せるくらい心を許してくれていると思っているのは……」
百合は彼をじっと見つめた。とても緊張しながら話している姿を初めて見た。下を向いて、返事を待っている。
「神楽さん」
「ああ」
「私、ご想像通り男性経験はほぼないです。片思いもあまりしたことない。この歳なのに恥ずかしいです。それに、知識も偏っていて、自分に自信がないの。神楽さんは私にとってとても良いマネージャーです。ただ、お付き合いする関係には……今はなれそうもないです。ごめんなさい」
「百合」
「はい」
「いいんだ。今すぐじゃなくても。お前は自分のペースがあるし、俺の気持ちを知っていて欲しい。そしていつかお前も俺に気持ちを預けたいと思ったら言って欲しい。別にすぐにお前と付き合えるとは思っていないよ。百合は俺のこと意識なんてしてないのわかってるからな」
百合はじっと彼を見つめ、わかりましたとうなずいた。
「ただ、何故俺が今告白したか、わかるよな。堂本にお前を取られるのだけは嫌なんだ」
「……そんな……」
「それだけは言いたかった。あいつにはない、俺と百合との関係をよく考えて欲しい。頼む」
百合は自分が堂本を意識しているなんて、ひと言も言ってないのに、何故神楽がそう思い込んでいるのか不思議だった。
その時は、深く考えていなかった。自分にとって、堂本黎がどれだけ大事な人になっていたのかを。
出て行く神楽を見つめながら、百合はとりあえずベートーヴェンのソナタ全曲演奏のことを考えようと頭を切り替えた。
異性関係のことは面倒だから、いつもこうやって音楽にすり替えて忘れてきた。
今回も忙しくなるし、大丈夫とひとり納得させていた。部屋からはベートーヴェンのソナタが漏れ聞こえはじめた。
神楽はその音を聞きながら、振り向いて呟いた。
「絶対に、堂本には渡さないぞ、百合……」
その夜。彼から電話があった。
「百合さん。ベートーヴェンのソナタ全曲演奏の話、神楽から聞いた?」
「はい!聞きました!ありがとうございました。とても嬉しかったです」
本当に嬉しいんだなとわかるくらい、声が一オクターブ上がっていた。
黎も彼女がこんなに喜んでくれるなら、社内で話を持っていくのに苦労した甲斐があったし、嬉しかった。
「それで、これから忙しくなります。練習してレコーディングしなくちゃいけないし、ツアーに出るまでに大学の講義も調整しないといけないので……」
「そうだな。今度は地方で一緒に食事へ行こう」
「え?どういう意味?」
「君のリサイタルを出来る限り聴きに行くからね。スポンサーだからさ」
「本当に?」
「もちろんだよ。休日だったとしても、プライベートでも行きたいからね。チケット代はタダだし、行かない手はないだろ?」
「……あの。ツアーは同じ曲を数カ所で弾くから、あんまり何度も来ても意味がないですよ」
「君に会うのが一番の意味だ。なにしろ、友達だからね」
そうかしら?友達だって、普通ツアー中は一カ所しか来ないわよ。
黙っている百合を心配して黎は話しかけた。
「そうだ、あさってのコンサートを見に行く前、一緒に行きたいところがあるんだけど、時間あるかな?なければコンサート終わってからでもいいんだ」
「何時頃になりますか?どこ行くの?」
「……まだ内緒だ。どう?」
「コンサートの後でもいいかしら?ちょっと、私も準備があるから」
「うん。そこで一緒に食事も出来る。じゃあ、コンサートの後にしよう。じゃあ、あさってね。楽しみにしてる」
黎との電話はそれで切れた。
百合はじっと考えた。何かな?連れて行きたい所って。いつも、連れて行ってくれるレストランも素敵なところばかり。
わくわくする自分に百合は気付いていない。何を着ていこう、どんな靴で、どんなバッグでと考えるようになったのは最近。
今日も、またそんなことを想像しながら眠りに就くのだった。
黎は、彼女を連れてきたいと思っている部屋にいた。母の思い出の部屋だ。
ここは、実家とは別で母が借りていたマンションの一室。父が浮気を繰り返すたび、ここに来て彼女が心をリセットしていた部屋だ。
黎も一緒に来ていたこともある。だから、生活も出来るようになっているのだ。いずれ、ここでひとり暮らしをしたいと言ったのだが、中々実現しない。
忙しいのもあって、ひとりだと食生活から何から何までお手伝いさん頼みだった自分に出来ないこともわかっていたからだ。
窓に面したリビングには母の白いピアノがある。母はよくこの部屋で好きなクラシックを聴いて、ピアノを弾いたりしていた。
娘時代にピアノを習っていたらしく、気まぐれに弾くのが趣味だった。唯一お金をかけたところは防音設備を入れていること。夜、家を抜け出して来ても弾けるように……。
百合さえ良かったら、時々この部屋を使ってもらい、ピアノを弾いてもらおうと思っている。
母が英国へ渡るとき、黎が自分の代わりにこの部屋を管理しておいてほしいと言われたのだ。ピアノは弾かないと悪くなる。
黎の母は黎の音楽好きは自分の影響だというのもわかっている。そして、たまに黎が父親から離れる場所を作ってあげたいと言ってくれた。
父が黎を後継者として大事に育てているのはわかるが、長男としての重圧を理解出来ていないといつも黎を心配してくれていた。この部屋で自分を解放しなさいと言ってくれた。
百合に母を重ねているわけではないが、この部屋を預けてもいいと思えるのだ。
もちろん、彼女が使いたいときに来てくれて弾いて帰ってくれるだけでいいのだ。
自分と約束しなくても、使って欲しい。自由に使えるよう合鍵を渡すつもりだ。
もちろん下心が全くないとは言わないが、普段のピアノを弾く百合を見てみたい。
もし、彼女が合鍵を受け取ってくれたら、関係も一歩前へ進めるだろう。
彼女の気持ちが全くなければ受け取らないとわかっているからだ。
あさってを楽しみにしているのは黎のほうだった。
それは、もちろん黎のこと。
先々週は美術館へ行った。昨日はオペラ。
とても勉強になった。そして……楽しかった。
どうしよう。また……約束してしまった。勉強のためだよって、あの顔で私に言うの。
友達だから、いいだろって言うの……あの笑顔で。
迷っている私を笑うように見ている。
そして、私の片手を左手で握ってポンポンと右手で叩くの。大丈夫だよって。
はあ。
またため息が出てしまう。だって、何か勉強とは違うと思うの。
やっぱり、なんとなく自信過剰かもしれないけど、いっつも特別だよって言って何か買ってくれたり、プレゼントくれたり。
私は友達にそんなにプレゼントしないって怒ったの。プレゼントは誕生日とか、特別なときだけ。だから、やめてって頼んだ。
そうしたら、悲しそうな顔をする。もう、どうしたらいいの。今回だけよって言うと嬉しそうに笑う。その笑顔を見ると、何でも許してしまいそうになる。
ただの友達なのに……ダメ、それ以上になってはダメ。
むかし、むかしのはなし。
まだ、高校生の頃、同じピアノコンクールの常連で同じ先生に習っていた男の子に告白された。
私は特別に思っていなかった。でも、彼が特別に思っているかも知れないと大分前から気付いていた。でも、冷たく出来ないし、困っていた。
付き合えないと断った。
すると、彼が豹変した。断ったのに、抱きついてきたり、手を握ってきたり。
しまいには、彼の演奏もおかしくなっていった。先生はなんとなく気付いていたのだろう。ある日問い詰められた。泣き出した私を背中を撫でながら慰めてくれた。
彼は、ピアノコンクールに出ることはなくなった。そして、教室をやめていった。
怖かった。たまに、コンクールを見に来ていて、挨拶されたりした。あの目。今でも忘れられない。
先生が、恋愛経験はないよりは絶対あったほうがいいという。弾いたときに良い影響があると……。
好きな人を想う気持ちを曲に乗せて作った作曲家もいるし、ショパンのような恋を思い起こさせる曲が多い作曲家を弾く時はそうかもしれないと思うのだ。
でも……怖い。あの時のあの彼の目。そして、執着。忘れられない恐怖。
それ以降、どうしても男性に笑顔を向けるのが怖い。音楽だけに集中しているときが幸せだったのに……。
黎さんはとても素敵な人だ。会えば会うほどそう思う。
見た目はもちろん美男子だと思う。それに、社会的にも有名な会社の御曹司という立場らしい。
女性をエスコートして歩くのも慣れているんだろうと思う。
それに女性に対して、君は特別とか言い慣れていそう。わかっているのに、その言葉を向けられると嬉しい。はあ、どうしよう。
「百合。いいか?」
控え室にいる私を訪ねてきたのはマネージャーの神楽さん。
彼も優しい。気配りが出来る人でとても助かっている。
「はい。どうぞ」
椅子に座ると私にも前に座るよう指示する。
ピアノの前を離れてソファ席に座る。
「百合。堂本のプロジェクトでコンサートが決まった。お前ひとりだ」
「え?」
「ベートーヴェンのソナタ全曲演奏を掲げて全国を回る。レコーディングして先に発売する。発売記念リサイタルとして回るんだ」
びっくりした。この間、私がやりたいこととしてあげたことのひとつだ。
まさか、実現するなんて……堂本さんってすごい。
「……あ、あの。やります、もちろん。頑張ります」
神楽はじっと百合を見つめた。
そして、ため息をついた。
「忙しくなるぞ。練習もしないとレコーディング出来ないし、大学もあるだろ。少し大学とは調整が必要だと思う」
「もちろん覚悟の上です。やりたかったので、嬉しいです」
笑顔の百合を見て、神楽は聞いた。
「この内容。もしかして、お前が堂本に提案したのか?」
「え?」
「前に言ってただろ。ベートーベンのソナタやりたいって」
「……はい、そうです」
下を向いて答える。怒られるかしら。
だって、会社では私より先輩のピアニストが予定しているって聞いていたから、私は出来ないと諦めてた。
だから以前神楽さんには冗談めかして私もいつかやりたいなって言ったのだ。
「はあ。やはりそうか。堂本が絶対やりたいって言うと思うって妙に自信ありげなんだ。おかしいと思ったよ」
「……ごめんなさい」
神楽は百合を見た。申し訳なさそうに小さくなっている。彼女なりに、このプロダクションでの立場を考えている。
いくらコンクールの受賞者であっても、若くてまだ経験が浅いとプライドの高い年配のピアニストに自分のやりたい曲を譲ってくれとも言えないし、同じ曲をレコーディングして同じ時期に発売なんて絶対無理だ。
反面、若いからこそ練習時間も取れるし、伸び盛りだ。
新しい曲の吸収も早い。できるならやらせてやりたいというのが俺の気持ちだ。
残念ながら俺にはまだ権限はない。ただ、今回の出資者の意向というのは上層部には強い。百合はラッキーだ。
「いや。良かったな。堂本に礼を言っておいた方がいいかもな。あいつはあいつで、社内で色々揉まれてるんだろうし……。お前を優先してくれるようプレゼンしたんだろう」
百合は嬉しそうに笑顔を見せた。
「はい。今度お目にかかったときにお礼を言います」
神楽は嫌な予感がしたので、一応かまをかけてみた。
「堂本とは友人として付き合っているんだろ?あれからふたりで会ったのか?」
「……そうです。たまに……勉強に連れて行ってくれます」
「は?勉強ってなんだ?」
「……えっと。絵を見に行ったりして、同時代の作曲家の交流を考えたり、とか」
驚いた。そんなことをしているのか。真面目に百合のためになることを考えているんだとびっくりした。
「へえ。それはすごいね。堂本に誘われて、連れて行ってもらったのか?」
「はい。とても博識なんです。色々教えてもらってます」
目を輝かせて話し出す。
あれも教えてくれた、これも教えてくれた、美味しい店も知っていたとか、色々と彼の話をし出した。
どういうことだ?まさか、美術館だけじゃないのか?
「もしかして、何回か一緒に出かけてる?」
はっとしたような顔をして、口をつぐむ。
「……い、いえ。そんなに出かけてません。大丈夫です」
小さい声で話す。何が大丈夫なものか。
そんなに目を輝かせて話すこと自体、ちっとも大丈夫じゃないと神楽は焦った。
「百合。もしかして、堂本のこと意識してる?」
彼女ははじかれたように顔を上げた。そして、頬を赤らめた。
「……っ!」
神楽は目の前の百合を見て、ギリギリと歯を食いしばった。
恐れていたことが起きた。すると、急に百合が言う。
「あ、あの。意識とかしてません。ただのお友達です。心配ないですから……」
早口でまくしたてる。言い訳する子供みたいだ。神楽は今しかないと決心した。
「……百合。俺、お前のこと実は女として意識してる。今まで言わないできたが、少し考えてくれないか?」
「え?」
百合はびっくりした。思いもしない発言だった。
「お前は音楽が一番大切だろ?今まで支えてきたが、男性関係は影が見当たらなかったから、音楽一筋だったんだろ?俺はお前の大事な音楽を近くで支えてやれるし、プライベートも管理してやれる。お前は俺のこと嫌いではなさそうだし。俺の思い上がりかな……素顔を見せるくらい心を許してくれていると思っているのは……」
百合は彼をじっと見つめた。とても緊張しながら話している姿を初めて見た。下を向いて、返事を待っている。
「神楽さん」
「ああ」
「私、ご想像通り男性経験はほぼないです。片思いもあまりしたことない。この歳なのに恥ずかしいです。それに、知識も偏っていて、自分に自信がないの。神楽さんは私にとってとても良いマネージャーです。ただ、お付き合いする関係には……今はなれそうもないです。ごめんなさい」
「百合」
「はい」
「いいんだ。今すぐじゃなくても。お前は自分のペースがあるし、俺の気持ちを知っていて欲しい。そしていつかお前も俺に気持ちを預けたいと思ったら言って欲しい。別にすぐにお前と付き合えるとは思っていないよ。百合は俺のこと意識なんてしてないのわかってるからな」
百合はじっと彼を見つめ、わかりましたとうなずいた。
「ただ、何故俺が今告白したか、わかるよな。堂本にお前を取られるのだけは嫌なんだ」
「……そんな……」
「それだけは言いたかった。あいつにはない、俺と百合との関係をよく考えて欲しい。頼む」
百合は自分が堂本を意識しているなんて、ひと言も言ってないのに、何故神楽がそう思い込んでいるのか不思議だった。
その時は、深く考えていなかった。自分にとって、堂本黎がどれだけ大事な人になっていたのかを。
出て行く神楽を見つめながら、百合はとりあえずベートーヴェンのソナタ全曲演奏のことを考えようと頭を切り替えた。
異性関係のことは面倒だから、いつもこうやって音楽にすり替えて忘れてきた。
今回も忙しくなるし、大丈夫とひとり納得させていた。部屋からはベートーヴェンのソナタが漏れ聞こえはじめた。
神楽はその音を聞きながら、振り向いて呟いた。
「絶対に、堂本には渡さないぞ、百合……」
その夜。彼から電話があった。
「百合さん。ベートーヴェンのソナタ全曲演奏の話、神楽から聞いた?」
「はい!聞きました!ありがとうございました。とても嬉しかったです」
本当に嬉しいんだなとわかるくらい、声が一オクターブ上がっていた。
黎も彼女がこんなに喜んでくれるなら、社内で話を持っていくのに苦労した甲斐があったし、嬉しかった。
「それで、これから忙しくなります。練習してレコーディングしなくちゃいけないし、ツアーに出るまでに大学の講義も調整しないといけないので……」
「そうだな。今度は地方で一緒に食事へ行こう」
「え?どういう意味?」
「君のリサイタルを出来る限り聴きに行くからね。スポンサーだからさ」
「本当に?」
「もちろんだよ。休日だったとしても、プライベートでも行きたいからね。チケット代はタダだし、行かない手はないだろ?」
「……あの。ツアーは同じ曲を数カ所で弾くから、あんまり何度も来ても意味がないですよ」
「君に会うのが一番の意味だ。なにしろ、友達だからね」
そうかしら?友達だって、普通ツアー中は一カ所しか来ないわよ。
黙っている百合を心配して黎は話しかけた。
「そうだ、あさってのコンサートを見に行く前、一緒に行きたいところがあるんだけど、時間あるかな?なければコンサート終わってからでもいいんだ」
「何時頃になりますか?どこ行くの?」
「……まだ内緒だ。どう?」
「コンサートの後でもいいかしら?ちょっと、私も準備があるから」
「うん。そこで一緒に食事も出来る。じゃあ、コンサートの後にしよう。じゃあ、あさってね。楽しみにしてる」
黎との電話はそれで切れた。
百合はじっと考えた。何かな?連れて行きたい所って。いつも、連れて行ってくれるレストランも素敵なところばかり。
わくわくする自分に百合は気付いていない。何を着ていこう、どんな靴で、どんなバッグでと考えるようになったのは最近。
今日も、またそんなことを想像しながら眠りに就くのだった。
黎は、彼女を連れてきたいと思っている部屋にいた。母の思い出の部屋だ。
ここは、実家とは別で母が借りていたマンションの一室。父が浮気を繰り返すたび、ここに来て彼女が心をリセットしていた部屋だ。
黎も一緒に来ていたこともある。だから、生活も出来るようになっているのだ。いずれ、ここでひとり暮らしをしたいと言ったのだが、中々実現しない。
忙しいのもあって、ひとりだと食生活から何から何までお手伝いさん頼みだった自分に出来ないこともわかっていたからだ。
窓に面したリビングには母の白いピアノがある。母はよくこの部屋で好きなクラシックを聴いて、ピアノを弾いたりしていた。
娘時代にピアノを習っていたらしく、気まぐれに弾くのが趣味だった。唯一お金をかけたところは防音設備を入れていること。夜、家を抜け出して来ても弾けるように……。
百合さえ良かったら、時々この部屋を使ってもらい、ピアノを弾いてもらおうと思っている。
母が英国へ渡るとき、黎が自分の代わりにこの部屋を管理しておいてほしいと言われたのだ。ピアノは弾かないと悪くなる。
黎の母は黎の音楽好きは自分の影響だというのもわかっている。そして、たまに黎が父親から離れる場所を作ってあげたいと言ってくれた。
父が黎を後継者として大事に育てているのはわかるが、長男としての重圧を理解出来ていないといつも黎を心配してくれていた。この部屋で自分を解放しなさいと言ってくれた。
百合に母を重ねているわけではないが、この部屋を預けてもいいと思えるのだ。
もちろん、彼女が使いたいときに来てくれて弾いて帰ってくれるだけでいいのだ。
自分と約束しなくても、使って欲しい。自由に使えるよう合鍵を渡すつもりだ。
もちろん下心が全くないとは言わないが、普段のピアノを弾く百合を見てみたい。
もし、彼女が合鍵を受け取ってくれたら、関係も一歩前へ進めるだろう。
彼女の気持ちが全くなければ受け取らないとわかっているからだ。
あさってを楽しみにしているのは黎のほうだった。
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