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亀裂
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お互いに父親という大きな障害を抱えていたが、会えば不安を吹き飛ばす意味も含めて親密さが増していった。
だが、時間はそうなかった。
神楽と話し合った百合は、地方回りの後に海外公演が入っていることを利用して、父親の後援会で弾いた後、その夜の便で最初の訪問国になるアメリカへ少し早く入ることに決めた。
後援会の後にすぐに発表となる百合の素性を本人に取材させないためだった。
百合が地方から東京へ戻ってきた夜。黎は百合と久しぶりにマンションで会った。
「黎。話したいことがあります」
夕食の後、部屋で向き合った。最近はすっかり恋人同士となって、百合は黎のことを普段も呼び捨てするまでになっていた。
「ああ。君の生い立ちのことならわかっているから話さなくていいよ」
百合は悲しげな目を向けた。
「父が言っていた通りですね。お父様から反対されたでしょ。わたしのことを調べている記者がいて、黎のことも何か言っていたそうです。黙っていてごめんなさい」
黎は百合の両手をつかんで自分の膝に置いた。
「百合。そんなことは問題じゃない。君のお父さんやうちの父に了承を得ないと付き合えないような関係じゃないだろ?世間に何を言われようと恥ずかしいことなんて何ひとつしていない。いいか、後ろ向きになるな。辛いことからは俺が守ってやる」
「ありがとう。気持ちは嬉しい。でも、きっと一騒動起きる。父は私を利用する気だし、記者はそういう父を利用する気だわ。私は自分で記者会見を開くようなことはしたくない。でも、人様にさらすような経歴ではないし、亡くなった母の名誉のためにも余計な中傷は避けたいの。週末の後援会での演奏が終わり次第、アメリカへ早めに起ちます」
「……わかった。二週間くらいだっけ?海外公演予定は」
「ええ。でもその間、黎にも記者が来るかも知れない。本当に気をつけてね」
黎は彼女を抱き寄せた。背中をさすってやる。
「百合。俺のことは心配するな。父が今マスコミへ手を回している。それに何を聞かれても君のことは答えないから安心しろ。プロダクションとの資金提供契約は打ち切るが、俺自身が援助してやるから心配するなよ。これでも金持ちなんだ」
百合は彼を見た。ニヒルに微笑む黎を百合は相変わらず無敵だと思う。
「お金持ちのお坊ちゃま。私には身分違いだわ。今だって、カボチャの馬車に乗って、シンデレラになっているだけかもしれない」
「百合!そういうことを言うなって言っているだろ?俺が選んだのはお前だけだ。愛してるんだ、百合」
「知ってるわ。私の王子様。私も黎を愛してる。だからこそ、あなたを巻き込みたくなかった」
百合は黎を頬を両手で囲ってキスを落とした。
ぎゅっと抱き合ってそのまま黎が覆い被さった。
「それなら、このままふたりでどこかに逃げるか?百合とふたりなら逃げてもいいぞ」
百合の素肌を撫でながら、耳元で囁く。
「そうね。あなたとならどこでも行けるわ。黎、大好きよ、愛してしまったの……ごめんなさい」
黎は目をむいて百合をなじる。
「何で謝っているんだ。俺を好きになったのは間違いか?」
「そうね。わかっていたのに、愛してしまった。後戻り出来ないところまで……でも……」
黎はキスをして口を塞いだ。
「百合はしゃべるとマイナスなことばかり言う。俺を愛してるってそれだけ言ってろ。それ以外口にしたらキスするぞ」
「……黎、愛してる」
もう言葉はいらなかった。ふたりはむさぼるようにお互いを求めた。
翌日、大学へ行っている間に神楽と黎は会った。
「堂本。資本提携を破棄したいという社長からの意見書が届いている。うちの代表は目を通していて、違約金の支払いなどきちんと応じてくれることを確認して、契約解除を受け入れるということだった」
「……その件だが。とにかくすまない。俺の力不足だ。だが、百合への援助は俺の個人資産でやるつもりだ」
「堂本。実は色々あって百合の父親が今後後ろ盾となって資金提供すると言っている。事務所ではなく、おそらく百合本人にだけかもしれないが……」
「……百合から少し聞いている。今週末、後援会で弾くらしいな」
「ああ。ようやく了解してくれた。そうでもしないと、いらぬ腹を探られかねない。父親の言いなりになるのが嫌なのはわかるんだが、背に腹は代えられないんだ」
百合が泣きながら告白してくれた夕べのことを黎は思い出すだけで辛かった。
「支援者の前での演奏を含め海外公演でも百合のことをよろしく頼む。何かあれば言ってくれ。堂本の海外支社もあるし、助けられる」
神楽は堂本が百合を手放す気がないのを改めて認識した。
「堂本、お前……親父さんからかなり交際反対されてるんだろ。今回の契約解除もそうだ。百合のことをお前の父親が許すはずない。どうする気なんだ」
「それこそ心配無用だ。百合は俺が守る。百合自身は何も悪くないのに、親のせいで俺との付き合いまで邪魔されるなんて許されていいことじゃない」
「……まあ、理屈はそうだが」
黎の気持ちはわかる。だが、神楽は百合のためにもこの交際は反対だった。
ピアニストとしての未来を断たれてしまいかねないと危惧していたのだ。
百合は予定通り後援会での演奏後日本を離れた。
記事の反響は大きかった。母親については、すでに他界しているので詳しく書くことは控えられていた。
また、突き止めたとしても亡くなっている前妻を攻撃することは控えられた。
大臣のにらみもきいたのか、百合の心配していた母の職業については表沙汰にならずすんだ。
だが、交際に関しては堂本のほうがいくらもみ消しても、資金提供していた事実や百合と黎の一緒にいる姿をやはり目撃している人が多く、そちらのほうが大きな噂となっていた。
元々、社交界のようなところで黎が有名人だったこともあって、百合が資金提供自体の理由だったと噂に大きな尾ひれがついて話が回っていた。
そして、実は愛人の娘だという話も百合を調べたところから漏れはじめていた。
海外で神楽は事務所を通してそういった状況を連絡してもらい知っていた。
百合は神楽からその話を聞いて、メールや電話では何も心配ないと言い張る黎の話は自分を安心させるために彼が言っているのだとわかり悲しかった。
「神楽さん。私、堂本さんと別れます」
「百合……いいのか?」
「わかっていたこと。最初から、こうなるのはわかっていたのに……彼に別な結婚相手が現れて捨てられる前に、自分から別れたい」
百合の悲痛な顔を見て、神楽は悲しかった。だからこそ、反対したのに。
「百合。決めたなら何も言わない。俺はいつでもお前の側にいる。頼ってくれていいんだ。前も話してあるだろ?堂本とはだから反対していたんだよ。あいつもお前とは違った意味で普通の家ではないんだ。こうなることは遅かれ早かれ想像できた」
「日本へ帰る前に別れのメールをします。友達に戻りたいと伝えますので、何かあったら助けて下さい」
「ああ、もちろんだ。何でも言ってくれ。力になる。堂本も俺の知り合いだし、何とでもする」
その頃。
黎は仕事でも百合のことを雑談のように聞かれることが増えてきていた。
噂好きの社交界の女性達は、黎から長い間袖にされてきたので腹いせも手伝って、百合のことを悪く言う人もいた。
最近、百合から電話もないし、メールもない。日本の状況は心配いらないと伝えたが、もしや何か耳にしているのかもしれないとその頃になって不安になってきた。
父との約束の一年まであと三ヶ月しかない。黎は焦りはじめた。本当はこんなはずではなかった。正直今頃プロポーズしている計算だった。
柿崎からこんなことを言われた。
「黎様。栗原さんとの交際を社長は決して許さないと私におっしゃっておられます。彼女に何かすることはないと思いますが、きちんと社長と話し合う必要はあるかもしれません」
そう言ってから、少し置いて俺をじっと見て小さい声で話し出した。久しぶりに聞いた話し方。幼い頃友達だった彼が現れた。
「俺はあなたの仕事上の部下ですが、長い間側で見てきた友人として今は話します。やっと見つけた大切な人なんでしょ?俺と奈津は黎様の味方です。実はイギリスの奥様に奈津が話をしてあります。奥様は黎様の最大の味方ですからね。勝手なことをしてすみません。でも、社長を敵に回すには準備がいります。何でも相談して欲しい」
嬉しかった。そうだ、味方がいた……こんな近くに。母がいれば、きっと百合のことを応援してくれたはずだ。
「柿崎。いや、勇。ありがとう。久しぶりにお前が友人として俺を見てくれたことに感謝するよ。いつも部下にさせてすまない。ふたりでいるときは今のように友達に戻ってくれ。今の話、どれだけ嬉しかったか。奈津にもよろしく言ってくれ。感謝してる。母はなんて?」
「社長のことを、あの人は本当に困った人ね、と……女性を泣かせるのはだめだと黎様に伝えてと言われたそうです」
母の声が耳に聞こえるようだった。
このままでは、帰ってきた百合を泣かせることになるもしれない。彼女がプロポーズに応じないだろう。これだけ噂や父の反対があれば、神楽だって反対する。
黎はそれから考えた。どうすればいいのかを……。
部屋でその時も考えていた。すると、久しぶりに百合からメールが来た。嬉しくてすぐに見た。
ところが、近況を綴り、自分のことを聞いた後、最後に信じられない一文を見つけた。何度も見間違いかと繰り返しそこを読んだ。
『日本の状況は耳にしています。黎、迷惑かけてごめんなさい。あなたとは今日を限りに友達へ戻ります。来週日本に帰ったら、その時は友人として迎えて下さい。私は誰に何を聞かれてもあなたは大切な友人だと伝えます』
黎は携帯電話を放り投げた。そして、手で頭を覆い、狼のようにうなり声を上げた。
「うああー!!」
驚いた使用人が何事かとノックをする。黎は返事をしない。
しかし、何かすごい物音がする。
バン、ドカン、ガンッ!
使用人は驚いて、柿崎を呼びにいった。
黎は手を握りしめ、顔を真っ赤にして震えていた。
「……ともだち、だと?ふざけるな!百合、逃げようとしても無駄だ。絶対に逃がさない」
トントン。
「黎様、どうしました?!」
「……柿崎か。入れ」
柿崎は部屋へ入って驚いた。机のうえの書類はバラバラと下に落ちている。
ノートパソコンもひっくり返って落ちている。
椅子は蹴られたのか、ひっくり返っている。携帯電話が壁に当たって落ちている。画面が割れていた。
それどころか、壁に穴が空いている。
主を見て、また驚いた。こんな顔の黎をいまだかつて見たことがなかった。怖い。般若のようだった。
「……れ、黎様……な、なにかあったんですね?お、落ち着いてください……」
柿崎は足が止まり、近づけなかった。
とにかく、黎の怒りがすさまじく、こちらに飛び火して燃えてしまうのではないかとおびえた。
「柿崎。契約書を書いてもらいたい」
低い声で何か言っている。聞こえない。
「あ、あの?なんて?」
こちらをじろりと見た。震え上がる。
「契約書だ。やりたくはないが、それしかない。そうだ、契約なら文句あるまい」
「……は?何の契約書でしょうか?」
「とにかく、ここを片づけて、いや、お前ちょっと入れ。そこを閉めて鍵をしろ」
柿崎は怖かった。何で鍵?
「おい、勇。大丈夫だ。すまん、驚かせたな」
普通の黎に戻った。ため息を吐いて、黎を見る。言われたとおりにしようと諦めた。
机を直し、向かい合って座る。
机の端に傷が付いている。倒したときにパソコンで付いたのかもしれない。ため息しか出ない。
柿崎は言われたとおり、契約書のひな形を出して確認する。
「黎様。どういった契約書になりますか?」
黎は怖い顔をして笑っている。
いったいなんだ?柿崎は見たことのない彼を刺激しないよう静かに見ている。
「そうだな。『契約結婚』の契約書だ」
柿崎は驚いて顔を上げると、黎を凝視した。何だと?なんと言った?契約……結婚?!
「黎様落ち着いて下さい。どうしたんですか?自分で何を言ってるかわかってないでしょう?」
柿崎は立ち上がり、黎に言った。
やはり、おかしくなった。最近の黎を見て心配していた。
彼女のことをいじられ続け、ポーカーフェイスでかわし続ける主を痛々しく見ていた。
いつか、彼女のことでおかしくなるのではないかと心配していた矢先だった。
「……よく分かっている。心配無用だ。柿崎、百合が別れたいと言ってきた……なんと、友達に戻るそうだ……ははっ」
自虐的な微笑みを浮かべ話す黎を、柿崎は凍り付いて見ていた。そういうことかと柿崎は納得した。
「誰かに何か余計なことを吹き込まれたとしてもそれだけは許せない。俺がどれだけ我慢をして今耐えていると思う。全部百合のためだ。それなのに彼女は俺を信用していない。迷惑だと?別れたら俺がどうなるか考えていない。迷惑はどっちだ、ええ?」
また、ヒートアップしていく黎を肩を押さえてなだめる。
「落ち着いて下さい。わかりました。やりたいことはすぐにわかりました。いいんじゃないですか?それなら嫌とはいえませんよ。どんな契約にします?」
「うるさく言う奴らに俺が誰かわからせてやる。百合も俺と別れるなんてできるはずない。どうせ別れたらすぐにおかしくなるに決まっている。お互い様なんだよ」
ブツブツ言う黎をじっと見る。
柿崎はその話をしながら、黎は恐ろしいほど頭がいいと今更ながらに知るのである。
自分は味方で良かったと、そんなことを思いながら……。
だが、時間はそうなかった。
神楽と話し合った百合は、地方回りの後に海外公演が入っていることを利用して、父親の後援会で弾いた後、その夜の便で最初の訪問国になるアメリカへ少し早く入ることに決めた。
後援会の後にすぐに発表となる百合の素性を本人に取材させないためだった。
百合が地方から東京へ戻ってきた夜。黎は百合と久しぶりにマンションで会った。
「黎。話したいことがあります」
夕食の後、部屋で向き合った。最近はすっかり恋人同士となって、百合は黎のことを普段も呼び捨てするまでになっていた。
「ああ。君の生い立ちのことならわかっているから話さなくていいよ」
百合は悲しげな目を向けた。
「父が言っていた通りですね。お父様から反対されたでしょ。わたしのことを調べている記者がいて、黎のことも何か言っていたそうです。黙っていてごめんなさい」
黎は百合の両手をつかんで自分の膝に置いた。
「百合。そんなことは問題じゃない。君のお父さんやうちの父に了承を得ないと付き合えないような関係じゃないだろ?世間に何を言われようと恥ずかしいことなんて何ひとつしていない。いいか、後ろ向きになるな。辛いことからは俺が守ってやる」
「ありがとう。気持ちは嬉しい。でも、きっと一騒動起きる。父は私を利用する気だし、記者はそういう父を利用する気だわ。私は自分で記者会見を開くようなことはしたくない。でも、人様にさらすような経歴ではないし、亡くなった母の名誉のためにも余計な中傷は避けたいの。週末の後援会での演奏が終わり次第、アメリカへ早めに起ちます」
「……わかった。二週間くらいだっけ?海外公演予定は」
「ええ。でもその間、黎にも記者が来るかも知れない。本当に気をつけてね」
黎は彼女を抱き寄せた。背中をさすってやる。
「百合。俺のことは心配するな。父が今マスコミへ手を回している。それに何を聞かれても君のことは答えないから安心しろ。プロダクションとの資金提供契約は打ち切るが、俺自身が援助してやるから心配するなよ。これでも金持ちなんだ」
百合は彼を見た。ニヒルに微笑む黎を百合は相変わらず無敵だと思う。
「お金持ちのお坊ちゃま。私には身分違いだわ。今だって、カボチャの馬車に乗って、シンデレラになっているだけかもしれない」
「百合!そういうことを言うなって言っているだろ?俺が選んだのはお前だけだ。愛してるんだ、百合」
「知ってるわ。私の王子様。私も黎を愛してる。だからこそ、あなたを巻き込みたくなかった」
百合は黎を頬を両手で囲ってキスを落とした。
ぎゅっと抱き合ってそのまま黎が覆い被さった。
「それなら、このままふたりでどこかに逃げるか?百合とふたりなら逃げてもいいぞ」
百合の素肌を撫でながら、耳元で囁く。
「そうね。あなたとならどこでも行けるわ。黎、大好きよ、愛してしまったの……ごめんなさい」
黎は目をむいて百合をなじる。
「何で謝っているんだ。俺を好きになったのは間違いか?」
「そうね。わかっていたのに、愛してしまった。後戻り出来ないところまで……でも……」
黎はキスをして口を塞いだ。
「百合はしゃべるとマイナスなことばかり言う。俺を愛してるってそれだけ言ってろ。それ以外口にしたらキスするぞ」
「……黎、愛してる」
もう言葉はいらなかった。ふたりはむさぼるようにお互いを求めた。
翌日、大学へ行っている間に神楽と黎は会った。
「堂本。資本提携を破棄したいという社長からの意見書が届いている。うちの代表は目を通していて、違約金の支払いなどきちんと応じてくれることを確認して、契約解除を受け入れるということだった」
「……その件だが。とにかくすまない。俺の力不足だ。だが、百合への援助は俺の個人資産でやるつもりだ」
「堂本。実は色々あって百合の父親が今後後ろ盾となって資金提供すると言っている。事務所ではなく、おそらく百合本人にだけかもしれないが……」
「……百合から少し聞いている。今週末、後援会で弾くらしいな」
「ああ。ようやく了解してくれた。そうでもしないと、いらぬ腹を探られかねない。父親の言いなりになるのが嫌なのはわかるんだが、背に腹は代えられないんだ」
百合が泣きながら告白してくれた夕べのことを黎は思い出すだけで辛かった。
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神楽は堂本が百合を手放す気がないのを改めて認識した。
「堂本、お前……親父さんからかなり交際反対されてるんだろ。今回の契約解除もそうだ。百合のことをお前の父親が許すはずない。どうする気なんだ」
「それこそ心配無用だ。百合は俺が守る。百合自身は何も悪くないのに、親のせいで俺との付き合いまで邪魔されるなんて許されていいことじゃない」
「……まあ、理屈はそうだが」
黎の気持ちはわかる。だが、神楽は百合のためにもこの交際は反対だった。
ピアニストとしての未来を断たれてしまいかねないと危惧していたのだ。
百合は予定通り後援会での演奏後日本を離れた。
記事の反響は大きかった。母親については、すでに他界しているので詳しく書くことは控えられていた。
また、突き止めたとしても亡くなっている前妻を攻撃することは控えられた。
大臣のにらみもきいたのか、百合の心配していた母の職業については表沙汰にならずすんだ。
だが、交際に関しては堂本のほうがいくらもみ消しても、資金提供していた事実や百合と黎の一緒にいる姿をやはり目撃している人が多く、そちらのほうが大きな噂となっていた。
元々、社交界のようなところで黎が有名人だったこともあって、百合が資金提供自体の理由だったと噂に大きな尾ひれがついて話が回っていた。
そして、実は愛人の娘だという話も百合を調べたところから漏れはじめていた。
海外で神楽は事務所を通してそういった状況を連絡してもらい知っていた。
百合は神楽からその話を聞いて、メールや電話では何も心配ないと言い張る黎の話は自分を安心させるために彼が言っているのだとわかり悲しかった。
「神楽さん。私、堂本さんと別れます」
「百合……いいのか?」
「わかっていたこと。最初から、こうなるのはわかっていたのに……彼に別な結婚相手が現れて捨てられる前に、自分から別れたい」
百合の悲痛な顔を見て、神楽は悲しかった。だからこそ、反対したのに。
「百合。決めたなら何も言わない。俺はいつでもお前の側にいる。頼ってくれていいんだ。前も話してあるだろ?堂本とはだから反対していたんだよ。あいつもお前とは違った意味で普通の家ではないんだ。こうなることは遅かれ早かれ想像できた」
「日本へ帰る前に別れのメールをします。友達に戻りたいと伝えますので、何かあったら助けて下さい」
「ああ、もちろんだ。何でも言ってくれ。力になる。堂本も俺の知り合いだし、何とでもする」
その頃。
黎は仕事でも百合のことを雑談のように聞かれることが増えてきていた。
噂好きの社交界の女性達は、黎から長い間袖にされてきたので腹いせも手伝って、百合のことを悪く言う人もいた。
最近、百合から電話もないし、メールもない。日本の状況は心配いらないと伝えたが、もしや何か耳にしているのかもしれないとその頃になって不安になってきた。
父との約束の一年まであと三ヶ月しかない。黎は焦りはじめた。本当はこんなはずではなかった。正直今頃プロポーズしている計算だった。
柿崎からこんなことを言われた。
「黎様。栗原さんとの交際を社長は決して許さないと私におっしゃっておられます。彼女に何かすることはないと思いますが、きちんと社長と話し合う必要はあるかもしれません」
そう言ってから、少し置いて俺をじっと見て小さい声で話し出した。久しぶりに聞いた話し方。幼い頃友達だった彼が現れた。
「俺はあなたの仕事上の部下ですが、長い間側で見てきた友人として今は話します。やっと見つけた大切な人なんでしょ?俺と奈津は黎様の味方です。実はイギリスの奥様に奈津が話をしてあります。奥様は黎様の最大の味方ですからね。勝手なことをしてすみません。でも、社長を敵に回すには準備がいります。何でも相談して欲しい」
嬉しかった。そうだ、味方がいた……こんな近くに。母がいれば、きっと百合のことを応援してくれたはずだ。
「柿崎。いや、勇。ありがとう。久しぶりにお前が友人として俺を見てくれたことに感謝するよ。いつも部下にさせてすまない。ふたりでいるときは今のように友達に戻ってくれ。今の話、どれだけ嬉しかったか。奈津にもよろしく言ってくれ。感謝してる。母はなんて?」
「社長のことを、あの人は本当に困った人ね、と……女性を泣かせるのはだめだと黎様に伝えてと言われたそうです」
母の声が耳に聞こえるようだった。
このままでは、帰ってきた百合を泣かせることになるもしれない。彼女がプロポーズに応じないだろう。これだけ噂や父の反対があれば、神楽だって反対する。
黎はそれから考えた。どうすればいいのかを……。
部屋でその時も考えていた。すると、久しぶりに百合からメールが来た。嬉しくてすぐに見た。
ところが、近況を綴り、自分のことを聞いた後、最後に信じられない一文を見つけた。何度も見間違いかと繰り返しそこを読んだ。
『日本の状況は耳にしています。黎、迷惑かけてごめんなさい。あなたとは今日を限りに友達へ戻ります。来週日本に帰ったら、その時は友人として迎えて下さい。私は誰に何を聞かれてもあなたは大切な友人だと伝えます』
黎は携帯電話を放り投げた。そして、手で頭を覆い、狼のようにうなり声を上げた。
「うああー!!」
驚いた使用人が何事かとノックをする。黎は返事をしない。
しかし、何かすごい物音がする。
バン、ドカン、ガンッ!
使用人は驚いて、柿崎を呼びにいった。
黎は手を握りしめ、顔を真っ赤にして震えていた。
「……ともだち、だと?ふざけるな!百合、逃げようとしても無駄だ。絶対に逃がさない」
トントン。
「黎様、どうしました?!」
「……柿崎か。入れ」
柿崎は部屋へ入って驚いた。机のうえの書類はバラバラと下に落ちている。
ノートパソコンもひっくり返って落ちている。
椅子は蹴られたのか、ひっくり返っている。携帯電話が壁に当たって落ちている。画面が割れていた。
それどころか、壁に穴が空いている。
主を見て、また驚いた。こんな顔の黎をいまだかつて見たことがなかった。怖い。般若のようだった。
「……れ、黎様……な、なにかあったんですね?お、落ち着いてください……」
柿崎は足が止まり、近づけなかった。
とにかく、黎の怒りがすさまじく、こちらに飛び火して燃えてしまうのではないかとおびえた。
「柿崎。契約書を書いてもらいたい」
低い声で何か言っている。聞こえない。
「あ、あの?なんて?」
こちらをじろりと見た。震え上がる。
「契約書だ。やりたくはないが、それしかない。そうだ、契約なら文句あるまい」
「……は?何の契約書でしょうか?」
「とにかく、ここを片づけて、いや、お前ちょっと入れ。そこを閉めて鍵をしろ」
柿崎は怖かった。何で鍵?
「おい、勇。大丈夫だ。すまん、驚かせたな」
普通の黎に戻った。ため息を吐いて、黎を見る。言われたとおりにしようと諦めた。
机を直し、向かい合って座る。
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いったいなんだ?柿崎は見たことのない彼を刺激しないよう静かに見ている。
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柿崎は驚いて顔を上げると、黎を凝視した。何だと?なんと言った?契約……結婚?!
「黎様落ち着いて下さい。どうしたんですか?自分で何を言ってるかわかってないでしょう?」
柿崎は立ち上がり、黎に言った。
やはり、おかしくなった。最近の黎を見て心配していた。
彼女のことをいじられ続け、ポーカーフェイスでかわし続ける主を痛々しく見ていた。
いつか、彼女のことでおかしくなるのではないかと心配していた矢先だった。
「……よく分かっている。心配無用だ。柿崎、百合が別れたいと言ってきた……なんと、友達に戻るそうだ……ははっ」
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「誰かに何か余計なことを吹き込まれたとしてもそれだけは許せない。俺がどれだけ我慢をして今耐えていると思う。全部百合のためだ。それなのに彼女は俺を信用していない。迷惑だと?別れたら俺がどうなるか考えていない。迷惑はどっちだ、ええ?」
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「落ち着いて下さい。わかりました。やりたいことはすぐにわかりました。いいんじゃないですか?それなら嫌とはいえませんよ。どんな契約にします?」
「うるさく言う奴らに俺が誰かわからせてやる。百合も俺と別れるなんてできるはずない。どうせ別れたらすぐにおかしくなるに決まっている。お互い様なんだよ」
ブツブツ言う黎をじっと見る。
柿崎はその話をしながら、黎は恐ろしいほど頭がいいと今更ながらに知るのである。
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