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一緒にいるために
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日本で彼女がピアノ以外のことで噂になっていようと、実力は海の向こうで認められた。
アメリカでも、ヨーロッパでも彼女のことは絶賛された。
そして、海外留学の誘いもパリの音楽大学から来ていた。
百合は、日本にいれば黎を忘れることが出来ないと分かっていた。嫌いで別れるわけではない。好きを通り越して、自分の一部のように愛している人だ。
ピアノと比べてどちらを取ると聞かれても、黎を取ると言えるくらい今の百合には命に近い人だった。
初めて生きていて幸せだと思った。
もちろん、コンクールの受賞者になったのは、嬉しかったが幸せかと言えば違う。運が良かったのだ。それに才能なんてあまりないから、単に努力の結晶だと思う。
黎と恋人になってからの毎日は本当に幸せだった。夢のようだった。
今まで辛かった人生も彼に出会うためだったとしたら、無駄じゃなかったと思えた。
でも、黎のシミひとつない御曹司という生い立ちに、愛人の子である自分が関わると彼の親子関係にもヒビが入ると確信していた。それだけはさせられないと思っていたのだ。
神楽とも相談したが、パリに留学したいと言った。
黎を忘れるには距離を置くしかない。会えない、見えない場所で彼を自分から引き離すしかないのだ。
神楽もそれには理解を示すしかなかった。そして、彼女が戻ってくるときには自分が代表となっている事務所へ彼女を雇いたいと申し出た。
神楽にも覚悟があった。そのときこそ、プロポーズしたいと思っていたのだ。
それを聞いた百合は何も言わなかった。
じつは、神楽と百合は大きな勘違いをしていることに気付いていなかった。
堂本黎には百合がいなくてもいくらでも周りに女性がいて、父親が連れてくるやんごとなきお嬢様と結婚するのだと思っていたのだ。
彼にとって、百合と別れることはたいしたことでないはずだと決めつけていた。
その大きな勘違いに気付くのは、日本へ戻ってすぐだった。
空港で百合は柿崎という見たことのある黎の部下から迎えられた。
「お帰りなさいませ、栗原様」
神楽はびっくりして、百合の前に出た。
「あなたは確か、堂本の……」
「はい。堂本コーポレーションで黎様の側近として働いております、柿崎と申します」
頭を下げて、名刺を渡した。ふたりはその名刺を目にした。
「堂本から頼まれてきたのか?なんだ?噂になっているから君をよこしたんだな」
柿崎は噛みついてくる神楽を無視して、百合に向き直ると言った。
「栗原様。黎様から最後に提案があるので、マンションへ来て欲しいとのことです。この後お送りしますので、よろしいですか?あと、お疲れでしたら明日以降そこでお目にかかるので今日はお一人で休んで下さってかまわないとのことでした」
百合は黙っていた。黎の考えが読めなかったからだ。
「百合。失礼にもほどがある。疲れて戻ったところを待ち伏せされて。すぐに断れ。家へ送るから……」
百合は神楽に言った。
「……大丈夫です。遅かれ早かれ話し合う必要があります。メールの返事が来なかったので、ここに来ているのではないかと実は思って帰ってきました。わかりました。行きます」
「百合!」
「神楽さん。お疲れ様でした。色々ありがとうございました。あさって事務所で会いましょう」
そして、百合は柿崎の方を見た。
「では柿崎さん、お願いします」
柿崎はうなずいて、百合のスーツケースを乗せた大きなカートを代わりに引いた。
そして、柿崎は神楽に綺麗な会釈をした。
神楽は百合の決意を見て、何も言えなかった。ふたりがいなくなるのを呆然と見ていた。
マンションへ行くまで無言だった。
柿崎は彼女を間近で見たのは実は初めてだったが、憂いのある美しさに今まで見た女性とは全く違う魅力を感じた。
確かに、彼女と同じタイプの女性は黎の周りにいなかったように思う。
彼の母親も憂いを漂わせていたが、それは父親である社長の色々な事情による心労からくる憂いだったかもしれない。
それに、やはりお嬢様だったのでどこか気位を感じさせるところがあった。
それに対して、百合は空港での話し方を見ていても、構えたところがなく、普通の女性に近い。
だがやはり人の前で演奏するのだから、きっとその時は何か違う人になるのだろうと思った。
外を眺めて頬杖をついているのがフロントミラーから見える。確かに美しい。
果たして、あの準備したものを彼女が素直に了承するのか、見てみたかったがそうもいかない。
マンションへ着いたので、柿崎は彼女と荷物を下ろして、結局部屋の前までスーツケースなどのカートを運んであげた。そこで彼女に挨拶して、車を堂本の実家へ戻すべくその場を去った。
百合は、扉の前で立ち尽くした。インターフォンを鳴らす勇気がなかった。
鍵を出して扉を開ける。扉の前に黎はいなかった。
花の香りもしない。百合は悲しかった。自分で別れを告げながら、どうしようもなく寂しかった。
靴を脱いで、手荷物だけもって部屋へ入った。黎が座って静かな目でこちらを見ていた。
「やあ、久しぶりだね。元気だった?栗原さん……」
黎はそう言った。
百合はその黎が向けた冷たい微笑みと名字を呼ばれた衝撃でしばらく立ち尽くし、返事が出来なかった。
そして、徐々に身体が震え、自分の頬に涙が伝っていくのに気付いたときは、身体から力が抜けて前へ倒れかけていた。
黎はその様子を見て驚き、席を蹴るように立つと、百合に駆け寄って手を引いて抱き留めた。
「……百合っ!」
「……う、うう……うう」
しゃくり上げて自分の胸の中で泣く彼女を黎はひたすら抱きしめた。
立っていられなくなった彼女をそっとソファへ座らせた。
黎は彼女の反応を見て、やはりあのメールは彼女の希望ではなく、周り噂を気にして選んだ結果だったのだろうと想像した。
ひとしきり泣いて、落ち着いたのを見計らい、彼女の顔を見た。
痩せた。憂いのある赤い目がこちらを見ている。
「百合。あのメールはどういう意味だ?希望通り友人になって迎えてあげたのに君は泣いている。あのメールを見たときの俺の気持ちがわかっただろう。俺はあのメールを見た瞬間意識が飛んでね。おかしくなってしまった。携帯電話も壊したし、壁に穴があいた。机も傷が付いた」
百合は、黎の見たことのないような歪んだ笑顔を見た。
自分の送ったメールで彼がどれだけ傷ついたのか、ようやくわかった。そして、同じことを返されて自分も許容できずおかしくなってしまった。
また、涙が流れてきた。もう、どうしたらいいのかわからない。百合は顔を覆って泣き出した。
黎は彼女の心が壊れかけているのにようやく気付いて、抱きしめ、耳元で囁いた。
「百合、愛してる……会いたかったよ」
百合は欲しかった言葉をようやくもらえて、泣き濡れた顔を上げて彼を見た。
優しい瞳。欲しかった言葉。もうひとつ欲しかったものを自分で無意識のうち取りに行った。彼の唇に自分からキスをした。
黎は驚いた。だが、嬉しかった。長い間会えずにいた恋人達は自然とそこでスイッチが入った。
キスをしていたら離れられなくなり、黎はそのままベッドへ彼女を連れて行った。
すぐにお互いの服をもぎ取るように脱がせると、あっという間に抱き合って夢中になった。
しばらくすると百合は帰国の疲れもあって、黎にしがみついたまま眠ってしまった。黎はそんな百合の髪を撫でながら、どうするべきか真剣に考えはじめた。
夜中に目が覚めた百合は、隣に彼がいないのに気付いて、驚いて身体を起こした。
彼に捨てられたのかと怖くなった。ガウンを身に纏い、ベッドを降りて、急いで部屋を出た。
彼はピアノのあるサロンにいた。そして、窓の近くに立ち、グラスを片手にじっと夜景を見ていた。
百合は声をかけられず、ピアノに座ると蓋を開けて弾き始めた。黎は初めて音を聞いて振り向いた。そして、その曲を静かに聴いている。
「……ヴォカリーズだね。ラフマニノフの歌曲」
「ええ、そう……今の私の心にこの曲が浮かんだ」
「染み入るような曲だ……心が揺さぶられる……」
百合はピアノの蓋をして、立ち上がった。
「……黎、ごめんなさい」
「どういう意味の謝罪だ?」
ふたりは真正面から対峙した。
「友人に戻るしかないと思った。このままでは、あなたのご両親は決して私との交際を認めないだろうし、いずれあなたに他の相手が出来て捨てられるのは嫌だった。自分から先に離れようと思ったの」
「……俺を信用してないんだな」
百合は悲しげな彼の目を見て、叫んだ。
「そんなことない!信用とかじゃない……だって、私との未来が描ける?無理でしょ?」
黎は暗がりで目を光らせて答えた。
「……前にも言ったが、親に反対されるような悪いことをしているわけではない。了承が必要な訳でもない」
「嘘よ。神楽さんや父も言っていた。黎さんのお父様が私とのことを反対されている、と。だからこそ、支援事業も打ち切られた。私との関係を絶ちたがっているって。私のせいであなたの立場がおかしくなって、お父様ともうまくいかなくなったりしたら嫌なの」
黎は遮るように話した。
「余計な心配だ!俺のことは俺がやる。どうして、そうやって周りの顔色をうかがっているんだ?俺と離れられるのか、え、百合?」
百合は彼の射るような瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
泣きそうだったが、話すために心を鬼にした。
「私、パリへ留学のお誘いを頂いたの。今の事務所はおそらく戻ってもうまくいかないと思う。思いきって、しばらく向こうへ留学しようかと……」
「……それで、俺を捨てる訳か」
黎はグラスを置くと、吐き捨てるように言った。
「黎!私、日本にいたらあなたと会わずに生きられる自信がないの。今だって、こうやってあなたが恋しくてしょうがない。だから……」
黎は、駆け寄って彼女を強く抱きしめた。
「百合。俺はどうなる?お前がいなくなって、捨てられて生きられると思っていたのか?そんな薄情な男だと思われていたんだな」
百合は黎を自分から抱き返した。
「ごめんなさい。自分のことで精一杯で、あなたから離れることしか頭になかった。考えると悲しくて……でもこの先を考えるのも辛かった。あなたを守りたいの」
「守られる必要などない、それにお前を守るのが俺の仕事だ。こっちへ来い」
そう言って、百合をリビングのソファへ連れて行き、座らせた。
自分と同じ水割りを作り、彼女の前に置いた。百合はこわごわとお酒を一口飲んで、ふうっと息を吐いた。
「百合。提案がある」
そう言って、数枚の紙を彼女の前に置いた。
見ると契約書とある。
『甲 堂本黎 乙 栗原百合 第一条 甲と乙は一年毎に契約を交わし、結婚するものとする……』と書いてある。
百合は驚いて顔を上げた。
「……なんなのこれ……」
黎は歪んだあの笑顔で話す。
「『契約結婚』の契約書だよ。君と俺の……」
「黎!」
百合は驚いて立ち上がった。
「落ち着け。君が心配していることを払拭するためにするんだ。だいたい、俺と百合は友達になんて戻れない。そう考えるだけでもおかしくなる。そうだろ?」
百合は黎をじっと見た。口を挟める雰囲気ではない。
黎をここまで追い詰めたのは他ならぬ自分だからだ。留学の話をしたことで、黎はさらに冷たくなった。
今は彼の言うことを素直にとりあえず聞いてみるしかないと諦めた。
「一年更新で契約結婚をする。俺は君を妻として、そしてビジネスとしてピアニストの栗原百合に援助もする。百合はピアニストとしての売上の半分は堂本コーポレーションへ入れる。堂本コーポレーションの次期社長夫人としての仕事もしてもらう。母がいないのでそういった社交界も少なからず母の代わりに出ないといけない。俺も同伴のことが半分だ。つまり、堂本コーポレーションの広告塔としての役割を自ら果たすんだ。その代わり、百合は自分がやりたい仕事をすることができる。今までは事務所の顔色をうかがっていたが、自分の好きなようにしていい。全部俺が援助する」
百合は黙って彼の顔を見つめた。
「俺たちは表向きには普通の夫婦だ。一緒に暮らす。俺の妻として夜も一緒に過ごす。つまり恋人同士のままだ。契約であることを知るのは父と母。それと柿崎ら側近のみ。堂本家は百合のことで何か会社に不都合が起きた時、あるいは父がどうしても君を認められない時に結婚を解消する。逆に君がこの堂本コーポレーションのための社交や俺との生活が嫌になったら、一年契約だから契約破棄して別れることも出来る」
「……どうして、こんなことを?」
「俺は百合のために父と離れてもいいと思っていた。戦うつもりだったが、それは百合の希望する形ではないんだろ?それなら、時間をかけてでも父に百合との結婚を認めさせるしかない。そのためには、父にとって一番大切な会社とプライドを守ってやる必要がある。俺は百合と別れる気は全くないんでね。父を認めさせたいなら方法はひとつしかない。そして、相変わらずネガティブな百合をこちらへ向けさせるには契約でもして俺に縛り付けるしかない。やりたくなかったけどね」
「……ねえ。こんな話でお父様がうなずくとは思えない。それに、あなたは子供を作らないといけない立場でしょ?契約結婚で子供を作ることはできないじゃない」
黎はじっと百合を見た。
「百合。俺はこんな契約すぐに破棄してきちんと結婚したい。子供は最初から望んでいる。君との子供なら今すぐにでも欲しい。だが、君は?ピアニストとしての自分を本当に捨てられるのか?さっきの留学のはなしを聞いたらそう疑わざる得ない。それがわかっていても俺は君を捨てられない。君しか見えないんだ。時間がかかっても俺の所に何も考えず堕ちてくるのを待つしか出来ない」
百合は自分の浅はかさを痛感した。
そして、黎の深い自分への愛に何を返せるのか考えた。そう、ピアノより彼が大切だった。
彼が望むものをあげると決めた。これが、彼と友達に戻らなくても一緒にいられる方法なら受け入れようと決めた。
「わかったわ。あなたと結婚します。契約でも何でもいい。お父様が私を認めて下さるまで、契約しましょう。でも、お父様はすぐにも結婚解消を求めて契約破棄するように言うかもしれない」
「そうだな。だが、俺は百合と別れない。父はわかっているはずだ。こんな書面は所詮婚姻届を出すための言い訳でしかない。父がこの結婚を破棄するように言うときは俺との関係が終わるときだと……」
「黎……それより周りは私を許してくれるの?」
「父が認めて結婚したという形が大事なんだよ。そうすれば会社関係者は何も言えない。実は契約だろうと何だろうと、その結婚という形が重要なんだよ」
「イギリスのお母様は?」
黎は百合を見てにっこり笑った。
「母は全面的に俺の味方だから、母が父を説得するだろう。心配いらないよ。父が母に言われて陥落するのが早いか、君に陥落するか、時間の問題だと思うがそれまでは契約しよう。契約破棄になっても、俺は君を離すつもりはない。何が起きても君を守るよ」
百合は笑った。
「黎のためなら何でもする。ピアノを弾くなと命令されたとしてもいうことをきくわ。私はあなたとピアノを比べる気は毛頭ない。あなたを愛してる。今日よくわかったの。あなたが友人になったら生きていけないって……」
「百合。ふたりがしっかりしていれば、どんな形だろうと関係ない。何があっても一緒にいる。最悪、結婚なんてしなくてもいい。誰に認められたいわけでもない。君と生きたいんだ」
「私もあなたと生きていきたい。ずっと側にいて……私もあなたが許す限り側にいます……」
黎は彼女を抱き寄せ、キスをした。
そしてまた、寝室へ戻った。夜はまだこれからだった。
アメリカでも、ヨーロッパでも彼女のことは絶賛された。
そして、海外留学の誘いもパリの音楽大学から来ていた。
百合は、日本にいれば黎を忘れることが出来ないと分かっていた。嫌いで別れるわけではない。好きを通り越して、自分の一部のように愛している人だ。
ピアノと比べてどちらを取ると聞かれても、黎を取ると言えるくらい今の百合には命に近い人だった。
初めて生きていて幸せだと思った。
もちろん、コンクールの受賞者になったのは、嬉しかったが幸せかと言えば違う。運が良かったのだ。それに才能なんてあまりないから、単に努力の結晶だと思う。
黎と恋人になってからの毎日は本当に幸せだった。夢のようだった。
今まで辛かった人生も彼に出会うためだったとしたら、無駄じゃなかったと思えた。
でも、黎のシミひとつない御曹司という生い立ちに、愛人の子である自分が関わると彼の親子関係にもヒビが入ると確信していた。それだけはさせられないと思っていたのだ。
神楽とも相談したが、パリに留学したいと言った。
黎を忘れるには距離を置くしかない。会えない、見えない場所で彼を自分から引き離すしかないのだ。
神楽もそれには理解を示すしかなかった。そして、彼女が戻ってくるときには自分が代表となっている事務所へ彼女を雇いたいと申し出た。
神楽にも覚悟があった。そのときこそ、プロポーズしたいと思っていたのだ。
それを聞いた百合は何も言わなかった。
じつは、神楽と百合は大きな勘違いをしていることに気付いていなかった。
堂本黎には百合がいなくてもいくらでも周りに女性がいて、父親が連れてくるやんごとなきお嬢様と結婚するのだと思っていたのだ。
彼にとって、百合と別れることはたいしたことでないはずだと決めつけていた。
その大きな勘違いに気付くのは、日本へ戻ってすぐだった。
空港で百合は柿崎という見たことのある黎の部下から迎えられた。
「お帰りなさいませ、栗原様」
神楽はびっくりして、百合の前に出た。
「あなたは確か、堂本の……」
「はい。堂本コーポレーションで黎様の側近として働いております、柿崎と申します」
頭を下げて、名刺を渡した。ふたりはその名刺を目にした。
「堂本から頼まれてきたのか?なんだ?噂になっているから君をよこしたんだな」
柿崎は噛みついてくる神楽を無視して、百合に向き直ると言った。
「栗原様。黎様から最後に提案があるので、マンションへ来て欲しいとのことです。この後お送りしますので、よろしいですか?あと、お疲れでしたら明日以降そこでお目にかかるので今日はお一人で休んで下さってかまわないとのことでした」
百合は黙っていた。黎の考えが読めなかったからだ。
「百合。失礼にもほどがある。疲れて戻ったところを待ち伏せされて。すぐに断れ。家へ送るから……」
百合は神楽に言った。
「……大丈夫です。遅かれ早かれ話し合う必要があります。メールの返事が来なかったので、ここに来ているのではないかと実は思って帰ってきました。わかりました。行きます」
「百合!」
「神楽さん。お疲れ様でした。色々ありがとうございました。あさって事務所で会いましょう」
そして、百合は柿崎の方を見た。
「では柿崎さん、お願いします」
柿崎はうなずいて、百合のスーツケースを乗せた大きなカートを代わりに引いた。
そして、柿崎は神楽に綺麗な会釈をした。
神楽は百合の決意を見て、何も言えなかった。ふたりがいなくなるのを呆然と見ていた。
マンションへ行くまで無言だった。
柿崎は彼女を間近で見たのは実は初めてだったが、憂いのある美しさに今まで見た女性とは全く違う魅力を感じた。
確かに、彼女と同じタイプの女性は黎の周りにいなかったように思う。
彼の母親も憂いを漂わせていたが、それは父親である社長の色々な事情による心労からくる憂いだったかもしれない。
それに、やはりお嬢様だったのでどこか気位を感じさせるところがあった。
それに対して、百合は空港での話し方を見ていても、構えたところがなく、普通の女性に近い。
だがやはり人の前で演奏するのだから、きっとその時は何か違う人になるのだろうと思った。
外を眺めて頬杖をついているのがフロントミラーから見える。確かに美しい。
果たして、あの準備したものを彼女が素直に了承するのか、見てみたかったがそうもいかない。
マンションへ着いたので、柿崎は彼女と荷物を下ろして、結局部屋の前までスーツケースなどのカートを運んであげた。そこで彼女に挨拶して、車を堂本の実家へ戻すべくその場を去った。
百合は、扉の前で立ち尽くした。インターフォンを鳴らす勇気がなかった。
鍵を出して扉を開ける。扉の前に黎はいなかった。
花の香りもしない。百合は悲しかった。自分で別れを告げながら、どうしようもなく寂しかった。
靴を脱いで、手荷物だけもって部屋へ入った。黎が座って静かな目でこちらを見ていた。
「やあ、久しぶりだね。元気だった?栗原さん……」
黎はそう言った。
百合はその黎が向けた冷たい微笑みと名字を呼ばれた衝撃でしばらく立ち尽くし、返事が出来なかった。
そして、徐々に身体が震え、自分の頬に涙が伝っていくのに気付いたときは、身体から力が抜けて前へ倒れかけていた。
黎はその様子を見て驚き、席を蹴るように立つと、百合に駆け寄って手を引いて抱き留めた。
「……百合っ!」
「……う、うう……うう」
しゃくり上げて自分の胸の中で泣く彼女を黎はひたすら抱きしめた。
立っていられなくなった彼女をそっとソファへ座らせた。
黎は彼女の反応を見て、やはりあのメールは彼女の希望ではなく、周り噂を気にして選んだ結果だったのだろうと想像した。
ひとしきり泣いて、落ち着いたのを見計らい、彼女の顔を見た。
痩せた。憂いのある赤い目がこちらを見ている。
「百合。あのメールはどういう意味だ?希望通り友人になって迎えてあげたのに君は泣いている。あのメールを見たときの俺の気持ちがわかっただろう。俺はあのメールを見た瞬間意識が飛んでね。おかしくなってしまった。携帯電話も壊したし、壁に穴があいた。机も傷が付いた」
百合は、黎の見たことのないような歪んだ笑顔を見た。
自分の送ったメールで彼がどれだけ傷ついたのか、ようやくわかった。そして、同じことを返されて自分も許容できずおかしくなってしまった。
また、涙が流れてきた。もう、どうしたらいいのかわからない。百合は顔を覆って泣き出した。
黎は彼女の心が壊れかけているのにようやく気付いて、抱きしめ、耳元で囁いた。
「百合、愛してる……会いたかったよ」
百合は欲しかった言葉をようやくもらえて、泣き濡れた顔を上げて彼を見た。
優しい瞳。欲しかった言葉。もうひとつ欲しかったものを自分で無意識のうち取りに行った。彼の唇に自分からキスをした。
黎は驚いた。だが、嬉しかった。長い間会えずにいた恋人達は自然とそこでスイッチが入った。
キスをしていたら離れられなくなり、黎はそのままベッドへ彼女を連れて行った。
すぐにお互いの服をもぎ取るように脱がせると、あっという間に抱き合って夢中になった。
しばらくすると百合は帰国の疲れもあって、黎にしがみついたまま眠ってしまった。黎はそんな百合の髪を撫でながら、どうするべきか真剣に考えはじめた。
夜中に目が覚めた百合は、隣に彼がいないのに気付いて、驚いて身体を起こした。
彼に捨てられたのかと怖くなった。ガウンを身に纏い、ベッドを降りて、急いで部屋を出た。
彼はピアノのあるサロンにいた。そして、窓の近くに立ち、グラスを片手にじっと夜景を見ていた。
百合は声をかけられず、ピアノに座ると蓋を開けて弾き始めた。黎は初めて音を聞いて振り向いた。そして、その曲を静かに聴いている。
「……ヴォカリーズだね。ラフマニノフの歌曲」
「ええ、そう……今の私の心にこの曲が浮かんだ」
「染み入るような曲だ……心が揺さぶられる……」
百合はピアノの蓋をして、立ち上がった。
「……黎、ごめんなさい」
「どういう意味の謝罪だ?」
ふたりは真正面から対峙した。
「友人に戻るしかないと思った。このままでは、あなたのご両親は決して私との交際を認めないだろうし、いずれあなたに他の相手が出来て捨てられるのは嫌だった。自分から先に離れようと思ったの」
「……俺を信用してないんだな」
百合は悲しげな彼の目を見て、叫んだ。
「そんなことない!信用とかじゃない……だって、私との未来が描ける?無理でしょ?」
黎は暗がりで目を光らせて答えた。
「……前にも言ったが、親に反対されるような悪いことをしているわけではない。了承が必要な訳でもない」
「嘘よ。神楽さんや父も言っていた。黎さんのお父様が私とのことを反対されている、と。だからこそ、支援事業も打ち切られた。私との関係を絶ちたがっているって。私のせいであなたの立場がおかしくなって、お父様ともうまくいかなくなったりしたら嫌なの」
黎は遮るように話した。
「余計な心配だ!俺のことは俺がやる。どうして、そうやって周りの顔色をうかがっているんだ?俺と離れられるのか、え、百合?」
百合は彼の射るような瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
泣きそうだったが、話すために心を鬼にした。
「私、パリへ留学のお誘いを頂いたの。今の事務所はおそらく戻ってもうまくいかないと思う。思いきって、しばらく向こうへ留学しようかと……」
「……それで、俺を捨てる訳か」
黎はグラスを置くと、吐き捨てるように言った。
「黎!私、日本にいたらあなたと会わずに生きられる自信がないの。今だって、こうやってあなたが恋しくてしょうがない。だから……」
黎は、駆け寄って彼女を強く抱きしめた。
「百合。俺はどうなる?お前がいなくなって、捨てられて生きられると思っていたのか?そんな薄情な男だと思われていたんだな」
百合は黎を自分から抱き返した。
「ごめんなさい。自分のことで精一杯で、あなたから離れることしか頭になかった。考えると悲しくて……でもこの先を考えるのも辛かった。あなたを守りたいの」
「守られる必要などない、それにお前を守るのが俺の仕事だ。こっちへ来い」
そう言って、百合をリビングのソファへ連れて行き、座らせた。
自分と同じ水割りを作り、彼女の前に置いた。百合はこわごわとお酒を一口飲んで、ふうっと息を吐いた。
「百合。提案がある」
そう言って、数枚の紙を彼女の前に置いた。
見ると契約書とある。
『甲 堂本黎 乙 栗原百合 第一条 甲と乙は一年毎に契約を交わし、結婚するものとする……』と書いてある。
百合は驚いて顔を上げた。
「……なんなのこれ……」
黎は歪んだあの笑顔で話す。
「『契約結婚』の契約書だよ。君と俺の……」
「黎!」
百合は驚いて立ち上がった。
「落ち着け。君が心配していることを払拭するためにするんだ。だいたい、俺と百合は友達になんて戻れない。そう考えるだけでもおかしくなる。そうだろ?」
百合は黎をじっと見た。口を挟める雰囲気ではない。
黎をここまで追い詰めたのは他ならぬ自分だからだ。留学の話をしたことで、黎はさらに冷たくなった。
今は彼の言うことを素直にとりあえず聞いてみるしかないと諦めた。
「一年更新で契約結婚をする。俺は君を妻として、そしてビジネスとしてピアニストの栗原百合に援助もする。百合はピアニストとしての売上の半分は堂本コーポレーションへ入れる。堂本コーポレーションの次期社長夫人としての仕事もしてもらう。母がいないのでそういった社交界も少なからず母の代わりに出ないといけない。俺も同伴のことが半分だ。つまり、堂本コーポレーションの広告塔としての役割を自ら果たすんだ。その代わり、百合は自分がやりたい仕事をすることができる。今までは事務所の顔色をうかがっていたが、自分の好きなようにしていい。全部俺が援助する」
百合は黙って彼の顔を見つめた。
「俺たちは表向きには普通の夫婦だ。一緒に暮らす。俺の妻として夜も一緒に過ごす。つまり恋人同士のままだ。契約であることを知るのは父と母。それと柿崎ら側近のみ。堂本家は百合のことで何か会社に不都合が起きた時、あるいは父がどうしても君を認められない時に結婚を解消する。逆に君がこの堂本コーポレーションのための社交や俺との生活が嫌になったら、一年契約だから契約破棄して別れることも出来る」
「……どうして、こんなことを?」
「俺は百合のために父と離れてもいいと思っていた。戦うつもりだったが、それは百合の希望する形ではないんだろ?それなら、時間をかけてでも父に百合との結婚を認めさせるしかない。そのためには、父にとって一番大切な会社とプライドを守ってやる必要がある。俺は百合と別れる気は全くないんでね。父を認めさせたいなら方法はひとつしかない。そして、相変わらずネガティブな百合をこちらへ向けさせるには契約でもして俺に縛り付けるしかない。やりたくなかったけどね」
「……ねえ。こんな話でお父様がうなずくとは思えない。それに、あなたは子供を作らないといけない立場でしょ?契約結婚で子供を作ることはできないじゃない」
黎はじっと百合を見た。
「百合。俺はこんな契約すぐに破棄してきちんと結婚したい。子供は最初から望んでいる。君との子供なら今すぐにでも欲しい。だが、君は?ピアニストとしての自分を本当に捨てられるのか?さっきの留学のはなしを聞いたらそう疑わざる得ない。それがわかっていても俺は君を捨てられない。君しか見えないんだ。時間がかかっても俺の所に何も考えず堕ちてくるのを待つしか出来ない」
百合は自分の浅はかさを痛感した。
そして、黎の深い自分への愛に何を返せるのか考えた。そう、ピアノより彼が大切だった。
彼が望むものをあげると決めた。これが、彼と友達に戻らなくても一緒にいられる方法なら受け入れようと決めた。
「わかったわ。あなたと結婚します。契約でも何でもいい。お父様が私を認めて下さるまで、契約しましょう。でも、お父様はすぐにも結婚解消を求めて契約破棄するように言うかもしれない」
「そうだな。だが、俺は百合と別れない。父はわかっているはずだ。こんな書面は所詮婚姻届を出すための言い訳でしかない。父がこの結婚を破棄するように言うときは俺との関係が終わるときだと……」
「黎……それより周りは私を許してくれるの?」
「父が認めて結婚したという形が大事なんだよ。そうすれば会社関係者は何も言えない。実は契約だろうと何だろうと、その結婚という形が重要なんだよ」
「イギリスのお母様は?」
黎は百合を見てにっこり笑った。
「母は全面的に俺の味方だから、母が父を説得するだろう。心配いらないよ。父が母に言われて陥落するのが早いか、君に陥落するか、時間の問題だと思うがそれまでは契約しよう。契約破棄になっても、俺は君を離すつもりはない。何が起きても君を守るよ」
百合は笑った。
「黎のためなら何でもする。ピアノを弾くなと命令されたとしてもいうことをきくわ。私はあなたとピアノを比べる気は毛頭ない。あなたを愛してる。今日よくわかったの。あなたが友人になったら生きていけないって……」
「百合。ふたりがしっかりしていれば、どんな形だろうと関係ない。何があっても一緒にいる。最悪、結婚なんてしなくてもいい。誰に認められたいわけでもない。君と生きたいんだ」
「私もあなたと生きていきたい。ずっと側にいて……私もあなたが許す限り側にいます……」
黎は彼女を抱き寄せ、キスをした。
そしてまた、寝室へ戻った。夜はまだこれからだった。
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