ピアニストは御曹司の盲愛から逃れられない

花里 美佐

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交渉

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 黎は父へこのことを話す前に、母に報告したかった。


 次の日。

 黎はイギリスの時差を考えてあちらの夜に電話をした。母の声を聞くのは久しぶりだった。

 「母さん。身体の具合はどう?」

 「黎。元気よ、心配かけてごめんなさいね」

 「今日は話したいことがあって電話したんだ。今、大丈夫?」

 「ええ、もちろん。愛する息子との電話より大事なことなんて私にはないわ。やっと連絡くれたわね。奈津から聞いて、ずっと待っていたの」

 「……母さん」

 「さあ、聞かせてちょうだい。少しは奈津から聞いているけど、その後どうしたか心配していたの」

 黎はかいつまんで今までのことを話した。

 そして、百合が別れたいと言ってきたこと、父が許してくれなくても自分は別れる気がなかったが、彼女が父と自分の関係を悪化をさせたくないと思っていること、契約結婚を考えていることを相談した。

 「……そう。好きになさい」

 「え?」

 「黎の考える通りにやりなさい。私はあなたの味方です。栗原さんのピアノも実は先月フランスまで行って聴いてきました。ふたりには内緒でね。素晴らしかったわ。こんな素敵なピアニストと私の息子が恋仲だなんて、夢みたいだった」

 「母さん。ありがとう。何より嬉しい言葉だよ」

 「たぶん、本当の結婚になるまでにそう時間はかからないと思うわ。彼女はあなたを思う気持ちがあって、別れを口にしたり、こんな理不尽な契約結婚を承諾したり……よい子なのね、きっと。会わなくてもわかりますよ。今の彼女の海外での評判や活躍を見たら、生い立ちについてどうこう言うことがどれだけ失礼なのか分かっていない。それが自分の夫だというのもがっかりだわ」

 声を荒げて非難する母に黎は苦笑いをした。
 
 「母さん。興奮しないで……その言葉を彼女が聞いたらどれだけ喜ぶか。早く会わせたい。本当なら先に会って欲しかったんだ」

 「そうね。私も会いに行くか迷ったけど、差し出がましいことはしてはいけないと思ったの。こういうことはね、本人次第なのよ。ふたりにしかわからないことがたくさんある」

 「とりあえず、一緒に父さんと会って、話してみるよ。ダメなら助けて欲しい。というか、母さんの応援を期待しているんだ」

 「お相手がピアニストだということも、彼を躊躇させている理由だと思う。ただ、あなたの考えも悪くはないわ。彼にとって会社の利益と評判は自分にとってのものと全くかわらない。自分のもうひとりの子供といつも言っていたくらい、会社への愛着は深い。それを忘れないで」

 「わかった。母さんも身体大切にしてほしい。そして、一度日本に戻ってきて欲しい。彼女と一緒に会いたいんだ。そして父さんを説得して欲しい」

 「ふふふ。結局はそれが目的ね。私に会うのは二の次でしょ」

 「……母さん!そんなわけないだろ!」

 「いいのよ。私は嬉しいの。黎がひとりぼっちにならないですんだ。あなたが女性に構えているのは私達夫婦のせいだと思っていたから。あなたの姉達にも少し原因があるけれどね」

 「ああ。まったくだよ。姉さん達とは違う。彼女をやっと見つけたんだ」

 「わかったわ。おめでとう。大切な女性を泣かせてはダメよ、いいわね」

 「ああ。耳にたこができるくらいその台詞を聞いてきた。やっと実践してみせるときが来たよ」

 そう言って電話を切った。

 その頃。

 百合は事務所へいた。

 神楽に留学を取りやめることを話した。契約結婚のことを神楽には話した。事の次第を聞いて、神楽は目を剥いて怒りだした。
 
 「百合。馬鹿なことはやめるんだ。そんなことをして、大事なピアニスト人生を駄目にする気か。今回の海外公演も評判が良くて、オケからもオファーが殺到してる。堂本に身を捧げても、結局あの会社に利用されるだけだろ。絶対反対だ。許さない」

 「……ごめんなさい。私のために海外公演もしてくれた事務所にどれだけの恩返しができたのかわからない。でも、今のままだと日本でのこの事務所経由の活動にあまり未来がないような気もするの。黎とのことがなくても、留学を選んでいたかもしれないわ」

 日本へ帰ってきて、自分のことがパソコンのニュースサイトや週刊誌にも取り上げられているのを見た百合は、父や、その周囲が何をしてくるかわからないこともありおびえていた。

 事務所もそういった背景を知りながら、自分を雇うリスクを取るか、どう考えても最近の騒動を思うとうまくいかないのはわかっていた。

 そして、自分もやりたいことが出来ない可能性のほうが高いと思っていた。

 「百合。君の評判は日本以外のほうが高いかもしれない。色眼鏡で見たり、噂好きな日本より、海外のほうがいいだろう」

 「神楽さんは私に関わると会社で立場が悪くなるんじゃない?」

 神楽は鼻を鳴らして、呆れた目をして上を見た。

 「別にこの会社にずっといるつもりはなかったし、君を筆頭にして事務所を立ち上げてもやっていけると思う。君の父上は金を出すと約束しているしね。悪い意味じゃない。君の今後に期待して親として金を出すんだ。心配いらないよ」

 百合はわかっていないと、頭を振った。

 そのお金は、今の家族である奥さんやお子さん達にとったら一円でも私に渡したいわけがない。母がおびえて生きてきた理由はそこにこそある。

 父は何もわかっていない。そして、目の前の神楽も同様だと分かった。

 「神楽さんなら、私以外のピアニストを担当しても成功するでしょう。私のことは忘れて下さい。あと、今来ているオファーについてはまとめて頂けますか?どうするかを黎と話し合います」

 神楽は自分抜きで話をまとめようとしている百合を睨んだ。

 「百合。俺抜きで話をまとめられるとでも?今まで俺の段取りしてきた成果がオファーだ。俺が間に入らなければ向こうは納得しないだろう」

 「……わかりました。とりあえずまとめておいて頂けますか?いずれ、黎と一緒に相談させて下さい。場合によっては黎のお父様も入れてになるかもしれません」

 「百合!やめろ、その話は考え直すんだ!」

 百合は席を立って、会釈して出て行った。

 神楽はドアを凝視して、堂本に直接話すしかないと決心した。

 その頃、黎は父に百合と一緒に会う約束を取り付けた。

 その前日に打ち合わせのために百合をマンションへ呼んだ。そして、柿崎夫妻を同席させた。

 「百合。このふたりは俺たちの味方になる夫婦だ」

 そう言ってふたりを紹介した。母親との関係や、母と話した結果も黎は三人に詳しく話した。そして、百合は神楽との話の結果を説明した。

 柿崎は言った。

 「イギリスの奥様は何かあったときの切り札です。最悪の状況になったとき、社長を説得できるのは奥様しかいらっしゃらない。お二人がいないときに内外で噂されていることや社長がしようとしていることを私達夫婦が探ってお伝えします。それでよろしいですか?」

 黎はうなずいた。

 「とりあえずは、契約結婚にうなずいてもらうことが目的だ。うなずいてもらえばこちらのものだと思っていい。百合の人柄や実力はわかりきっている。後はマスコミ対策だな。それは別途考えた方がいいだろう。マスコミの知り合いに手を回してもらうか。百合のお父さんには本当の結婚だと思わせておいていいだろう」

 「父のことは私に任せて下さい。実は昨日直接連絡して少し話しました。私から連絡したことがなかったので驚いていました。父は黎とのお付き合いを喜んでいました。黎は有能な御曹司で将来有望だと褒めていました。私が彼と結婚できるならお父様を説得してもいいとまで言ってました」

 三人は驚いて百合を見ていた。黎は彼女の方を向いて、手を握った。

 「……百合。ひとりで色々やり過ぎだ。何かあったらどうする気だったんだ。心配させるなよ」

 百合はにっこりと笑った。

 「私が出来ることや私に関わることは自分で片づけます。それでなくても私のことが今回の原因です。頑張るから見ていて、黎」
 
 「ああ、わかったよ。でも必ず俺に相談してからやるんだ。ひとりで決めて突っ走るな。いいね」

 黎が彼女を抱き寄せたのを見て、目の前の夫婦は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 その翌日。

 夜に部屋へ入ってきた二人を見て黎の父は驚いた。黎が優しい笑顔で彼女の肩を抱き寄せ、寄り添って入ってくる。

 緊張している娘に耳元で何か囁き、それに顔を赤くして何事か話す彼女をまた優しく見つめている。

 入ってきたときから、自分は当てられっぱなしの状況に、見たことのない黎の姿と表情も合わせて、翻弄させられた。

 「父さん。彼女を紹介します。栗原百合さんです」

 「ああ」

 「……初めまして。栗原百合と申します。色々ご迷惑をおかけしたようで申し訳ございません」

 百合は深く頭を下げた。

 「……あ、いや。かけてくれ」

 最初から謝られてしまい、どう話していいかわからなくなった。

 そして、彼女の綺麗な微笑みにのみ込まれる感じがしたのだ。

 「栗原さん。私が黎の父の堂本要です。初めまして。君のことはだいたいのことは知っている。君のお父さんからも電話をもらったよ。黎と結婚してくれるなら万々歳だそうだ」

 急に冷えた声で話し出す父を黎は静かに見つめた。百合は顔を曇らせた。

 「父さん。それなら、百合との結婚を認めて下さい」

 「百合さん。黎の妻になるということは、いずれうちの会社の社長夫人になるということだ。社長夫人としての仕事を優先して、ピアノをやめることが出来ますか?」

 「ピアニストとしての活動が出来なくなるかもしれないのは覚悟しています。ただ、趣味で弾くことはお許し頂けると嬉しいです」

 百合は要をまっすぐに見ながら答えた。

 「百合!そんなことを言わせるためにここへ連れてきたんじゃない。父さん、彼女は俺といるためにピアノを捨ててもいいと言ってくれた。そして、父さんと俺を仲違いさせたくないから別れたいと言った。だが、俺は別れる気など全くない。百合以外の女性と結婚する気もないし、彼女と結婚できなければ一生結婚しなくていい。事実婚でもいいんだ」

 まくしたてる息子を冷めた目で見つめる。

 「……黎。お前には失望した。色恋に目がくらんで、自分の立場を忘れ、親を馬鹿にするのもいい加減にしろ。栗原さん。あなたが嫌いなわけではない。人間的にどうこうとか思ったこともない。生い立ちのことも、まあ色々あるが、所詮過去のこと。しかし、黎の嫁となると話は別だ。こいつは会社の跡取りだ。他の奴に継がせる気はない。それがわかっていながら、あなたのために自分の家も運命も投げ捨てるような台詞を軽々しく口にするとはな……それ自体許せないんだよ」

 百合は二人が睨み合っているのを、オロオロしながら見ていた。

 「父さん。会社の跡取りとしてやっていく気はもちろんあるよ。そのつもりで最近は動いている。周りもそう思っているのもわかっている。それと百合との結婚に何の問題があるんだ?ピアニストでもいいじゃないか。彼女に、宣伝してもらうことも出来る」

 「ピアニストとしての未来などおそらくない。子供を育て、社長夫人としての業界での立場もある。少なからず決まっている社交もある。大体、自分のスケジュールは自分で決められん。それがこの社長夫人という椅子に座るものの運命だ。彼女のためにも反対だ。将来あるピアニストなのに気の毒だろ」

 黎は用意してきた契約結婚の書面を父の前に並べた。

 「なんだこれは?」

 「父さんに納得してもらうまでは契約結婚をする」

 「……なんだと?」

 要は書面を手に目を滑らせた。

 「なるほどな。まあ、ピアニストとしての報酬、名声もほとんどを堂本コーポレーションのために捧げると言うことだな。社長夫人としての仕事もすると……」

 「はいそうです。お父様に満足頂ける会社の利益に結びつくようなリサイタルをピアニストとして行います。黎さんの妻としての仕事もやっていきます。それでも私のことがお気に召さなかったりするようでしたら、契約を……」

 要は百合を真剣に正面から見ながら話した。

 「これはね栗原さん。君も契約解消できるんだよ。つまり、ピアニストとしての人生を優先したくなったら、制約の多い結婚をやめることも出来る。君の我慢比べだな。君にとっていいことは何ひとつないんじゃないか?」

 百合は頭を振って言った。

 「彼と一緒に過ごせる。形ばかりでも妻になれる。それだけでいいです。そして、ピアノに触ることを許された。後は何も望みません」

 きっぱりと言い切る彼女を要はじっと見つめた。

 「父さん。彼女の仕事は俺が中心になって考えていく。現状オファーが結構来ているらしい。海外のほうもある。向こうの支社でそれが宣伝に使える可能性もある。十分ありがたい話だ。スキャンダルについては結婚ということでもみ消しをマスコミの知り合いに頼むつもりだ。百合の父親も力になってくれるだろう」

 「黎。お前、俺が彼女を認めると頭から思っているな。俺が認める認めない以前に、彼女が想像以上に忙しい社長夫人としての仕事とピアノを両立出来るかまずそれが問題だということに気付いてないだろ?」

 「彼女を守るのが俺の役目だ。父さん、俺を見くびるなよ。社長夫人としての仕事など俺がどうとでもしてやる。何してもいいんだろ?会社をきちんと継ぐと約束している限り、俺に任せてくれるんだよな?」

 要は息子の挑戦的な目に、何も言い返せなかった。黎がやるといったら必ずやるのをこの五年で嫌というほど見てきた。

 「お手並み拝見といこうか。黎、そして栗原さんあなたもね。栗原さんのお父さんへの説明はどうする気なんだ」

 「それは、契約ということは言わないでおきましょう。あとで訴えられたら面倒だ。まあ、契約なんてすぐに本当の結婚になるから関係ないと思いますけどね。このことは私達と父さんと母さん。それに一部側近のみに知らせるというのでどうでしょう」

 「結婚式はどうするんだ?やらないで済むとは思えんがな」

 「今すると、マスコミ対応が面倒です。仕事や演奏活動に忙しいので、来年以降と言っておきましょう。そのころには父さんも許してくれていることでしょうしね」

 要は得意げに話す黎に呆れた。

 そう簡単にいくとは思えない。彼女がいつまでこの窮屈な生活に耐えられるかそれにかかっていると要は思っていたのだ。
 
 少なからず、耳障りな噂がまずは彼女を襲うことは想像に難くない。

 黎と結婚を夢見ていた女性が大勢いることもわかっている。彼女が社長夫人の集まりや社交会で歓迎されるわけがないのだ。

 陰口に耐えられるのか。黎はわかっていないと思った。

 「お父様。いえ、堂本社長。私のことは何を言われても耐えます。今までもそうやって生きてきました。でも黎さんを悪く言われるようなことだけは嫌です。そのために一度は別れようと思ったんです。何かあれば私のせいにしてかまいません.よろしくお願いします」

 要は彼女の潔い言葉を聞いて、社長夫人としての資質は十分あると見直した。

 「わかった。その契約を交わそう。それでいいんだな、黎」

 「はい。ただし、彼女を尊重して下さい。決して家の中で彼女に辛い思いをさせないと誓って下さい」

 「もちろんだよ。彼女が嫌いなわけではない。百合さん、黎を頼むよ」

 百合は嬉しくて涙を流した。

 「はい。彼の支えになるよう努力致します」

 「百合。無理しなくていいんだ。俺がいないときに何かあれば柿崎や奈津に相談してもいいからな」

 「はい」

 「あの二人には話したのか」

 「はい。母さんにも最初は奈津から話してもらいました」

 「……そうか」

 要は妻を思い出して無口になった。妻はこのことをどう思っているのだろうと今更ながら考えたのだった。

 
 
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