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四角関係
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あの沖縄から半年。
結局、あれ以降もリサイタルに彼女を取られて、自分も仕事が入り、念願の海外へのハネムーンは未だに行っていない。
それどころか、最近は彼女が地方へ行くこともあり、留守が多い。
「で?結局、百合をピアノに取られたとか言うんじゃないだろうな?堂本、お前変わったな……ははは」
神楽は目の前で口をとがらしてふくれている黎を見て、笑ってしまった。
どんなときもクールだった堂本が、百合のこととなると感情むき出しで饒舌になる。
百合が彼と契約結婚することを最後まで反対していたが、あっけなく堂本社長が陥落して、無事契約は破棄し、正真正銘ふたりは夫婦となった。
それにここまで百合を溺愛している姿を見ると、変な話だが彼女も逃げられないし、彼女を奪うこともできなかっただろうと諦めもついた。
「まあ、しょうがないだろうな。これだけ話題になるとな……許してやれよ。鼻高々だろ、堂本に収益も入るし、美人ピアニストの夫なんだから」
百合は結婚して更に美しくなった。黎のせいだが、そのせいで愛妻は人気者になった。
ピアノもうまい、美人、財界の御曹司と結婚したばかりと各界から引っ張りだこの状態だ。
「最近はマンションへ帰っても練習していて俺を放置してる。今に見てろ、ピアノのスケジュールを俺が管理してやる」
「……おい、堂本。お前、ガキか?いい加減にしろよ」
黎は神楽を睨み付けた。
「神楽。お前こそ、誰のお陰で静香と付き合えるようになったと思ってるんだ。俺が色々セッティングしてやったからだぞ」
神楽はびっくりしてビールを飲みながらむせてしまった。
そう、実は静香と付き合いだしたのだ。最初は静香の片思いだったはずが、今や神楽の方が静香に夢中なのだ。
「ああ、それは感謝してるよ。でも、元はと言えば俺が百合を諦めてお前に譲ったんだからな。礼ぐらい貰って当然だ」
「それはどうかな?百合は最初から俺のものだ」
自信たっぷりのオーラをまとった黎が現れた。ビールグラスをドンと音を立てて机に置く。
黎は百合のことだけは譲れない。
「ああ、わかったわかった。とにかく、百合のコンサートは来月くらいまでで落ち着くんだろ?」
「ああ。というか、もうオファーをしばらく受けないように担当部署へ言ってある。まったく、冗談じゃない」
またもやブツブツと文句を言い始める黎を、神楽は面白そうに見ていた。
すると、携帯電話の音が鳴っている。神楽の電話だ。
どうやら静香からだったらしく、彼女とこれから会うという。神楽の会社は蓮見商事がバックについた。もはや、親公認での付き合いとなった。
元々、黎の同級生で友人、さらに妻の担当マネージャーだったということもあり、信用されたらしい。
神楽は先に立ち上がって帰って行った。
黎はひとりでタクシーに乗って、家へ帰ってきた。
今日は百合が本邸に戻ってくる日だ。昨日まで北海道公演だった。彼女に会うのは三日ぶりだ。
夜の飛行機だったので、空港へ迎えに出ている柿崎と一緒に戻ってくる頃だった。
しかし、帰ってこない。父や母、奈津も心配し出した。
運転中かもしれないと思ったが、思いきって連絡をする。すると、柿崎から今通話が出来ないので、出来るところに行き次第連絡すると書いてある。
百合はどうしたと聞いたら、合流しましたとだけ返事が来た。
渋滞でもしているんじゃないかと父が言うので、そうかもしれないなどとのんきに構えていたが、柿崎からの電話でひっくり返った。
「黎様。落ち着いて聞いて下さい。奥様が途中で具合が悪くなって、羽田近くの病院へ来ています。それで通話できなかったんです」
「なんだと?!百合は大丈夫なのか?」
「それがですね。私からお伝えしていいのか……」
「なんだ、もったいぶって今更。医者に何か言われたのか?」
「あ、お待ちください。奥様、こちらです」
柿崎が百合を呼ぶ声がする。電話を百合に替わった。
「あ、黎?ごめんなさい。心配してた?」
「百合、どうしたんだ、大丈夫なのか?」
「うん。実は公演の途中も気持ち悪かったりしたんだけど、我慢して戻ってきたら、飛行機降りるときにめまいを起こしてしまって……」
「病院で検査したんだよな?医者になんて言われたんだ?」
「……だから、病気じゃないの」
「は?病気じゃない……それなら働き過ぎで疲れが出たのか。だから過密スケジュールをいい加減やめろと言っただろ」
「……そうじゃないのよ。どうしよう、黎、わたし」
「なんなんだ?大丈夫だから落ち着いて話せ」
「もう。落ち着いて聞いて欲しいのはこっちよ。あのね、二ヶ月だったの」
「何が?」
「だから。妊娠二ヶ月だったの」
「……」
「黎?」
「……」
「黎、聞こえてる?ねえってば、黎?」
「……妊娠って言ったのか?」
「そうなの。どうしよう、黎。私お母さんになってしまう……」
「なってしまうって、おい。百合、子供ができたのか?!え?」
大声を出す黎に、後ろで聞いていた父と母、奈津は顔を見合わせて歓声を上げている。
「そうなの。赤ちゃんの心臓がお腹で動いているのが見えたの。ドクドクって音がしてるのよ。でね、めまいは貧血だったの。妊娠のせいだった」
「……百合。帰ってこられるのか?無理ならそっちへ今から行くから病院かホテルにでもいろ」
「ううん。今日は帰りたいの。疲れてしまって、ホテルとか嫌なんだもん。吐き気止めの点滴してもらったから帰るわ」
「わかった。気をつけろよ。柿崎に代わってくれ」
「黎様。おめでとうございます」
「ああ。ありがとう。柿崎は奈津がこの間子供産んでいるから妊娠に詳しいだろ。百合を頼むよ。気をつけて帰ってきてくれ」
「はい。ゆっくり帰りますので、お待ちください」
「ああ。気をつけてな」
電話を切ると、後ろで母が立っていた。
「黎。百合さん、妊娠したのね?」
「ああ。二ヶ月だったそうだ……めまいを起こしたらしい」
紗江子は黎の手を取った。
「黎。おめでとう。良かったわね。大事にしてあげないと。リサイタルや社交会も彼女はしばらくお休みさせましょう」
「ああ。母さんに任せてもいい?体調は大丈夫?」
「ええ。最小限しか出席しないわ。今まで、百合さんが色々やってくれたしね。ああ、良かったわね、本当に」
「……」
「黎?どうしたの。嬉しくないの?」
「いや。もちろん、嬉しいよ」
後ろから要が顔を見せた。黎に向かって笑って言う。
「黎。お前、俺の言っていたことが分かってきただろ。百合さんは結婚してからすぐにピアノがまた忙しくなり、次は子供だ。お前のことが一番後回しになるんだよ」
「あなた。どうしてそういうことを言うのかしら。黎、気にしちゃダメよ。父親になるんだから、当たり前のことですよ。なんだかんだ言ったって、百合さんのお腹の子は黎の子供なんだから、彼女はあなたのものなのよ」
「……」
二時間後、百合が戻ってきた。
顔色が悪い。すぐに寝室へふたりで入った。
黎は百合のお腹をじっと見つめた。
「黎?」
「あ、いや。大丈夫か?気分はどうだ?」
「大丈夫よ。黎?もしかして……」
「何だ?」
「子供、前は欲しいって言ってたでしょ?今は違ったの?」
黎は百合に核心へ攻め込まれて、一瞬返事が遅れた。
「いや。そんなわけないだろ。嬉しいよ。突然で驚いたけど……」
「黎。嘘はやめてね。あんまり嬉しそうじゃないもの。私だって少しは黎のことわかるのよ」
黎はびくりと動いた。そして、百合を抱きしめた。
「何言ってるんだ。俺の子を百合が妊娠したんだぞ。嬉しいに決まってる。ただ、心配なんだ……」
百合が胸を押して、黎の顔を見上げた。
「そうよね。私が頼りないから心配なんでしょ。私も自信ないもの。どうしよう、本当に。ちゃんとお母さんになれるのかな?」
黎は百合のおでこをデコピンした。
「痛いじゃないの、何するのよ!」
「百合はもしかして馬鹿なのか?女性は妊娠すると身体の変化と共に出産まで徐々に母親になっていくっていうだろ?百合も大丈夫だよ。考えすぎだ。それをいうなら、俺の方だろ」
「そうかな?黎はすぐにお父さんできそうよ」
「そうだな、おそらくお父さんはすぐにできるだろう。俺の心配はそこじゃない」
百合は不思議そうに黎を見た。
「何が心配なの?」
「……百合にはわからない」
「え?」
「でも、いいんだ。母さんとも相談したけど、しばらくは君のリサイタルや社交もすべてお休みにする。ピアノは趣味で弾いてくれ。とにかく、体調を万全にして出産に臨んで欲しい。出産までは、とにかく百合は俺のことだけ考えていればいいんだ」
「ええ?……何それ……お腹の子供のこと考えるんじゃないの?」
黎は気色ばんで言い返した。
「お腹の子供はいずれ外に出てくるんだよ。隠れているうちは俺のことだけ考えてろ。せっかくリサイタルもなくなるし、毎日俺の側にいるんだ」
黎は百合を抱きしめ直す。
「……まさか、黎。もしかして、寂しかったの?」
「……」
「ふふふ……」
「寂しいわけじゃない!百合は沖縄から帰ってきてからどんどん忙しくなって夜も練習して疲れてすぐに寝てしまう……何のためにお前を妻にしたんだ。お前を独り占めするためだったのに……」
百合は子供のように自分への気持ちをぶつける黎を初めて見た。そして、可愛くてならなかった。
つい、頭を撫でてしまった。
「っ!何するんだよ……」
「もう。大きな子供みたいよ、黎、ごめんね。ひとつのことしか上手にできなくて……知ってるでしょ、私が不器用なの。ねえ、聞いて。私のリサイタルはあなたのためにやっているようなものよ。あなたの夢のため……堂本のコンサートホールを作るんでしょ?その土台になるものを私の力で作れたらって思ってリサイタルをしているのよ」
「……百合」
「でも、いいわ。しばらくはリサイタルもお休みだし、黎のご希望通りに朝から晩まであなたのことだけを考えてあげるわね。でも、私買い物とかひとりで出かけるとまた迷子になりそうだし。黎も付き合ってね。またデートしましょ。ふたりのうちにね」
百合の話を聞いていたら、黎は嬉しくてむずむずし出した。
「百合、抱くぞ。だめなのか?」
「え?黎ったら……」
「三日ぶりに帰ってくるから俺は待ってたんだぞ」
「もう。子供なのか大人なのかわかんない。一体何なの、堂本黎さん……」
「俺こそどうしたらいいかわからない。今すぐお前のこと食べてしまいたい」
「ええ?もう、困った人ね。一緒に妊娠出産について勉強しましょ。心構えがお互い足りなさそうよ」
百合の胸に頭を擦り付けてくる黎を百合はゆっくり撫でていた。
「黎って甘えん坊だったのね。意地悪だったのは知ってたけど。新鮮だわ」
黎は顔を上げて百合を睨んだ。
「甘えん坊?勘違いするな、俺は男としてお前を食いたいんだよ」
急にぎゅっと抱き寄せてキスをした。
「子供のために我慢するよ。その代わり、一晩中キスしまくってやる」
「……ああっ」
二人はようやく百合が五ヶ月過ぎたところで、念願のリベンジハネムーンに出かけた。
最初は思い出のイギリスへ一緒に旅行へ出た。
イギリスの後にオーストリアやドイツなどクラシックの聖地を回って帰ってきた。
やっと百合を独り占め出来て、黎は幸せだった。
帰ってきたころから、百合のお腹が目立ってきた。
ピアノを弾いていると動いているとよく言っていた。
「足を動かしているのがこの間の検診でも見えた。男の子に違いない」
「……また。どっちでもいいでしょ?」
「ああ、どっちでもいいけど、男だったら一緒にサッカーしたいな」
「……何それ?」
「いいだろ。それも俺の夢なんだ」
「夢がたくさんあって、大変ね。でも、男の子可愛いわね。奈津さんのお子さんも男の子じゃない、本当に可愛いの。私にこの間なんて抱きついてきてくれたのよ」
「は?抱きついた?許さんぞ。そうだ、百合。男の子だったら堂本家は代々、名前は漢字一文字なんだ」
「……そうなのね。じゃあ、男の子なら黎が考えていいわよ。女の子だったら私が決めるってことでいい?」
「百合がそれでいいならそうしようか」
「ええ。きっと男の子だったらお父様が何か言ってきそうだと思ってた。なるほどね。漢字一文字。お父さんも一文字だものね」
運命の出産まで、性別は教えてもらわないつもりだったのに、黎が担当医に聞き出してしまった。
お父様と飛び跳ねて喜んでいる。つまり、男の子だったということだとすぐにわかった。
生まれた男の子は黎が『匠』という名を付けた。
不器用な百合は、本人も心配していたとおり、子育てとピアノの両立に悩みはじめた。
残念なことに、それだけでいっぱいになってしまい、黎のことは少し頭から消えていたかもしれない。
匠の登場で、黎はまたもや百合を奪い合う相手が増えた。四角関係になったのだ。
「百合。今日は父さんと母さんが匠と一日遊んでくれるそうだ。奈津もいるし、柿崎の子も一緒に遊ぶらしい」
「え?聞いてないけど。そうなの?私久しぶりのお休みだから、美容院へ行ってから匠と遊んであげようかなと思ってたのに……この間、私のピアノを聴いて楽しそうに両手両足動かして笑ってくれたの。今日もやってみようと思ってたの」
黎はしずかに扉を閉めると鍵をかけて、鏡台に向かっている百合の後ろから抱きついた。
「どれだけ俺が苦労してこの日を作ったと思ってる。今日こそは俺と一日過ごすんだ。百合は俺のことだけ見てろ。よそ見禁止だ」
「一日何して過ごすの?お出かけ?どこか連れて行ってくれるの?」
黎に連れ出してもらうのが大好きな百合は目を輝かせて、黎の手を上から握ると後ろを振り返った。
「父さん達が出かけたら少しここでゆっくりしようか。百合は最近匠を寝かしつけると側ですぐに寝てしまうからな」
黎はベッドを見て百合ににっこりと笑った。
「……黎。せっかくのお休みなんだからお出かけしたい!」
「百合は外に出すと行ったところへ夢中になって、俺といること忘れるだろ」
「そんなことはないわ。最近は匠もいるから気にしてるもの。あの子よく泣いたりするし。だから私きちんとしてるの」
「うるさい。今日は俺が作った日なんだから俺の言うとおりにしろ。外には後で出かけるから。時間があれば例の映画も見に連れて行ってやる」
「ホントに?嬉しい、黎、大好き」
抱きついてきた彼女をとっととベッドへ運び、昼間からカーテンを引いて側へ置いた。
「起きられたら、行こうな」
小さい声で彼女に聞こえないように呟く黎の顔は、悪いことを考えているような子供のような顔だった。
そして、彼女は彼の策略によりまたもや出かけることができない時間になってしまい、大げんか。
帰ってきた両親達は何事かと呆れる始末。
二人の間に生まれた男の子は、勝手な親に振り回され、それでも周囲の手助けを受けながら健気に大きくなっていった。
そして、黎が堂本コーポレーションの敏腕社長として名を馳せるようになってからも、百合への盲愛は褪せることがなかった……。
冷徹社長の唯一の弱点は妻だと陰口を言われるくらい有名な話になったのである。
fin.
結局、あれ以降もリサイタルに彼女を取られて、自分も仕事が入り、念願の海外へのハネムーンは未だに行っていない。
それどころか、最近は彼女が地方へ行くこともあり、留守が多い。
「で?結局、百合をピアノに取られたとか言うんじゃないだろうな?堂本、お前変わったな……ははは」
神楽は目の前で口をとがらしてふくれている黎を見て、笑ってしまった。
どんなときもクールだった堂本が、百合のこととなると感情むき出しで饒舌になる。
百合が彼と契約結婚することを最後まで反対していたが、あっけなく堂本社長が陥落して、無事契約は破棄し、正真正銘ふたりは夫婦となった。
それにここまで百合を溺愛している姿を見ると、変な話だが彼女も逃げられないし、彼女を奪うこともできなかっただろうと諦めもついた。
「まあ、しょうがないだろうな。これだけ話題になるとな……許してやれよ。鼻高々だろ、堂本に収益も入るし、美人ピアニストの夫なんだから」
百合は結婚して更に美しくなった。黎のせいだが、そのせいで愛妻は人気者になった。
ピアノもうまい、美人、財界の御曹司と結婚したばかりと各界から引っ張りだこの状態だ。
「最近はマンションへ帰っても練習していて俺を放置してる。今に見てろ、ピアノのスケジュールを俺が管理してやる」
「……おい、堂本。お前、ガキか?いい加減にしろよ」
黎は神楽を睨み付けた。
「神楽。お前こそ、誰のお陰で静香と付き合えるようになったと思ってるんだ。俺が色々セッティングしてやったからだぞ」
神楽はびっくりしてビールを飲みながらむせてしまった。
そう、実は静香と付き合いだしたのだ。最初は静香の片思いだったはずが、今や神楽の方が静香に夢中なのだ。
「ああ、それは感謝してるよ。でも、元はと言えば俺が百合を諦めてお前に譲ったんだからな。礼ぐらい貰って当然だ」
「それはどうかな?百合は最初から俺のものだ」
自信たっぷりのオーラをまとった黎が現れた。ビールグラスをドンと音を立てて机に置く。
黎は百合のことだけは譲れない。
「ああ、わかったわかった。とにかく、百合のコンサートは来月くらいまでで落ち着くんだろ?」
「ああ。というか、もうオファーをしばらく受けないように担当部署へ言ってある。まったく、冗談じゃない」
またもやブツブツと文句を言い始める黎を、神楽は面白そうに見ていた。
すると、携帯電話の音が鳴っている。神楽の電話だ。
どうやら静香からだったらしく、彼女とこれから会うという。神楽の会社は蓮見商事がバックについた。もはや、親公認での付き合いとなった。
元々、黎の同級生で友人、さらに妻の担当マネージャーだったということもあり、信用されたらしい。
神楽は先に立ち上がって帰って行った。
黎はひとりでタクシーに乗って、家へ帰ってきた。
今日は百合が本邸に戻ってくる日だ。昨日まで北海道公演だった。彼女に会うのは三日ぶりだ。
夜の飛行機だったので、空港へ迎えに出ている柿崎と一緒に戻ってくる頃だった。
しかし、帰ってこない。父や母、奈津も心配し出した。
運転中かもしれないと思ったが、思いきって連絡をする。すると、柿崎から今通話が出来ないので、出来るところに行き次第連絡すると書いてある。
百合はどうしたと聞いたら、合流しましたとだけ返事が来た。
渋滞でもしているんじゃないかと父が言うので、そうかもしれないなどとのんきに構えていたが、柿崎からの電話でひっくり返った。
「黎様。落ち着いて聞いて下さい。奥様が途中で具合が悪くなって、羽田近くの病院へ来ています。それで通話できなかったんです」
「なんだと?!百合は大丈夫なのか?」
「それがですね。私からお伝えしていいのか……」
「なんだ、もったいぶって今更。医者に何か言われたのか?」
「あ、お待ちください。奥様、こちらです」
柿崎が百合を呼ぶ声がする。電話を百合に替わった。
「あ、黎?ごめんなさい。心配してた?」
「百合、どうしたんだ、大丈夫なのか?」
「うん。実は公演の途中も気持ち悪かったりしたんだけど、我慢して戻ってきたら、飛行機降りるときにめまいを起こしてしまって……」
「病院で検査したんだよな?医者になんて言われたんだ?」
「……だから、病気じゃないの」
「は?病気じゃない……それなら働き過ぎで疲れが出たのか。だから過密スケジュールをいい加減やめろと言っただろ」
「……そうじゃないのよ。どうしよう、黎、わたし」
「なんなんだ?大丈夫だから落ち着いて話せ」
「もう。落ち着いて聞いて欲しいのはこっちよ。あのね、二ヶ月だったの」
「何が?」
「だから。妊娠二ヶ月だったの」
「……」
「黎?」
「……」
「黎、聞こえてる?ねえってば、黎?」
「……妊娠って言ったのか?」
「そうなの。どうしよう、黎。私お母さんになってしまう……」
「なってしまうって、おい。百合、子供ができたのか?!え?」
大声を出す黎に、後ろで聞いていた父と母、奈津は顔を見合わせて歓声を上げている。
「そうなの。赤ちゃんの心臓がお腹で動いているのが見えたの。ドクドクって音がしてるのよ。でね、めまいは貧血だったの。妊娠のせいだった」
「……百合。帰ってこられるのか?無理ならそっちへ今から行くから病院かホテルにでもいろ」
「ううん。今日は帰りたいの。疲れてしまって、ホテルとか嫌なんだもん。吐き気止めの点滴してもらったから帰るわ」
「わかった。気をつけろよ。柿崎に代わってくれ」
「黎様。おめでとうございます」
「ああ。ありがとう。柿崎は奈津がこの間子供産んでいるから妊娠に詳しいだろ。百合を頼むよ。気をつけて帰ってきてくれ」
「はい。ゆっくり帰りますので、お待ちください」
「ああ。気をつけてな」
電話を切ると、後ろで母が立っていた。
「黎。百合さん、妊娠したのね?」
「ああ。二ヶ月だったそうだ……めまいを起こしたらしい」
紗江子は黎の手を取った。
「黎。おめでとう。良かったわね。大事にしてあげないと。リサイタルや社交会も彼女はしばらくお休みさせましょう」
「ああ。母さんに任せてもいい?体調は大丈夫?」
「ええ。最小限しか出席しないわ。今まで、百合さんが色々やってくれたしね。ああ、良かったわね、本当に」
「……」
「黎?どうしたの。嬉しくないの?」
「いや。もちろん、嬉しいよ」
後ろから要が顔を見せた。黎に向かって笑って言う。
「黎。お前、俺の言っていたことが分かってきただろ。百合さんは結婚してからすぐにピアノがまた忙しくなり、次は子供だ。お前のことが一番後回しになるんだよ」
「あなた。どうしてそういうことを言うのかしら。黎、気にしちゃダメよ。父親になるんだから、当たり前のことですよ。なんだかんだ言ったって、百合さんのお腹の子は黎の子供なんだから、彼女はあなたのものなのよ」
「……」
二時間後、百合が戻ってきた。
顔色が悪い。すぐに寝室へふたりで入った。
黎は百合のお腹をじっと見つめた。
「黎?」
「あ、いや。大丈夫か?気分はどうだ?」
「大丈夫よ。黎?もしかして……」
「何だ?」
「子供、前は欲しいって言ってたでしょ?今は違ったの?」
黎は百合に核心へ攻め込まれて、一瞬返事が遅れた。
「いや。そんなわけないだろ。嬉しいよ。突然で驚いたけど……」
「黎。嘘はやめてね。あんまり嬉しそうじゃないもの。私だって少しは黎のことわかるのよ」
黎はびくりと動いた。そして、百合を抱きしめた。
「何言ってるんだ。俺の子を百合が妊娠したんだぞ。嬉しいに決まってる。ただ、心配なんだ……」
百合が胸を押して、黎の顔を見上げた。
「そうよね。私が頼りないから心配なんでしょ。私も自信ないもの。どうしよう、本当に。ちゃんとお母さんになれるのかな?」
黎は百合のおでこをデコピンした。
「痛いじゃないの、何するのよ!」
「百合はもしかして馬鹿なのか?女性は妊娠すると身体の変化と共に出産まで徐々に母親になっていくっていうだろ?百合も大丈夫だよ。考えすぎだ。それをいうなら、俺の方だろ」
「そうかな?黎はすぐにお父さんできそうよ」
「そうだな、おそらくお父さんはすぐにできるだろう。俺の心配はそこじゃない」
百合は不思議そうに黎を見た。
「何が心配なの?」
「……百合にはわからない」
「え?」
「でも、いいんだ。母さんとも相談したけど、しばらくは君のリサイタルや社交もすべてお休みにする。ピアノは趣味で弾いてくれ。とにかく、体調を万全にして出産に臨んで欲しい。出産までは、とにかく百合は俺のことだけ考えていればいいんだ」
「ええ?……何それ……お腹の子供のこと考えるんじゃないの?」
黎は気色ばんで言い返した。
「お腹の子供はいずれ外に出てくるんだよ。隠れているうちは俺のことだけ考えてろ。せっかくリサイタルもなくなるし、毎日俺の側にいるんだ」
黎は百合を抱きしめ直す。
「……まさか、黎。もしかして、寂しかったの?」
「……」
「ふふふ……」
「寂しいわけじゃない!百合は沖縄から帰ってきてからどんどん忙しくなって夜も練習して疲れてすぐに寝てしまう……何のためにお前を妻にしたんだ。お前を独り占めするためだったのに……」
百合は子供のように自分への気持ちをぶつける黎を初めて見た。そして、可愛くてならなかった。
つい、頭を撫でてしまった。
「っ!何するんだよ……」
「もう。大きな子供みたいよ、黎、ごめんね。ひとつのことしか上手にできなくて……知ってるでしょ、私が不器用なの。ねえ、聞いて。私のリサイタルはあなたのためにやっているようなものよ。あなたの夢のため……堂本のコンサートホールを作るんでしょ?その土台になるものを私の力で作れたらって思ってリサイタルをしているのよ」
「……百合」
「でも、いいわ。しばらくはリサイタルもお休みだし、黎のご希望通りに朝から晩まであなたのことだけを考えてあげるわね。でも、私買い物とかひとりで出かけるとまた迷子になりそうだし。黎も付き合ってね。またデートしましょ。ふたりのうちにね」
百合の話を聞いていたら、黎は嬉しくてむずむずし出した。
「百合、抱くぞ。だめなのか?」
「え?黎ったら……」
「三日ぶりに帰ってくるから俺は待ってたんだぞ」
「もう。子供なのか大人なのかわかんない。一体何なの、堂本黎さん……」
「俺こそどうしたらいいかわからない。今すぐお前のこと食べてしまいたい」
「ええ?もう、困った人ね。一緒に妊娠出産について勉強しましょ。心構えがお互い足りなさそうよ」
百合の胸に頭を擦り付けてくる黎を百合はゆっくり撫でていた。
「黎って甘えん坊だったのね。意地悪だったのは知ってたけど。新鮮だわ」
黎は顔を上げて百合を睨んだ。
「甘えん坊?勘違いするな、俺は男としてお前を食いたいんだよ」
急にぎゅっと抱き寄せてキスをした。
「子供のために我慢するよ。その代わり、一晩中キスしまくってやる」
「……ああっ」
二人はようやく百合が五ヶ月過ぎたところで、念願のリベンジハネムーンに出かけた。
最初は思い出のイギリスへ一緒に旅行へ出た。
イギリスの後にオーストリアやドイツなどクラシックの聖地を回って帰ってきた。
やっと百合を独り占め出来て、黎は幸せだった。
帰ってきたころから、百合のお腹が目立ってきた。
ピアノを弾いていると動いているとよく言っていた。
「足を動かしているのがこの間の検診でも見えた。男の子に違いない」
「……また。どっちでもいいでしょ?」
「ああ、どっちでもいいけど、男だったら一緒にサッカーしたいな」
「……何それ?」
「いいだろ。それも俺の夢なんだ」
「夢がたくさんあって、大変ね。でも、男の子可愛いわね。奈津さんのお子さんも男の子じゃない、本当に可愛いの。私にこの間なんて抱きついてきてくれたのよ」
「は?抱きついた?許さんぞ。そうだ、百合。男の子だったら堂本家は代々、名前は漢字一文字なんだ」
「……そうなのね。じゃあ、男の子なら黎が考えていいわよ。女の子だったら私が決めるってことでいい?」
「百合がそれでいいならそうしようか」
「ええ。きっと男の子だったらお父様が何か言ってきそうだと思ってた。なるほどね。漢字一文字。お父さんも一文字だものね」
運命の出産まで、性別は教えてもらわないつもりだったのに、黎が担当医に聞き出してしまった。
お父様と飛び跳ねて喜んでいる。つまり、男の子だったということだとすぐにわかった。
生まれた男の子は黎が『匠』という名を付けた。
不器用な百合は、本人も心配していたとおり、子育てとピアノの両立に悩みはじめた。
残念なことに、それだけでいっぱいになってしまい、黎のことは少し頭から消えていたかもしれない。
匠の登場で、黎はまたもや百合を奪い合う相手が増えた。四角関係になったのだ。
「百合。今日は父さんと母さんが匠と一日遊んでくれるそうだ。奈津もいるし、柿崎の子も一緒に遊ぶらしい」
「え?聞いてないけど。そうなの?私久しぶりのお休みだから、美容院へ行ってから匠と遊んであげようかなと思ってたのに……この間、私のピアノを聴いて楽しそうに両手両足動かして笑ってくれたの。今日もやってみようと思ってたの」
黎はしずかに扉を閉めると鍵をかけて、鏡台に向かっている百合の後ろから抱きついた。
「どれだけ俺が苦労してこの日を作ったと思ってる。今日こそは俺と一日過ごすんだ。百合は俺のことだけ見てろ。よそ見禁止だ」
「一日何して過ごすの?お出かけ?どこか連れて行ってくれるの?」
黎に連れ出してもらうのが大好きな百合は目を輝かせて、黎の手を上から握ると後ろを振り返った。
「父さん達が出かけたら少しここでゆっくりしようか。百合は最近匠を寝かしつけると側ですぐに寝てしまうからな」
黎はベッドを見て百合ににっこりと笑った。
「……黎。せっかくのお休みなんだからお出かけしたい!」
「百合は外に出すと行ったところへ夢中になって、俺といること忘れるだろ」
「そんなことはないわ。最近は匠もいるから気にしてるもの。あの子よく泣いたりするし。だから私きちんとしてるの」
「うるさい。今日は俺が作った日なんだから俺の言うとおりにしろ。外には後で出かけるから。時間があれば例の映画も見に連れて行ってやる」
「ホントに?嬉しい、黎、大好き」
抱きついてきた彼女をとっととベッドへ運び、昼間からカーテンを引いて側へ置いた。
「起きられたら、行こうな」
小さい声で彼女に聞こえないように呟く黎の顔は、悪いことを考えているような子供のような顔だった。
そして、彼女は彼の策略によりまたもや出かけることができない時間になってしまい、大げんか。
帰ってきた両親達は何事かと呆れる始末。
二人の間に生まれた男の子は、勝手な親に振り回され、それでも周囲の手助けを受けながら健気に大きくなっていった。
そして、黎が堂本コーポレーションの敏腕社長として名を馳せるようになってからも、百合への盲愛は褪せることがなかった……。
冷徹社長の唯一の弱点は妻だと陰口を言われるくらい有名な話になったのである。
fin.
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