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「邂逅國江」
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「邂逅國江」
「邦ちゃん、颯さんはいい人やったやろ。ああいう人が日本を守ってくれとったら私らはこの先も安心して暮らしていけるな…。」
都城駐屯地を出発したあと、後部座席で國江が邦に呟いた。
「せやな。私、自衛隊の人ってみんな武器を持って日本に攻めてくる外国と戦う為に入るんやと思ってたけど、颯さんの考えは違ってたな。「国民を守る」っていう意味では「戦争」に備えるって事も「災害」に備えるって事も一緒やねんな。
颯さんの家はずっと「日本」を…、いや「日本人」を守ってきてくれてたんやな。自衛隊に対するイメージがちょっと変わったわ。
あと、特攻隊員のイメージも今日でガラッと変わったな…。みんな純粋に家族や恋人や仲間を守るために命を捧げてくれたおかげで今の平和な日本があるってな…。テレビで言うように、軍隊に強制されての出撃じゃなかったっていう事があのたくさんの遺書や遺品から伝わって来たわ…。」
ハンドルを握りながら邦は今日の半日を振り返った。
「ところで、「おばあちゃんの颯さん」は今日のところはちょっと「残念」な感じで終わってしもたけど、「ここの颯さん」が調べてくれるっていうから、家に帰ったらおばあちゃんの話を詳しく聞かせてな。私、この夏休みの社会科の歴史レポートの宿題は「特攻隊」をテーマにすることにしたから。」
赤信号で停まっている間、邦は後部座席の國江に顔を向け話しかけた。國江はやさしく微笑んで答えた。「それはええ事やな。面倒かけるけどあの戦争の事を若い人に伝えられる最後のチャンスかもしれへんもんな。」
家に帰ると邦はまず仏壇の「國江と再来颯」の写真立てを改めて手に取った。笑顔で並ぶ國江と颯の写真をスマホで数枚撮り終わると前後をひっくり返し、写真立ての背面に残された文字を見た。
薄茶色の木製の蓋にはかすれかかった文字ではあるが、墨書きで「昭和20年5月15日撮影、同5月30日出撃。」と書かれているのがしっかりと読みとれる。
國江の服装は女学校の長袖のセーラー服に、白黒写真であるがゆえに想像になるがおそらく紺色かえんじ色といった「汚れが目立たない濃い色」のモンペ姿だった。颯の格好は上半身は白い長袖シャツで腰の部分で薄い色のつなぎの袖が括られている。足元は黒っぽい革製のブーツに見える。背景は開けた広場になっていて足元には「菖蒲」らしき花が咲いている。ふたりから離れた奥の方に今日、知覧特攻平和会館で展示されていたようなプロペラの飛行機が写りこんでいるが邦にはその飛行機の機種までは分からない。
「うーん、おばあちゃんのセーラーとモンペは冬服といえばそうやろうけど、再来少尉は上半身つなぎを脱いでるって事は少なくとも「寒い」季節じゃないわな…。まあ、令和の気候と昭和20年の気候じゃ大分気温に差があるやろうから5月といえば5月やし、もしかして3月といえば3月なんかもしれへんな。
とりあえず、颯さんに写真と写真立て裏の文字の「写メ」を送っておくか。「今日はいろいろとありがとうございました。おばあちゃんと再来少尉の写真と写真立ての裏のメモの写真を送らせてもらいます。おばあちゃんの話はまとめ次第送ります。」…、とこんな文章でええかな?はい、送信。」
邦が写真を添付したメールを送ると、「確認しました。後ろに映ってる機体は胴体と翼の形状とキャノピーから「四式戦」と思われます。都城西飛行場での「四式戦」使用の部隊があったのか調べてみます。第20振武隊についても調べていますので少しお時間下さい。おばあさまにもよろしくお伝えください。」と10分後に丁寧なメールが届いた。
夕食を取り終わると、話題は國江の過去に移っていった。邦は大学ノートとシャーペンを手に國江の話をメモしていった。國江は「モボ・モガ(※注8)がかかわりのない 一つの死」という尾藤三笠の川柳が時代を表していた金融恐慌が勃発した昭和2年(1927年)に大阪で生まれた。父親は三菱の創始者である岩崎弥太郎が大阪市で設立した「九十九商会」の後身である「日本郵船」の神戸・シアトル線の無線士兼船付きのシェフだった。國江の出生と共に退社し、大阪の「ミナミ」で当時としては珍しかった洋食専門店を開店させた。
海外航路勤務が長く、船員だけでなく旅客を相手にする為に多種多様なレシピを身に付けていた國江の父の洋食屋は大人気だった。
國江が8歳を迎えた昭和10年当時はまだ海外からの輸入物もふんだんにあり、都市部に住む国民には豊かな食事を楽しむ余裕もあった。
フレンチ、イタリアン、トルコ料理などを国内で手に入る材料で工夫して作られた風変わりな創作料理の世界に國江も引き込まれていった。当時は高級品だった豚肉の代わりに豆腐を「凍氷屋」で凍らせてもらい、カチコチに凍った豆腐に重しをのせて冷蔵庫内で解凍して水抜きして作る「凍み豆腐」(※注9)を豚足からとった豚骨とコラーゲンのブイヨンを染み込ませ、塩コショウの下味で卵とパン粉をつけて揚げる「豚カツもどき」は人気メニューであった。
また「西洋卵丼」と銘打った大きめにカットした肉厚の「シイタケ」を、当時は下処理に手間がかかり廃棄されることが多かった鶏の「モミジ(※注10)」と煮込んだ「鶏肉もどき」を具材にして、白身を泡立てたメレンゲに黄身を落とした溶き卵と「モミジ」とシイタケの出汁を混ぜ、厚焼き玉子用の深い角フライパンで弱火で焼き固めたふわふわのオムレツを丼のご飯にのせる現在の「ふわふわオムライス」風の親子丼も子供から年寄りまでよく注文された。
江戸時代から「食道楽の街」として栄えた「ミナミ」の街では、ひと手間、ふた手間加えた國江の父の店のメニューはSNSなど無かった時代に口コミで「あそこの飯は旨い!」というだけでなく、けなげに店の手伝いをする國江は「小さな看板娘」として店の集客の主戦力として活躍した。
國江の考案した「牛乳」と「モミジの鶏ガラだし」と「卵」の溶き汁を野菜や魚介類と一緒にティーカップに入れて蒸して固まったものの上に「モミジ」からとったコラーゲンの塊である「煮凝り」をのせて作る西洋風茶碗蒸し風のメニューは「ミナミ」の洋食界では「ロワイユ」と名付けられ、今でいう「ご当地メニュー」になった。
國江は「洋食屋」の仕事を手伝うのと同時に、父のもう一つの仕事であった「無線士」にも興味を持った。昭和初期の無線事情は今と違い、衛星電話など無く、基本的に「長波」を使った「モールス信号」でのやり取りだった。
各国の発信する気象情報を受信し、気圧配置や「台風」、「タイフーン」、「ハリケーン」、「サイクロン」等の船の航行に支障のある情報を船長、航海長に伝え、船内で重病人が発生した際には最寄りの港に専門医や手術、入院可能な施設を手配する重要な仕事だった。
アルファベットを「トン」、「ツー」とよばれる「短音」と「長音」の組み合わせで表現するだけでなく、海運業界の万国共通語となった「英語」を理解する技能が必要だった。
國江は日本語モールスを覚えると、父の教えでモールスで使われる「英語」を覚えた。最初に覚えた英語モールスは「SOS」だった。
洋食屋の手伝いをしつつ、商品材料が底をつきそうになると「お父ちゃん、もう、卵があれへんで!」と言葉にするのではなく、「卵、トントントン、ツーツーツー、トントントン」とモールスを交えた「隠語」で伝えることで店内連絡を取るようにすることで、客に都合の悪い情報を漏らすことなく連絡を取り合うようになっていた。
そんな「遊び」を交えた手伝いが活きたのか、現在で言うところの中学2年生にあたる「尋常高等小学校2年(※昭和16年に「国民学校高等科」と改称)」卒業前に店の常連客であった逓信省電信局の大阪支店局長に目を付けられ「電報」、「至急電」の通信士としてスカウトを受け、高等小学校卒業と同時に就職する事となった。
当時は都市部においては「電話」が普及しかかっていたが、田舎に行くと「至急電」は「電報」が主たる通信手段であり、「10文字」まで75銭、それを超えると「5文字」15銭といったように課金制でモールスで全国に信号を送り、各地の郵便局員が「文字化」して送る時代だった。
その電信の多くが「チチキトク ソクカエレ ハハ」に代表される緊急電や、都市部に出て来た地方の金持ちの「ボンボン学生」が親元に送る「シキュウカネオクラレタシ」といった金の無心だったが、送るべきメッセージを最低限の文字数にまとめるパズル的要素もあり、送受信士であった國江はその文章を楽しんでいた。
昭和18年に逓信省と鉄道省が統合され、「運輸通信省・通信院」が所轄となり、昭和19年末には日本帝国陸軍の無線通信士として出向で軍務に着くことになった。
國江がモールス通信士になって丸3年を迎えようとしていた、昭和20年3月13日深夜、悪夢に襲われた。午後11時57分から翌日午前3時25分にわたる約3時間半におよぶ「第1回大阪大空襲」に遭ったのだった。
3月10日に東京を襲い、約10万人の死者を出したアメリカ空軍の大型長距離爆撃機「B29」274機が大阪上空に現れた。「大正陸軍飛行場」から出撃した迎撃戦闘機の奮戦もむなしく3987名の死者と678名の行方不明者を出した爆撃攻撃で國江の家族も全員亡くなり、父の洋食店も廃塵と化した。
國江は命からがら、まだ寒い道頓堀川に飛び込み、命は助かったものの命以外の全てを失った。
家族も財産も無くした國江は2週間の間、焼け残った職場の寄宿舎を臨時の身の置き場としていた。避難時に着ていた服以外に資産は無く、預貯金証書も全て燃えてしまい17歳の國江に残されたのは「退職金」しかないと思い、よもやの「田舎の親戚」への「電報」を打つこととなった。
「313オオサカクウシュウデ チチハハシス セワニナリタシ ナンデモシマス ヘンジコウ クニエ」と送ると、翌日に宮崎県都城で旅館業を営む父の兄から電報で「マツテイル オイデ オジ」と最低限の10文字で返事が来たので、國江は退職手続きをとり、受け取った退職金で国鉄の宮崎行の2等車の乗車券を購入した。
(※注8) モダンボーイ、モダンガールを意味し、西洋文化を取り入れた先進的な若者の事を指す俗語。
(※注9) 簡易に作る「高野豆腐」もどき。冷凍した事で豆腐内の水分が凍り、多くの小さな空間ができる為、味が染みやすい。豆腐自体は大豆たんぱく(植物性タンパク質)の宝庫であり、低脂質代用動物性たんぱく質としてスポーツアスリートの食事として現在でも使われることがある。
(※注10) 鶏の足先部位を示す。今では良い出汁の素として使われることもある。筆者は塩コショウとカレー粉で下味をつけ片栗粉でカリッカリに揚げたものやコーラと醤油で甘辛く煮たものが好き。
「邦ちゃん、颯さんはいい人やったやろ。ああいう人が日本を守ってくれとったら私らはこの先も安心して暮らしていけるな…。」
都城駐屯地を出発したあと、後部座席で國江が邦に呟いた。
「せやな。私、自衛隊の人ってみんな武器を持って日本に攻めてくる外国と戦う為に入るんやと思ってたけど、颯さんの考えは違ってたな。「国民を守る」っていう意味では「戦争」に備えるって事も「災害」に備えるって事も一緒やねんな。
颯さんの家はずっと「日本」を…、いや「日本人」を守ってきてくれてたんやな。自衛隊に対するイメージがちょっと変わったわ。
あと、特攻隊員のイメージも今日でガラッと変わったな…。みんな純粋に家族や恋人や仲間を守るために命を捧げてくれたおかげで今の平和な日本があるってな…。テレビで言うように、軍隊に強制されての出撃じゃなかったっていう事があのたくさんの遺書や遺品から伝わって来たわ…。」
ハンドルを握りながら邦は今日の半日を振り返った。
「ところで、「おばあちゃんの颯さん」は今日のところはちょっと「残念」な感じで終わってしもたけど、「ここの颯さん」が調べてくれるっていうから、家に帰ったらおばあちゃんの話を詳しく聞かせてな。私、この夏休みの社会科の歴史レポートの宿題は「特攻隊」をテーマにすることにしたから。」
赤信号で停まっている間、邦は後部座席の國江に顔を向け話しかけた。國江はやさしく微笑んで答えた。「それはええ事やな。面倒かけるけどあの戦争の事を若い人に伝えられる最後のチャンスかもしれへんもんな。」
家に帰ると邦はまず仏壇の「國江と再来颯」の写真立てを改めて手に取った。笑顔で並ぶ國江と颯の写真をスマホで数枚撮り終わると前後をひっくり返し、写真立ての背面に残された文字を見た。
薄茶色の木製の蓋にはかすれかかった文字ではあるが、墨書きで「昭和20年5月15日撮影、同5月30日出撃。」と書かれているのがしっかりと読みとれる。
國江の服装は女学校の長袖のセーラー服に、白黒写真であるがゆえに想像になるがおそらく紺色かえんじ色といった「汚れが目立たない濃い色」のモンペ姿だった。颯の格好は上半身は白い長袖シャツで腰の部分で薄い色のつなぎの袖が括られている。足元は黒っぽい革製のブーツに見える。背景は開けた広場になっていて足元には「菖蒲」らしき花が咲いている。ふたりから離れた奥の方に今日、知覧特攻平和会館で展示されていたようなプロペラの飛行機が写りこんでいるが邦にはその飛行機の機種までは分からない。
「うーん、おばあちゃんのセーラーとモンペは冬服といえばそうやろうけど、再来少尉は上半身つなぎを脱いでるって事は少なくとも「寒い」季節じゃないわな…。まあ、令和の気候と昭和20年の気候じゃ大分気温に差があるやろうから5月といえば5月やし、もしかして3月といえば3月なんかもしれへんな。
とりあえず、颯さんに写真と写真立て裏の文字の「写メ」を送っておくか。「今日はいろいろとありがとうございました。おばあちゃんと再来少尉の写真と写真立ての裏のメモの写真を送らせてもらいます。おばあちゃんの話はまとめ次第送ります。」…、とこんな文章でええかな?はい、送信。」
邦が写真を添付したメールを送ると、「確認しました。後ろに映ってる機体は胴体と翼の形状とキャノピーから「四式戦」と思われます。都城西飛行場での「四式戦」使用の部隊があったのか調べてみます。第20振武隊についても調べていますので少しお時間下さい。おばあさまにもよろしくお伝えください。」と10分後に丁寧なメールが届いた。
夕食を取り終わると、話題は國江の過去に移っていった。邦は大学ノートとシャーペンを手に國江の話をメモしていった。國江は「モボ・モガ(※注8)がかかわりのない 一つの死」という尾藤三笠の川柳が時代を表していた金融恐慌が勃発した昭和2年(1927年)に大阪で生まれた。父親は三菱の創始者である岩崎弥太郎が大阪市で設立した「九十九商会」の後身である「日本郵船」の神戸・シアトル線の無線士兼船付きのシェフだった。國江の出生と共に退社し、大阪の「ミナミ」で当時としては珍しかった洋食専門店を開店させた。
海外航路勤務が長く、船員だけでなく旅客を相手にする為に多種多様なレシピを身に付けていた國江の父の洋食屋は大人気だった。
國江が8歳を迎えた昭和10年当時はまだ海外からの輸入物もふんだんにあり、都市部に住む国民には豊かな食事を楽しむ余裕もあった。
フレンチ、イタリアン、トルコ料理などを国内で手に入る材料で工夫して作られた風変わりな創作料理の世界に國江も引き込まれていった。当時は高級品だった豚肉の代わりに豆腐を「凍氷屋」で凍らせてもらい、カチコチに凍った豆腐に重しをのせて冷蔵庫内で解凍して水抜きして作る「凍み豆腐」(※注9)を豚足からとった豚骨とコラーゲンのブイヨンを染み込ませ、塩コショウの下味で卵とパン粉をつけて揚げる「豚カツもどき」は人気メニューであった。
また「西洋卵丼」と銘打った大きめにカットした肉厚の「シイタケ」を、当時は下処理に手間がかかり廃棄されることが多かった鶏の「モミジ(※注10)」と煮込んだ「鶏肉もどき」を具材にして、白身を泡立てたメレンゲに黄身を落とした溶き卵と「モミジ」とシイタケの出汁を混ぜ、厚焼き玉子用の深い角フライパンで弱火で焼き固めたふわふわのオムレツを丼のご飯にのせる現在の「ふわふわオムライス」風の親子丼も子供から年寄りまでよく注文された。
江戸時代から「食道楽の街」として栄えた「ミナミ」の街では、ひと手間、ふた手間加えた國江の父の店のメニューはSNSなど無かった時代に口コミで「あそこの飯は旨い!」というだけでなく、けなげに店の手伝いをする國江は「小さな看板娘」として店の集客の主戦力として活躍した。
國江の考案した「牛乳」と「モミジの鶏ガラだし」と「卵」の溶き汁を野菜や魚介類と一緒にティーカップに入れて蒸して固まったものの上に「モミジ」からとったコラーゲンの塊である「煮凝り」をのせて作る西洋風茶碗蒸し風のメニューは「ミナミ」の洋食界では「ロワイユ」と名付けられ、今でいう「ご当地メニュー」になった。
國江は「洋食屋」の仕事を手伝うのと同時に、父のもう一つの仕事であった「無線士」にも興味を持った。昭和初期の無線事情は今と違い、衛星電話など無く、基本的に「長波」を使った「モールス信号」でのやり取りだった。
各国の発信する気象情報を受信し、気圧配置や「台風」、「タイフーン」、「ハリケーン」、「サイクロン」等の船の航行に支障のある情報を船長、航海長に伝え、船内で重病人が発生した際には最寄りの港に専門医や手術、入院可能な施設を手配する重要な仕事だった。
アルファベットを「トン」、「ツー」とよばれる「短音」と「長音」の組み合わせで表現するだけでなく、海運業界の万国共通語となった「英語」を理解する技能が必要だった。
國江は日本語モールスを覚えると、父の教えでモールスで使われる「英語」を覚えた。最初に覚えた英語モールスは「SOS」だった。
洋食屋の手伝いをしつつ、商品材料が底をつきそうになると「お父ちゃん、もう、卵があれへんで!」と言葉にするのではなく、「卵、トントントン、ツーツーツー、トントントン」とモールスを交えた「隠語」で伝えることで店内連絡を取るようにすることで、客に都合の悪い情報を漏らすことなく連絡を取り合うようになっていた。
そんな「遊び」を交えた手伝いが活きたのか、現在で言うところの中学2年生にあたる「尋常高等小学校2年(※昭和16年に「国民学校高等科」と改称)」卒業前に店の常連客であった逓信省電信局の大阪支店局長に目を付けられ「電報」、「至急電」の通信士としてスカウトを受け、高等小学校卒業と同時に就職する事となった。
当時は都市部においては「電話」が普及しかかっていたが、田舎に行くと「至急電」は「電報」が主たる通信手段であり、「10文字」まで75銭、それを超えると「5文字」15銭といったように課金制でモールスで全国に信号を送り、各地の郵便局員が「文字化」して送る時代だった。
その電信の多くが「チチキトク ソクカエレ ハハ」に代表される緊急電や、都市部に出て来た地方の金持ちの「ボンボン学生」が親元に送る「シキュウカネオクラレタシ」といった金の無心だったが、送るべきメッセージを最低限の文字数にまとめるパズル的要素もあり、送受信士であった國江はその文章を楽しんでいた。
昭和18年に逓信省と鉄道省が統合され、「運輸通信省・通信院」が所轄となり、昭和19年末には日本帝国陸軍の無線通信士として出向で軍務に着くことになった。
國江がモールス通信士になって丸3年を迎えようとしていた、昭和20年3月13日深夜、悪夢に襲われた。午後11時57分から翌日午前3時25分にわたる約3時間半におよぶ「第1回大阪大空襲」に遭ったのだった。
3月10日に東京を襲い、約10万人の死者を出したアメリカ空軍の大型長距離爆撃機「B29」274機が大阪上空に現れた。「大正陸軍飛行場」から出撃した迎撃戦闘機の奮戦もむなしく3987名の死者と678名の行方不明者を出した爆撃攻撃で國江の家族も全員亡くなり、父の洋食店も廃塵と化した。
國江は命からがら、まだ寒い道頓堀川に飛び込み、命は助かったものの命以外の全てを失った。
家族も財産も無くした國江は2週間の間、焼け残った職場の寄宿舎を臨時の身の置き場としていた。避難時に着ていた服以外に資産は無く、預貯金証書も全て燃えてしまい17歳の國江に残されたのは「退職金」しかないと思い、よもやの「田舎の親戚」への「電報」を打つこととなった。
「313オオサカクウシュウデ チチハハシス セワニナリタシ ナンデモシマス ヘンジコウ クニエ」と送ると、翌日に宮崎県都城で旅館業を営む父の兄から電報で「マツテイル オイデ オジ」と最低限の10文字で返事が来たので、國江は退職手続きをとり、受け取った退職金で国鉄の宮崎行の2等車の乗車券を購入した。
(※注8) モダンボーイ、モダンガールを意味し、西洋文化を取り入れた先進的な若者の事を指す俗語。
(※注9) 簡易に作る「高野豆腐」もどき。冷凍した事で豆腐内の水分が凍り、多くの小さな空間ができる為、味が染みやすい。豆腐自体は大豆たんぱく(植物性タンパク質)の宝庫であり、低脂質代用動物性たんぱく質としてスポーツアスリートの食事として現在でも使われることがある。
(※注10) 鶏の足先部位を示す。今では良い出汁の素として使われることもある。筆者は塩コショウとカレー粉で下味をつけ片栗粉でカリッカリに揚げたものやコーラと醤油で甘辛く煮たものが好き。
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