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第五章・出会い
第29話 下関戦争(中編)
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長州での会議の場面に戻る。
結局会議はひとまず中断となった。まずは敗残兵がどれだけ戻って来るか?それを確認しなければならないからである。
この日、京都の朝廷では「長州追討」を決定した。
そして翌二十四日には朝廷と幕府が二十一藩に対して「長州追討の出兵命令」を下した。
いまや長州は「朝敵」となってしまったのである。
この頃、京都へ向かっていた俊輔は岡山にいた。
たまたまこの岡山には、世子定広の軍勢と合流するため東上していた重役の前田孫右衛門もいた。
俊輔と前田はこの岡山で、はからずも京都から戻って来た長州の敗残兵たちと遭遇することになった。
自藩の敗残兵たちを見た前田老人は泣き出してしまった。
「うう……、これでもう、長州は滅びるに違いない……」
泣きたい気持ちなのは俊輔も同じであった。
今回の京都出兵には久坂、入江ほか松下村塾の仲間たちが大勢参加していた。そして何より俊輔の父・十蔵も参加していたのである。
(皆、無事に帰って来るだろうか……)
俊輔は皆の安否が心配で憂鬱な気持ちになった。ところがそうしているうちに、この岡山で松下村塾出身の品川弥二郎と再会した。
戦地から戻って来た品川の話では父・十蔵は無事だという。けれども久坂と入江は戦死した可能性が高いとのことであった。
(もし入江の戦死が本当だとしたら、すみ子に対して何と言えば良いのだ……)
俊輔の妻すみ子は入江九一の妹である。俊輔としても前田同様、泣きたいのはやまやまだが、泣いてどうなるものでもない。
「前田様。お気持ちはわかりますが、泣いていても始まりません。とにかく一緒に三田尻へ戻りましょう」
前田が合流するはずだった定広の軍勢も、船で讃岐(現在の香川県)の多度津まで進んだところで京都の敗報を聞き、すぐに三田尻へ引き返していた。
七月末頃には長州の軍勢はすべて帰還した。その一方で、横浜では七月二十七日に四ヶ国艦隊が下関へ向けて出発していた。
四ヶ国艦隊の内訳をみるとイギリスの軍艦は旗艦ユーリアラス号など九隻、フランスは旗艦セミラミス号など三隻、オランダは前年下関で砲撃戦をおこなったメデゥサ号など四隻、アメリカは商船一隻で、合計十七隻の艦隊である。兵員は合計約五千名(内、上陸作戦に参加するのは約二千名)、大砲の数は合計285門である。
艦隊の総司令官は前年の薩英戦争と同じくイギリスのキューパー提督である。ただし前回のニールとは違って今回オールコックは同行していない。そして艦隊の副司令官にはフランスのジョレス提督がついた。ちなみにジョレス提督はこの下関遠征にあまり乗り気ではなかったらしく「イギリスのオールコックとキューパー提督が、前年の薩英戦争の雪辱を狙って引き起こしたものだろう」と冷ややかな目で見ていた。こういったところからも、この後に生じる英仏の対立を予感させるものがある。
今回、サトウは旗艦付き通訳として作戦に参加した。
前回の薩英戦争ではシーボルトが旗艦付き通訳をつとめていたが、とうとうサトウがその座を奪い取ることになった。
そしてこの時もサトウは日本語教師を同行していたのだが、この前姫島にサトウや俊輔、聞多と同行した中沢見作はなぜか幕府によって逮捕されてしまったので、今回はウィリスの日本語教師である林朴庵という人物を連れて来た。
この中沢が幕府に逮捕されたことについては、あまり気持ちのいい話ではないが、後年、中沢がサトウに語った話によると「サトウの昇進に嫉妬したシーボルトが幕府の老中に告げ口した」というのが原因らしい。サトウの著書『A Diplomat in Japan』ではそこまでハッキリと書いてないものの、サトウの日記にはそのように書いてある。サトウとシーボルトはそれほど仲が悪いようには見えないのだが、これが本当だとすると、おそらくこの時はシーボルトの心に何か魔が差したのだろう。ちなみに中沢はその後オールコックの取り成しによって釈放された。
ともかくも、サトウは旗艦ユーリアラス号でキューパー提督や艦長のアレキサンダー大佐の通訳をつとめることになった。
またこのユーリアラス号には従軍カメラマンのベアトが、さらに別の艦には『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者兼イラストレーターのワーグマンが乗り込んでいた。一方ウィリスは、一人寂しく横浜で留守番をすることになった。
四ヶ国艦隊は順調に航海を続け、八月二日、この前サトウや俊輔たちがやって来たのと同じように、姫島に到着した。そしてここで石炭船から石炭を補充して戦闘準備を整えることになった。
長州藩はこの期に及んでも藩論がまとまらなかった。
幕府が命じた諸藩からの追討軍が遠からず長州の国境へやって来るのは確実で、こんな時に四ヶ国艦隊と戦うのは無謀である、というのが藩上層部の一致した考えだった。
けれども藩内にはまだまだ攘夷の熱が強く残っている。
藩内で攘夷を叫んでいる連中は外国と戦って負けるなどと思っていない。いや、「負けることを考えること自体が負けだ」「夷狄に負けるぐらいなら死んだほうがマシだ」と考えている。彼らは下関で四ヶ国艦隊を打ち破るつもりで、砲撃準備をして今や遅しと待ち構えている。
下関で待ち構えているのは奇兵隊などの兵、総勢約二千人である。
奇兵隊の総監は赤根武人で、軍監は山県小助(後の有朋)である。京都で禁門の変を戦ったのは主に藩の正規兵で、奇兵隊からは十数人が参加しただけだった。奇兵隊にとっては実質的に今回の四ヶ国艦隊との戦いが初陣となるわけで、戦意は旺盛だった。
聞多は聞多で相変わらず、上層部の定見の無さに暴言を浴びせかけていた。
「長州が焦土となっても構わないから攘夷をやると言ったくせに、敵艦隊が来るとなった途端に前言をひるがえして和議を結ぼうとする。こんな無節操な態度では攘夷であれ、開国であれ、どちらをするにしても藩を信用することなど出来ない」
そう言って完全に匙を投げ、会議に参加することもやめてしまった。
俊輔はそんな聞多をなだめて四ヶ国艦隊との和議を勧めるが、聞多は完全にへそを曲げて聞く耳を持たなかった。
そして結局、八月二日に四ヶ国艦隊が姫島へやって来たのをうけて「今、四ヶ国艦隊と戦うのは得策ではない」との結論を下し、俊輔と海軍総督・松島剛蔵(小田村伊之助の兄)を姫島へやって和議を結ぶことになった。
八月四日、俊輔と松島が小舟に乗って三田尻から姫島の四ヶ国艦隊へ向かうと、小舟が着く前に四ヶ国艦隊は下関海峡へ動き出してしまい、俊輔が乗った小舟は引き返さざるを得なかった。
これをうけて山口の政事堂では聞多を呼び出し、下関で和議の交渉をやらせることにした。
聞多は交渉役を断ったが上層部が「君公(藩主慶親)が和議を強く望んでおられるから」としきりに聞多を説得し、聞多も仕方なく交渉役を引き受けることになった。同行するのは重役の前田孫右衛門である。
そして八月五日になった。
十七隻の四ヶ国艦隊は下関対岸の小倉藩領の田野浦に布陣していた。
山口から下関に到着した聞多と前田はとりあえず外国語が話せる戸田亀之助を使者としてユーリアラス号へ送り、二時間の発砲猶予を求めた。そして聞多は陸上で砲撃準備をしている奇兵隊などに対して「こちらから撃ってはならぬ」と発砲を戒めるように注意して回った。
ちなみに下関の市街では八月一日から三日まで亀山八幡宮で祭りが催されていた。「戦争するのは武士の役目」というのが当時町人たちの抱いていた通念であったので(ただしこの長州に限っては、その通念が通用しなくなるのだが)彼らは戦争が目の前に近づいていても祭りを楽しみ、祭りが終わった途端にさっさと安全なところへ避難していった。この点では薩英戦争時、事前に鹿児島の町から町人を避難させたのと結果的には同じかたちとなった。
戸田亀之助は昼過ぎ頃、ユーリアラス号でキューパー提督と面会して二時間の発砲猶予を要請し、その間に井上聞多と前田孫右衛門が交渉のため来艦することを伝えた。
キューパー提督は二時間の発砲猶予を了承したが、戸田に対して戦争の忠告もした。それをサトウが通訳した。
「よろしい、二時間待とう。ただし見ての通り、我々の軍艦はすでに戦闘準備が整っている。今にこの砲弾を君たちに御進物するから覚悟しておきたまえ」
聞多と前田は奇兵隊などの説得に思ったよりも時間がかかってしまった。
二人が小舟に乗って下関の港からユーリアラス号へ向かおうとした時、すでに約束の時間を一時間過ぎていた。
そしてこの時、ユーリアラス号から壇ノ浦砲台へ向けて一発の砲弾が発射され、それを合図に四ヶ国艦隊は一斉に砲撃を開始した。
この四ヶ国艦隊の砲撃に合わせて、長州側の砲台もすかさず一斉砲撃を開始した。
下関海峡はたちまち全体が砲煙に包まれた。午後四時頃の出来事であった。
結局聞多は使者の役目を果たせなかった。同行した前田老人は、また泣き出してしまった。
「ああ……、国事を誤った。これでもう、長州は滅びるに違いない……」
聞多は前田に強い口調で言い返した。
「今さら嘆いたところで何になりますか。あとは奮戦あるのみです。私は急ぎ山口へ戻るので、馬関の処置は前田様にお任せします」
そう言って船を岸へ戻し、聞多は急いで山口へ向かった。
こうして俊輔と聞多はギリギリの段階で和議の使者をつとめながら、どちらも間に合わなかった訳である。
とはいえ、俊輔と聞多が使者として間に合っていたとしても、おそらく和議は成立しなかったであろう。
二人が持参した書状によると、和議の条件として「外国船の下関海峡の通航を認める」としか書かれていなかった。一応それ以外にも日本国内の事情、例えば「外国船への砲撃は朝廷と幕府の命令によるものである」といったことも書かれてはいるが、そんなことは四ヶ国にとってどうでもいい。
一番問題なのは「長州が下関に大量の大砲を配備している」ということなのである。
これらの大砲が撤去されない限り、四ヶ国側が和議を承知するはずがなかった。そしてこの大砲の撤去は、長州にとって絶対に飲める条件ではなかった。それゆえ、この「下関戦争」が開戦するに至ったのは必然の結果であったと言うべきだろう。
四ヶ国艦隊は二隊に分かれた。ユーリアラス号など重量級の艦隊は長州砲台の射程圏外から長距離砲を叩き込み、それ以外の軽量級の艦隊は前線を素早く航行しながら砲撃をおこなった。
狙いは主に前田砲台と壇ノ浦砲台で、どちらの砲台もたちまち集中砲火を浴びて多くの大砲が沈黙することになった。さらに弾薬庫に直撃弾が当たり大爆発を引き起こした。長州の砲台が沈黙したのを見て軽量級の軍艦から素早く陸戦隊が上陸し、約20門の大砲に鉄釘を打ち込んで使用不能にした。陸戦隊はすぐに引き上げたので被害は受けなかった。
一方、長州側の砲台も四ヶ国艦隊に何発か命中させ、艦隊側にも死者3名、負傷者15名が出た。長州側は死者2名、負傷者10数名である。この日の戦闘はほどなく日暮れとなったので数時間戦っただけですぐに休止となった。長州の兵士たちは夜になってから砲台に戻り、砲台の修復に取りかかった。
このように下関で戦争が始まっている頃、俊輔は山口で懐かしい人物と再会した。
高杉晋作である。
「よう、俊輔。久しぶりだな」
「高杉さん!牢に入ってたんじゃなかったんですか?また、どうして山口へ?」
「用事があるから出て来いと言われて来たんだが、一体何が起きているのかサッパリ分からん。とにかく馬関へ行って様子を見てみようじゃないか。お前も一緒に来い」
「はい。わかりました」
高杉にそう言われては俊輔に拒否権など無い。一も二もなく承知した。
二人は夕方、駕籠に乗って馬関へ向けて出発した。
途中小郡まで行くと早駕籠がこちらへ向かってやって来た。それを高杉が止めて、何の報せか聞いた。
「馬関で戦争が始まったので山口へ報告に行くところだ」
早駕籠は、そう高杉に伝えると、すぐに山口へ向けて出発して行った。
「そうか。もう四ヶ国との戦争は始まってしまったか」
高杉は事もなげにそう言って、幾分晴れやかな表情をして自分の駕籠を出発させた。
なにしろこの男は戦争が好きなのだ。
四ヶ国との戦争に勝ち目がないことを分かっていつつも「始まってしまったものは仕方がない」とすぐに開き直り、せいぜい敵に一泡ふかせてやろうと思案し始めた。
一方、俊輔はそれほどノンキな気分ではいられなかった。
こうなることを避けるために、はるばるロンドンから帰って来たのだ。
確かに長州へ戻って来てからは、四ヶ国との戦争を避けるのが絶望的であることを薄々分かりはじめてはいた。それでもやはり、実際に四ヶ国、特にイギリスとの戦争が始まってしまったことが分かると重苦しい気持ちになった。
(あの恐るべき兵器を持つイギリスと戦争することになってしまったか……。なんとか傷の浅いうちに戦争を終結させられれば良いが……)
結局会議はひとまず中断となった。まずは敗残兵がどれだけ戻って来るか?それを確認しなければならないからである。
この日、京都の朝廷では「長州追討」を決定した。
そして翌二十四日には朝廷と幕府が二十一藩に対して「長州追討の出兵命令」を下した。
いまや長州は「朝敵」となってしまったのである。
この頃、京都へ向かっていた俊輔は岡山にいた。
たまたまこの岡山には、世子定広の軍勢と合流するため東上していた重役の前田孫右衛門もいた。
俊輔と前田はこの岡山で、はからずも京都から戻って来た長州の敗残兵たちと遭遇することになった。
自藩の敗残兵たちを見た前田老人は泣き出してしまった。
「うう……、これでもう、長州は滅びるに違いない……」
泣きたい気持ちなのは俊輔も同じであった。
今回の京都出兵には久坂、入江ほか松下村塾の仲間たちが大勢参加していた。そして何より俊輔の父・十蔵も参加していたのである。
(皆、無事に帰って来るだろうか……)
俊輔は皆の安否が心配で憂鬱な気持ちになった。ところがそうしているうちに、この岡山で松下村塾出身の品川弥二郎と再会した。
戦地から戻って来た品川の話では父・十蔵は無事だという。けれども久坂と入江は戦死した可能性が高いとのことであった。
(もし入江の戦死が本当だとしたら、すみ子に対して何と言えば良いのだ……)
俊輔の妻すみ子は入江九一の妹である。俊輔としても前田同様、泣きたいのはやまやまだが、泣いてどうなるものでもない。
「前田様。お気持ちはわかりますが、泣いていても始まりません。とにかく一緒に三田尻へ戻りましょう」
前田が合流するはずだった定広の軍勢も、船で讃岐(現在の香川県)の多度津まで進んだところで京都の敗報を聞き、すぐに三田尻へ引き返していた。
七月末頃には長州の軍勢はすべて帰還した。その一方で、横浜では七月二十七日に四ヶ国艦隊が下関へ向けて出発していた。
四ヶ国艦隊の内訳をみるとイギリスの軍艦は旗艦ユーリアラス号など九隻、フランスは旗艦セミラミス号など三隻、オランダは前年下関で砲撃戦をおこなったメデゥサ号など四隻、アメリカは商船一隻で、合計十七隻の艦隊である。兵員は合計約五千名(内、上陸作戦に参加するのは約二千名)、大砲の数は合計285門である。
艦隊の総司令官は前年の薩英戦争と同じくイギリスのキューパー提督である。ただし前回のニールとは違って今回オールコックは同行していない。そして艦隊の副司令官にはフランスのジョレス提督がついた。ちなみにジョレス提督はこの下関遠征にあまり乗り気ではなかったらしく「イギリスのオールコックとキューパー提督が、前年の薩英戦争の雪辱を狙って引き起こしたものだろう」と冷ややかな目で見ていた。こういったところからも、この後に生じる英仏の対立を予感させるものがある。
今回、サトウは旗艦付き通訳として作戦に参加した。
前回の薩英戦争ではシーボルトが旗艦付き通訳をつとめていたが、とうとうサトウがその座を奪い取ることになった。
そしてこの時もサトウは日本語教師を同行していたのだが、この前姫島にサトウや俊輔、聞多と同行した中沢見作はなぜか幕府によって逮捕されてしまったので、今回はウィリスの日本語教師である林朴庵という人物を連れて来た。
この中沢が幕府に逮捕されたことについては、あまり気持ちのいい話ではないが、後年、中沢がサトウに語った話によると「サトウの昇進に嫉妬したシーボルトが幕府の老中に告げ口した」というのが原因らしい。サトウの著書『A Diplomat in Japan』ではそこまでハッキリと書いてないものの、サトウの日記にはそのように書いてある。サトウとシーボルトはそれほど仲が悪いようには見えないのだが、これが本当だとすると、おそらくこの時はシーボルトの心に何か魔が差したのだろう。ちなみに中沢はその後オールコックの取り成しによって釈放された。
ともかくも、サトウは旗艦ユーリアラス号でキューパー提督や艦長のアレキサンダー大佐の通訳をつとめることになった。
またこのユーリアラス号には従軍カメラマンのベアトが、さらに別の艦には『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者兼イラストレーターのワーグマンが乗り込んでいた。一方ウィリスは、一人寂しく横浜で留守番をすることになった。
四ヶ国艦隊は順調に航海を続け、八月二日、この前サトウや俊輔たちがやって来たのと同じように、姫島に到着した。そしてここで石炭船から石炭を補充して戦闘準備を整えることになった。
長州藩はこの期に及んでも藩論がまとまらなかった。
幕府が命じた諸藩からの追討軍が遠からず長州の国境へやって来るのは確実で、こんな時に四ヶ国艦隊と戦うのは無謀である、というのが藩上層部の一致した考えだった。
けれども藩内にはまだまだ攘夷の熱が強く残っている。
藩内で攘夷を叫んでいる連中は外国と戦って負けるなどと思っていない。いや、「負けることを考えること自体が負けだ」「夷狄に負けるぐらいなら死んだほうがマシだ」と考えている。彼らは下関で四ヶ国艦隊を打ち破るつもりで、砲撃準備をして今や遅しと待ち構えている。
下関で待ち構えているのは奇兵隊などの兵、総勢約二千人である。
奇兵隊の総監は赤根武人で、軍監は山県小助(後の有朋)である。京都で禁門の変を戦ったのは主に藩の正規兵で、奇兵隊からは十数人が参加しただけだった。奇兵隊にとっては実質的に今回の四ヶ国艦隊との戦いが初陣となるわけで、戦意は旺盛だった。
聞多は聞多で相変わらず、上層部の定見の無さに暴言を浴びせかけていた。
「長州が焦土となっても構わないから攘夷をやると言ったくせに、敵艦隊が来るとなった途端に前言をひるがえして和議を結ぼうとする。こんな無節操な態度では攘夷であれ、開国であれ、どちらをするにしても藩を信用することなど出来ない」
そう言って完全に匙を投げ、会議に参加することもやめてしまった。
俊輔はそんな聞多をなだめて四ヶ国艦隊との和議を勧めるが、聞多は完全にへそを曲げて聞く耳を持たなかった。
そして結局、八月二日に四ヶ国艦隊が姫島へやって来たのをうけて「今、四ヶ国艦隊と戦うのは得策ではない」との結論を下し、俊輔と海軍総督・松島剛蔵(小田村伊之助の兄)を姫島へやって和議を結ぶことになった。
八月四日、俊輔と松島が小舟に乗って三田尻から姫島の四ヶ国艦隊へ向かうと、小舟が着く前に四ヶ国艦隊は下関海峡へ動き出してしまい、俊輔が乗った小舟は引き返さざるを得なかった。
これをうけて山口の政事堂では聞多を呼び出し、下関で和議の交渉をやらせることにした。
聞多は交渉役を断ったが上層部が「君公(藩主慶親)が和議を強く望んでおられるから」としきりに聞多を説得し、聞多も仕方なく交渉役を引き受けることになった。同行するのは重役の前田孫右衛門である。
そして八月五日になった。
十七隻の四ヶ国艦隊は下関対岸の小倉藩領の田野浦に布陣していた。
山口から下関に到着した聞多と前田はとりあえず外国語が話せる戸田亀之助を使者としてユーリアラス号へ送り、二時間の発砲猶予を求めた。そして聞多は陸上で砲撃準備をしている奇兵隊などに対して「こちらから撃ってはならぬ」と発砲を戒めるように注意して回った。
ちなみに下関の市街では八月一日から三日まで亀山八幡宮で祭りが催されていた。「戦争するのは武士の役目」というのが当時町人たちの抱いていた通念であったので(ただしこの長州に限っては、その通念が通用しなくなるのだが)彼らは戦争が目の前に近づいていても祭りを楽しみ、祭りが終わった途端にさっさと安全なところへ避難していった。この点では薩英戦争時、事前に鹿児島の町から町人を避難させたのと結果的には同じかたちとなった。
戸田亀之助は昼過ぎ頃、ユーリアラス号でキューパー提督と面会して二時間の発砲猶予を要請し、その間に井上聞多と前田孫右衛門が交渉のため来艦することを伝えた。
キューパー提督は二時間の発砲猶予を了承したが、戸田に対して戦争の忠告もした。それをサトウが通訳した。
「よろしい、二時間待とう。ただし見ての通り、我々の軍艦はすでに戦闘準備が整っている。今にこの砲弾を君たちに御進物するから覚悟しておきたまえ」
聞多と前田は奇兵隊などの説得に思ったよりも時間がかかってしまった。
二人が小舟に乗って下関の港からユーリアラス号へ向かおうとした時、すでに約束の時間を一時間過ぎていた。
そしてこの時、ユーリアラス号から壇ノ浦砲台へ向けて一発の砲弾が発射され、それを合図に四ヶ国艦隊は一斉に砲撃を開始した。
この四ヶ国艦隊の砲撃に合わせて、長州側の砲台もすかさず一斉砲撃を開始した。
下関海峡はたちまち全体が砲煙に包まれた。午後四時頃の出来事であった。
結局聞多は使者の役目を果たせなかった。同行した前田老人は、また泣き出してしまった。
「ああ……、国事を誤った。これでもう、長州は滅びるに違いない……」
聞多は前田に強い口調で言い返した。
「今さら嘆いたところで何になりますか。あとは奮戦あるのみです。私は急ぎ山口へ戻るので、馬関の処置は前田様にお任せします」
そう言って船を岸へ戻し、聞多は急いで山口へ向かった。
こうして俊輔と聞多はギリギリの段階で和議の使者をつとめながら、どちらも間に合わなかった訳である。
とはいえ、俊輔と聞多が使者として間に合っていたとしても、おそらく和議は成立しなかったであろう。
二人が持参した書状によると、和議の条件として「外国船の下関海峡の通航を認める」としか書かれていなかった。一応それ以外にも日本国内の事情、例えば「外国船への砲撃は朝廷と幕府の命令によるものである」といったことも書かれてはいるが、そんなことは四ヶ国にとってどうでもいい。
一番問題なのは「長州が下関に大量の大砲を配備している」ということなのである。
これらの大砲が撤去されない限り、四ヶ国側が和議を承知するはずがなかった。そしてこの大砲の撤去は、長州にとって絶対に飲める条件ではなかった。それゆえ、この「下関戦争」が開戦するに至ったのは必然の結果であったと言うべきだろう。
四ヶ国艦隊は二隊に分かれた。ユーリアラス号など重量級の艦隊は長州砲台の射程圏外から長距離砲を叩き込み、それ以外の軽量級の艦隊は前線を素早く航行しながら砲撃をおこなった。
狙いは主に前田砲台と壇ノ浦砲台で、どちらの砲台もたちまち集中砲火を浴びて多くの大砲が沈黙することになった。さらに弾薬庫に直撃弾が当たり大爆発を引き起こした。長州の砲台が沈黙したのを見て軽量級の軍艦から素早く陸戦隊が上陸し、約20門の大砲に鉄釘を打ち込んで使用不能にした。陸戦隊はすぐに引き上げたので被害は受けなかった。
一方、長州側の砲台も四ヶ国艦隊に何発か命中させ、艦隊側にも死者3名、負傷者15名が出た。長州側は死者2名、負傷者10数名である。この日の戦闘はほどなく日暮れとなったので数時間戦っただけですぐに休止となった。長州の兵士たちは夜になってから砲台に戻り、砲台の修復に取りかかった。
このように下関で戦争が始まっている頃、俊輔は山口で懐かしい人物と再会した。
高杉晋作である。
「よう、俊輔。久しぶりだな」
「高杉さん!牢に入ってたんじゃなかったんですか?また、どうして山口へ?」
「用事があるから出て来いと言われて来たんだが、一体何が起きているのかサッパリ分からん。とにかく馬関へ行って様子を見てみようじゃないか。お前も一緒に来い」
「はい。わかりました」
高杉にそう言われては俊輔に拒否権など無い。一も二もなく承知した。
二人は夕方、駕籠に乗って馬関へ向けて出発した。
途中小郡まで行くと早駕籠がこちらへ向かってやって来た。それを高杉が止めて、何の報せか聞いた。
「馬関で戦争が始まったので山口へ報告に行くところだ」
早駕籠は、そう高杉に伝えると、すぐに山口へ向けて出発して行った。
「そうか。もう四ヶ国との戦争は始まってしまったか」
高杉は事もなげにそう言って、幾分晴れやかな表情をして自分の駕籠を出発させた。
なにしろこの男は戦争が好きなのだ。
四ヶ国との戦争に勝ち目がないことを分かっていつつも「始まってしまったものは仕方がない」とすぐに開き直り、せいぜい敵に一泡ふかせてやろうと思案し始めた。
一方、俊輔はそれほどノンキな気分ではいられなかった。
こうなることを避けるために、はるばるロンドンから帰って来たのだ。
確かに長州へ戻って来てからは、四ヶ国との戦争を避けるのが絶望的であることを薄々分かりはじめてはいた。それでもやはり、実際に四ヶ国、特にイギリスとの戦争が始まってしまったことが分かると重苦しい気持ちになった。
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舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
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