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第六章・反転
第38話 パークス来日
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薩長同盟への動きが始まっている下関に「ちょうどイギリス公使のパークスがやって来た」というのは、後世から見れば何か意味ありげな場面として目に映るかもしれないが、無論、まったくの偶然である。
そしてこの十一日後、中岡が下関にやって来た。
が、西郷を連れてきてはいなかった。
中岡は豊後(大分県)佐賀関までは船で西郷と同行していた。けれども西郷は急に予定を変更して下関へは寄らず、そのまま大阪へ直行してしまった。
中岡は佐賀関で船を降りて、一人で下関へやって来たのだった。
歴史上有名な「西郷のすっぽかし事件」である。
龍馬と中岡の失望は大きかった。
桂、俊輔、聞多は龍馬と中岡から「西郷は来なかった」と聞かされた。
むろん、桂は激しく怒った。
「それ見たことか!また薩摩にだまされたではないか!だから西郷は信用できないのだ!」
桂としては、こう言わざるを得ない。
薩摩への憎しみが深い長州人たちの目もある。下手をすれば「うまうまと龍馬たちのヨタ話に乗ってしまった愚か者」として長州人から殺されるかも知れないのだ。
「長州の怒りはよく分かる。だが、この程度で薩摩を見切ってもらっては困る。いきなり両者の手を結ばせようとした今回の計画に無理があったのだ。まずお互いが歩み寄れるところから始めなけりゃいかん。長州が今どうしても欲しいのは武器と蒸気船だろう?」
この龍馬の話を聞いて、桂、俊輔、聞多の目の色が変わった。
確かに龍馬の言う通りなのである。
今回西郷が下関訪問を取りやめたのも「お互い藩内の意見調整もできていないのに、そんな慌てて会う必要もないだろう」と見たからである。さらに相手の本気度を確かめるためにも「ここは一つ、すっぽかすに限る」と判断して大坂へ直行したのであろう。
龍馬は話を続けた。
「俺は今、長崎で亀山社中というカンパニーを薩摩から任されている」
「カンパニー?」
と桂が怪訝そうに言うと、脇にいた俊輔が桂に告げた。
「イギリスの商人のことです。ただし向こうでは多くの人から元手を募るので商いの量が桁違いです」
「おお、よくご存知で。桂さん、そちらの方は?」
「伊藤俊輔と申して、イギリスのことに詳しい男だ」
さすがにイギリスへ密航した話を他所の人間に言う訳にはいかず、桂はこんな言い方で俊輔を紹介した。
俊輔と龍馬は目が合った。そしてお互い軽く会釈をした。
この時、俊輔は龍馬を見て直感的に感じた。
(この坂本龍馬という男は、どうもワシと似ている。というか同じ臭いを感じる)
龍馬はさらに話を続けた。
「外国人は長州には武器を売れないが薩摩には売れる。俺の亀山社中が長崎の外国人から薩摩名義で武器と蒸気船を買って、それを長州へ回す」
ここで再び俊輔が口を挟んだ。
「長崎の外国人から武器と蒸気船を買うと言うことは、相手はグラバーさんですか?」
「その通り。そうか、やはりグラバーは長州でも知られていたか。それなら話は早い」
以前書いた通り、俊輔は三ヶ月前に高杉と長崎へ行き、グラバーにイギリス留学の相談をしていた。それゆえ長州の開国派にとってグラバーはすでに有名な存在であった。
俊輔は龍馬に質問した。
「もし薩摩がこの話を承知すれば、確かにミニエー銃などの武器はうまく手に入るかも知れません。しかし蒸気船はどうするつもりですか?蒸気船は銃と違って人目につきます。外国から買えないはずの長州が新しい蒸気船をおおっぴらに乗り回したら、薩摩が横流ししたと幕府から疑われるんじゃないですか?」
龍馬はニヤリと笑って俊輔に答えた。
「なあに、問題ない。長州がその船を必要とする時まで、我々亀山社中の人間が薩摩の旗印を掲げてその船を運用すれば誰にも分かるまい」
なるほど確かに、それなら幕府の目をごまかせるだろう、と桂、俊輔、聞多の三人は思った。
これで一応話はまとまり、龍馬と中岡がこの線で西郷を説得することになった。
一方横浜では、この五日前にパークスが到着していた。
サトウとウィリスは軍楽隊と一緒に新公使のパークスを出迎えた。
ただし天気はあいにく、ザアザアぶりの雨だった。
さて、ここでパークスの人物像を少し解説しておきたい。
司馬遼太郎大先生は『「明治」という国家』(日本放送出版協会)の中でパークスについて次のように述べている。
「パークスの時代にもし私がうまれ得たとしたら、お前さん、アジア人をバカにしすぎているんじゃないか、とひとことだけ言ってやりたい気持ちに、ついなってしまいます」
果たして現代の日本で、パークスのことを知っている日本人が何人いるか?それは定かではないけれど、彼の名前を知っているごく少数の日本人からすれば、この司馬先生が述べている
「アジア人に対して尊大で居丈高なイギリス人、パークス」
というのが大体共通しているイメージなのではなかろうか?と思う。
確かにパークスにはそういった側面が強いことを筆者も否定はしない。
またこの先、そういった側面を何度か目にすることにもなるだろう。
彼に関する重要なエピソードを挙げておくとすれば、やはりアロー戦争の話ということになろう。
1856年(安政三年)に勃発したアロー戦争は、またの名を第二次アヘン戦争といい、清国(中国)が英仏軍に完膚なきまでに敗れ、インドのようにイギリスの植民地とされるところまではいかなかったものの、その少し手前ぐらいの状態、言うなれば「半植民地状態」になることを決定づけられた戦争だった。
この戦争の口実を作ったのが当時広東領事だったパークスである。
その詳細をここで述べることは割愛するが、それは「ほとんど言いがかり」と言っていい口実だった。
パークスはこのアロー戦争におけるイギリス側の重要人物であり続け、清国側はパークスの首に三十万ドルの賞金をかけたほどである。
四年後(1860年)、南方戦線で勝利を収めた英仏軍がいよいよ首都北京に迫ろうとした際、その和議交渉の最中に英仏交渉団の約四十名が清国側に囚われて捕虜となった。
この時パークスも捕虜の一人として監禁された。
清国側はこれらを人質にして英仏軍を退去させようとしたのだが、これがかえって英仏側の敵愾心に火をつける形となり、そのあと北京を占領され、皇帝の離宮である円明園も完全に破壊された。
パークスは三週間後に解放されたものの、約四十名の捕虜のうち半数以上が虐殺されていた。
その間パークスは拷問を受け、英仏軍に対して進撃の中止を訴えるよう強要されたが、パークスは拒否し続けた。
このため彼は帰国した時に「英雄」として讃えられヴィクトリア女王からサー(Sir)の称号を与えられたのである。
もう一つパークスの人物像を紹介する際に外せないのは「彼はインテリではない」ということである。
早くに両親を亡くし、初等教育を済ませてすぐの十三歳の時に親戚のツテを頼って清国へやって来た。それ以降、中国語の通訳として領事館の仕事を勤めあげてきた「叩き上げ」の人物なのである。
ちなみに前任の日本公使オールコックは清国で長い間パークスの上司として一緒に仕事をしており、ほとんど家族同然の間柄だった。
そのオールコックはこの時、清国公使に就任することになった。
イギリス外務省内の序列で言えば清国公使は日本公使より上位なので、これは栄転にあたる。清国公使の年俸は六千ポンドで、日本公使の年俸は四千ポンドなのである。ただし、これは要するにイギリスの利権がどれほど関わっているかによって決まっているだけのことで、イギリスの植民地であるインドを支配したインド総督の年俸は二万五千ポンドである。
新しく日本公使として赴任してきたパークスに対して、ウィリスは
「まったく落ち着きのない厄介な男で、自分自身も働き過ぎですが、部下を働かせるのも相当なものです」
と故郷への手紙でボヤいている。
そしてサトウは、この頃の日記は残ってないが、後に手記でパークスについて次のように書いている。
「彼は仕事にかけては厳格で容赦がなかったが、私的な関係においては助力を請う人々に対していつも情け深く、彼の好意をつかみ取った人々に対してはいつも誠実な友人となった。ただし、私は不幸にもこうした人々とは違っていたので、彼とは最初から最後まで馴れ親しむ関係にはなれなかった」
ともかくこれ以降、サトウはパークスの部下として長く仕えることになるのである。
七月中旬、俊輔と聞多は下関を出発して長崎へ向かった。
龍馬の周旋によって薩摩藩名義で武器と蒸気船を買う、という案を長州藩が了承して二人を長崎へ派遣したのだった。
俊輔と聞多は途中太宰府へ入って五卿に面謁し、ここで薩摩藩士および土方楠左衛門と長崎行きの相談をした。
その結果、二人は薩摩藩士になりすまして長崎へ行くことになった。
俊輔は吉村荘蔵、聞多は山田新助と名乗ることにした。
そして長崎にいる薩摩藩家老・小松帯刀宛の紹介状を書いてもらい、太宰府を出発した。
「俊輔、長崎の遊郭は安く遊べるそうだな。遊郭の手配は長崎に詳しいお主に任せる」
「聞多よ、その刀傷のある顔で遊郭へ出歩くつもりか?すぐ奉行所に目をつけられるぞ」
「なあに、編み笠をかぶっていけば傷はかくせる」
「顔をかくして遊郭へ行ったら逆に目立つではないか。第一、我々は薩摩藩士なのだぞ。お主、薩摩弁をちゃんと話せるのか?」
「心配あるまい。横浜でポルトガル人に化けたのと比べれば、わけはない。言葉の最後に『ごわす』と付ければ良いのだろう?吾輩は山田新助でごわす。きれいな女がいっぱいごわす。まことに驚くごわす。こんなもんでどうだ?」
「……お主の英語以上に下手な薩摩弁だのう」
七月二十一日、二人は長崎に着き、ひとまず亀山社中に入った。
すでに亀山社中には龍馬からの指示が届いており、亀山社中の人間も二人に協力することになっていた。
なかでも上杉宋次郎(近藤長次郎)が、二人と一緒に武器と蒸気船の購入手配にあたることになった。
上杉はさっそく二人を薩摩藩邸の小松帯刀のところへ案内した。
実のところ二人は、小松がどのような反応に出るか不安だった。
なにしろ小松は禁門の変で西郷と共に薩摩兵を指揮して長州兵を討ち、変の直後、まっさきに将軍進発を幕府に申し出て長州討滅を唱えた人物である。
二人は禁門の変に参加しておらず、そういった小松がとった行動のいきさつまでは知らなかったが、薩摩藩の家老が仇敵長州の人間を快く迎えるとは思えず、小松と会う直前まで心の中で身構えていた。
ところが小松は二人を歓迎した。
「坂本さんから話は聞いてます。我が藩の方針はお二人と同じく“尊王開国”です。貴藩の利益となるのなら喜んでお手伝いしましょう」
小松は長州が薩摩藩名義で武器と蒸気船を買うことを了承し、さらに二人が薩摩藩邸に滞在することも許可した。
後はとんとん拍子に話が進んだ。
武器と蒸気船の手配をするグラバーは、五代や薩摩スチューデントとの関係を見ても分かるように薩摩藩と密接な関係にあった。当然のことながら小松とグラバーの間には、これまでビジネスを積み重ねてきた信頼関係があった。
小松の後ろ盾を得た俊輔と聞多からの注文であれば、グラバーが断るはずもなかった。
グラバーは二人に対して言った。
「ご心配は無用です。百万ドルぐらいなら、いつでも長州にお貸ししましょう」
二人はミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺、さらに蒸気船ユニオン号をグラバーに注文した。
この中でも特にミニエー銃4,300挺はどうしても長州が手に入れたがっていた武器で、これが後の「第二次長州征伐」の際に威力を発揮することになる。
この買い付け手配の際、聞多は小松と一緒に薩摩へ行った。また上杉は薩長両藩の藩主(薩摩は国父久光)に謁して両藩の関係を調整するため奔走した。
特にユニオン号の手配のために上杉は奔走したのだが、後に両藩の間でユニオン号の帰属をめぐって問題が生じることになった。
薩摩藩と上杉は桜島丸と名付けて薩摩藩の所有にしようとし、長州藩は乙丑丸と名付けて自藩の所有にしようとして紛争になったのである。
結局龍馬が仲裁して長州藩の所有船ということに決まるのだが、この問題とは別に、上杉が亀山社中に無断でイギリスへ密航しようとして(やはり密航の手配はグラバーで、資金は小松が出すことになっていた)その計画が社中の人間に露見したことによって、翌年の一月十四日、上杉は切腹してしまった。享年二十九。
おそらく上杉は、一緒に行動していた俊輔や聞多からイギリス留学の話を聞いて触発された、ということもあったのであろう。
のちに俊輔はこの時のことを次のように回想している。
「その前日までは吾輩たちと一緒に酒を飲んでおったが、翌日になって『昨晩腹を切らした』と言ってきたものだから実に驚いた。この男が一番役に立つ男であったが、誠に気の毒であった」
俊輔はこの買い付け手配のために、翌年一月まで長崎と長州の間を行ったり来たりすることになった。
さて、これまで大河ドラマなどで何度も見てきた龍馬・西郷・桂の「薩長同盟」の場面は、上杉が切腹した数日後、一月二十一日の京都での話であるが、この物語では特に大きく取り上げるつもりはない。
実際のところ、この長崎での両藩の提携を見れば、事実上両藩の提携はこの段階でほとんど出来上がっていたとも言えよう。
長崎のイギリス領事館にいたガウアー(エーベル・ガウアー)は俊輔たちが長崎へ到着した六日後(七月二十七日)には、横浜のパークス公使に対して次のように報告している。
「イギリスから帰国した二人の長州藩士が薩摩藩士と称して、私のよく知っている小松帯刀の庇護を受けて薩摩藩邸に匿われています。彼らが長崎に来た理由は定かではありませんが、これは人々が口にしている噂を裏付けているかも知れません。その噂とは、薩摩は表面上、長州再征では幕府に協力的ですが、実際は長州を全力で助けている、というものです」
この情報元が「薩摩藩、俊輔たち、グラバー」のうち、いずれであったかは分からないが、イギリスは早くも薩長提携の動きを把握しつつあった。
同じ頃、ヨーロッパでも薩長の留学生たちが接近しつつあった。
パークスが横浜へ着任する途中、閏五月十日に下関へ立ち寄って桂、俊輔、聞多の三人と面会していたが、実はこの同じ日に、ロンドンで「長州ファイブ」の三人、山尾、野村、遠藤が「薩摩スチューデント」と初めて面会したのである。
三人のなかでも特に山尾が積極的に薩摩人たちとの交流を深めていった。
「同じ異郷の地にある日本人同士」
ということで薩長間の軋轢を乗り越えられたということもあろうが、それとは別に、山尾には薩摩人たちに接近しなければならない理由があった。
長州の三人は金が無かったのである。
薩摩スチューデントたちはしっかりと留学資金を準備してロンドンへやって来ていた。
一方、この物語の「長州ファイブ」の章で彼らがロンドンへやって来る顛末を以前書いたが、長州のイギリス留学計画はずさん極まるやり方だった。
ロンドンに残った山尾、野村、遠藤の三人はたちまち資金に窮することになり、高杉と俊輔の代わりに追加留学生となった南、山崎、竹田の三人もたちまち同様の境遇に陥ることになった。
山尾、野村、遠藤のうち、遠藤は肺を悪くしたこともあって翌年早々に帰国する。一方、野村はロンドンに残って五年間勉強を続けることになる。
そして山尾は翌年、薩摩人から一人一ポンドずつ、合計十六ポンドの義援金を出してもらってグラスゴーへ行き、そこで働きながら造船技術を学ぶのである。
山尾はグラスゴーへ行ってからも薩摩人たちと手紙で連絡を取り続け、これは長州藩の方針というよりもまったく個人的な人間関係と言うべきであろうが、イギリスで薩長連携を押し進めることになる。
ちなみに薩摩スチューデント十九人のうち五代、松木など幹部数人は留学のためにヨーロッパへやって来た訳ではない。
五代は武器や産業用機械の工場視察、さらにそれらを日本へ買って帰るために、そして松木は、イギリス外務省と外交交渉をするためにヨーロッパへやって来たのである。
五代は新式の鉄砲・大砲、さらに紡績機械の購入契約を済ませたあと、ベルギー系フランス人のモンブラン伯爵と面会した。
このモンブランは「幕末の山師的外国人」と言われている人物で、物語作品などで見かけることはめったにないが、筆者が知る限り四十年前の大河ドラマ『獅子の時代』に登場していたぐらいだと思う(筆者はその当時見た訳ではないが)。
その大河ドラマの中でも、この二年後に開催される「パリ万博」で薩摩藩の味方をして、プロパガンダによって幕府を攻撃していたが、それは実際の史実を基にした話である。そしてその薩摩藩との関係はこの五代との面会によって生まれたものだった。
さらに余談として付け加えると、ちょうどこの頃、幕府遣欧使節の柴田剛中一行(この一行には福地源一郎も含まれている)がフランスへやって来ていた。
幕府がフランスの協力で建設計画を進めていた横須賀製鉄所の技師や機材を手配するためにやって来たのである。
この横須賀製鉄所は幕府の開明派官僚、小栗忠順(上野介)が尽力したことで有名だが(現在横須賀のヴェルニー公園に小栗の銅像があるが)幕府とフランスの提携を象徴する施設でもあった。
モンブランはこの時、幕府側の柴田剛中にも接近して知遇を得ようとしたところ、柴田はこの山師的な外国人を怪しんで相手にしようとしなかった。
実はモンブランは前年、鎖港談判のためにフランスへ来た幕府の池田使節とも接触しており、その時には
「幕府はフランスの力を借りて長州などの反対勢力を討ち、中央集権の国家体制を作るべきだ」
と助言していたぐらいで、元から反幕府的だった訳ではない。
ところがこの時、柴田から冷たくあしらわれたことによって幕府を見限り、薩摩の五代へと走ったのである。
確かにこの山師的な男を味方につけても幕府にはあまりメリットがあるとは思えない。
しかし「味方にすると頼りないが、敵に回すと恐ろしい」という厄介な男が時々いるもので、このあとモンブランはことごとく薩摩の味方をして、幕府の邪魔をして回るようになるのである。
そして松木はグラバーからの紹介でオリファントと面会し、さらにオリファントからイギリス外務省の要人を紹介してもらって外交活動を展開していた。
このオリファントとは、第3話で登場した「サトウを日本へと導く本を書いて、サトウが来日する前に東禅寺で攘夷派浪士に殺されかけて帰国した」あのオリファントである。
日本で攘夷派浪士に殺されかけたにもかかわらず、オリファントの親日姿勢は変わっていなかった。
このとき国会議員になっていたオリファントは、松木に紹介状を書いて渡すだけでなく、自由貿易主義の本質、さらにヨーロッパ外交の駆け引きについて様々な助言を与えた。
そしてこの後、第3話でも触れたように、薩摩スチューデントたちの何人かをあやしい新興宗教にひきこんでアメリカへ連れて行き、ひんしゅくを買って絶縁されるのである(ただし長沢鼎だけは最後まで残って、実際彼はアメリカに骨を埋めることになったが)。
しかしそれはともかくとして、松木はこのあとイギリスのクラレンドン外相にさえ面会できるようになり、外相に対して
「幕府による貿易独占の廃止および朝廷を頂点とした諸侯連合政権の確立」
を訴えて、それなりの賛同を得ることに成功するのである。
こういったヨーロッパでの一連の政治活動を終えたあと、五代と松木は留学生たちを残して一足先に日本へ帰国することになった。
そしてこの十一日後、中岡が下関にやって来た。
が、西郷を連れてきてはいなかった。
中岡は豊後(大分県)佐賀関までは船で西郷と同行していた。けれども西郷は急に予定を変更して下関へは寄らず、そのまま大阪へ直行してしまった。
中岡は佐賀関で船を降りて、一人で下関へやって来たのだった。
歴史上有名な「西郷のすっぽかし事件」である。
龍馬と中岡の失望は大きかった。
桂、俊輔、聞多は龍馬と中岡から「西郷は来なかった」と聞かされた。
むろん、桂は激しく怒った。
「それ見たことか!また薩摩にだまされたではないか!だから西郷は信用できないのだ!」
桂としては、こう言わざるを得ない。
薩摩への憎しみが深い長州人たちの目もある。下手をすれば「うまうまと龍馬たちのヨタ話に乗ってしまった愚か者」として長州人から殺されるかも知れないのだ。
「長州の怒りはよく分かる。だが、この程度で薩摩を見切ってもらっては困る。いきなり両者の手を結ばせようとした今回の計画に無理があったのだ。まずお互いが歩み寄れるところから始めなけりゃいかん。長州が今どうしても欲しいのは武器と蒸気船だろう?」
この龍馬の話を聞いて、桂、俊輔、聞多の目の色が変わった。
確かに龍馬の言う通りなのである。
今回西郷が下関訪問を取りやめたのも「お互い藩内の意見調整もできていないのに、そんな慌てて会う必要もないだろう」と見たからである。さらに相手の本気度を確かめるためにも「ここは一つ、すっぽかすに限る」と判断して大坂へ直行したのであろう。
龍馬は話を続けた。
「俺は今、長崎で亀山社中というカンパニーを薩摩から任されている」
「カンパニー?」
と桂が怪訝そうに言うと、脇にいた俊輔が桂に告げた。
「イギリスの商人のことです。ただし向こうでは多くの人から元手を募るので商いの量が桁違いです」
「おお、よくご存知で。桂さん、そちらの方は?」
「伊藤俊輔と申して、イギリスのことに詳しい男だ」
さすがにイギリスへ密航した話を他所の人間に言う訳にはいかず、桂はこんな言い方で俊輔を紹介した。
俊輔と龍馬は目が合った。そしてお互い軽く会釈をした。
この時、俊輔は龍馬を見て直感的に感じた。
(この坂本龍馬という男は、どうもワシと似ている。というか同じ臭いを感じる)
龍馬はさらに話を続けた。
「外国人は長州には武器を売れないが薩摩には売れる。俺の亀山社中が長崎の外国人から薩摩名義で武器と蒸気船を買って、それを長州へ回す」
ここで再び俊輔が口を挟んだ。
「長崎の外国人から武器と蒸気船を買うと言うことは、相手はグラバーさんですか?」
「その通り。そうか、やはりグラバーは長州でも知られていたか。それなら話は早い」
以前書いた通り、俊輔は三ヶ月前に高杉と長崎へ行き、グラバーにイギリス留学の相談をしていた。それゆえ長州の開国派にとってグラバーはすでに有名な存在であった。
俊輔は龍馬に質問した。
「もし薩摩がこの話を承知すれば、確かにミニエー銃などの武器はうまく手に入るかも知れません。しかし蒸気船はどうするつもりですか?蒸気船は銃と違って人目につきます。外国から買えないはずの長州が新しい蒸気船をおおっぴらに乗り回したら、薩摩が横流ししたと幕府から疑われるんじゃないですか?」
龍馬はニヤリと笑って俊輔に答えた。
「なあに、問題ない。長州がその船を必要とする時まで、我々亀山社中の人間が薩摩の旗印を掲げてその船を運用すれば誰にも分かるまい」
なるほど確かに、それなら幕府の目をごまかせるだろう、と桂、俊輔、聞多の三人は思った。
これで一応話はまとまり、龍馬と中岡がこの線で西郷を説得することになった。
一方横浜では、この五日前にパークスが到着していた。
サトウとウィリスは軍楽隊と一緒に新公使のパークスを出迎えた。
ただし天気はあいにく、ザアザアぶりの雨だった。
さて、ここでパークスの人物像を少し解説しておきたい。
司馬遼太郎大先生は『「明治」という国家』(日本放送出版協会)の中でパークスについて次のように述べている。
「パークスの時代にもし私がうまれ得たとしたら、お前さん、アジア人をバカにしすぎているんじゃないか、とひとことだけ言ってやりたい気持ちに、ついなってしまいます」
果たして現代の日本で、パークスのことを知っている日本人が何人いるか?それは定かではないけれど、彼の名前を知っているごく少数の日本人からすれば、この司馬先生が述べている
「アジア人に対して尊大で居丈高なイギリス人、パークス」
というのが大体共通しているイメージなのではなかろうか?と思う。
確かにパークスにはそういった側面が強いことを筆者も否定はしない。
またこの先、そういった側面を何度か目にすることにもなるだろう。
彼に関する重要なエピソードを挙げておくとすれば、やはりアロー戦争の話ということになろう。
1856年(安政三年)に勃発したアロー戦争は、またの名を第二次アヘン戦争といい、清国(中国)が英仏軍に完膚なきまでに敗れ、インドのようにイギリスの植民地とされるところまではいかなかったものの、その少し手前ぐらいの状態、言うなれば「半植民地状態」になることを決定づけられた戦争だった。
この戦争の口実を作ったのが当時広東領事だったパークスである。
その詳細をここで述べることは割愛するが、それは「ほとんど言いがかり」と言っていい口実だった。
パークスはこのアロー戦争におけるイギリス側の重要人物であり続け、清国側はパークスの首に三十万ドルの賞金をかけたほどである。
四年後(1860年)、南方戦線で勝利を収めた英仏軍がいよいよ首都北京に迫ろうとした際、その和議交渉の最中に英仏交渉団の約四十名が清国側に囚われて捕虜となった。
この時パークスも捕虜の一人として監禁された。
清国側はこれらを人質にして英仏軍を退去させようとしたのだが、これがかえって英仏側の敵愾心に火をつける形となり、そのあと北京を占領され、皇帝の離宮である円明園も完全に破壊された。
パークスは三週間後に解放されたものの、約四十名の捕虜のうち半数以上が虐殺されていた。
その間パークスは拷問を受け、英仏軍に対して進撃の中止を訴えるよう強要されたが、パークスは拒否し続けた。
このため彼は帰国した時に「英雄」として讃えられヴィクトリア女王からサー(Sir)の称号を与えられたのである。
もう一つパークスの人物像を紹介する際に外せないのは「彼はインテリではない」ということである。
早くに両親を亡くし、初等教育を済ませてすぐの十三歳の時に親戚のツテを頼って清国へやって来た。それ以降、中国語の通訳として領事館の仕事を勤めあげてきた「叩き上げ」の人物なのである。
ちなみに前任の日本公使オールコックは清国で長い間パークスの上司として一緒に仕事をしており、ほとんど家族同然の間柄だった。
そのオールコックはこの時、清国公使に就任することになった。
イギリス外務省内の序列で言えば清国公使は日本公使より上位なので、これは栄転にあたる。清国公使の年俸は六千ポンドで、日本公使の年俸は四千ポンドなのである。ただし、これは要するにイギリスの利権がどれほど関わっているかによって決まっているだけのことで、イギリスの植民地であるインドを支配したインド総督の年俸は二万五千ポンドである。
新しく日本公使として赴任してきたパークスに対して、ウィリスは
「まったく落ち着きのない厄介な男で、自分自身も働き過ぎですが、部下を働かせるのも相当なものです」
と故郷への手紙でボヤいている。
そしてサトウは、この頃の日記は残ってないが、後に手記でパークスについて次のように書いている。
「彼は仕事にかけては厳格で容赦がなかったが、私的な関係においては助力を請う人々に対していつも情け深く、彼の好意をつかみ取った人々に対してはいつも誠実な友人となった。ただし、私は不幸にもこうした人々とは違っていたので、彼とは最初から最後まで馴れ親しむ関係にはなれなかった」
ともかくこれ以降、サトウはパークスの部下として長く仕えることになるのである。
七月中旬、俊輔と聞多は下関を出発して長崎へ向かった。
龍馬の周旋によって薩摩藩名義で武器と蒸気船を買う、という案を長州藩が了承して二人を長崎へ派遣したのだった。
俊輔と聞多は途中太宰府へ入って五卿に面謁し、ここで薩摩藩士および土方楠左衛門と長崎行きの相談をした。
その結果、二人は薩摩藩士になりすまして長崎へ行くことになった。
俊輔は吉村荘蔵、聞多は山田新助と名乗ることにした。
そして長崎にいる薩摩藩家老・小松帯刀宛の紹介状を書いてもらい、太宰府を出発した。
「俊輔、長崎の遊郭は安く遊べるそうだな。遊郭の手配は長崎に詳しいお主に任せる」
「聞多よ、その刀傷のある顔で遊郭へ出歩くつもりか?すぐ奉行所に目をつけられるぞ」
「なあに、編み笠をかぶっていけば傷はかくせる」
「顔をかくして遊郭へ行ったら逆に目立つではないか。第一、我々は薩摩藩士なのだぞ。お主、薩摩弁をちゃんと話せるのか?」
「心配あるまい。横浜でポルトガル人に化けたのと比べれば、わけはない。言葉の最後に『ごわす』と付ければ良いのだろう?吾輩は山田新助でごわす。きれいな女がいっぱいごわす。まことに驚くごわす。こんなもんでどうだ?」
「……お主の英語以上に下手な薩摩弁だのう」
七月二十一日、二人は長崎に着き、ひとまず亀山社中に入った。
すでに亀山社中には龍馬からの指示が届いており、亀山社中の人間も二人に協力することになっていた。
なかでも上杉宋次郎(近藤長次郎)が、二人と一緒に武器と蒸気船の購入手配にあたることになった。
上杉はさっそく二人を薩摩藩邸の小松帯刀のところへ案内した。
実のところ二人は、小松がどのような反応に出るか不安だった。
なにしろ小松は禁門の変で西郷と共に薩摩兵を指揮して長州兵を討ち、変の直後、まっさきに将軍進発を幕府に申し出て長州討滅を唱えた人物である。
二人は禁門の変に参加しておらず、そういった小松がとった行動のいきさつまでは知らなかったが、薩摩藩の家老が仇敵長州の人間を快く迎えるとは思えず、小松と会う直前まで心の中で身構えていた。
ところが小松は二人を歓迎した。
「坂本さんから話は聞いてます。我が藩の方針はお二人と同じく“尊王開国”です。貴藩の利益となるのなら喜んでお手伝いしましょう」
小松は長州が薩摩藩名義で武器と蒸気船を買うことを了承し、さらに二人が薩摩藩邸に滞在することも許可した。
後はとんとん拍子に話が進んだ。
武器と蒸気船の手配をするグラバーは、五代や薩摩スチューデントとの関係を見ても分かるように薩摩藩と密接な関係にあった。当然のことながら小松とグラバーの間には、これまでビジネスを積み重ねてきた信頼関係があった。
小松の後ろ盾を得た俊輔と聞多からの注文であれば、グラバーが断るはずもなかった。
グラバーは二人に対して言った。
「ご心配は無用です。百万ドルぐらいなら、いつでも長州にお貸ししましょう」
二人はミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺、さらに蒸気船ユニオン号をグラバーに注文した。
この中でも特にミニエー銃4,300挺はどうしても長州が手に入れたがっていた武器で、これが後の「第二次長州征伐」の際に威力を発揮することになる。
この買い付け手配の際、聞多は小松と一緒に薩摩へ行った。また上杉は薩長両藩の藩主(薩摩は国父久光)に謁して両藩の関係を調整するため奔走した。
特にユニオン号の手配のために上杉は奔走したのだが、後に両藩の間でユニオン号の帰属をめぐって問題が生じることになった。
薩摩藩と上杉は桜島丸と名付けて薩摩藩の所有にしようとし、長州藩は乙丑丸と名付けて自藩の所有にしようとして紛争になったのである。
結局龍馬が仲裁して長州藩の所有船ということに決まるのだが、この問題とは別に、上杉が亀山社中に無断でイギリスへ密航しようとして(やはり密航の手配はグラバーで、資金は小松が出すことになっていた)その計画が社中の人間に露見したことによって、翌年の一月十四日、上杉は切腹してしまった。享年二十九。
おそらく上杉は、一緒に行動していた俊輔や聞多からイギリス留学の話を聞いて触発された、ということもあったのであろう。
のちに俊輔はこの時のことを次のように回想している。
「その前日までは吾輩たちと一緒に酒を飲んでおったが、翌日になって『昨晩腹を切らした』と言ってきたものだから実に驚いた。この男が一番役に立つ男であったが、誠に気の毒であった」
俊輔はこの買い付け手配のために、翌年一月まで長崎と長州の間を行ったり来たりすることになった。
さて、これまで大河ドラマなどで何度も見てきた龍馬・西郷・桂の「薩長同盟」の場面は、上杉が切腹した数日後、一月二十一日の京都での話であるが、この物語では特に大きく取り上げるつもりはない。
実際のところ、この長崎での両藩の提携を見れば、事実上両藩の提携はこの段階でほとんど出来上がっていたとも言えよう。
長崎のイギリス領事館にいたガウアー(エーベル・ガウアー)は俊輔たちが長崎へ到着した六日後(七月二十七日)には、横浜のパークス公使に対して次のように報告している。
「イギリスから帰国した二人の長州藩士が薩摩藩士と称して、私のよく知っている小松帯刀の庇護を受けて薩摩藩邸に匿われています。彼らが長崎に来た理由は定かではありませんが、これは人々が口にしている噂を裏付けているかも知れません。その噂とは、薩摩は表面上、長州再征では幕府に協力的ですが、実際は長州を全力で助けている、というものです」
この情報元が「薩摩藩、俊輔たち、グラバー」のうち、いずれであったかは分からないが、イギリスは早くも薩長提携の動きを把握しつつあった。
同じ頃、ヨーロッパでも薩長の留学生たちが接近しつつあった。
パークスが横浜へ着任する途中、閏五月十日に下関へ立ち寄って桂、俊輔、聞多の三人と面会していたが、実はこの同じ日に、ロンドンで「長州ファイブ」の三人、山尾、野村、遠藤が「薩摩スチューデント」と初めて面会したのである。
三人のなかでも特に山尾が積極的に薩摩人たちとの交流を深めていった。
「同じ異郷の地にある日本人同士」
ということで薩長間の軋轢を乗り越えられたということもあろうが、それとは別に、山尾には薩摩人たちに接近しなければならない理由があった。
長州の三人は金が無かったのである。
薩摩スチューデントたちはしっかりと留学資金を準備してロンドンへやって来ていた。
一方、この物語の「長州ファイブ」の章で彼らがロンドンへやって来る顛末を以前書いたが、長州のイギリス留学計画はずさん極まるやり方だった。
ロンドンに残った山尾、野村、遠藤の三人はたちまち資金に窮することになり、高杉と俊輔の代わりに追加留学生となった南、山崎、竹田の三人もたちまち同様の境遇に陥ることになった。
山尾、野村、遠藤のうち、遠藤は肺を悪くしたこともあって翌年早々に帰国する。一方、野村はロンドンに残って五年間勉強を続けることになる。
そして山尾は翌年、薩摩人から一人一ポンドずつ、合計十六ポンドの義援金を出してもらってグラスゴーへ行き、そこで働きながら造船技術を学ぶのである。
山尾はグラスゴーへ行ってからも薩摩人たちと手紙で連絡を取り続け、これは長州藩の方針というよりもまったく個人的な人間関係と言うべきであろうが、イギリスで薩長連携を押し進めることになる。
ちなみに薩摩スチューデント十九人のうち五代、松木など幹部数人は留学のためにヨーロッパへやって来た訳ではない。
五代は武器や産業用機械の工場視察、さらにそれらを日本へ買って帰るために、そして松木は、イギリス外務省と外交交渉をするためにヨーロッパへやって来たのである。
五代は新式の鉄砲・大砲、さらに紡績機械の購入契約を済ませたあと、ベルギー系フランス人のモンブラン伯爵と面会した。
このモンブランは「幕末の山師的外国人」と言われている人物で、物語作品などで見かけることはめったにないが、筆者が知る限り四十年前の大河ドラマ『獅子の時代』に登場していたぐらいだと思う(筆者はその当時見た訳ではないが)。
その大河ドラマの中でも、この二年後に開催される「パリ万博」で薩摩藩の味方をして、プロパガンダによって幕府を攻撃していたが、それは実際の史実を基にした話である。そしてその薩摩藩との関係はこの五代との面会によって生まれたものだった。
さらに余談として付け加えると、ちょうどこの頃、幕府遣欧使節の柴田剛中一行(この一行には福地源一郎も含まれている)がフランスへやって来ていた。
幕府がフランスの協力で建設計画を進めていた横須賀製鉄所の技師や機材を手配するためにやって来たのである。
この横須賀製鉄所は幕府の開明派官僚、小栗忠順(上野介)が尽力したことで有名だが(現在横須賀のヴェルニー公園に小栗の銅像があるが)幕府とフランスの提携を象徴する施設でもあった。
モンブランはこの時、幕府側の柴田剛中にも接近して知遇を得ようとしたところ、柴田はこの山師的な外国人を怪しんで相手にしようとしなかった。
実はモンブランは前年、鎖港談判のためにフランスへ来た幕府の池田使節とも接触しており、その時には
「幕府はフランスの力を借りて長州などの反対勢力を討ち、中央集権の国家体制を作るべきだ」
と助言していたぐらいで、元から反幕府的だった訳ではない。
ところがこの時、柴田から冷たくあしらわれたことによって幕府を見限り、薩摩の五代へと走ったのである。
確かにこの山師的な男を味方につけても幕府にはあまりメリットがあるとは思えない。
しかし「味方にすると頼りないが、敵に回すと恐ろしい」という厄介な男が時々いるもので、このあとモンブランはことごとく薩摩の味方をして、幕府の邪魔をして回るようになるのである。
そして松木はグラバーからの紹介でオリファントと面会し、さらにオリファントからイギリス外務省の要人を紹介してもらって外交活動を展開していた。
このオリファントとは、第3話で登場した「サトウを日本へと導く本を書いて、サトウが来日する前に東禅寺で攘夷派浪士に殺されかけて帰国した」あのオリファントである。
日本で攘夷派浪士に殺されかけたにもかかわらず、オリファントの親日姿勢は変わっていなかった。
このとき国会議員になっていたオリファントは、松木に紹介状を書いて渡すだけでなく、自由貿易主義の本質、さらにヨーロッパ外交の駆け引きについて様々な助言を与えた。
そしてこの後、第3話でも触れたように、薩摩スチューデントたちの何人かをあやしい新興宗教にひきこんでアメリカへ連れて行き、ひんしゅくを買って絶縁されるのである(ただし長沢鼎だけは最後まで残って、実際彼はアメリカに骨を埋めることになったが)。
しかしそれはともかくとして、松木はこのあとイギリスのクラレンドン外相にさえ面会できるようになり、外相に対して
「幕府による貿易独占の廃止および朝廷を頂点とした諸侯連合政権の確立」
を訴えて、それなりの賛同を得ることに成功するのである。
こういったヨーロッパでの一連の政治活動を終えたあと、五代と松木は留学生たちを残して一足先に日本へ帰国することになった。
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