51 / 62
第八章・東奔西走
第51話 北陸道と大津襲撃未遂
しおりを挟む
大坂での将軍謁見以降、サトウと幕府との関係は急接近しつつあった。
大坂城では将軍慶喜がパークスたちイギリス代表団を丁重に歓待した。
その慶喜の方針が江戸の幕閣たちにも反映され、彼らは頻繁に高輪のイギリス公使館(接遇所)を訪問するようになった。以前では考えられなかったことである。
かつては西郷がイギリスを幕府から切り離そうと様々な計略を駆使したものだが、今度は一転して慶喜がイギリスを薩長から切り離そうと狙った訳である。
そしてサトウは外国総奉行(外国奉行を統括するために新しく作られた役職)の平山敬忠の自宅に招待された。もちろんこんなことも以前はまったくなかったことだった。
平山はその昔、アメリカのペリーやハリスが来日した頃から外国との折衝を担当してきた古株の幕臣で、この時五十三歳だった。
サトウやパークスは平山のことを狐、古狐と呼んでいた。
「平山は、素性はやや低いが最近昇格した人で、鋭い狡猾そうな顔つきをした小柄な老人だった。私たちは彼に狐というあだ名を付けたが、これは彼にはピッタリのあだ名だった」
とサトウは後年語っている。
とはいえサトウは普通に、このフォックスこと平山の自宅を訪問して夕食をごちそうになり、お互いに贈り物を交換し合って彼と親睦を深めた。
サトウ自身は薩長側への思い入れが強く、しかも『英国策論』という反幕府的な書物を流布させた張本人ではあるけれども、彼の上司であるパークスは幕府を支持する傾向が強く(将軍との謁見以降は特に)、さらに言えばイギリスの基本姿勢は「内政不干渉」なのだから幕府からの接待を断る理由はないのである。
ところで、この頃サトウは「高屋敷」という家に引っ越していた。
ただし引っ越したと言ってもミットフォードと一緒に住んでいた門良院のすぐ隣りである。
江戸湾を見渡せる丘の上にあったのでサトウはこの家を高屋敷と呼んでいた(現在、NHK交響楽団のビルがある辺りにあった)。
サトウがミットフォードとの同居をやめて一人で暮らすようになった理由はよく分からないが、おそらく女に目がないミットフォードが日本人女性と同棲するなり何なりしたからではなかろうか、と思う(別に何かその確証があるわけでもないが)。
とにかくサトウはこの高屋敷で一国一城の主となり、従者の野口や数人の使用人たちと一緒に暮らすようになった。
この建物は二階建てで、ヨーロッパ人の客のための応接室や控室、さらにサトウ専用の書斎なども完備したかなり上等な建物だったが、その一切の管理は野口に委ねられていた。
この高屋敷の護衛には相変わらず幕府の別手組があたっていた。
本来別手組は幕府の手配によってそのつど持ち回りで警護先が決められ、外国人(特に公使館員)が江戸の市街へ出歩く際には大勢でそれを取り囲むように警護する、というのが常だった。
しかし自由に活動したいサトウにとって、そういった別手組の警護、というよりも「監視」は煩わしくて邪魔だった。
そこでサトウは幕府にかけあって「自分専用の別手組」を六名だけ選んで配属してもらうことになった。
その六名の中には東海道の旅の途中で「野口さんのようにサトウさんの下で働きたい」と言っていた斎藤亀次郎も含まれていた。
高屋敷に引っ越した後もサトウの食事は相変わらず近くの万清から出前で運ばせた。
この店を薩摩藩士たちがよく利用していることは以前述べたが、サトウは薩摩藩士との接触も以前同様に続けていた。
高輪でサトウと頻繁に会っていた薩摩藩士は柴山良助や南部弥八郎という人物だった。
余談だが柴山良助の弟の愛次郎は寺田屋事件で上意討ちにあって斬られた人物である。そしてこの良助もこの年の暮れ、幕府による薩摩藩邸焼き討ちで自決することになる。
イギリスが幕府に接近しつつあるという情報は薩摩藩全体で共有されており、当然柴山や南部もある程度承知していた。
そこで二人はサトウと面会してそのことを確認してみた。
「残念ながらその通りです。最近幕閣は頻繁にイギリス公使館を訪問しています。パークス公使も幕府を信用する気持ちが日に日に強くなっています。しかし私にはどうすることもできません」
サトウは二人にそう答えざるを得なかった。
二人はイギリス公使館の情報をすぐに西国の西郷たちへ報告した。
六月二十二日、サトウは再び視察の旅へと出かけることになった。
目的は日本海側の港の調査である。
このことについてはパークスがすこし前に敦賀を視察したが、今回は船で新潟と佐渡へ行き、そのあと能登と加賀を回ることになった。
人員はサトウの他に、パークスが行くのは無論だが、ミットフォードも同行することになった。そしてウィリスは今回も留守番である。
横浜を出発したサトウたちの船はまず箱館(函館)に入って数日滞在し、そのあと新潟に到着したのは七月三日のことだった。
ちょうど七夕祭りの頃だったので町には色とりどりの提灯が飾られていた。
ちなみにこの七月三日は西暦だと8月2日にあたり、元来七夕というのは現在の(西暦の)暦で言えば8月上旬頃の祭りである。現在の暦の7月7日では、ともすると梅雨の時期と重なる可能性もあり星空は見づらく、やや本来の七夕の趣旨から外れてしまっているような気もする。
新潟の町は予想していたよりも栄えていた。
パークスは新潟の町を「小型の大坂である」と評するぐらい高い点数をつけた。ただし新潟の港は水深が浅く、さらに風浪に対しても弱いという欠点があった。そのため新潟の避難港として佐渡が選ばれていたのだった。
七月六日、パークスやサトウたちは佐渡の夷(両津)に入港した。
この時、幕府の佐渡奉行から外国人通訳が一人、夷に派遣されていた。
その男は司馬凌海という医者だった。
この司馬凌海(島倉伊之助)という人物は司馬遼太郎大先生の小説『胡蝶の夢』で主人公として取り上げられている。
この小説は幕末の西洋医学(特に蘭学)を取り扱った作品で、この作品の参考資料として使われている石黒忠悳の『懐旧九十年』では司馬凌海について次のように書いている。
「この司馬氏は、治療の方はそれほどでないが、語学にかけては古今独歩の天才で、蘭語・英語は勿論、独語・仏語・露語にも通じ、それに漢文はお手のもの、和文も出来る、実に驚嘆に値する人です。(中略)氏は佐渡の人で、十三、四歳の頃江戸に出て、旧幕府の典医で麹町の三軒家におられた松本良甫翁の許に書生に入りました。松本順先生は良甫翁の養子で、その頃は良順と称し、いわゆる若先生であって、司馬氏はそのお相手格でした」
実際『胡蝶の夢』の小説の中でも司馬凌海は「語学の天才」として描かれている。
一方、サトウも「語学の天才」である。
この日偶然、東洋と西洋の「語学の天才」が佐渡で面会したということになる訳だが、あまり深く会話をする機会がなかったのであろう、サトウの日記には
「彼はオランダ語を少し知っている」
としか書かれていない。
ちなみに司馬凌海は後、戊辰戦争の時に本州へ渡って、従軍医療に従事するウィリスの通訳をつとめることになる。
この日サトウたちは佐渡を視察して回った。そして翌日には次の目的地である能登(七尾)へ向かうのだが、実はこの日、長崎でイギリス人水兵が殺害されていた。その事件については後に詳しく述べることになる。
パークスやサトウたちが能登の七尾港に入ったのは七月八日のことである。
この当時開港していた横浜、箱館、長崎、さらに開港予定地の兵庫、新潟も含めてこれらはすべて天領(幕府の直轄地)の港だが、この七尾港は加賀藩前田家の領地ということになる。
加賀藩といえば「百万石」である。
外様大名とはいえ石高第一位の大名であり、それだけに家格も高く、御三家や親藩に準ずる待遇を受けていた。
にもかかわらず、幕末の加賀藩はあまりにも影が薄かったと言わざるを得ない。
「あの百万石の加賀藩が幕末に何をしていたか、あなたは知ってますか?」
と聞かれて、何か具体的なことを答えられる人はおそらく皆無であろう。仮に聞かれたのが幕末ファンであったとしても、この質問は難問に違いない。
余談ながら実を言うと筆者は金沢市出身なのだが、その筆者でさえも、やはり以前は何も知らなかった。
いや。実際詳しく調べてみても大した事蹟は出てこないのだけれども(禁門の変、天狗党の乱、あとは戊辰戦争の前後に少し名前が出て来る程度である)。
大仏次郎氏は『天皇の世紀』の中で次のように書いている
「裏日本に在って金沢はこれまで外国人に関係なく居た、眠ったように平和で静かな藩であった」
またサトウも手記で次のように書いている。
「彼らは日本でもとりわけ無知と非文明の本場だと思われてきた北部海岸地域に孤立していたのである。彼らはただ自分たちの事にしか関心を持っていなかった。加賀の大名が有する領地はどの大名よりも大きいと評価されており、そのため加賀藩は世間に対して貫禄があり、何一つ不満はなかった。日本の政治変革など彼らには何の利益もなく、したがって現状維持で満足だったのである」
まったく酷い言われようであるが元石川県民としても「完全にその通りで、少しも異議はない」と言うしかない。
「江戸徳川体制がスタートして以降、加賀前田家は文化国家を標榜してパックス徳川の二番手狙いのポジショニングをとった。これは戦後の日本と非常に似ている」
と、どこかのテレビ番組で述べていた人がいたが、上手いことを言ったものだと思う。
さて、余談から話を戻すと、パークスは七尾港の様子を調べた後、加賀藩士たちと七尾港の開港について話し合った。
七尾港は港の機能に問題はないもののあまり栄えている様子がなく、しかも加賀藩もあまり開港に乗り気ではなかった。
このためパークスは一連の調査を打ち切って、日本海側の開港地は新潟とする方針を固めた。
加賀藩が七尾港の開港を好まなかったのは「もしかすると幕府に七尾港を取り上げられる(天領にされる)かも知れない」と恐れたからだった。
しつこくて恐縮だがさらに余談を付け加えると、この時パークスとの対応にあたった加賀藩士の中に佐野鼎という人物がいた。
彼は駿河から招かれた蘭学者で、万延元年の遣米使節で世界一周を経験し、さらに文久の竹内使節でヨーロッパへ行っていた。そして明治に入ってからは共立学校(現在の開成中学・高校)を創立することになる人物である。
一連の港の調査を終えたパークスはこのあと船で長崎へ向かい、サトウとミットフォードは陸路で加賀、越前、近江を通って大坂へ向かうことになった。
パークスから解放され、しかも大好きな旅行(一応視察の名目ではあるが)に行けることになったサトウが驚喜したのは言うまでもない。
サトウとミットフォード、それに従者の野口は駕籠に乗って一路金沢を目指した。
サトウたちの護衛役は、従来であれば別手組が担当するところだが幕府領ではないので加賀藩士が担当することになった。
サトウが七尾を出発した七月十一日は現在の暦で言えば8月10日にあたり、まさに盛夏の時期である。
北国と言ってもこの辺りの夏がまったく涼しくないことは筆者もよく知っている。
サトウたちはスイカなどの果物を食べながら炎天下の道を進んでいった。道中はどこでも物見高い民衆で一杯だったが無礼な態度をとる者は一人もなく、皆「生まれて初めて見る外人」を見ようとして興味津々な様子だった。
サトウたちは翌日の午後に金沢城下へ入った。そして数多くの見物人に囲まれることになった。
なにしろサトウもミットフォードも女には目がないので、駕籠の中から若い娘たちを物色した。
「見物人の中には大変きれいな娘が大勢いた」
とサトウは日記に書いている。
その後サトウとミットフォードは「二人の王様にでも接するがごとく」加賀藩に厚遇された。
ただし藩主は病気療養中とのことで面会することを避けた。そこでサトウの上司であるミットフォードは「パークスからのメッセージ」なるものをでっちあげて
「藩主の健康がすみやかに回復することを祈る。加賀藩に対する我々の変わらぬ友情を誓う」
といったようなメッセージを送り届けた。
このあと二人は饗応の席へ移り、加賀藩士たちとの宴会を楽しんだ。出された料理は非常に豪奢で品数も多かった。
ある加賀藩士はサトウに対して次のように述べた。
「あなたの『英国策論』は読みました。我々もあなたの意見に賛成です。けれども幕府の廃止を狙っている薩摩や長州は過激すぎる。確かに変革は必要ですが幕府は残すべきであり、その権力を制限する程度にとどめるべきです」
サトウは自分の『英国策論』がこんな「無知と非文明の本場」でも読まれていたことに多少驚いたが、やはり加賀藩は保守的で時勢から遅れていると感じた。けれども彼らに現実の時勢を説いたところで理解できないだろうと思い、自分の意見を述べることは避け、彼らの意見を聞くことにつとめた。
翌日サトウたちは金沢の港を視察するために金石へ向かった。
金石は金沢の中心部から7、8kmほど西にある港である。しかしここも新潟と同じく風浪に弱い河口の港で、開港地にふさわしいとは思えなかった。
サトウとミットフォードは港の調査を終了して次の目的地である越前へ向かった。
加賀藩領を出て越前藩領に入ると、とたんに二人は厚遇されなくなった。
越前藩はこの二人のイギリス人を必要以上に警戒したのである。護衛の越前藩士は礼節を欠いており、福井市街に入ってからもサトウを訪ねてくる越前藩士はほとんどいなかった。
ただし極端に冷遇されたという訳ではなかった。きれいな客室や豪華な食事は加賀藩の時と変わりがなく、むしろビールやシャンペンが出された点などを見ると加賀藩よりも先進性を感じたぐらいであった。
町の見物人たちの様子も金沢と同様で
「これほど多くの美しい娘たちがいる土地を私はこれまで見たことがない」
とサトウは日記に書いている。
松平春嶽はこのとき京都へ行っていたので福井にいなかった。
春嶽がいれば、まだ二人の待遇は変わったかも知れないが、この越前訪問ではサトウたちと親交を結ぼうとする越前藩士はほとんどおらず、二人はあっさりと越前藩領を抜けて近江へと向かうことになった。
近江に入ると最初は彦根藩士が護衛についていたが、長浜で大坂からやって来た幕府の別手組十数名と交代した(江戸でサトウの専属となった六名の別手組とは別人である)。
この琵琶湖東岸ルートは少し前にパークス一行が敦賀視察の際に通っており外国人の通行はそれほど注目を集めず、割とスムーズに進むことができた。
そして草津では、サトウたちがフォックス(古狐)と呼んでいる平山から派遣された外国奉行の役人も合流した。
その役人の中に米田桂次郎という英語が得意な若者がいた。
幕末の歴史に詳しい人は知っているかも知れないが、彼は万延元年の遣米使節の際にアメリカで人気を博し『トミー・ポルカ』なる曲まで作られた立石斧次郎(為八)である。
同行した日本人がこの少年のことを「為、為八」と呼んだためアメリカ人が「トミー」と名付け、それ以降このニックネームが定着した。
米田はサトウとミットフォードにルート変更を提案した。
「大津を通るよりも南の宇治を通って大坂へ行くことをお勧めします。今回は特別に石山寺の拝観が許されたので是非そちらへご案内したいのです。どのみち移動距離は大して変わりませんから」
さらに米田はサトウに対して「あなたが『英国策論』で述べている考えは間違ってます」と抗議したのでしばらくサトウと米田は政治談議をしたが、もちろん結論は出なかった。
その後サトウは野口に質問した。
「トミー(米田)は大津を通っても宇治を通っても移動距離は変わらないと言っていたが本当か?」
「いいえ。宇治を通ると山越えになるので大津を通るよりも相当時間がかかります」
(やはりな。要するに彼らは我々が大津を通るのを阻止したいのだ。この前パークス公使が大津を通った時に京都で問題が起きたから、その二の舞を避けようとしてフォックス(平山)はトミーを派遣してきたのだ)
サトウはミットフォードと相談して
「ここは断然、大津を通って行こう」
と提案した。ミットフォードもサトウの提案に賛成して大津へ行くことを了承した。
そしてサトウはこの考えを米田に伝えた。当然のことながら米田は狼狽した。
「そんなことを言われては困る。無茶を言わないでもらいたい」
「いや。我々は寺や宇治の見学はどうでもよい。大津を通ったほうが近道だからそうするのだ。移動距離は大して変わらないなんて嘘をついたトミー、君が悪い」
実際のところ米田は平山から、二人を大津、さらには伏見にも立ち寄らせないように命令されていたのである。
その理由は、サトウが予想した通り「パークスの敦賀行き」の時に幕府が朝廷から責め立てられたので、その二の舞を避けるためだった。
困り果てた米田は野口に相談して、サトウたちの説得を頼んだ。
確かに野口から見ても今回のサトウのやり方は強引に思えた。「そこまで無理をして幕府を困らせる必要があるのか?」と。そこで野口はサトウに助言をした。
「米田たちに悪意はありませんよ。ここは一つ、彼らの顔を立ててやったらどうです?」
しかしサトウは野口の助言を拒絶した。
「私は君を大変信用しているが、今回のことは我々イギリス人の問題だ。口を挟まないでもらいたい」
このサトウの返事を野口から聞かされて、米田は進退窮まってしまった。
仕方なくサトウたちに頭を下げて幕府の窮状を説明した。そして改めてルートの変更をサトウに懇願した。
「どうすればルートの変更を認めてくれるのでしょうか?条件を言ってください」
「トミー、君が最初から素直に事情を説明してくれていれば我々もそれに同意しただろう。だが今となってはすべてが手遅れである」
とサトウが突き放すように言ったので米田はますます意気消沈してしまった。
そこでミットフォードが米田に一つの提案をした。
「今回の件を反省する証として公式な文書を我々に提出しなさい。その内容次第ではルート変更することもあり得る」
これ以降、二人が納得できる反省文書が作成されるまで、二人は何度も米田に書かせた草稿を突き返した。
それにしても、なにゆえサトウはここまで激しく立腹したのだろうか?
(なぜ京都の朝廷は我々イギリス人をこれほど邪険にするのか?この前は朝廷の例幣使が私を襲撃しようとしたではないか。私は『英国策論』を書いて朝廷の権威拡大に貢献してきたというのに、その仕打ちがこれなのか?イギリス人が大津や伏見を通ったからといって一体何の問題があるというのか?)
サトウの本心はこういったものであった。
なるほどサトウの不満はもっともである。
けれども、朝廷に対する不満を自分たちにぶつけられた幕府(米田)としては、いい面の皮であったろう。
二人と米田とのやりとりは夜中の三時まで続き、最後にはミットフォードが米田から提出された反省文書を了承し、二人は宇治経由で大坂へ向かうことを受けいれた。
翌日、サトウたちが草津を出発して石山寺へ行ってみると寺の僧侶たちが急いで門のところへやって来た。
そしてすぐに門を閉ざしてサトウたちの受け入れを拒絶した。
「フォックス(平山)が言っていた拝観許可の約束なんて、所詮こんなものさ」
サトウとミットフォードは思いっきり米田に嫌味を言って、再び宇治行きの山道へと戻った。
二人は山道を越えて午後四時、宇治に到着した。
そこへ幕府から派遣された山崎龍太郎がやって来た。彼はサトウと東海道を旅した時に「喜多八」とあだ名されていた外国奉行の役人である。
山崎は二人を伏見へ立ち寄らせないようにするため派遣されたのだが、昨夜二人とやり取りをした米田が山崎に事情を説明した。
「伏見では宿泊せず、小休止するだけで、すぐに船で大坂へ向かうことになってます。なんとか大津の回避は二人に認めさせたので、伏見での小休止はこちらも認めざるを得ません」
結局山崎もこれを了承し、二人はこのあと伏見へ入って本陣に立ち寄った。サトウは前回東海道の旅の時にワーグマンと一緒にここへ泊まったので今回は二度目である。
そしてここで風呂に入り、夕飯を食べていた。
この時、野口がサトウのところへやって来て次のように告げた。
「別手組の者から聞いたのですが、この伏見で土佐の連中がお二人の命を狙っているそうです。土佐人は獰猛な奴らですから、十分お気をつけ下さい」
二人は夕飯を食べ終わるとさっさと船に乗り込んで伏見を出発したので、結局土佐人による襲撃は行なわれなかった。
この襲撃計画の真偽は不明だが、ひょっとするとサトウたちを伏見に入れたくなかった幕府がでっち上げたデマだったのかもしれない。またあるいは、このあと出てくる長崎での事件が誤って伝わった可能性も考えられる。
サトウとミットフォードは夜船で淀川を下り、翌日大坂に入った。
そして長崎から船で来たパークスも、ちょうど同じ日に大坂へやってきた。
七尾で別れて以来の再会となったパークスに、二人は道中のことを報告しようとしたところ、逆にパークスから長崎で起こった重大な事件を聞かされることになった。
いわゆる「イカルス号事件」である。
七月六日の夜、おそらく犯行時間は翌七夕の午前零時頃だと思われるが、長崎の丸山(遊郭。現在の丸山公園のあたり)でイギリス軍艦イカルス号の水兵二人が何者かによって斬殺された、という事件である。
犯行現場を見た者は誰もおらず、「土佐海援隊の連中がやったに違いない」という噂だけが広まることになった。
言うまでもなく、海援隊とは亀山社中から名前を変えた坂本龍馬の私設団体である。
海援隊に嫌疑がかかったのは次のような状況証拠があったことによる。
「犯人は白い服を着ていたらしい」(海援隊士は「亀山の白袴」として有名だった)
「その日の夜、犯行現場の近くを海援隊士たちが歩いていた」
「犯行直後に土佐藩(海援隊)の横笛丸が、続いて数時間後に南海丸が長崎港を出港し、横笛丸はすぐに戻ってきたが南海丸はそのまま長崎から去って行った」(犯人は横笛丸で長崎を脱出して、沖で南海丸に乗り移って逃げ去ったのではないか?と疑われた)
これらの状況証拠の他に、サトウが野口から「土佐人は獰猛な奴らですから」と忠告されたように
「元来土佐人はケンカっ早いことで有名だった」
とサトウは書いている。おそらくこのことも嫌疑をかけられた原因だっただろう。「あの海援隊の連中ならやりかねない」と。
七尾港でサトウたちと別れたパークスは、その後たまたま長崎に入港してこの凶報に接することになった。
無論パークスは激怒した。そしてこれらの状況証拠から
「土佐海援隊の人間が犯人であることは間違いない」
とパークスは「断定」したのである。
パークスが何か政治的な意図があって「土佐人が犯人である」と断定したとは思えないが、この「断定」によって政局の動向は大きな影響を受けることになった。
特に土佐藩が一番大きな影響をうけ、個人的には坂本龍馬が一番大きな被害をこうむることになるのである。
そしておそらく、この「長崎で土佐人が二人のイギリス人を殺した」という噂が伏見にも伝わって
「伏見でも土佐人が二人のイギリス人<サトウとミットフォード>を殺そうとしている」
というふうに誤って置き換えられてしまったのではないか?と筆者は想像する。
大坂城では将軍慶喜がパークスたちイギリス代表団を丁重に歓待した。
その慶喜の方針が江戸の幕閣たちにも反映され、彼らは頻繁に高輪のイギリス公使館(接遇所)を訪問するようになった。以前では考えられなかったことである。
かつては西郷がイギリスを幕府から切り離そうと様々な計略を駆使したものだが、今度は一転して慶喜がイギリスを薩長から切り離そうと狙った訳である。
そしてサトウは外国総奉行(外国奉行を統括するために新しく作られた役職)の平山敬忠の自宅に招待された。もちろんこんなことも以前はまったくなかったことだった。
平山はその昔、アメリカのペリーやハリスが来日した頃から外国との折衝を担当してきた古株の幕臣で、この時五十三歳だった。
サトウやパークスは平山のことを狐、古狐と呼んでいた。
「平山は、素性はやや低いが最近昇格した人で、鋭い狡猾そうな顔つきをした小柄な老人だった。私たちは彼に狐というあだ名を付けたが、これは彼にはピッタリのあだ名だった」
とサトウは後年語っている。
とはいえサトウは普通に、このフォックスこと平山の自宅を訪問して夕食をごちそうになり、お互いに贈り物を交換し合って彼と親睦を深めた。
サトウ自身は薩長側への思い入れが強く、しかも『英国策論』という反幕府的な書物を流布させた張本人ではあるけれども、彼の上司であるパークスは幕府を支持する傾向が強く(将軍との謁見以降は特に)、さらに言えばイギリスの基本姿勢は「内政不干渉」なのだから幕府からの接待を断る理由はないのである。
ところで、この頃サトウは「高屋敷」という家に引っ越していた。
ただし引っ越したと言ってもミットフォードと一緒に住んでいた門良院のすぐ隣りである。
江戸湾を見渡せる丘の上にあったのでサトウはこの家を高屋敷と呼んでいた(現在、NHK交響楽団のビルがある辺りにあった)。
サトウがミットフォードとの同居をやめて一人で暮らすようになった理由はよく分からないが、おそらく女に目がないミットフォードが日本人女性と同棲するなり何なりしたからではなかろうか、と思う(別に何かその確証があるわけでもないが)。
とにかくサトウはこの高屋敷で一国一城の主となり、従者の野口や数人の使用人たちと一緒に暮らすようになった。
この建物は二階建てで、ヨーロッパ人の客のための応接室や控室、さらにサトウ専用の書斎なども完備したかなり上等な建物だったが、その一切の管理は野口に委ねられていた。
この高屋敷の護衛には相変わらず幕府の別手組があたっていた。
本来別手組は幕府の手配によってそのつど持ち回りで警護先が決められ、外国人(特に公使館員)が江戸の市街へ出歩く際には大勢でそれを取り囲むように警護する、というのが常だった。
しかし自由に活動したいサトウにとって、そういった別手組の警護、というよりも「監視」は煩わしくて邪魔だった。
そこでサトウは幕府にかけあって「自分専用の別手組」を六名だけ選んで配属してもらうことになった。
その六名の中には東海道の旅の途中で「野口さんのようにサトウさんの下で働きたい」と言っていた斎藤亀次郎も含まれていた。
高屋敷に引っ越した後もサトウの食事は相変わらず近くの万清から出前で運ばせた。
この店を薩摩藩士たちがよく利用していることは以前述べたが、サトウは薩摩藩士との接触も以前同様に続けていた。
高輪でサトウと頻繁に会っていた薩摩藩士は柴山良助や南部弥八郎という人物だった。
余談だが柴山良助の弟の愛次郎は寺田屋事件で上意討ちにあって斬られた人物である。そしてこの良助もこの年の暮れ、幕府による薩摩藩邸焼き討ちで自決することになる。
イギリスが幕府に接近しつつあるという情報は薩摩藩全体で共有されており、当然柴山や南部もある程度承知していた。
そこで二人はサトウと面会してそのことを確認してみた。
「残念ながらその通りです。最近幕閣は頻繁にイギリス公使館を訪問しています。パークス公使も幕府を信用する気持ちが日に日に強くなっています。しかし私にはどうすることもできません」
サトウは二人にそう答えざるを得なかった。
二人はイギリス公使館の情報をすぐに西国の西郷たちへ報告した。
六月二十二日、サトウは再び視察の旅へと出かけることになった。
目的は日本海側の港の調査である。
このことについてはパークスがすこし前に敦賀を視察したが、今回は船で新潟と佐渡へ行き、そのあと能登と加賀を回ることになった。
人員はサトウの他に、パークスが行くのは無論だが、ミットフォードも同行することになった。そしてウィリスは今回も留守番である。
横浜を出発したサトウたちの船はまず箱館(函館)に入って数日滞在し、そのあと新潟に到着したのは七月三日のことだった。
ちょうど七夕祭りの頃だったので町には色とりどりの提灯が飾られていた。
ちなみにこの七月三日は西暦だと8月2日にあたり、元来七夕というのは現在の(西暦の)暦で言えば8月上旬頃の祭りである。現在の暦の7月7日では、ともすると梅雨の時期と重なる可能性もあり星空は見づらく、やや本来の七夕の趣旨から外れてしまっているような気もする。
新潟の町は予想していたよりも栄えていた。
パークスは新潟の町を「小型の大坂である」と評するぐらい高い点数をつけた。ただし新潟の港は水深が浅く、さらに風浪に対しても弱いという欠点があった。そのため新潟の避難港として佐渡が選ばれていたのだった。
七月六日、パークスやサトウたちは佐渡の夷(両津)に入港した。
この時、幕府の佐渡奉行から外国人通訳が一人、夷に派遣されていた。
その男は司馬凌海という医者だった。
この司馬凌海(島倉伊之助)という人物は司馬遼太郎大先生の小説『胡蝶の夢』で主人公として取り上げられている。
この小説は幕末の西洋医学(特に蘭学)を取り扱った作品で、この作品の参考資料として使われている石黒忠悳の『懐旧九十年』では司馬凌海について次のように書いている。
「この司馬氏は、治療の方はそれほどでないが、語学にかけては古今独歩の天才で、蘭語・英語は勿論、独語・仏語・露語にも通じ、それに漢文はお手のもの、和文も出来る、実に驚嘆に値する人です。(中略)氏は佐渡の人で、十三、四歳の頃江戸に出て、旧幕府の典医で麹町の三軒家におられた松本良甫翁の許に書生に入りました。松本順先生は良甫翁の養子で、その頃は良順と称し、いわゆる若先生であって、司馬氏はそのお相手格でした」
実際『胡蝶の夢』の小説の中でも司馬凌海は「語学の天才」として描かれている。
一方、サトウも「語学の天才」である。
この日偶然、東洋と西洋の「語学の天才」が佐渡で面会したということになる訳だが、あまり深く会話をする機会がなかったのであろう、サトウの日記には
「彼はオランダ語を少し知っている」
としか書かれていない。
ちなみに司馬凌海は後、戊辰戦争の時に本州へ渡って、従軍医療に従事するウィリスの通訳をつとめることになる。
この日サトウたちは佐渡を視察して回った。そして翌日には次の目的地である能登(七尾)へ向かうのだが、実はこの日、長崎でイギリス人水兵が殺害されていた。その事件については後に詳しく述べることになる。
パークスやサトウたちが能登の七尾港に入ったのは七月八日のことである。
この当時開港していた横浜、箱館、長崎、さらに開港予定地の兵庫、新潟も含めてこれらはすべて天領(幕府の直轄地)の港だが、この七尾港は加賀藩前田家の領地ということになる。
加賀藩といえば「百万石」である。
外様大名とはいえ石高第一位の大名であり、それだけに家格も高く、御三家や親藩に準ずる待遇を受けていた。
にもかかわらず、幕末の加賀藩はあまりにも影が薄かったと言わざるを得ない。
「あの百万石の加賀藩が幕末に何をしていたか、あなたは知ってますか?」
と聞かれて、何か具体的なことを答えられる人はおそらく皆無であろう。仮に聞かれたのが幕末ファンであったとしても、この質問は難問に違いない。
余談ながら実を言うと筆者は金沢市出身なのだが、その筆者でさえも、やはり以前は何も知らなかった。
いや。実際詳しく調べてみても大した事蹟は出てこないのだけれども(禁門の変、天狗党の乱、あとは戊辰戦争の前後に少し名前が出て来る程度である)。
大仏次郎氏は『天皇の世紀』の中で次のように書いている
「裏日本に在って金沢はこれまで外国人に関係なく居た、眠ったように平和で静かな藩であった」
またサトウも手記で次のように書いている。
「彼らは日本でもとりわけ無知と非文明の本場だと思われてきた北部海岸地域に孤立していたのである。彼らはただ自分たちの事にしか関心を持っていなかった。加賀の大名が有する領地はどの大名よりも大きいと評価されており、そのため加賀藩は世間に対して貫禄があり、何一つ不満はなかった。日本の政治変革など彼らには何の利益もなく、したがって現状維持で満足だったのである」
まったく酷い言われようであるが元石川県民としても「完全にその通りで、少しも異議はない」と言うしかない。
「江戸徳川体制がスタートして以降、加賀前田家は文化国家を標榜してパックス徳川の二番手狙いのポジショニングをとった。これは戦後の日本と非常に似ている」
と、どこかのテレビ番組で述べていた人がいたが、上手いことを言ったものだと思う。
さて、余談から話を戻すと、パークスは七尾港の様子を調べた後、加賀藩士たちと七尾港の開港について話し合った。
七尾港は港の機能に問題はないもののあまり栄えている様子がなく、しかも加賀藩もあまり開港に乗り気ではなかった。
このためパークスは一連の調査を打ち切って、日本海側の開港地は新潟とする方針を固めた。
加賀藩が七尾港の開港を好まなかったのは「もしかすると幕府に七尾港を取り上げられる(天領にされる)かも知れない」と恐れたからだった。
しつこくて恐縮だがさらに余談を付け加えると、この時パークスとの対応にあたった加賀藩士の中に佐野鼎という人物がいた。
彼は駿河から招かれた蘭学者で、万延元年の遣米使節で世界一周を経験し、さらに文久の竹内使節でヨーロッパへ行っていた。そして明治に入ってからは共立学校(現在の開成中学・高校)を創立することになる人物である。
一連の港の調査を終えたパークスはこのあと船で長崎へ向かい、サトウとミットフォードは陸路で加賀、越前、近江を通って大坂へ向かうことになった。
パークスから解放され、しかも大好きな旅行(一応視察の名目ではあるが)に行けることになったサトウが驚喜したのは言うまでもない。
サトウとミットフォード、それに従者の野口は駕籠に乗って一路金沢を目指した。
サトウたちの護衛役は、従来であれば別手組が担当するところだが幕府領ではないので加賀藩士が担当することになった。
サトウが七尾を出発した七月十一日は現在の暦で言えば8月10日にあたり、まさに盛夏の時期である。
北国と言ってもこの辺りの夏がまったく涼しくないことは筆者もよく知っている。
サトウたちはスイカなどの果物を食べながら炎天下の道を進んでいった。道中はどこでも物見高い民衆で一杯だったが無礼な態度をとる者は一人もなく、皆「生まれて初めて見る外人」を見ようとして興味津々な様子だった。
サトウたちは翌日の午後に金沢城下へ入った。そして数多くの見物人に囲まれることになった。
なにしろサトウもミットフォードも女には目がないので、駕籠の中から若い娘たちを物色した。
「見物人の中には大変きれいな娘が大勢いた」
とサトウは日記に書いている。
その後サトウとミットフォードは「二人の王様にでも接するがごとく」加賀藩に厚遇された。
ただし藩主は病気療養中とのことで面会することを避けた。そこでサトウの上司であるミットフォードは「パークスからのメッセージ」なるものをでっちあげて
「藩主の健康がすみやかに回復することを祈る。加賀藩に対する我々の変わらぬ友情を誓う」
といったようなメッセージを送り届けた。
このあと二人は饗応の席へ移り、加賀藩士たちとの宴会を楽しんだ。出された料理は非常に豪奢で品数も多かった。
ある加賀藩士はサトウに対して次のように述べた。
「あなたの『英国策論』は読みました。我々もあなたの意見に賛成です。けれども幕府の廃止を狙っている薩摩や長州は過激すぎる。確かに変革は必要ですが幕府は残すべきであり、その権力を制限する程度にとどめるべきです」
サトウは自分の『英国策論』がこんな「無知と非文明の本場」でも読まれていたことに多少驚いたが、やはり加賀藩は保守的で時勢から遅れていると感じた。けれども彼らに現実の時勢を説いたところで理解できないだろうと思い、自分の意見を述べることは避け、彼らの意見を聞くことにつとめた。
翌日サトウたちは金沢の港を視察するために金石へ向かった。
金石は金沢の中心部から7、8kmほど西にある港である。しかしここも新潟と同じく風浪に弱い河口の港で、開港地にふさわしいとは思えなかった。
サトウとミットフォードは港の調査を終了して次の目的地である越前へ向かった。
加賀藩領を出て越前藩領に入ると、とたんに二人は厚遇されなくなった。
越前藩はこの二人のイギリス人を必要以上に警戒したのである。護衛の越前藩士は礼節を欠いており、福井市街に入ってからもサトウを訪ねてくる越前藩士はほとんどいなかった。
ただし極端に冷遇されたという訳ではなかった。きれいな客室や豪華な食事は加賀藩の時と変わりがなく、むしろビールやシャンペンが出された点などを見ると加賀藩よりも先進性を感じたぐらいであった。
町の見物人たちの様子も金沢と同様で
「これほど多くの美しい娘たちがいる土地を私はこれまで見たことがない」
とサトウは日記に書いている。
松平春嶽はこのとき京都へ行っていたので福井にいなかった。
春嶽がいれば、まだ二人の待遇は変わったかも知れないが、この越前訪問ではサトウたちと親交を結ぼうとする越前藩士はほとんどおらず、二人はあっさりと越前藩領を抜けて近江へと向かうことになった。
近江に入ると最初は彦根藩士が護衛についていたが、長浜で大坂からやって来た幕府の別手組十数名と交代した(江戸でサトウの専属となった六名の別手組とは別人である)。
この琵琶湖東岸ルートは少し前にパークス一行が敦賀視察の際に通っており外国人の通行はそれほど注目を集めず、割とスムーズに進むことができた。
そして草津では、サトウたちがフォックス(古狐)と呼んでいる平山から派遣された外国奉行の役人も合流した。
その役人の中に米田桂次郎という英語が得意な若者がいた。
幕末の歴史に詳しい人は知っているかも知れないが、彼は万延元年の遣米使節の際にアメリカで人気を博し『トミー・ポルカ』なる曲まで作られた立石斧次郎(為八)である。
同行した日本人がこの少年のことを「為、為八」と呼んだためアメリカ人が「トミー」と名付け、それ以降このニックネームが定着した。
米田はサトウとミットフォードにルート変更を提案した。
「大津を通るよりも南の宇治を通って大坂へ行くことをお勧めします。今回は特別に石山寺の拝観が許されたので是非そちらへご案内したいのです。どのみち移動距離は大して変わりませんから」
さらに米田はサトウに対して「あなたが『英国策論』で述べている考えは間違ってます」と抗議したのでしばらくサトウと米田は政治談議をしたが、もちろん結論は出なかった。
その後サトウは野口に質問した。
「トミー(米田)は大津を通っても宇治を通っても移動距離は変わらないと言っていたが本当か?」
「いいえ。宇治を通ると山越えになるので大津を通るよりも相当時間がかかります」
(やはりな。要するに彼らは我々が大津を通るのを阻止したいのだ。この前パークス公使が大津を通った時に京都で問題が起きたから、その二の舞を避けようとしてフォックス(平山)はトミーを派遣してきたのだ)
サトウはミットフォードと相談して
「ここは断然、大津を通って行こう」
と提案した。ミットフォードもサトウの提案に賛成して大津へ行くことを了承した。
そしてサトウはこの考えを米田に伝えた。当然のことながら米田は狼狽した。
「そんなことを言われては困る。無茶を言わないでもらいたい」
「いや。我々は寺や宇治の見学はどうでもよい。大津を通ったほうが近道だからそうするのだ。移動距離は大して変わらないなんて嘘をついたトミー、君が悪い」
実際のところ米田は平山から、二人を大津、さらには伏見にも立ち寄らせないように命令されていたのである。
その理由は、サトウが予想した通り「パークスの敦賀行き」の時に幕府が朝廷から責め立てられたので、その二の舞を避けるためだった。
困り果てた米田は野口に相談して、サトウたちの説得を頼んだ。
確かに野口から見ても今回のサトウのやり方は強引に思えた。「そこまで無理をして幕府を困らせる必要があるのか?」と。そこで野口はサトウに助言をした。
「米田たちに悪意はありませんよ。ここは一つ、彼らの顔を立ててやったらどうです?」
しかしサトウは野口の助言を拒絶した。
「私は君を大変信用しているが、今回のことは我々イギリス人の問題だ。口を挟まないでもらいたい」
このサトウの返事を野口から聞かされて、米田は進退窮まってしまった。
仕方なくサトウたちに頭を下げて幕府の窮状を説明した。そして改めてルートの変更をサトウに懇願した。
「どうすればルートの変更を認めてくれるのでしょうか?条件を言ってください」
「トミー、君が最初から素直に事情を説明してくれていれば我々もそれに同意しただろう。だが今となってはすべてが手遅れである」
とサトウが突き放すように言ったので米田はますます意気消沈してしまった。
そこでミットフォードが米田に一つの提案をした。
「今回の件を反省する証として公式な文書を我々に提出しなさい。その内容次第ではルート変更することもあり得る」
これ以降、二人が納得できる反省文書が作成されるまで、二人は何度も米田に書かせた草稿を突き返した。
それにしても、なにゆえサトウはここまで激しく立腹したのだろうか?
(なぜ京都の朝廷は我々イギリス人をこれほど邪険にするのか?この前は朝廷の例幣使が私を襲撃しようとしたではないか。私は『英国策論』を書いて朝廷の権威拡大に貢献してきたというのに、その仕打ちがこれなのか?イギリス人が大津や伏見を通ったからといって一体何の問題があるというのか?)
サトウの本心はこういったものであった。
なるほどサトウの不満はもっともである。
けれども、朝廷に対する不満を自分たちにぶつけられた幕府(米田)としては、いい面の皮であったろう。
二人と米田とのやりとりは夜中の三時まで続き、最後にはミットフォードが米田から提出された反省文書を了承し、二人は宇治経由で大坂へ向かうことを受けいれた。
翌日、サトウたちが草津を出発して石山寺へ行ってみると寺の僧侶たちが急いで門のところへやって来た。
そしてすぐに門を閉ざしてサトウたちの受け入れを拒絶した。
「フォックス(平山)が言っていた拝観許可の約束なんて、所詮こんなものさ」
サトウとミットフォードは思いっきり米田に嫌味を言って、再び宇治行きの山道へと戻った。
二人は山道を越えて午後四時、宇治に到着した。
そこへ幕府から派遣された山崎龍太郎がやって来た。彼はサトウと東海道を旅した時に「喜多八」とあだ名されていた外国奉行の役人である。
山崎は二人を伏見へ立ち寄らせないようにするため派遣されたのだが、昨夜二人とやり取りをした米田が山崎に事情を説明した。
「伏見では宿泊せず、小休止するだけで、すぐに船で大坂へ向かうことになってます。なんとか大津の回避は二人に認めさせたので、伏見での小休止はこちらも認めざるを得ません」
結局山崎もこれを了承し、二人はこのあと伏見へ入って本陣に立ち寄った。サトウは前回東海道の旅の時にワーグマンと一緒にここへ泊まったので今回は二度目である。
そしてここで風呂に入り、夕飯を食べていた。
この時、野口がサトウのところへやって来て次のように告げた。
「別手組の者から聞いたのですが、この伏見で土佐の連中がお二人の命を狙っているそうです。土佐人は獰猛な奴らですから、十分お気をつけ下さい」
二人は夕飯を食べ終わるとさっさと船に乗り込んで伏見を出発したので、結局土佐人による襲撃は行なわれなかった。
この襲撃計画の真偽は不明だが、ひょっとするとサトウたちを伏見に入れたくなかった幕府がでっち上げたデマだったのかもしれない。またあるいは、このあと出てくる長崎での事件が誤って伝わった可能性も考えられる。
サトウとミットフォードは夜船で淀川を下り、翌日大坂に入った。
そして長崎から船で来たパークスも、ちょうど同じ日に大坂へやってきた。
七尾で別れて以来の再会となったパークスに、二人は道中のことを報告しようとしたところ、逆にパークスから長崎で起こった重大な事件を聞かされることになった。
いわゆる「イカルス号事件」である。
七月六日の夜、おそらく犯行時間は翌七夕の午前零時頃だと思われるが、長崎の丸山(遊郭。現在の丸山公園のあたり)でイギリス軍艦イカルス号の水兵二人が何者かによって斬殺された、という事件である。
犯行現場を見た者は誰もおらず、「土佐海援隊の連中がやったに違いない」という噂だけが広まることになった。
言うまでもなく、海援隊とは亀山社中から名前を変えた坂本龍馬の私設団体である。
海援隊に嫌疑がかかったのは次のような状況証拠があったことによる。
「犯人は白い服を着ていたらしい」(海援隊士は「亀山の白袴」として有名だった)
「その日の夜、犯行現場の近くを海援隊士たちが歩いていた」
「犯行直後に土佐藩(海援隊)の横笛丸が、続いて数時間後に南海丸が長崎港を出港し、横笛丸はすぐに戻ってきたが南海丸はそのまま長崎から去って行った」(犯人は横笛丸で長崎を脱出して、沖で南海丸に乗り移って逃げ去ったのではないか?と疑われた)
これらの状況証拠の他に、サトウが野口から「土佐人は獰猛な奴らですから」と忠告されたように
「元来土佐人はケンカっ早いことで有名だった」
とサトウは書いている。おそらくこのことも嫌疑をかけられた原因だっただろう。「あの海援隊の連中ならやりかねない」と。
七尾港でサトウたちと別れたパークスは、その後たまたま長崎に入港してこの凶報に接することになった。
無論パークスは激怒した。そしてこれらの状況証拠から
「土佐海援隊の人間が犯人であることは間違いない」
とパークスは「断定」したのである。
パークスが何か政治的な意図があって「土佐人が犯人である」と断定したとは思えないが、この「断定」によって政局の動向は大きな影響を受けることになった。
特に土佐藩が一番大きな影響をうけ、個人的には坂本龍馬が一番大きな被害をこうむることになるのである。
そしておそらく、この「長崎で土佐人が二人のイギリス人を殺した」という噂が伏見にも伝わって
「伏見でも土佐人が二人のイギリス人<サトウとミットフォード>を殺そうとしている」
というふうに誤って置き換えられてしまったのではないか?と筆者は想像する。
0
あなたにおすすめの小説
北武の寅 <幕末さいたま志士伝>
海野 次朗
歴史・時代
タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。
幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。
根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。
前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる