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第二部 第二章
握手
しおりを挟む太陽がその姿を地平の向こうに隠した頃になっても、シシィは壁にもたれて木箱の上に腰掛けていた。思考はまだぼんやりと霞んでいて、体に残る熱はじんわりと腹部を暖めている。
蔵の中は明かりが無ければ何も見えないほど暗くなっていたが、シシィはランタンを用意する気にはなれなかった。
自分の気持ちが、あの逞しく賢い農夫に向けられている。そのことにもう疑いは無かった。
一人で自分を慰めるような行為ではなく、あの人と直接唇を合わせたかった。そして大きな手で触れられて、抱きしめられて、男を、あの人を知る。
今日はあの人に屈辱を与えてしまった。だからこそ、今度は自分があの人のために自らが守り続けてきたものを捧げよう。きっと喜んでくれるはずだ。
あの人は自分のことを可愛いと褒めてくれたし、自分の感情を受け止めてくれた。きっと、自分に好意を抱いているに違いない。だから、あの人も喜んでくれるだろう。
そうやって気持ちが通じ合ったなら、一体どれだけ気持ちよくなるのか想像もできなかった。
あの大きな手で優しく撫でてほしい。あの低く落ち着いた声を耳元で聞きたい。肌を擦り合わせて、お互いの形を確かめあいたい。
好き。
自分が男に好意を抱くだなんて想像したこともなかった。
そんなものは自分とは無縁だと思っていた。
けれど、自分の中に芽生えたこの気持ちは暖かくて、制御できなくて、もどかしくて、それでも大事なものだと思えた。
そうやって考え事をしていると、蔵の扉が二度叩かれた。ハッとしてシシィが姿勢を正す。
心臓が鋭く跳ねて痛んだ。返事をしなかったせいか、再び扉が二度叩かれた。
「シシィちゃーん? いるー?」
リディアの声だった。あのリディアがノックしてから入室の許可を求めるというのは珍しい。
シシィは喉の調子をわずかに整えてから言った。
「いる」
「入るわよ」
小さな声での返事だったが、リディアには聞こえたようだった。リディアが蔵の扉を開けて中に入る。
手に一枚の丸い皿を持っていた。リディアは蔵の中を見て、目を細めた。
「何よ、暗すぎでしょ。明かりつけなさいよ明かり」
「わかった」
シシィは立て掛けておいた杖を握り、木の箱の上に置いていた魔法のランタンに明かりを灯した。白色の光が蔵の中に溢れ、リディアの姿もはっきりと見えた。
リディアは手に持った皿をシシィの隣に置いて、自分は反対側の木箱の上に腰掛けた。
「それ、夕食だって。お腹が空いたら食べろってさ」
「わかった」
小さく頷いて、シシィは皿に置かれたパンとチーズに目を落とした。粗末なものだったが、自分には取り立てて好き嫌いもないし空腹を宥められるのならなんでも構わない。
後で食べようと思っていると、リディアが額にかかった髪をかき上げて溜息を吐いたのが見えた。
リディアが首の後ろを掻く。
「あのさシシィ、ごめんね」
「なにが?」
「いやほら、あれじゃない。なんか、あれよ」
「わからない」
「察しなさいよもう。あたしがあいつに話しかけるように言ったからさ、あたしにも責任があると思って」
そこまで言われて、シシィはようやくリディアが何を言いたいのかがわかった。
アデルは一体どの程度リディアに事情を説明したのだろう。あの性格から考えると、指を舐めたことまでは伝えてはいないはずだ。
シシィはゆっくりと首を振った。
「いい、気にしていない。それに、わたしも悪かった。リディアに対して冷たい態度を取ってしまったことを謝りたい」
「あら? あんたでもそういうこと気にするの?」
「……たまには」
驚いた様子のリディアに、シシィは少しだけ腹が立ったが堪えた。人をなんだと思っているのだろう。
リディアはうんうんと頷いて満足そうにしている。
「そうね、あんたはもう少し人の心の温かみを持ったほうがいいわ。特にあたしに向かって」
「別にリディアのことが嫌いなわけではない。ただ、会話をしているとリディアはいつの間にか違う話題に移っていたりすることが多くて、それ以前の話題についてわたしの考えがまとまった頃にはまた別の話題になっていたりする。それに着いていくのが、面倒くさくなっただけ」
「ちょ、ちょっと! 面倒くさいとか言わないでよ」
「ある程度話題が固定されているか、意見を求められたなら対処する」
「はぁ……、まぁいいわ。あんたはそんな感じよね」
リディアは両手を首の後ろに置いて軽く胸を張った。
「ほんと、あんただけはずっとそんな感じ」
感慨深げに呟かれた言葉に、シシィは耳を傾けた。暖かい対応をしようと考えていたが、この言葉に対してどういう言葉を返せばいいのかすぐには思いつかなかった。
リディアは手でうなじを掻きながら言う。
「まぁ、あんたがそんな感じであたしのことを立派な勇者さまじゃなくて、普通の人間だと思ってくれてたから、あんたと一緒に旅に出たんだけどね」
「そう」
「それに、あたしが危なくなったら、あんたは真っ先に逃げそうだったから」
「そのつもり」
「とか言いながらあんた、実際にはあたしのために必死だったみたいじゃない」
リディアがにやにやしながら言うので、シシィはわずかに腹が立った。しかし、今は優しい気持ちでいたい。
これから自分に訪れる幸せのことを考えると、他の誰かに対しても優しくなれそうだった。
「リディアに死んで欲しくはなかった。上手く行くかどうかはわからなかったけれど」
「まー、なんて嬉しいことを言ってくれるのかしら。でもあれよね、ほんと、あたしたちにとっても大変だったわね、死んでてもおかしくなかったし。そりゃ、あの二人ほどじゃないけど」
「かもしれない」
アデルとソフィは終始襲われていた側だ。自分達に対して強い怒りを覚えたとしても無理はない。それにも関わらず、アデルは自分に優しくしてくれた。笑わせてくれた。
リディアは首を後ろに傾けて天井を眺めた。
「ほんと、何かがちょっとでもズレてたら、今、こうやってここにいなかったんでしょうね」
しみじみと、何かを実感するようにリディアが吐息を漏らす。その言葉から、リディアはあの戦いの結末と、この状況を良いものだと思っているのがわかった。
自分もリディアの意見には同意できた。何かがほんの少し違っただけで誰かが欠けていたかもしれないし、ここでこうやってリディアと話をしていなかったかもしれない。
リディアが首を戻してシシィを一度見た後、視線を落とした。少し考えるように唇に指を当てて、リディアが言う。
「あたしたちがここにいる理由ってさ、ソフィとアデルが悪いことをしないか見張ってるってわけだけど……、多分、あの二人は大丈夫だと思うのよね。っていうかむしろ、普通の人よりもなんていうか真面目だし」
「わたしもそう思う。あの二人が他者を害するのであればそこには正当な理由があるだろうし、彼らを一方的に非難できるようなものではないと思う。私益のために何かをするようには思えない」
「うん……、でもね、あの……、あたしは理由が無くなったけど、その、まだこの村にいようかと思ってるの」
リディアは言葉をつかえながらそう言った。慌てたように早口で続ける。
「ほらあれじゃない、ちょっとはゆっくりしたいじゃない。あたしもずっと血なまぐさいことばっかりしてたし、もうそういうのはいいかなって思うし、それにこの村は平和で綺麗だし、のんびりしたいなって思って」
「そう」
「シシィはどうするの? 宮殿に帰るの?」
「帰らない。あそこはわたしが帰る場所じゃない。だから、わたしもここに残る」
「そ、そうなんだ……。へー」
リディアが続けて何か言おうとしているようだったが、その後の言葉はしばらく待っても出てこなかった。
シシィは何を言うべきか少し考えて言った。
「わたしが最初に思っていたよりも、リディアとは長い付き合いになった。もう少し、長くなるかもしれない」
「そうね、あたしも正直あんたとここまで長い付き合いになるとは思ってなかったし」
「リディアはあまり細かいことを気にしなかったから、付き合いやすかったのかもしれない」
「そうかしら? え、それって褒めてるの?」
「褒めてるつもり。わたしの過去については無闇に尋ねなかったし、小さなことは根に持たなかった」
「それはあんたもそうじゃないの?」
「そうかもしれない。わたしも、リディアの過去については尋ねないようにしていたから」
「ま、お互いに色々あるからしょうがないわ」
その言葉にシシィが小さく頷いた。
リディアが肩にかかっていた髪を手で払う。
「なんか湿っぽくなっちゃったわね。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「よくわからないけれど、今までのように戦いばかりではなくなるのは確かだと思う」
「そうね、これからは平和に生きていかなきゃね」
明るい調子でそう言ったリディアに、シシィは再び小さく頷いた。
自分もこれから先、どんどん変わっていくだろう。もしかしたら、来年の今頃には一児の母になっているかもしれない。
それは少し早すぎるかもしれないが、いずれにせよ何かが変わっているはずだ。
リディアがすっと立ち上がり、こちらに数歩進んできた。ゆっくりと右手をこちらに差し出してくる。
「じゃあシシィ、こらからもしばらくよろしく」
「わかった」
差し出された手に、シシィが手を伸ばす。
あまり力のこもっていない握手をしていると、何故か少しだけ笑えた。
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