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第二部 第三章
罪の子
しおりを挟む胸の内側がばくばくと跳ねて痛む。罪の意識がもたらす焦燥感が、内臓を焼き尽くそうとしているかのようだった。
心臓の音は背骨にまで達するのではないかと思うほどに大きい。シシィは胸元に手を置いてぎゅっと手を握り締めた。
考えたくはないことだが、あるひとつの可能性が頭の中で浮かび上がっていた。
自分の母が、アデルの父を殺した。
あの男の話を聞く限りでは、この自分と同じような格好をした、同じような顔の女に殺されそうになったのだという。そしてあの男と一緒にいたと思われるアデルの父は、その戦いの中で命を落とした。
ならば、自分の母がアデルの父を殺したというのはほぼ間違いないように思えた。
以前、アデルは自分に少しだけ昔のことを語ってくれた。アデルの父は戦の中で命を落としたのだという。
アデルが以前語っていた父の旧い知り合いというのは、さっき町で出会ったあのスコーレムという男に違いない。
「シシィよ、おい、大丈夫か?」
はっとしてシシィは目を見開いた。考え事に没頭していて、周りが見えなくなっていた。
アデルが指で帽子のつばをつまんで、軽く引っ張り上げている。腰を屈めて、自分の顔を覗きこんでいた。
シシィが慌ててその手を払って、帽子のつばで自分の顔を隠した。
今のは奇妙な態度だったかもしれない。アデルの中に妙な猜疑心を生んでしまいかねない行動だった。
心を落ち着けなければいけない。シシィはそう考えて呼吸を整えた。
心配をしてくれたアデルに声をかける。
「ごめんなさい、少し、ぼんやりしていた」
「そうか、何やら顔色も悪いようであったし、シシィよ、今日は帰ろうか」
「……わかった」
「すまぬ、シシィを楽しませてやろうと思っておったが、余計なことがあって難しくなった。しかし、この埋め合わせは必ずするでな」
「わかった」
アデルは何事も無かったように微笑んでいる。シシィは意識して呼吸を整えながら、自分が今何を考えていたのかを思い返していた。
今、アデルの中に妙な猜疑心が芽生えてはまずいと、咄嗟に考えてしまった。
それが何を意味しているのかは明白だった。自分は、アデルにこの情報を知ってもらいたくはないのだ。
アデルの父を殺したのが自分の母だということを、アデルに隠そうとしている。自分は無意識のうちにそう考えて、隠してしまった。
素直に伝えるという選択肢もあったはずだ。それにも関わらず、今、アデルにそれを知られたくないと思ってしまった。
さっき歩いてきたばかりの道を、再び戻ることになった。アデルは自分の顔色が悪いと言っていたが、そんな心配をしてしまうほどに動揺が顔に現れていたのだろうか。
町の外に出て、村への道を歩く。昼過ぎの青空はさきほどと変わらず頭上を覆っていた。風も心地よいはずなのに、じっとりと滲んだ汗を拭い去ってはくれない。
まだ心臓が落ち着かなかった。
アデルは自分の少し前をのんびりと歩いている。言葉はないが、それでもこちらのことを気にしているのはよくわかった。時々振り返ってはこちらの様子を確かめている。
その表情には自分を心配する色がありありと見て取れた。その優しさが今は痛かった。
自分の母がアデルの父を殺した。
その事実をアデルに伝えるべきだ。そう思ってみても、自分の口は貝のように閉ざされて動かない。
言うべきだと考えた瞬間に、タールのような黒く重たい恐怖が自分の心にへばりつく。
アデルは父を亡くし、次いで母と妹を亡くしたと言っていた。
もしも父が存命だったとしたら、運命は大きく変わっていたかもしれない。少なくとも、アデルは今でも父と一緒にいられただろう。
アデルが得られるはずだった時間を、親から受けられる愛情を、自分の母が奪い去った。
もしアデルがそれを知ったなら、自分を責めるかもしれない。父の命を奪った仇は自分の母で、その娘である自分に対して憎しみを抱いてしまうかもしれない。
アデルがそう思うことを責めることなど出来ないし、復讐を考えてもおかしくないはずだ。
いや、アデルは立派な人格者だから、親のことと自分たちのことを切り離して考えるかもしれない。
だから自分のことも許してくれるはず。
自分の中でこんな甘い期待が膨らんでいることに気づいて、シシィは歯を噛み締めた。ギリッと強く歯を噛み締めて、唇を強く閉ざす。
馬鹿な期待をしてしまった。人格者であれば、肉親を殺した相手に憎しみを持つほうがずっと自然なはずだ。
まっとうに生きてきた人が、肉親を殺されてしまったのだ。怒りを覚えて当然だろうし、そうでないのなら逆におかしいとしか言いようがない。
自分だって、憎しみに囚われた。
この事実はアデルに対して伏せておくべきだろう。
アデルが気づきさえしなければ、何も問題など起こらないはずだ。今までと同じように、楽しく暮してゆける。そんな日々がずっと続く。
アデルと沢山愛し合って、そして仲良く暮してゆく。いずれアデルに子どもを産んであげる日も来るだろう。
きっとアデルは良い父親になるに違いない。明るくて、真面目で、冗談も言う。人に対して真剣で、相手のことをよく考え、怒る時はしっかりと怒る。
自分の利益を度外視して、守るべき相手をしっかりと守り抜く。
アデルは自分の母について知らないのだから、黙ってさえいれば気づかれることはない。
ただ、この秘密をずっと守り続けなければならなくなる。アデルに対して、嘘を吐き、隠し事をして生きていかなければならない。
愛し合っても、子どもを産んでも、それでも秘密を抱え続ける。
そうするしかない。
アデルにすべてを話してしまえば、アデルは自分のことを憎むようになるかもしれない。
肉親を殺した者の娘だと思われれば、あの慈愛に満ちた笑みは蔑みと憎しみに満ちた敵意に変わるかもしれない。
そしてあの家を追い出されるのだ。あの愛しい人と一緒に生きてゆけなくなる。ソフィともそれでお別れだろう。
そしてどうなるのだろう。
あの家を追い出されたら、自分にはもう何も無い。するべきことはもう無い。
アデルが自分にくれたものを、他のどこで手に入れられるというのだろう。アデルはこの世にたった一人しかいない。
自分が大好きになった人、ずっと一緒にいたい人、その人に憎しみを向けられてしまう。
シシィの指がかたかたと震える。過ごしやすい気温のはずなのに、脂汗が滲んだ。
アデルに嫌われたくない。もしアデルがこの事実を知れば、自分に対して憎しみを抱いてしまうだろう。
それを避けるために、愛しい人に対してずっと秘密を抱え続けなければいけない。
それが本当に正しいことなのだろうか。
アデルには自分の父について知る権利があるはずだ。それに、愛しい人に対してこのような秘密を保ち続けるのは不誠実ではないのか。
やはり事実を伝えて、そして許しを乞うべきだろう。
アデルは許してくれるのだろうか。わからない。
これからもアデルと一緒に暮したい。アデルと心を通わせ、そして体を重ねて、アデルの子を産みたい。
けれど、自分はアデルの父を殺した者の娘で、アデルが憎しみを覚えても仕方が無い相手だ。
今までアデルはずっと誠実に接してくれた。自分とリディアを追い出そうとした時でさえ、こちらの幸福を願っていた。
この事実をアデルが知れば、憎しみと嫌悪感をぶつけながら自分を追い出すかもしれない。
想像するだけで、耐え難い苦痛が心臓を絞り上げる。もしこれが現実に起こってしまったなら、自分の心は壊れてしまうかもしれない。
人の暖かさを知ってしまった、人を好きになってしまった。
もう二度とアデルのような人とは出会えないだろう。
自分が黙ってさえいれば、これからも好きな人と一緒に過ごしてゆける。
そうするべきだ。ずっと黙っていればいい。ずっと嘘を吐き続けていればいい。
世の中の人たちは多かれ少なかれ秘密を抱えて生きているはずだ。自分だけが不誠実なことをするわけじゃない。
その疚しさが消え去るくらい、アデルのことを愛してあげればいい。
他の誰もしてあげられないくらいアデルの役に立つ女になり、アデルを悦ばせる女になればいい。
昼過ぎの日差しが地上を明るく照らしている。自分の心とは対照的で、この世で自分だけが汚れているのではないかという気にさえなってしまう。
道の周囲には畑が広がっていて、その上を風が滑っていた。涼しい風がシシィの頬を撫でる。
シシィはアデルの背中を見た。黙ったままゆっくりと歩いている。
シシィはほんの少し歩調を速めて、アデルの背中へと近づいた。それからアデルの服におずおずと手を伸ばす。
指先が震えていた。触れることを躊躇ってしまう。それでも手を伸ばした。綿ですら潰せないほどの弱弱しい力でアデルの服をつまむ。
引っ張ろうと思った瞬間に、アデルがその些細な刺激に気づいて首を回した。肩越しにこちらを見てくる。
「どうかしたか?」
アデルの問いに、シシィはすぐ言葉を返すことが出来なかった。
心臓がぎゅっと絞られる。内臓が上へと昇って来ているかのように、胃や肺が圧迫されていた。気分の悪さすら感じてしまう。
シシィは一度ぎゅっと唇を閉じて、それから意識して口を開いた。声が震えないように、呼吸を整える。
これだけ注意深く声を出そうとしたのに、唇から溢れた言葉は蝶の羽ばたきのように弱々しかった。
「あなたに、話したいことがある……」
「ん? どうしたんじゃ? 気分でも悪いのか?」
「話がある」
「シシィ、やはり気分が優れぬように見えるが……」
立ち止まったアデルが心配そうに目を細めた。
その優しさに喜びを覚えてしまうけれど、そう思うことは間違っている。
杖をぎゅっと握り締めた。この杖に今まで助けられてきた。
一度唾を飲み込んで、ゆっくり顔をあげる。
せめてその顔を直接見ながら言わなければいけない。
アデルの瞳を見つめながら、唇を開いた。
「あなたに、話したいことがある」
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