影武者の天下盗り

井上シオ

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第1章:影武者の目覚め

第2話:信長の影

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 「名乗ってみろ」

 それが最初の命令だった。

 武芸の稽古場。十兵衛は豪奢な裃に身を包み、三十人ほどの兵を前に立たされていた。彼らは皆、織田家の若き侍たち——つまり、“信長公の声”を知る者たちだった。

 「……織田、上総介、信長じゃ」

 一瞬の静寂。

 だが、誰も笑わなかった。むしろ、目を丸くしていた。

 「……そっくりじゃねえか……」

 ぽつりと呟いたのは、羽柴秀吉だった。訓練を見守っていた彼は、口元を手で覆って笑いをこらえながら、横の武将に目配せした。

 「声まで似てる。こりゃあ、使えるぜ」


 十兵衛は、次々と与えられる“信長の癖”を覚えていった。

 左足から歩き出す癖。
 食べる時、箸を持つ角度。
 目を合わせる時の一瞬の鋭さ。
 怒るときの沈黙の長さ——。

 稽古と模倣は、次第に“演技”を超えて、十兵衛自身を染めていった。
 鏡の前に立つたび、彼は思う。

 「これが……俺か?」

 そこに映っているのは、もはや村で畑を耕していた十兵衛ではなかった。

 その変化に、最も驚いていたのは、当の羽柴秀吉だった。

 ある日、秀吉は肩を並べて歩きながら言った。

 「なあ十兵衛よ。お前、なんだか最近“殿”っぽくなってきたな」

 「そうか?」

 「“俺は信長だ”って、思ってきてるんじゃねえか?」

 十兵衛は立ち止まり、少しだけ空を見上げた。

 「思っては……おらぬ。ただ……この顔がそう望んでおるのだ」

 秀吉は吹き出した。

 「顔が望んでる? なんじゃそりゃ。だがまあ、それでええ。お前は影武者として生き残った。だったら、影として立派に生きりゃあいい。……そしたら、光も見えてくるかもしれんぞ」


 ある夜、十兵衛は武芸の訓練中、刀を握ったまま黙り込んでいた。

 剣術指南役が問いかける。

 「どうした、殿。構えが崩れておりますぞ」

 「……構えを真似れば真似るほど……自分が薄れてゆく気がしてな」

 「それは、“影”としての宿命です」

 「ならば俺は……何者なのだ」

 その言葉に、指南役は一瞬だけ、目に見えぬ哀しみを浮かべた。
 だが答えは返ってこなかった。


 訓練の最終日、十兵衛は馬に乗り、兵を従えて模擬行軍をおこなった。

 「殿! 進軍の号令を!」

 十兵衛は一度、息をのみ——そして叫んだ。

 「出陣じゃ!!」

 風が、彼の髷を揺らした。
 兵たちの鬨の声が、空に響いた。

 その瞬間、十兵衛は確かに感じた。

 ——これは恐怖ではない。
 ——これは興奮だ。

 名もなき百姓の身では知りえなかった“力の快感”。
 誰かに成り代わることの背徳と、甘美。

 十兵衛の中で、“信長”が目覚め始めていた。
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