影武者の天下盗り

井上シオ

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第2章:偽りの将

第7話:鷹の眼

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 安土城の廊下には、戦の気配がまだ残っていた。
 槍を磨く音、鉄の匂い。勝利の凱旋とて、平穏ではない。

 十兵衛はその中央に立ち、堂々と歩を進めていた。
 すれ違う者すべてが、畏れと信仰を込めた目で頭を垂れる。

 “織田信長”は生きている。
 そう信じたい者たちの視線だ。

 だが——

 その視線の中に、ただ一人、まるで獲物を見据えるような鋭い眼を持つ男がいた。


 男の名は、斎藤小十郎。
 かつて明智光秀の甥として仕えていたが、今は織田家に戻った謎多き男。

 「久方ぶりに、お目にかかります、信長公」

 小十郎の一礼には、礼儀と毒が同居していた。

 「お前は……斎藤家の者であったな」

 十兵衛が応じると、小十郎の目が一瞬、鋭く光った。

 ——気づいたか? いや、今の“信長”は気づくはずがない。
 叔父である光秀がかつて耳打ちした「信長の癖」を、すべて記憶している。

 「それにしても、殿のお声……随分と低くなられましたな」

 「年を取った、ということだ」

 「それにしても。筆跡も……昔と、変わりました」

 「戦ばかりしていれば、筆も忘れる。お前のような文官とは違う」

 にこりともせず、十兵衛は返した。

 小十郎は、さらに一歩踏み込んだ。

 「……では、殿。拙者の名は?」

 その瞬間、空気が変わった。

 家臣たちがざわつく中、十兵衛は微笑すら浮かべず、答えた。

 「斎藤小十郎。光秀の甥にして、かつて裏切り者に連なる者。だが今は、我が家臣である」

 小十郎の肩が、わずかに震えた。

 ——正解だった。
 だが、“記憶”から出たものではない。十兵衛は、賭けたのだ。

 己が“信長”であると信じ込むことで、相手の迷いを打ち砕いた。


 夜。
 廊下を歩く小十郎は、思案していた。

 「確かに“似ている”。だが、違う。あれは……“信長ではない”」

 だが、証拠はない。
 それに、彼の言葉を疑う者は誰もいない。

 あの眼、あの声、あの威圧感——“本物以上の本物”だった。

 「……ならば、私は“真実”を暴く」

 そう心に誓った小十郎の背に、月が鋭く光を落とした。


 一方、十兵衛は一人、静かに膝を抱えていた。

 「……あの男、俺を見ていたな。“本物の信長”ではなく、“何者か”として」

 嘘は、いつか終わる。
 それは理解している。だが、終わるその時まで、立ち止まるわけにはいかない。

 「俺は、信長になる」

 そう呟いた時、胸の奥に宿ったのは恐れではなかった。

 渇望だった。

 信じられる者がいる。期待される。力がある。
 それを手放すことは、もうできなかった。
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