影武者の天下盗り

井上シオ

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第2章:偽りの将

第8話:女と剣

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 濃姫は、決して涙を見せぬ女だった。

 美しく、そして冷たい。
 かつて織田信長の正室であり、戦国の世にあっても「鬼の女」と畏れられた女——それが濃姫だった。

「殿が、お呼びとは」

 濃姫が現れたのは、安土城の西の間。
 夕陽が障子を染めるその部屋で、十兵衛——“信長”は、静かに彼女を迎えた。

「よう来たな、濃」

 そう言った瞬間、濃姫の眉がわずかに動いた。

 「よう来たな」——それは、信長が戦から戻った時、必ず口にしていた言葉だった。

 だが、それを“影武者”が知るはずはない。

「……懐かしい言い回しを、覚えておいでなのですね」

「忘れようにも、忘れられぬからな」

 十兵衛は薄く笑った。
 濃姫の目が、鋭くその顔を見つめている。
 その視線はまるで——切っ先のようだった。

「殿。……私を、抱いた夜のこと、覚えておいでですか?」

 その言葉に、背後の家臣が一瞬ひるんだ。

 だが十兵衛は動じない。
 あくまで“信長”として、堂々とした面を保った。

「覚えているとも。お前は……刀を帯びたまま、俺の寝所に現れた」

 「それで?」

 「刀を突きつけ、『寝首を掻くべきか、今宵抱かれるか、選べ』と迫ったな」

 濃姫は、初めて目を見開いた。
 その夜の記憶を知る者など、二人しかいないはずだった。

 「お前は刀を抜かず、俺に膝を折った。……誇り高き女よ」

 濃姫は、わずかに目を伏せた。
 その一瞬の沈黙のあと、柔らかく微笑んだ。

「——殿は、変わられました」

「そうか?」

「ええ。かつてのあなたは、もっと粗暴で、もっと孤独でした」

 濃姫はゆっくりと顔を上げ、十兵衛をまっすぐに見つめた。

 「今のあなたは……優しい。まるで、別の人のようです」

 その言葉に、空気が張り詰める。
 十兵衛は笑みを絶やさず、ただ答えた。

「変わったのだ、濃。人は、死線を越えるたびに」

 濃姫は微かに唇を震わせたが、やがて静かに頷いた。

「……ならば、もう一度だけ問います。あなたは、誰ですか?」

 その問いは、まるで剣だった。
 偽りを斬り伏せる刃。

 だが十兵衛は——剣を抜かず、ただ目を逸らさず言った。

「俺は、織田信長だ」

 沈黙が、部屋を満たした。

 やがて、濃姫は立ち上がる。

「ならば、それで構いません」

 彼女は背を向け、去ろうとした——その時。

「濃。……お前の剣は、今でも俺のものか?」

 その声に、濃姫の足が止まった。

 しばしの沈黙ののち、彼女は振り向かずに言った。

「殿の背に、刃を向けることはない。それだけです」

 そして彼女は、部屋を去った。


 夜。

 十兵衛は独り、床に伏していた。

 額には冷たい汗。心臓は静かに速く打っている。

 「……俺は、本当に“信長”だったか?」

 濃姫の言葉と瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。

 だがそれでも——

 その問いを否定する者は、もう誰もいなかった。
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