影武者の天下盗り

井上シオ

文字の大きさ
16 / 99
第3章:偽帝国の拡大

第16話:口封じ

しおりを挟む
 ——女が、「信長さま」と呼んだ。

 それだけのことが、屋敷中に広まるのに時間はかからなかった。

 「本当に殿の幼馴染と名乗ったのか?」
 「十兵衛と呼んだらしいぞ」
 「まさか、影武者が……」

 噂は鋭い刀のように十兵衛を囲みはじめる。
 信長の名を装って生きる彼にとって、それは最大の“綻び”だった。

 おみよの言葉は、優しさだった。だが、それは同時に“毒”だった。


 夕刻。
 十兵衛は密かにおみよを城へ呼び寄せた。

 「このままでは、そなたの命が危うい」

 「……私が悪かったの?」

 「違う。ただ、俺が“信長”であるためには、余計な口が要らぬだけだ」

 おみよはしばらく黙ってから、ふと笑った。

 「じゃあ、殺す?」

 「……いや」

 十兵衛は静かに首を振った。

 「“口封じ”とは、殺すことだけじゃない。生かして、黙らせることもできる」

 「どうやって?」

 「——俺の“愛妾”になれ」

 その言葉に、空気が凍った。

 おみよは言葉を失ったまま、しばらく動かなかった。
 だがやがて、その瞳に怒りも戸惑いも浮かばず、ただ悲しみだけが広がった。

 「……それで、私の命は守られるの?」

 「“信長の女”になれば、誰も手出しできぬ。だがそれは、“十兵衛の恋人”ではない」

 おみよは首を横に振った。

 「それでもいい。……たとえ、あんたの顔が変わっても、心が変わっても……私は、あの時の“あんた”に出会えたから……」

 小さく呟いたあと、彼女はそっと近づき、十兵衛の胸元に触れた。

 「——私の信長さま」

 その言葉が、まるで処刑の号令のように響いた。


 数日後、正式に「新たな側室」として迎えられたおみよは、金襖の奥に幽閉された。

 人前には一切出ず、「口を閉ざした花」として存在を隠される。

 だが、それは殺すよりも残酷な“口封じ”だった。

 十兵衛は夜、一度だけ彼女のもとを訪れた。

 「生きていてくれて、ありがとう」

 おみよは笑った。

 「……死ぬよりも辛いこともあるって、知ってた?」

 「……ああ」

 「でも、あんたはもう……信長さまだからね」

 その夜、十兵衛は彼女の部屋から出ると、城の高台で風に当たった。

 空に月はなく、ただ闇だけが、静かに彼の影を撫でていた。

(俺は、何を守って、何を捨てたんだろうな……)

 胸の奥に、おみよの声が、血のように染みていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

処理中です...