卒業した姉とこれから入学するのではしゃぐ妹

月輝晃

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怪談

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 春の風はまだやさしくて、だけど夕暮れの時間になると、空気が少しずつ硬くなっていく。

 その日の部活は、少しだけ肌寒かった。
 
 和室の窓を開け放ったまま、私たちは静かに座っていた。

「今日も“座道”する?」

 ひかりんが、お茶を注ぎながら言った。

「うん。でも……ちょっと、違うテーマにしてみたいかも」

「違う?」

「“怪談”とか、どうかな」

 その言葉に、場の空気がぴしりと張った気がした。

「座道……で、怪談?」

 山野くんが顔をしかめた。

「無言の演出で、空間に“何か”を漂わせる……そういう意味では、すごく相性がいいと思うの」

 ひかりんの声は真剣だった。

 安達さんがぽつりとつぶやいた。

「確かに、怖い話って“音”より“無音”のほうが怖いかもね……」

 こうして、“座道怪談”という謎の試みが始まった。



 夕方五時、和室の窓をすべて閉める。
 障子をぴたりと閉じて、ランタンの明かりだけにする。

 畳の上に、正座。

 呼吸を整える。心を“沈める”。

「じゃあ、しおりから……“話す”んじゃなくて、“空気”で演出してみて」

 ひかりんが優しく促す。

 私は、目を閉じた。

 目を開けたとき――その空間に、“誰かがいる”ような気配をつくりだす。

 ひとつの空所に向かって、じっと視線を向ける。

 手をそっと、空中に伸ばす。

 まるで、誰かの肩を触るように。

 何もない空間に、誰かがいると“思わせる”。

 その演技が始まった瞬間、和室の空気が変わった。

 ひかりんが、息を詰めるのがわかった。

 そして。

 コトリ……

 部屋の奥、棚の上に置いた急須のフタが、ひとりでに揺れて落ちた。

「……え?」

 誰も、触れていなかった。

 風も、なかった。

 ランタンの明かりが、わずかにゆれている。

 私たちは動けなかった。

 “誰か”が、この部屋に入ってきたような、そんな感覚。

「……今の、演出じゃないよね?」

 山野くんの声が、わずかに震えていた。

 私はゆっくりと息を吐いた。

「……私、何もしてないよ」

「でも、今の……しおりの動きに、呼応したみたいだった」

 ひかりんが、私を見つめる。



 しばらくの沈黙のあと、安達さんが立ち上がった。

「……わたし、やってみる」

 彼女は、壁際に向かって正座した。

 まるで、そこに誰かが座っているかのように。

 何も語らず、ただ、その空間に向けて、深い礼をひとつ。

 しばらくの間、誰も動かなかった。

 その時だった。

 すう――っと、和室の障子が、わずかに音を立てて揺れた。

「風……?」

 私が立ち上がって確認しようとすると、

「だめ、開けないで」

 ひかりんが、私の袖をつかんだ。

「“開けたらいけない気がする”って、感じた」

 その言葉に、私はふと気づいた。

 “座道”は、目に見えない何かを“感覚”で受け取る稽古でもあった。

 ひかりんの感覚が、何かを拒んでいる。

 だから――

 私たちは、そのまま、静かに、正座を続けた。



 静かな、静かな時間だった。

 誰も、声を出さない。

 ただ、呼吸だけが、ほんのかすかに、空気を震わせていた。

 正座したまま、私は意識を集中させる。
 まるで、この空間にいる全員の心が、一本の糸でつながっているような感覚だった。

 でも、ふと。

 その“糸”に、混ざっていない、別の“何か”が、近づいて来る気がした。

 ひかりんの手が、わずかに私の袖をきゅっと引く。

 何も言わなくてもわかった。

(……来る)

 確かに、障子の向こうに、“何か”がいる。



 その瞬間だった。

 パチッ――

 ランタンの火が、わずかに音を立てた。

 明かりが、一瞬だけ小さく、脈打つように揺れた。

 私は目を閉じた。

 そして――音を、聞いた。

 障子の向こう、廊下を、誰かが――

 コツ、コツ、と、裸足で歩くような、乾いた音を立てて近づいてきていた。

 間違いない。
 誰かが、和室の前まで、来ている。

 でも、その「誰か」は、人じゃない。

 心の奥で、冷たい確信が芽生えた。

「しおり……」

 ひかりんの声が、かすかに震えた。

「大丈夫、ここにいる」

 私は、できるだけ落ち着いた声で答えた。

 怖くても、動いちゃいけない。

 それだけは、直感でわかっていた。



 次の瞬間――

 障子の向こうから、「トン」と、小さな音がした。

 まるで、誰かが軽く、指先で障子を叩いたかのように。

 私は、心臓が跳ねるのを必死で押さえた。

(動いちゃだめ……動いたら……)

 ――何かに、引き込まれる。

 そんな予感が、背中を冷たく撫でた。



 トン……トン……

 間隔を空けて、また音がする。

 そして、その音は――少しずつ、こちらの正面に、移動してきていた。

(……わたしたちを、“見てる”)

 障子一枚を隔てた向こう側に、何かが立っている。
 息を潜め、じっとこちらを窺っている。

 音が止まった。

 あたりは、再び静寂に包まれる。

 でも、わかる。

 そこに、いる。

 誰かが、いや、“何か”が、確かに立っている。



「しおり……どうする……?」

 ひかりんの声が震えている。

 私も、震えそうだった。

 でも。

「……静かに、座って。絶対に、騒がないで」

 そう告げて、私はそっと、ひかりんの手を握った。

 絶対に、見てはいけない。



 どれくらいそうしていただろう。

 十秒? 一分? それとも、もっと?

 やがて、風のように、気配がふっと遠ざかっていった。

 障子の外から聞こえていた足音も、いつのまにか消えていた。

 私たちは、しばらく動けなかった。

 ただ、握り合った手のぬくもりだけが、静かに、そこにあった。



 と、そのとき。

 バサ――ッ

 突然、天井の隅から、何かが落ちる音がした。

「っ!」

 私は反射的に顔を上げた。

 見ると、畳の上に、古びた和紙が一枚、落ちていた。

 そこには、墨で、こう書かれていた。

《ここに、いた》

 ――ぞわり。

 全身の毛穴が、いっせいに開く感覚。

 誰が、何のために?

 そんな理屈はもうどうでもよかった。

 ただ、確かに、“それ”はここに存在していた。



 その日の練習は、予定よりも早く終わった。

 お茶を飲みながら、わたしたちはほとんど言葉を交わさなかった。

 ただ、ふとした視線や、湯飲みの向きだけで通じ合う感覚があった。

「……あのさ、しおり」

「うん?」

「さっきの……本当に“何か”いたのかな?」

「たぶん……いたとしても、怖がらせたかったんじゃないと思うよ」

「……どうして?」

「ひかりんが、“感じた”って言って、止めたから。守ってくれたのかも」

 そう言うと、ひかりんは少しはにかんだように笑った。

「だったら、ちょっと嬉しいかも」

 彼女の笑顔に、私はそっと手を伸ばした。

 そして、彼女の指先を握る。

 冷たくて、でも安心できる、春の夕暮れの温度だった。



 後日。

 和室の棚の裏から、古い名簿が見つかった。

 それは、かつてこの和室で活動していた、演劇部のものだった。

 その中には、事故で亡くなった部員の名前が記されていたという。

 名簿に挟まれていた紙。

 そこには、滲んだ墨文字で、こう書かれていた。

《また、演じたい》
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