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第2章:黄金の瞳の覚醒 〜
第5話 深淵の夜の対峙
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執務室の重厚なオーク材の扉を叩くと、中からは地を這うような低い声が返ってきた。
「入れ」
マギーが足を踏み入れると、部屋の中は暖炉の火さえ消えかかり、凍てつくような緊張感に満ちていた。ヴィンセントは窓を背にし、未だに雪に濡れた外套を脱ぎもせず、暗闇の中に座っていた。その黄金の瞳だけが、獣のように鋭く発光している。
「……閣下。お嬢様は、ようやく深い眠りに落ちました」
ヴィンセントは顔を上げ、弾かれたように身を乗り出した。
「容体はどうだ。……意識ははっきりしているのか。スープは、私が飲ませた後も戻さずに受け付けたか?」
「ええ、スープはなんとか。意識もございます。ですが閣下……」
マギーはヴィンセントの正面に立つと、あえて声を冷たく響かせた。
「あのお子様は、用意した最高級の天蓋付きベッドを、まるで拷問器具か何かのように見て怯え、拒絶なさいました。結局、部屋の隅にある本棚と壁のわずかな隙間に逃げ込み、床で寝かせてくれと泣いて懇願されたのです。……今は無理やりベッドへ運び、見張りを付けましたが、あの子の魂に刻まれた傷は、我々が想像するよりもずっと深く、暗い場所にございますわ」
ヴィンセントの大きな手が、ぴくりと跳ねる。机の端を握りしめた指先が白く変色し、ミシリと木材が悲鳴を上げた。
「床で、だと……? このロゼレイドの広大な屋敷に、あの子が背中を預けられる場所が、そんな埃っぽい隙間しかないというのか」
「あの子にとって、広すぎる場所や清潔なシーツは安らぎではなく、身の丈に合わぬ贅沢をしたとして『罰』を与えられる前触れのような、恐怖の対象なのです。閣下、まずはあの子に、眠っても殺されないという事実を教え込むだけで、数ヶ月はかかるでしょう。……それを踏まえた上で、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
マギーは一歩踏み出し、逃げ場を塞ぐように問いかけた。
「なぜ、あの子を拾われたのですか?」
沈黙が部屋を支配する。ヴィンセントは視線を机の上に広がる書類に落としたが、その文字を追っているようには見えなかった。
「……規律と合理性を何よりも重んじ、無能を嫌悪する『帝国の死神』。その閣下が、どこの誰とも知れぬ、今にも消え入りそうな命を自ら抱き上げ、息子たちの問いさえ無視してこの屋敷に担ぎ込んだ。屋敷中の者が、閣下はついに狂われたのかと震え上がっております。何が閣下をそこまで突き動かしたのですか? 単なる憐れみで、閣下が動くとは思えません」
ヴィンセントは長く、重い溜息をついた。そして、折れた万年筆のインクで汚れ、血のように黒ずんだ自分の掌を見つめながら、ぽつりと漏らした。
「……可能性だ」
「可能性、でございますか?」
「ああ。あの日、あの吹雪の中で目があった瞬間……あの子は死を待つ敗北者の目ではなく、まだ世界に抗おうとする、凄まじく強い瞳をしていた。それだけではない」
ヴィンセントの瞳に、獲物を見つけた狩人のような昏い光が宿る。
「マーガレット、お前はあの子の**『瞳』**を見たか?」
マギーは一瞬言葉を詰め、静かに首を振った。
「いいえ。私が診たとき、お嬢様はひどく怯えて視線を彷徨わせておいででした。まともに目を合わせることなど、一度も……」
「そうか。ならばお前には、まだ分からなくて当然だ」
ヴィンセントは窓の外、荒れ狂う雪原を睨みつけながら続けた。
「私が馬を下り、あの子を抱き上げた瞬間だ。あの子の瞳が微かに青く明滅したかと思うと、周囲の吹雪の勢いが、ほんの一瞬だけ凪(な)いだ。……あれは、祈りなどという生易しいものではない。死の際(きわ)に立たされた命が、本能的に世界を捻じ曲げようとした――『異能』の萌芽だ」
マギーの背筋に、冷たい衝撃が走った。
帝国において、自然現象を操る力は、古の血脈を持つ高貴な家系に稀に現れるとされる。しかし、それは厳格な訓練を経て開花するものであり、死にかけた子供が無意識に発動させるなど、聞いたこともない。
「合理的ではないと言ったな、マーガレット。……だが、最高の素材を見つけ、それを自らの手で磨き上げ、唯一無二の剣に育て上げたいと思うのは、上に立つ者の本能だ。私はあの子の中に、この停滞したロゼレイドを、あるいは私の退屈な人生さえも変えてしまうほどの、底知れぬ可能性を感じたのだ」
ヴィンセントは冷酷な、けれどどこか歓喜に満ちた笑みを微かに浮かべた。
「今はまだ、泥にまみれた石ころにしか見えないだろう。だが、私があの子を拾った本当の意味……それがはっきりと分かる日が、いずれ必ず来る。その時、ロゼレイドの者たちは皆、私が拾い上げたものの正体に震え上がることになるだろうよ」
マギーは、主のその告白を、戦慄を覚えるとともに納得せざるを得なかった。この主(あるじ)は、やはり慈悲の人ではない。彼は、未来への「投資」をしているのだ。しかし、それが単なる計算であれば、あそこまで必死に、子供を冷えさせまいと自らの外套で包み込んだはずがない。
「……己の野心すらも揺さぶるほどの輝き、でございましたか。道理で、あんなにもなりふり構わず、息子たちの問いさえ無視して駆け込まれたわけですわ」
マギーはそこで、手元に持っていた診断記録と、あの子が着ていたボロ布を机に置いた。
「ですが閣下。その『可能性』を育むには、あまりに土壌が荒れ果てております。傷の具合を検めましたが、背中には重なるような鞭の跡。腕には古い火傷。そして深刻な飢餓……あれは教育でも躾でもない、ただの虐待です。あの子を捨てた者たちは、人間を育てていたのではなく、使い潰す道具として扱っていた。その事実が、あの子の能力への自覚さえも奪っているはずです」
ヴィンセントの手が、ミシリと音を立てて机をきしませた。
「……そんな体で、あの子は私に『働きます、役に立ちます』と縋ったのだ。己の価値を『使い潰されること』でしか測れないように、心を破壊されている。……あの子を捨てた者たちが誰であれ、私はそれ以上の地獄を味合わせてやるつもりだ」
「ええ。ですから閣下、あの子の可能性を形にするのは閣下の責任です。……閣下が、あの子を拾い上げ、ロゼレイドの名を与えると決めたのなら、焦ってはなりません。まずは、ここが安全な繭(まゆ)の中であることを教え込まねばなりません。そしてもう一点。廊下で混乱しているアルベルト様とジュリアン様に対しても、きちんとご自身の口でお話しくださいませ」
マギーの声が、一段と厳しさを増す。
「いつものような『黙って従え』という態度は、あの方々に不必要な不信感を生みます。あの子には、もう敵などいらないのです。阁下があの子を『希望』だと仰るのなら、まずは家族からそれを徹底させてくださいませ」
ヴィンセントは折れた万年筆をゴミ箱に捨て、深く椅子に背を預けた。彼の脳裏には、まだ、雪の中で自分を射抜いたあの小さな瞳の光が焼き付いている。
「……分かっている。マーガレット、明朝、全員を集めろ。息子たちも、使用人どもにもだ。ロゼレイドが、この子を何として守り、何を捧げるべきか。……私の口から直々に、二度と忘れられぬよう叩き込んでやる」
「――承知いたしました。では、明朝、その覚悟を屋敷中に示していただきましょう」
マギーは深く一礼し、静かに執務室を後にした。
廊下に出た彼女は、誰もいない闇に向かって、そっと独り言を漏らした。
「……瞳、でございますか。……私にも、いつか見せてくださるのかしらね。お嬢様」
執務室の中に残されたヴィンセントは、窓に映る自分の顔を見つめていた。その表情は、かつてないほどの期待と、守るべきものを得た者の、剥き出しの狂気に満ちていた
「入れ」
マギーが足を踏み入れると、部屋の中は暖炉の火さえ消えかかり、凍てつくような緊張感に満ちていた。ヴィンセントは窓を背にし、未だに雪に濡れた外套を脱ぎもせず、暗闇の中に座っていた。その黄金の瞳だけが、獣のように鋭く発光している。
「……閣下。お嬢様は、ようやく深い眠りに落ちました」
ヴィンセントは顔を上げ、弾かれたように身を乗り出した。
「容体はどうだ。……意識ははっきりしているのか。スープは、私が飲ませた後も戻さずに受け付けたか?」
「ええ、スープはなんとか。意識もございます。ですが閣下……」
マギーはヴィンセントの正面に立つと、あえて声を冷たく響かせた。
「あのお子様は、用意した最高級の天蓋付きベッドを、まるで拷問器具か何かのように見て怯え、拒絶なさいました。結局、部屋の隅にある本棚と壁のわずかな隙間に逃げ込み、床で寝かせてくれと泣いて懇願されたのです。……今は無理やりベッドへ運び、見張りを付けましたが、あの子の魂に刻まれた傷は、我々が想像するよりもずっと深く、暗い場所にございますわ」
ヴィンセントの大きな手が、ぴくりと跳ねる。机の端を握りしめた指先が白く変色し、ミシリと木材が悲鳴を上げた。
「床で、だと……? このロゼレイドの広大な屋敷に、あの子が背中を預けられる場所が、そんな埃っぽい隙間しかないというのか」
「あの子にとって、広すぎる場所や清潔なシーツは安らぎではなく、身の丈に合わぬ贅沢をしたとして『罰』を与えられる前触れのような、恐怖の対象なのです。閣下、まずはあの子に、眠っても殺されないという事実を教え込むだけで、数ヶ月はかかるでしょう。……それを踏まえた上で、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
マギーは一歩踏み出し、逃げ場を塞ぐように問いかけた。
「なぜ、あの子を拾われたのですか?」
沈黙が部屋を支配する。ヴィンセントは視線を机の上に広がる書類に落としたが、その文字を追っているようには見えなかった。
「……規律と合理性を何よりも重んじ、無能を嫌悪する『帝国の死神』。その閣下が、どこの誰とも知れぬ、今にも消え入りそうな命を自ら抱き上げ、息子たちの問いさえ無視してこの屋敷に担ぎ込んだ。屋敷中の者が、閣下はついに狂われたのかと震え上がっております。何が閣下をそこまで突き動かしたのですか? 単なる憐れみで、閣下が動くとは思えません」
ヴィンセントは長く、重い溜息をついた。そして、折れた万年筆のインクで汚れ、血のように黒ずんだ自分の掌を見つめながら、ぽつりと漏らした。
「……可能性だ」
「可能性、でございますか?」
「ああ。あの日、あの吹雪の中で目があった瞬間……あの子は死を待つ敗北者の目ではなく、まだ世界に抗おうとする、凄まじく強い瞳をしていた。それだけではない」
ヴィンセントの瞳に、獲物を見つけた狩人のような昏い光が宿る。
「マーガレット、お前はあの子の**『瞳』**を見たか?」
マギーは一瞬言葉を詰め、静かに首を振った。
「いいえ。私が診たとき、お嬢様はひどく怯えて視線を彷徨わせておいででした。まともに目を合わせることなど、一度も……」
「そうか。ならばお前には、まだ分からなくて当然だ」
ヴィンセントは窓の外、荒れ狂う雪原を睨みつけながら続けた。
「私が馬を下り、あの子を抱き上げた瞬間だ。あの子の瞳が微かに青く明滅したかと思うと、周囲の吹雪の勢いが、ほんの一瞬だけ凪(な)いだ。……あれは、祈りなどという生易しいものではない。死の際(きわ)に立たされた命が、本能的に世界を捻じ曲げようとした――『異能』の萌芽だ」
マギーの背筋に、冷たい衝撃が走った。
帝国において、自然現象を操る力は、古の血脈を持つ高貴な家系に稀に現れるとされる。しかし、それは厳格な訓練を経て開花するものであり、死にかけた子供が無意識に発動させるなど、聞いたこともない。
「合理的ではないと言ったな、マーガレット。……だが、最高の素材を見つけ、それを自らの手で磨き上げ、唯一無二の剣に育て上げたいと思うのは、上に立つ者の本能だ。私はあの子の中に、この停滞したロゼレイドを、あるいは私の退屈な人生さえも変えてしまうほどの、底知れぬ可能性を感じたのだ」
ヴィンセントは冷酷な、けれどどこか歓喜に満ちた笑みを微かに浮かべた。
「今はまだ、泥にまみれた石ころにしか見えないだろう。だが、私があの子を拾った本当の意味……それがはっきりと分かる日が、いずれ必ず来る。その時、ロゼレイドの者たちは皆、私が拾い上げたものの正体に震え上がることになるだろうよ」
マギーは、主のその告白を、戦慄を覚えるとともに納得せざるを得なかった。この主(あるじ)は、やはり慈悲の人ではない。彼は、未来への「投資」をしているのだ。しかし、それが単なる計算であれば、あそこまで必死に、子供を冷えさせまいと自らの外套で包み込んだはずがない。
「……己の野心すらも揺さぶるほどの輝き、でございましたか。道理で、あんなにもなりふり構わず、息子たちの問いさえ無視して駆け込まれたわけですわ」
マギーはそこで、手元に持っていた診断記録と、あの子が着ていたボロ布を机に置いた。
「ですが閣下。その『可能性』を育むには、あまりに土壌が荒れ果てております。傷の具合を検めましたが、背中には重なるような鞭の跡。腕には古い火傷。そして深刻な飢餓……あれは教育でも躾でもない、ただの虐待です。あの子を捨てた者たちは、人間を育てていたのではなく、使い潰す道具として扱っていた。その事実が、あの子の能力への自覚さえも奪っているはずです」
ヴィンセントの手が、ミシリと音を立てて机をきしませた。
「……そんな体で、あの子は私に『働きます、役に立ちます』と縋ったのだ。己の価値を『使い潰されること』でしか測れないように、心を破壊されている。……あの子を捨てた者たちが誰であれ、私はそれ以上の地獄を味合わせてやるつもりだ」
「ええ。ですから閣下、あの子の可能性を形にするのは閣下の責任です。……閣下が、あの子を拾い上げ、ロゼレイドの名を与えると決めたのなら、焦ってはなりません。まずは、ここが安全な繭(まゆ)の中であることを教え込まねばなりません。そしてもう一点。廊下で混乱しているアルベルト様とジュリアン様に対しても、きちんとご自身の口でお話しくださいませ」
マギーの声が、一段と厳しさを増す。
「いつものような『黙って従え』という態度は、あの方々に不必要な不信感を生みます。あの子には、もう敵などいらないのです。阁下があの子を『希望』だと仰るのなら、まずは家族からそれを徹底させてくださいませ」
ヴィンセントは折れた万年筆をゴミ箱に捨て、深く椅子に背を預けた。彼の脳裏には、まだ、雪の中で自分を射抜いたあの小さな瞳の光が焼き付いている。
「……分かっている。マーガレット、明朝、全員を集めろ。息子たちも、使用人どもにもだ。ロゼレイドが、この子を何として守り、何を捧げるべきか。……私の口から直々に、二度と忘れられぬよう叩き込んでやる」
「――承知いたしました。では、明朝、その覚悟を屋敷中に示していただきましょう」
マギーは深く一礼し、静かに執務室を後にした。
廊下に出た彼女は、誰もいない闇に向かって、そっと独り言を漏らした。
「……瞳、でございますか。……私にも、いつか見せてくださるのかしらね。お嬢様」
執務室の中に残されたヴィンセントは、窓に映る自分の顔を見つめていた。その表情は、かつてないほどの期待と、守るべきものを得た者の、剥き出しの狂気に満ちていた
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