44 / 46
第3章:広がる世界と、七歳の肖像
皇帝の執務室 ――名前という名の鍵
しおりを挟む
王宮の回廊に、軍靴の音が冷たく響く。
馬車を降りた瞬間、ヴィンセントは一歩遅れて歩く第一部隊長を振り返り、低く、這うような声で釘を刺した。
「……フェイ。真面目に仕事しろよ。」
「ひっ……!」
「お前がサボって情報を拾い損ねれば、それだけエレーナの不安を取り除くのが遅れると思え。これ以上醜態を晒すなら、今すぐ兵舎の地下に叩き込んで再教育してやる。いいな?」
「……ハッ! 直ちに本来の職務を遂行し、並行して蟻の這い出る隙間もないほど徹底的に情報を拾い集めます、閣下!」
フェイは、ジョエルに首根っこを掴まれるようにして執務室へと連行されていった。ヴィンセントはその背中を見送ることもなく、皇帝の執務室へと直行した。
王宮の最深部、皇帝の執務室。
重厚な黒檀の扉が閉ざされた瞬間、そこはもはや公的な政務の場ではなく、血を分けた「家族」の空間へと変貌した。
「ヴィンセント! お前、一体全体どういうつもりだ!」
皇帝が椅子を蹴らんばかりの勢いで立ち上がる。その顔には、帝国を統べる支配者の仮面はなく、弟を案じる「兄」としての焦燥が張り付いていた。
「昨日、お前が執務を放り出して血相を変えて帰宅したと聞いた。理由を聞こうとしたアルベルトを問い詰め、あの隠居された母上までが、まるで戦場に赴くような形相で屋敷へ向かったと……。穏やかに余生を過ごされている母上をそこまで動かすなど、一体何が起きたのだ!」
ヴィンセントは、兄の剣幕を真正面から受け止めながら、静かに机の前へと進んだ。
「……兄上。ご心配をおかけしました。ですが、本題の前に一つ、お尋ねしたいことがあります」
「なんだ? 申してみろ。お前の願いなら、私が聞き届けぬことなどない」
「ありがとうございます。……では。この帝国の貴族家で、『フェリミア』という名を持つ令嬢は、現在どの程度おられるでしょうか」
「……フェリミア?」
皇帝は、あまりに予想外な問いに眉を寄せた。
「……貴族の令嬢の名だと? そうだな、その名は帝国では決して珍しくはない。だが、高位貴族となれば話は別だ。……私の知る限り、今社交界でその名を持つのは一人。最近、あまりろくな噂を聞かないヴァルグレイ侯爵の、後妻が連れてきた娘だけだが。それがどうした?」
「ヴァルグレイ……」
ヴィンセントの瞳が、ふっと細められた。その奥に宿るのは、理性を焼き切るほどの冷徹な殺意。それを見た皇帝は、表情を氷のように鋭くした。
「……お前のその顔は、ただの興味ではないな。ヴァルグレイ家か。確かにあの一家については、不透明な金回りと、屋敷内の不自然な人の入れ替わりなど、妙な噂が絶えない。……ヴィンセント、何があった。お前がそこまで『名前』に固執する理由は何だ」
ヴィンセントは拳を固く握りしめ、低い声で話し始めた。
「……昨日の出来事をお話しします。私の娘、そして貴方の姪であるエレーナのことです。……あの子は昨日、突然のパニックに陥り、聞いたこともないはずのその名を……血を吐くような絶叫と共に口にしました」
「……エレーナが?」
「はい。町でヴァルグレイ侯爵夫人とその娘とすれ違ったときフェミリアと名前を聞いた時パニックに陥ったみたいなんです。二年前、雪の森であの子を拾ったあの日。あの子を無慈悲に虐げ、死を待つばかりの雪の中に捨て去った『誰か』の名を……恐怖と共に、思い出したのかもしれません」
皇帝の顔から、一切の表情が消えた。
エレーナはロゼレイドの血を引いていない。だが、二年前、ヴィンセントが拾って娘として育て、可愛がっていると噂で聞いていた。
ヴィンセント本人からみえる行動や母であるリサーナの溺愛ぶりをみてい皇帝だった。それ以来、彼女は皇帝にとっても、唯一無二の「姪」となっていた。
「……なるほど。隠居された母上がわざわざ動かれたのは、そういうことか。……フェリミア、そしてヴァルグレイ。ただの素行の悪い貴族だと思っていたが……まさか、我が弟が慈しむ娘を傷つけたのが奴らだと言うのだな」
皇帝の声が、低く地を這うように響く。
「許しはせんぞ。どのような理由があろうと、我が一族の平穏を奪った報いは受けさせる」
「ええ。ですが、確証が必要です。母上が仰るには、女性の交友関係や家族の仔細については、兄上よりも王妃様の方が詳しいかもしれない、と。……隠居した身では今の社交界の細かな毒までは拾い切れぬから、と仰っていました」
皇帝は深く頷き、力強くヴィンセントの肩を掴んだ。
「母上の仰る通りだ。社交界の深奥に流れる毒については、王妃の方が遥かに鼻が利く。……ヴィンセント、日にちが空いてしまうがすぐに手配しよう。お前が必要とする全ての情報を、王家の名にかけて暴き出させてやる」
「……感謝します、兄上」
「礼などいらん。お前が弟として私を支えてきたように、お前の怒りは私の怒りだ。……ヴィンセント、あの子を泣かせた者を、決して逃がすな。たとえ侯爵家であろうと、血の一滴まで後悔させてやれ」
「――承知いたしました。……根こそぎ、刈り取って参ります」
ヴィンセントは深く一礼し、執務室を後にした。その瞳には、最愛の娘を守る父親の情愛と、敵を殲滅する守護卿としての冷酷な意志が、共存していた。
馬車を降りた瞬間、ヴィンセントは一歩遅れて歩く第一部隊長を振り返り、低く、這うような声で釘を刺した。
「……フェイ。真面目に仕事しろよ。」
「ひっ……!」
「お前がサボって情報を拾い損ねれば、それだけエレーナの不安を取り除くのが遅れると思え。これ以上醜態を晒すなら、今すぐ兵舎の地下に叩き込んで再教育してやる。いいな?」
「……ハッ! 直ちに本来の職務を遂行し、並行して蟻の這い出る隙間もないほど徹底的に情報を拾い集めます、閣下!」
フェイは、ジョエルに首根っこを掴まれるようにして執務室へと連行されていった。ヴィンセントはその背中を見送ることもなく、皇帝の執務室へと直行した。
王宮の最深部、皇帝の執務室。
重厚な黒檀の扉が閉ざされた瞬間、そこはもはや公的な政務の場ではなく、血を分けた「家族」の空間へと変貌した。
「ヴィンセント! お前、一体全体どういうつもりだ!」
皇帝が椅子を蹴らんばかりの勢いで立ち上がる。その顔には、帝国を統べる支配者の仮面はなく、弟を案じる「兄」としての焦燥が張り付いていた。
「昨日、お前が執務を放り出して血相を変えて帰宅したと聞いた。理由を聞こうとしたアルベルトを問い詰め、あの隠居された母上までが、まるで戦場に赴くような形相で屋敷へ向かったと……。穏やかに余生を過ごされている母上をそこまで動かすなど、一体何が起きたのだ!」
ヴィンセントは、兄の剣幕を真正面から受け止めながら、静かに机の前へと進んだ。
「……兄上。ご心配をおかけしました。ですが、本題の前に一つ、お尋ねしたいことがあります」
「なんだ? 申してみろ。お前の願いなら、私が聞き届けぬことなどない」
「ありがとうございます。……では。この帝国の貴族家で、『フェリミア』という名を持つ令嬢は、現在どの程度おられるでしょうか」
「……フェリミア?」
皇帝は、あまりに予想外な問いに眉を寄せた。
「……貴族の令嬢の名だと? そうだな、その名は帝国では決して珍しくはない。だが、高位貴族となれば話は別だ。……私の知る限り、今社交界でその名を持つのは一人。最近、あまりろくな噂を聞かないヴァルグレイ侯爵の、後妻が連れてきた娘だけだが。それがどうした?」
「ヴァルグレイ……」
ヴィンセントの瞳が、ふっと細められた。その奥に宿るのは、理性を焼き切るほどの冷徹な殺意。それを見た皇帝は、表情を氷のように鋭くした。
「……お前のその顔は、ただの興味ではないな。ヴァルグレイ家か。確かにあの一家については、不透明な金回りと、屋敷内の不自然な人の入れ替わりなど、妙な噂が絶えない。……ヴィンセント、何があった。お前がそこまで『名前』に固執する理由は何だ」
ヴィンセントは拳を固く握りしめ、低い声で話し始めた。
「……昨日の出来事をお話しします。私の娘、そして貴方の姪であるエレーナのことです。……あの子は昨日、突然のパニックに陥り、聞いたこともないはずのその名を……血を吐くような絶叫と共に口にしました」
「……エレーナが?」
「はい。町でヴァルグレイ侯爵夫人とその娘とすれ違ったときフェミリアと名前を聞いた時パニックに陥ったみたいなんです。二年前、雪の森であの子を拾ったあの日。あの子を無慈悲に虐げ、死を待つばかりの雪の中に捨て去った『誰か』の名を……恐怖と共に、思い出したのかもしれません」
皇帝の顔から、一切の表情が消えた。
エレーナはロゼレイドの血を引いていない。だが、二年前、ヴィンセントが拾って娘として育て、可愛がっていると噂で聞いていた。
ヴィンセント本人からみえる行動や母であるリサーナの溺愛ぶりをみてい皇帝だった。それ以来、彼女は皇帝にとっても、唯一無二の「姪」となっていた。
「……なるほど。隠居された母上がわざわざ動かれたのは、そういうことか。……フェリミア、そしてヴァルグレイ。ただの素行の悪い貴族だと思っていたが……まさか、我が弟が慈しむ娘を傷つけたのが奴らだと言うのだな」
皇帝の声が、低く地を這うように響く。
「許しはせんぞ。どのような理由があろうと、我が一族の平穏を奪った報いは受けさせる」
「ええ。ですが、確証が必要です。母上が仰るには、女性の交友関係や家族の仔細については、兄上よりも王妃様の方が詳しいかもしれない、と。……隠居した身では今の社交界の細かな毒までは拾い切れぬから、と仰っていました」
皇帝は深く頷き、力強くヴィンセントの肩を掴んだ。
「母上の仰る通りだ。社交界の深奥に流れる毒については、王妃の方が遥かに鼻が利く。……ヴィンセント、日にちが空いてしまうがすぐに手配しよう。お前が必要とする全ての情報を、王家の名にかけて暴き出させてやる」
「……感謝します、兄上」
「礼などいらん。お前が弟として私を支えてきたように、お前の怒りは私の怒りだ。……ヴィンセント、あの子を泣かせた者を、決して逃がすな。たとえ侯爵家であろうと、血の一滴まで後悔させてやれ」
「――承知いたしました。……根こそぎ、刈り取って参ります」
ヴィンセントは深く一礼し、執務室を後にした。その瞳には、最愛の娘を守る父親の情愛と、敵を殲滅する守護卿としての冷酷な意志が、共存していた。
8
あなたにおすすめの小説
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
【完結】ある二人の皇女
つくも茄子
ファンタジー
美しき姉妹の皇女がいた。
姉は物静か淑やかな美女、妹は勝気で闊達な美女。
成長した二人は同じ夫・皇太子に嫁ぐ。
最初に嫁いだ姉であったが、皇后になったのは妹。
何故か?
それは夫が皇帝に即位する前に姉が亡くなったからである。
皇后には息子が一人いた。
ライバルは亡き姉の忘れ形見の皇子。
不穏な空気が漂う中で謀反が起こる。
我が子に隠された秘密を皇后が知るのは全てが終わった時であった。
他のサイトにも公開中。
どうぞお好きに
音無砂月
ファンタジー
公爵家に生まれたスカーレット・ミレイユ。
王命で第二王子であるセルフと婚約することになったけれど彼が商家の娘であるシャーベットを囲っているのはとても有名な話だった。そのせいか、なかなか婚約話が進まず、あまり野心のない公爵家にまで縁談話が来てしまった。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
奪われ系令嬢になるのはごめんなので逃げて幸せになるぞ!
よもぎ
ファンタジー
とある伯爵家の令嬢アリサは転生者である。薄々察していたヤバい未来が現実になる前に逃げおおせ、好き勝手生きる決意をキメていた彼女は家を追放されても想定通りという顔で旅立つのだった。
“いつまでも一緒”の鎖、貴方にお返しいたします
柊
ファンタジー
男爵令嬢エリナ・ブランシュは、幼馴染であるマルグリット・シャンテリィの引き立て役だった。
マルグリットに婚約が決まり開放されると思ったのも束の間、彼女は婚約者であるティオ・ソルベに、家へ迎え入れてくれないかというお願いをする。
それをティオに承諾されたエリナは、冷酷な手段をとることを決意し……。
※複数のサイトに投稿しております。
私の、虐げられていた親友の幸せな結婚
オレンジ方解石
ファンタジー
女学院に通う、女学生のイリス。
彼女は、親友のシュゼットがいつも妹に持ち物や見せ場を奪われることに怒りつつも、何もできずに悔しい思いをしていた。
だがある日、シュゼットは名門公爵令息に見初められ、婚約する。
「もう、シュゼットが妹や両親に利用されることはない」
安堵したイリスだが、親友の言葉に違和感が残り…………。
王太子妃が我慢しなさい ~姉妹差別を受けていた姉がもっとひどい兄弟差別を受けていた王太子に嫁ぎました~
玄未マオ
ファンタジー
メディア王家に伝わる古い呪いで第一王子は家族からも畏怖されていた。
その王子の元に姉妹差別を受けていたメルが嫁ぐことになるが、その事情とは?
ヒロインは姉妹差別され育っていますが、言いたいことはきっちりいう子です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる