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後編
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急いで室内に戻ると、殿下は瓶を棚に戻した。少し眉を下げてこちらを見ている。身長のせいか見下げてしまうのが恐れ多くて膝を折ろうとすると、手を掲げられて止められた。
「友人に泣きつかれましてね。王女としてここに来たわけではありません、膝は折らずそのままで。」
「ですが」
「突然訪問した身で申し訳ないですが、公務の合間であまり時間がないのです。手短に。いいですね。」
狼狽えるカラカテの両手が握られた。驚愕で思わず引き剥がそうとすると、思ったよりも力強く押しとどめられる。強く握られて、カラカテはハッとした。ほっそりとした手は、大きなペンだこのある、手まめの硬い痕がいくつもある手だった。
思わず顔を上げると、真っすぐこちらを見つめる人がいた。全てを見透かすような大きな目が、何かを問いかけるようにちっぽけなカラカテを見ていた。
「カラカテ、よろしいですか。わたくしにも、貴方にも、ヴァンにもエルにも役割があります。違うのはその役割を自分で決めるか、他人に決められるかだけなのです。貴方はどちらがよいですか。」
「僕は…。」
「よく考えなさい。どちらを選ぶにしても、貴方が選択した事実が大事なのです。大丈夫、貴方はあれが持ち帰ってまできた人。きっと最良の答えを出すことができるはずです。」
最良の答え。本当に自分に出せるのだろうか。今だってこのままでもいいのではないかと思う気持ちがあるというのに。
今のままでは良くないと言う自分と、このままで良い思う自分の両方がいて吐きそうになる。
何と答えたらいいか分からないカラカテの手がもう一度強く握られる。目をそらしかけていた場所に立派な方がいる。こちらを引っ張り上げるような優しさがあった。カラカテは目の前の貴い人に助言を求めることにした。
「もし答えを出せなかったら、その時はどうすれば…」
「周りを頼るのです。ヴァレルディンは当事者ですから…そうですね…エルドゲルニアを頼ってごらんなさい。」
「このような話は、お嫌では…」
「カラカテ、わたくしの友人を侮らないでくださいな。彼は貴方を見捨てません、絶対に。」
きっと、その友人の中にはヴァン様も含まれるのだろう。エルドゲルニア様に助言を求めるということは、施設に行く必要がある。カラカテはヴァレルディンに話をしなくてはいけなかった。それをこの方だってわかっている。
わかっていて絶対に大丈夫だと仰っている。カラカテは確かに頷いた。王女殿下は強く握っていた手を柔らかく離した。杖を取り出して殿下自身に向けながら、ちょっといたずらっぽく笑った。
「エルを許してね。素直じゃないだけなの、あの人。」
エルドゲルニア様に会いに行きたいと言うと、ヴァン様は真顔で固まった。うろうろと手を彷徨わせ、結局どこも掴まず落とされる。何かを言おうとしては口を閉じ、眉が顰められ、目がそらされた。
連れて行きたくないんだろうな。今すぐ理由を聞いて労わりたかったが、カラカテは黙ってヴァレルディンの言葉を待った。
「…もし、仕事のことを気にしているなら大丈夫だ。俺から言っておく。」
「そうだとしても不義理が過ぎます。」
「連れて行きたくないと言ったら?」
「そこのテラスから降りて勝手に行きます。道はもう覚えています、歩いて1時間くらいでしょうか。」
「そんな事させられるわけないじゃないか。」
眉を下げてうなだれるヴァレルディンを見て、カラカテはホッとした。ちゃんと言えた、意見を。
そういえば、ヴァン様はカラカテの言うことにちゃんと耳を傾けてくれる人じゃないか。どうしてそのことを忘れていたんだ。カラカテは小屋での出来事を思い出した。ヴァレルディンは会った時からずっと、結局カラカテの言葉を最後まで聞いて飲み込んでくれる人だった。
謝るように礼を言うと、困り切った顔で受け取られた。
翌日の朝、施設に向かう馬車でカラカテはずっとヴァレルディンの手を握っていた。安心させるように握っても、ずっと不安そうな顔をしている。
ちゃんと相談しよう。自分とこの人のために。自分とヴァレルディン以外の、信頼できる誰かの意見が必要だ。車窓からの景色に施設の端が移りこんできた。日が明るく、少し暑い空気が入り込んだ。
「来たな。」
「な、がい間顔も見せず、申し訳ありません。」
「いい。こうなることも予想はしていたからな。」
久しぶりにやって来た職場は、相変わらず雑多に書類が積まれていた。それでも汚いというわけでは無く、ある一定の規則性が保たれていて、やはり今までの自分の仕事は建前だったのだなときちんと理解した。
理解しても落ち込んでいない自分がいる。気を張っているからだろうか。カラカテはまだエルドゲルニアが少し怖かった。いくら王女殿下に素直ではない人だと言われても、理解するには関りが薄かった。
いつかの面談で使われた席を指し示される。恐る恐る席に着こうとすると、思わずと言った風に手首を掴まれた。ヴァン様だった。掴んだ手首をすぐに離すと、それでも何か言いたげにカラカテを見ている。
対面の席に着いたエルドゲルニア様は、魔法で2人分の紅茶を用意しながら顔も上げずに言い放った。
「おいヴァレルディン、まさかお前俺まで信用できなくなったのか。」
「そん…。」
「いい加減にしろ、本当に見放すぞ。わかったらさっさと仕事に行け、お前は殿下に働きで返さないといけないものが多すぎる。」
しっしっとエルドゲルニア様に手で追い払われると、ヴァン様は一度カラカテを見て、そのまま名残惜しそうに引き返していった。
残されたカラカテが席に着くと、はあと大きなため息をつかれた。膝の上でグッと手を握っていると、1杯の紅茶が差し出された。小さく礼を言って受け取ると、エルドゲルニア様は自分の分をまるで水のようにグイと飲み干してすぐさまもう1杯注ぎ足した。
「で?ちゃんと話せたのか。」
「その…あまり、ちゃんとは、恐らく話せていません。すみません。」
「1カ月もあっただろう。何があった。」
「ええと…い、つのまにか、その、軟禁のような形になっていて…ヴァン様以外と会わずにそのまま部屋に居ました…。」
「はあ!?…あいつは君になんと言っていた。」
「そ、傍にいればそれでいいと…」
お茶がまた飲み干されてカチャンと置かれた。腕を組んだエルドゲルニア様は静かな顔をしている。顎に拳を置いて何かを考え込んでいると思ったら、スッとこちらを見た。どこか、殿下に似た面差しだった。
「やはり不健全だな。図太いと思っていたが、今回はさすがに堪えたか。さもありなん。お前はそう言われてどう思ったんだ。」
「えーと…その、いいかなって。…思ってしまったんです。」
「異常だな。なぜいいと思ったんだ。」
「ヴァ、ヴァン様がそうしたいならいいかなと。」
「君の意志は?それではまるでヴァンが言うから従ったかのようだが。」
「いえ、そんな、…いや、それもあるんです。僕はただあの人の傍にいたいんです。だからいろと言われた場所にいて、あの人の傍に居られるならそれで」
「いいと思っているのか、君は。」
ずっとそう問いかけられていたんだ。カラカテは視界が広がった。ここに来てからヴァレルディンと自分をずっと気にかけてくれていた人の顔を見た。怖いと思っていた人は、その実ずっと静かにカラカテを見ていた。
ヴァン様はやっぱり運がいい人だ。素晴らしい人間の友人が2人もいる。カラカテはヴァレルディンが羨ましかった。カラカテにはついぞできなかったものを、ヴァレルディンは2人も持っていた。
「思っていないからこんな相談をしているはずだ。もうわかっているだろう、君たちの冬は終わったんだ。ずっとは続かない。もしかしたら続けられるかもしれないが、それはきっと寒々しく寂しいものになるだろう。2人きりの孤独の中に、俺は友人を捨て置けない。」
「はい。」
「君のこともそうだ。共に仕事をし、飯を食った人間のことを見捨てるほど冷血漢になったつもりはない。そんな風なら俺はこの場所にはいられなかった。あいつが君を無理やり閉じ込めるというなら、殿下と共にあいつを殴って止める。」
「はい。」
「君が本当に相談したいことはなんだ。カラカテ、君の願いは何だ。」
僕の願い。あの雪に覆われた土地で見た、優しい笑顔を思い出した。一番近くで笑っているところが見たいと、確かに願ったのだ。
「僕は、…私は、あの人に笑っていて欲しいんです。だけどこのままでは叶わない。ヴァレウ、ディン様も私もどんどん情緒がおかしくなっている。けど…恥ずかしながらどうすればいいのか分からないのです。知恵を貸してください。お願いします。」
「そんなもの決まっている。学習、経験、実績、これにつきる。」
頭を下げた僕を余所に、エルドゲルニア様はずかずかとどこかに歩いて行った。そして戻ってくると、ティーポットを雑にずらしてバサリと冊子をいくつかテーブルに広げた。
「これは南の図書館の事務員補佐の募集、未経験者でも大丈夫、学習時間あり。これは西の魔法研究所の記録補佐、魔法未使用者歓迎、学習時間あり。これは…」
「あ、あの、エルドゲルニア様、早い、早いです。」
「慣れろ。いいか、今の君がそんななのは自信がないからだ。能力が高いにも関わらず何があったか知らんが驚くほど内向的、萎縮的、そして自罰的。魔法が使えないことを極端に卑下しているが、そんなもの五万といる、見てきただろう。見てきたにも関わらずそんななのは自信がないからだ。」
「えっと、あの。」
「その言い詰まる癖も直すんだ、侮られる。カラカテ、俺はこの時を待っていたんだ。殿下に散々言い含められてきたからな、お前が言い出すまで待てと!ああ長かった!!」
「それはどういう…」
「当然お前たちのそのふざけた湿った空気を粉砕する時をだ!!」
「えっ」
テーブルにパァンと冊子を叩きつけると、吐き捨てるようにエルドゲルニア様がまた起ちあがった。ずかずかと部屋の奥の方に行くと、ガラガラと黒板を押してくる。たまに部屋の中央にあることがあるなと思ったものは、こういう使われ方をしていたらしい。
冊子がいくつも黒板に張り付けられ、一つ一つの横にカカカカカと何かが書き込まれていく。どういうところがおすすめか、どういうところがカラカテの適性に合っているか。事細かに書かれていく。
素直じゃない。なるほど。王女殿下のいたずらっぽい笑顔が腑に落ちた。
その日は昼過ぎまでずっとエルドゲルニア様による学習、経験、実績の作り方講座が開かれた。内容を総括すると、「とりあえずお前は学校に行きながら働け」だった。
「金のことは気にするな。君を拾ってきたやつが責任を持って出すからな。それでも気が引けるなら働いて稼いで返すことだ。」
「はい。」
「いいか、あいつになにかを与えたいならとにかく今の共依存関係から抜け出せ。距離を取れ。少し離れた場所からもう一度あいつと関係を築くんだ。まあ別に今の状態が酷いとも思わんがな、お互いの合意があれば。だが違うんだろう?」
「はい。私も、恐らくヴァレ、ウディン様も本意ではありません。」
「よし。その名前を噛みそうになるのも直すんだ。愛称で呼んではいけない場面はいくらでもある。直せ。」
「はい。」
西日になりかけている日がカーテン越しに柔らかく入ってくる。黒板の影が伸びた。ようやく席に着いたエルドゲルニア様は、冷めた茶で喉を潤した。
「悪かったな、恋や愛ではないなどと言って。愛はあるようだな、辛うじて。」
「…意外です。エルドゲルニア様はその…こういった話はお嫌いかと…」
「知らないのか、貴族は往々にしてロマンチストだ。」
「そうなんですか。」
「冗談だ。街に放り出された哀れな村人の話くらい聞いてやろうと思っただけだ。」
言い回しがかなりロマンチストな気がする。少し打ち解けた気がしたカラカテがちょっと揶揄おうかと思った時、思ったよりも静かな顔をした人が、窓越しに遠くを見た。
「誰かと共に生きたいなら、背筋を伸ばしてシャンと立つんだ。」
静かに言うエルドゲルニア様は、ずっと遠くを見ていた。王城のある方角だった。
迎えに来たヴァン様は、エルドゲルニア様とカラカテを見比べながら、そろそろと手を差し出してきた。何かを怖がっている様子だった。手を取って、握られる前に強く握る。手を握られることは思ったよりも安心することなのだと、王女殿下に教えていただいた。
エルドゲルニア様が後ろから呆れたようにずいと何かを差し出してきた。冊子がいくつか入った紙袋だった。今日一日中カラカテとエルドゲルニアが使っていた冊子だった。
「受け取れヴァレルディン、お前も読むんだ。」
「すまない。」
「お前も殿下も本当に手がかかる。俺がついていてやらんと何をしでかすか。」
「…ありがとう。」
「全くだ。いいか、こういうのが信頼だ。思い出したか阿呆。」
屋敷に戻ると、ヴァン様は着替えてそのまま冊子を読み始めた。カラカテも着替えると、台所へ一人で歩いていく。夕飯には向かないが片手で食べられそうなものがいくつかあったので、茶の用意をしてそれらも部屋に持ち帰る。
もしかしてあの人、集中すると腹がすいていることに気が付かないのでは。小屋での出来事を思い返しながらテーブルに置く。読み終わったであろう冊子が既に2冊積まれていた。
「ヴァン様、読みながらで良いので何かつまんでください。そんなんじゃあ体を壊します。」
「あ?あ、ああ、ありがとう。」
温め直したサンドを食べながら、ヴァン様がまた冊子を読んでいく。カラカテも軽く食事をしながら、じっと待った。
全ての冊子が積み上げられた頃、もう夜も更けていた。ヴァン様はソファの背もたれに顔を預けて上を見ている。カラカテはそれをじっと見ていた。部屋の明かりがジージーと音がするようだった。
「君はここを出ていくのか。」
「はい。お金はヴァン様に借りろとエルドゲルニア様が。借していただけますか。」
「そんなものいくらでも出す。返さなくてもいい。」
「返します。必ず。」
「…。」
片手が顔に置かれた。そのまま上体を持ち上げた人は、今度はうなだれるように背を丸めて座っていた。相変わらずヴァン様の目元は隠されたままで、どんな顔をしているか分からなかった。
「弱音を吐いてもいいか。」
「はい。」
「俺は、君に出ていってほしくない。君にここに居続けて欲しい。目に届くところにずっといて欲しい。叶うことなら、本当は働いても欲しくない。君が確かに優秀だと知っているはずなのに。人間が俺しかいない場所で、誰ともかかわらずいて欲しい。あの小屋のように。」
言いながらゆっくりとこちらに向き直ったヴァン様は、俯いたままカラカテの両手を両手で包んだ。
そんなことを考えていたのか。けれどもカラカテは納得した。間違いなく本心なのだろう。ヴァン様のここ最近の、それどころかカラカテが働き始めてからの行動がその証明だった。
欠かさず送り迎えをし、人を出来るだけ払い、最終的にはカラカテを閉じ込めてしまった。最初はまだ我慢できていたのだろう。職も紹介できたし、街にだって連れ出せた。それが出来なくなってしまった。カラカテが理性的な考えが難しくなったように。
「君が誰かと関わって、俺を裏切るのではないかと思うと死にたくなる。そんな、君に対して失礼極まりないことを思ってしまう自分にも泣きたくなる。けど恐ろしくて仕方がない。こんなことは初めてだ。」
ぐうと両手を握る手に力がこもる。上からの光を受けて、前髪が目元に深い影を作っている。手元を見るヴァン様は、初めて会った時のような亡羊とした声をしていた。
「君に失望したくないんだ…妹のように。」
「…はい。」
世を憂わない人が、カラカテの喪失を憂いている。誇りと労りがカラカテの喉につっかかる。このまま2人で雪に覆われた小さな小屋に戻ることだってできるだろう。それがヴァレルディンとカラカテにとって最も簡単な理想郷だと2人とも知っている。
だけどこの人をあの小屋へ戻すわけにはいかない。カラカテはもう、ヴァレルディンが人に囲まれ賞賛される姿を知ってしまった。この人をちっぽけな場所に収めるわけにはいかなかった。
きっとこの人もそういう葛藤の真っただ中なのだろう。カラカテはヴァレルディンに想われることを誇りに思った。今はまだ大した存在でもないカラカテを、ヴァレルディンは思いやってくれている。奮い立つ理由には十分だった。
「約束します、失望させないと。信じなくていいので見ていてください。貴方にふさわしい人間になるところを見ていてください。」
「いつか、信じきれなくて君を閉じ込めるかもしれなくても?」
「そうかもしれませんね。貴方も僕も、どうもおかしいみたいですから。」
お互いあの雪に埋もれた小屋で2人しておかしくなってしまった。2人だけではきっとだめになるのだろう。容易に想像できた。想像できるようになった。それでもカラカテには大丈夫だと信じられるものができた。
「もしそうなっても、貴方のご友人方が必ず止めてくれます。僕はこの街に来て、王女殿下のご卓見を知りました。エルドゲルニア様の献身を知りました。貴方が崩れようとも、あの方々が必ず貴方を支えてくださるはずだ。」
「君は?」
「今の僕は貴方の傍にいたいだけの人間ですから。そんな都合のいい話、最後には喜んで乗ってしまう。」
「…。」
「だから今は離れます。3年ください。僕も貴方を引っ張り上げられるくらい、背筋の伸びた男になって戻ってくると約束します。貴方と共に生きていくために、シャンと立ってみせます。どうか見ていてください、ヴァレルディン様。」
掴まれていた両手をはがして、浮かんだヴァン様の両手を包み込む。ぐっと掴んで持ち上げる。信じなくていいから見て欲しかった。持ち帰った拾い物が事実素晴らしいものになるところを見ていて欲しかった。
「…ほんと、君はかっこいいな。」
苦笑したヴァン様は掴まれた両手を祈るように額にあてた。僕は少し震えている手を強く握った。
「今生の別れでもないのに大げさな。会いたければ会いにくればいいだけだろう。」
「家に帰ったら居るのと居ないのとじゃ話が全然違うんだ。」
「はいはいそりゃ大変だな。」
やれやれとエルドゲルニア様はあたりを見回すと、カラカテとヴァレルディンの繋がれた手を手刀で切り離した。恨めし気なヴァレルディンを無視してカラカテを見てくる。新しい学校と職場に、時間を割いてわざわざ紹介でついて来てくださっていた。
「新居はここら辺に?」
「はい、ヴァレルディン様と選びました。」
「ふん、まあそれなりに治安もいい。悪くないんじゃないか。よく考えたじゃないか、ヴァレルディンもお前も。」
「ありがとうございます。」
カラカテは南の図書館の事務員補佐につくことになった。学校に通いながらの勤務で、文字に苦のなさそうな様子からエルドゲルニア様が選んでくださった職だった。
ヴァレルディンは悔しそうに賛成していた。何を悔しがっているのか聞くと、自分よりカラカテを理解していそうなところが忌々しいとのことだった。僕と似たような嫉妬をしていてちょっと笑ってしまった。
「そろそろ行くぞ、先方を待たせてしまう。初出勤には10分前にはついて身なりを整えておくこと。覚えておけ。」
「はい。ではヴァン様、僕はもう行きます。…約束、必ず守ります。見ていてください。」
「ああ…。」
右手を差し出す。ヴァン様からもらった指輪は結局付けてきたままで来た。これを付けて必ず3年後に帰ろう。3年でどれだけいけるか分からないが、必ず今よりも良い姿で帰って来よう。何かいいものを持ってこの人のところに。何がいいかは、まだわからないが。
差し出した手が軽く握られて、離された。名残惜しそうにしていた人は、カラカテの表情を見ると、ハッとしたように笑ってその場から消えた。魔法だった。ちかちかと光る粒子が少し残っていた。
3年後の夏、カラカテは二つの指輪と、協力者に自分の名前が載った一つの書籍を持ち帰ってヴァレルディンの元へ帰ることになる。指輪は魔石で作られていて、左手薬指に嵌められたヴァレルディンは笑いながらカラカテを抱きかかえた。
「友人に泣きつかれましてね。王女としてここに来たわけではありません、膝は折らずそのままで。」
「ですが」
「突然訪問した身で申し訳ないですが、公務の合間であまり時間がないのです。手短に。いいですね。」
狼狽えるカラカテの両手が握られた。驚愕で思わず引き剥がそうとすると、思ったよりも力強く押しとどめられる。強く握られて、カラカテはハッとした。ほっそりとした手は、大きなペンだこのある、手まめの硬い痕がいくつもある手だった。
思わず顔を上げると、真っすぐこちらを見つめる人がいた。全てを見透かすような大きな目が、何かを問いかけるようにちっぽけなカラカテを見ていた。
「カラカテ、よろしいですか。わたくしにも、貴方にも、ヴァンにもエルにも役割があります。違うのはその役割を自分で決めるか、他人に決められるかだけなのです。貴方はどちらがよいですか。」
「僕は…。」
「よく考えなさい。どちらを選ぶにしても、貴方が選択した事実が大事なのです。大丈夫、貴方はあれが持ち帰ってまできた人。きっと最良の答えを出すことができるはずです。」
最良の答え。本当に自分に出せるのだろうか。今だってこのままでもいいのではないかと思う気持ちがあるというのに。
今のままでは良くないと言う自分と、このままで良い思う自分の両方がいて吐きそうになる。
何と答えたらいいか分からないカラカテの手がもう一度強く握られる。目をそらしかけていた場所に立派な方がいる。こちらを引っ張り上げるような優しさがあった。カラカテは目の前の貴い人に助言を求めることにした。
「もし答えを出せなかったら、その時はどうすれば…」
「周りを頼るのです。ヴァレルディンは当事者ですから…そうですね…エルドゲルニアを頼ってごらんなさい。」
「このような話は、お嫌では…」
「カラカテ、わたくしの友人を侮らないでくださいな。彼は貴方を見捨てません、絶対に。」
きっと、その友人の中にはヴァン様も含まれるのだろう。エルドゲルニア様に助言を求めるということは、施設に行く必要がある。カラカテはヴァレルディンに話をしなくてはいけなかった。それをこの方だってわかっている。
わかっていて絶対に大丈夫だと仰っている。カラカテは確かに頷いた。王女殿下は強く握っていた手を柔らかく離した。杖を取り出して殿下自身に向けながら、ちょっといたずらっぽく笑った。
「エルを許してね。素直じゃないだけなの、あの人。」
エルドゲルニア様に会いに行きたいと言うと、ヴァン様は真顔で固まった。うろうろと手を彷徨わせ、結局どこも掴まず落とされる。何かを言おうとしては口を閉じ、眉が顰められ、目がそらされた。
連れて行きたくないんだろうな。今すぐ理由を聞いて労わりたかったが、カラカテは黙ってヴァレルディンの言葉を待った。
「…もし、仕事のことを気にしているなら大丈夫だ。俺から言っておく。」
「そうだとしても不義理が過ぎます。」
「連れて行きたくないと言ったら?」
「そこのテラスから降りて勝手に行きます。道はもう覚えています、歩いて1時間くらいでしょうか。」
「そんな事させられるわけないじゃないか。」
眉を下げてうなだれるヴァレルディンを見て、カラカテはホッとした。ちゃんと言えた、意見を。
そういえば、ヴァン様はカラカテの言うことにちゃんと耳を傾けてくれる人じゃないか。どうしてそのことを忘れていたんだ。カラカテは小屋での出来事を思い出した。ヴァレルディンは会った時からずっと、結局カラカテの言葉を最後まで聞いて飲み込んでくれる人だった。
謝るように礼を言うと、困り切った顔で受け取られた。
翌日の朝、施設に向かう馬車でカラカテはずっとヴァレルディンの手を握っていた。安心させるように握っても、ずっと不安そうな顔をしている。
ちゃんと相談しよう。自分とこの人のために。自分とヴァレルディン以外の、信頼できる誰かの意見が必要だ。車窓からの景色に施設の端が移りこんできた。日が明るく、少し暑い空気が入り込んだ。
「来たな。」
「な、がい間顔も見せず、申し訳ありません。」
「いい。こうなることも予想はしていたからな。」
久しぶりにやって来た職場は、相変わらず雑多に書類が積まれていた。それでも汚いというわけでは無く、ある一定の規則性が保たれていて、やはり今までの自分の仕事は建前だったのだなときちんと理解した。
理解しても落ち込んでいない自分がいる。気を張っているからだろうか。カラカテはまだエルドゲルニアが少し怖かった。いくら王女殿下に素直ではない人だと言われても、理解するには関りが薄かった。
いつかの面談で使われた席を指し示される。恐る恐る席に着こうとすると、思わずと言った風に手首を掴まれた。ヴァン様だった。掴んだ手首をすぐに離すと、それでも何か言いたげにカラカテを見ている。
対面の席に着いたエルドゲルニア様は、魔法で2人分の紅茶を用意しながら顔も上げずに言い放った。
「おいヴァレルディン、まさかお前俺まで信用できなくなったのか。」
「そん…。」
「いい加減にしろ、本当に見放すぞ。わかったらさっさと仕事に行け、お前は殿下に働きで返さないといけないものが多すぎる。」
しっしっとエルドゲルニア様に手で追い払われると、ヴァン様は一度カラカテを見て、そのまま名残惜しそうに引き返していった。
残されたカラカテが席に着くと、はあと大きなため息をつかれた。膝の上でグッと手を握っていると、1杯の紅茶が差し出された。小さく礼を言って受け取ると、エルドゲルニア様は自分の分をまるで水のようにグイと飲み干してすぐさまもう1杯注ぎ足した。
「で?ちゃんと話せたのか。」
「その…あまり、ちゃんとは、恐らく話せていません。すみません。」
「1カ月もあっただろう。何があった。」
「ええと…い、つのまにか、その、軟禁のような形になっていて…ヴァン様以外と会わずにそのまま部屋に居ました…。」
「はあ!?…あいつは君になんと言っていた。」
「そ、傍にいればそれでいいと…」
お茶がまた飲み干されてカチャンと置かれた。腕を組んだエルドゲルニア様は静かな顔をしている。顎に拳を置いて何かを考え込んでいると思ったら、スッとこちらを見た。どこか、殿下に似た面差しだった。
「やはり不健全だな。図太いと思っていたが、今回はさすがに堪えたか。さもありなん。お前はそう言われてどう思ったんだ。」
「えーと…その、いいかなって。…思ってしまったんです。」
「異常だな。なぜいいと思ったんだ。」
「ヴァ、ヴァン様がそうしたいならいいかなと。」
「君の意志は?それではまるでヴァンが言うから従ったかのようだが。」
「いえ、そんな、…いや、それもあるんです。僕はただあの人の傍にいたいんです。だからいろと言われた場所にいて、あの人の傍に居られるならそれで」
「いいと思っているのか、君は。」
ずっとそう問いかけられていたんだ。カラカテは視界が広がった。ここに来てからヴァレルディンと自分をずっと気にかけてくれていた人の顔を見た。怖いと思っていた人は、その実ずっと静かにカラカテを見ていた。
ヴァン様はやっぱり運がいい人だ。素晴らしい人間の友人が2人もいる。カラカテはヴァレルディンが羨ましかった。カラカテにはついぞできなかったものを、ヴァレルディンは2人も持っていた。
「思っていないからこんな相談をしているはずだ。もうわかっているだろう、君たちの冬は終わったんだ。ずっとは続かない。もしかしたら続けられるかもしれないが、それはきっと寒々しく寂しいものになるだろう。2人きりの孤独の中に、俺は友人を捨て置けない。」
「はい。」
「君のこともそうだ。共に仕事をし、飯を食った人間のことを見捨てるほど冷血漢になったつもりはない。そんな風なら俺はこの場所にはいられなかった。あいつが君を無理やり閉じ込めるというなら、殿下と共にあいつを殴って止める。」
「はい。」
「君が本当に相談したいことはなんだ。カラカテ、君の願いは何だ。」
僕の願い。あの雪に覆われた土地で見た、優しい笑顔を思い出した。一番近くで笑っているところが見たいと、確かに願ったのだ。
「僕は、…私は、あの人に笑っていて欲しいんです。だけどこのままでは叶わない。ヴァレウ、ディン様も私もどんどん情緒がおかしくなっている。けど…恥ずかしながらどうすればいいのか分からないのです。知恵を貸してください。お願いします。」
「そんなもの決まっている。学習、経験、実績、これにつきる。」
頭を下げた僕を余所に、エルドゲルニア様はずかずかとどこかに歩いて行った。そして戻ってくると、ティーポットを雑にずらしてバサリと冊子をいくつかテーブルに広げた。
「これは南の図書館の事務員補佐の募集、未経験者でも大丈夫、学習時間あり。これは西の魔法研究所の記録補佐、魔法未使用者歓迎、学習時間あり。これは…」
「あ、あの、エルドゲルニア様、早い、早いです。」
「慣れろ。いいか、今の君がそんななのは自信がないからだ。能力が高いにも関わらず何があったか知らんが驚くほど内向的、萎縮的、そして自罰的。魔法が使えないことを極端に卑下しているが、そんなもの五万といる、見てきただろう。見てきたにも関わらずそんななのは自信がないからだ。」
「えっと、あの。」
「その言い詰まる癖も直すんだ、侮られる。カラカテ、俺はこの時を待っていたんだ。殿下に散々言い含められてきたからな、お前が言い出すまで待てと!ああ長かった!!」
「それはどういう…」
「当然お前たちのそのふざけた湿った空気を粉砕する時をだ!!」
「えっ」
テーブルにパァンと冊子を叩きつけると、吐き捨てるようにエルドゲルニア様がまた起ちあがった。ずかずかと部屋の奥の方に行くと、ガラガラと黒板を押してくる。たまに部屋の中央にあることがあるなと思ったものは、こういう使われ方をしていたらしい。
冊子がいくつも黒板に張り付けられ、一つ一つの横にカカカカカと何かが書き込まれていく。どういうところがおすすめか、どういうところがカラカテの適性に合っているか。事細かに書かれていく。
素直じゃない。なるほど。王女殿下のいたずらっぽい笑顔が腑に落ちた。
その日は昼過ぎまでずっとエルドゲルニア様による学習、経験、実績の作り方講座が開かれた。内容を総括すると、「とりあえずお前は学校に行きながら働け」だった。
「金のことは気にするな。君を拾ってきたやつが責任を持って出すからな。それでも気が引けるなら働いて稼いで返すことだ。」
「はい。」
「いいか、あいつになにかを与えたいならとにかく今の共依存関係から抜け出せ。距離を取れ。少し離れた場所からもう一度あいつと関係を築くんだ。まあ別に今の状態が酷いとも思わんがな、お互いの合意があれば。だが違うんだろう?」
「はい。私も、恐らくヴァレ、ウディン様も本意ではありません。」
「よし。その名前を噛みそうになるのも直すんだ。愛称で呼んではいけない場面はいくらでもある。直せ。」
「はい。」
西日になりかけている日がカーテン越しに柔らかく入ってくる。黒板の影が伸びた。ようやく席に着いたエルドゲルニア様は、冷めた茶で喉を潤した。
「悪かったな、恋や愛ではないなどと言って。愛はあるようだな、辛うじて。」
「…意外です。エルドゲルニア様はその…こういった話はお嫌いかと…」
「知らないのか、貴族は往々にしてロマンチストだ。」
「そうなんですか。」
「冗談だ。街に放り出された哀れな村人の話くらい聞いてやろうと思っただけだ。」
言い回しがかなりロマンチストな気がする。少し打ち解けた気がしたカラカテがちょっと揶揄おうかと思った時、思ったよりも静かな顔をした人が、窓越しに遠くを見た。
「誰かと共に生きたいなら、背筋を伸ばしてシャンと立つんだ。」
静かに言うエルドゲルニア様は、ずっと遠くを見ていた。王城のある方角だった。
迎えに来たヴァン様は、エルドゲルニア様とカラカテを見比べながら、そろそろと手を差し出してきた。何かを怖がっている様子だった。手を取って、握られる前に強く握る。手を握られることは思ったよりも安心することなのだと、王女殿下に教えていただいた。
エルドゲルニア様が後ろから呆れたようにずいと何かを差し出してきた。冊子がいくつか入った紙袋だった。今日一日中カラカテとエルドゲルニアが使っていた冊子だった。
「受け取れヴァレルディン、お前も読むんだ。」
「すまない。」
「お前も殿下も本当に手がかかる。俺がついていてやらんと何をしでかすか。」
「…ありがとう。」
「全くだ。いいか、こういうのが信頼だ。思い出したか阿呆。」
屋敷に戻ると、ヴァン様は着替えてそのまま冊子を読み始めた。カラカテも着替えると、台所へ一人で歩いていく。夕飯には向かないが片手で食べられそうなものがいくつかあったので、茶の用意をしてそれらも部屋に持ち帰る。
もしかしてあの人、集中すると腹がすいていることに気が付かないのでは。小屋での出来事を思い返しながらテーブルに置く。読み終わったであろう冊子が既に2冊積まれていた。
「ヴァン様、読みながらで良いので何かつまんでください。そんなんじゃあ体を壊します。」
「あ?あ、ああ、ありがとう。」
温め直したサンドを食べながら、ヴァン様がまた冊子を読んでいく。カラカテも軽く食事をしながら、じっと待った。
全ての冊子が積み上げられた頃、もう夜も更けていた。ヴァン様はソファの背もたれに顔を預けて上を見ている。カラカテはそれをじっと見ていた。部屋の明かりがジージーと音がするようだった。
「君はここを出ていくのか。」
「はい。お金はヴァン様に借りろとエルドゲルニア様が。借していただけますか。」
「そんなものいくらでも出す。返さなくてもいい。」
「返します。必ず。」
「…。」
片手が顔に置かれた。そのまま上体を持ち上げた人は、今度はうなだれるように背を丸めて座っていた。相変わらずヴァン様の目元は隠されたままで、どんな顔をしているか分からなかった。
「弱音を吐いてもいいか。」
「はい。」
「俺は、君に出ていってほしくない。君にここに居続けて欲しい。目に届くところにずっといて欲しい。叶うことなら、本当は働いても欲しくない。君が確かに優秀だと知っているはずなのに。人間が俺しかいない場所で、誰ともかかわらずいて欲しい。あの小屋のように。」
言いながらゆっくりとこちらに向き直ったヴァン様は、俯いたままカラカテの両手を両手で包んだ。
そんなことを考えていたのか。けれどもカラカテは納得した。間違いなく本心なのだろう。ヴァン様のここ最近の、それどころかカラカテが働き始めてからの行動がその証明だった。
欠かさず送り迎えをし、人を出来るだけ払い、最終的にはカラカテを閉じ込めてしまった。最初はまだ我慢できていたのだろう。職も紹介できたし、街にだって連れ出せた。それが出来なくなってしまった。カラカテが理性的な考えが難しくなったように。
「君が誰かと関わって、俺を裏切るのではないかと思うと死にたくなる。そんな、君に対して失礼極まりないことを思ってしまう自分にも泣きたくなる。けど恐ろしくて仕方がない。こんなことは初めてだ。」
ぐうと両手を握る手に力がこもる。上からの光を受けて、前髪が目元に深い影を作っている。手元を見るヴァン様は、初めて会った時のような亡羊とした声をしていた。
「君に失望したくないんだ…妹のように。」
「…はい。」
世を憂わない人が、カラカテの喪失を憂いている。誇りと労りがカラカテの喉につっかかる。このまま2人で雪に覆われた小さな小屋に戻ることだってできるだろう。それがヴァレルディンとカラカテにとって最も簡単な理想郷だと2人とも知っている。
だけどこの人をあの小屋へ戻すわけにはいかない。カラカテはもう、ヴァレルディンが人に囲まれ賞賛される姿を知ってしまった。この人をちっぽけな場所に収めるわけにはいかなかった。
きっとこの人もそういう葛藤の真っただ中なのだろう。カラカテはヴァレルディンに想われることを誇りに思った。今はまだ大した存在でもないカラカテを、ヴァレルディンは思いやってくれている。奮い立つ理由には十分だった。
「約束します、失望させないと。信じなくていいので見ていてください。貴方にふさわしい人間になるところを見ていてください。」
「いつか、信じきれなくて君を閉じ込めるかもしれなくても?」
「そうかもしれませんね。貴方も僕も、どうもおかしいみたいですから。」
お互いあの雪に埋もれた小屋で2人しておかしくなってしまった。2人だけではきっとだめになるのだろう。容易に想像できた。想像できるようになった。それでもカラカテには大丈夫だと信じられるものができた。
「もしそうなっても、貴方のご友人方が必ず止めてくれます。僕はこの街に来て、王女殿下のご卓見を知りました。エルドゲルニア様の献身を知りました。貴方が崩れようとも、あの方々が必ず貴方を支えてくださるはずだ。」
「君は?」
「今の僕は貴方の傍にいたいだけの人間ですから。そんな都合のいい話、最後には喜んで乗ってしまう。」
「…。」
「だから今は離れます。3年ください。僕も貴方を引っ張り上げられるくらい、背筋の伸びた男になって戻ってくると約束します。貴方と共に生きていくために、シャンと立ってみせます。どうか見ていてください、ヴァレルディン様。」
掴まれていた両手をはがして、浮かんだヴァン様の両手を包み込む。ぐっと掴んで持ち上げる。信じなくていいから見て欲しかった。持ち帰った拾い物が事実素晴らしいものになるところを見ていて欲しかった。
「…ほんと、君はかっこいいな。」
苦笑したヴァン様は掴まれた両手を祈るように額にあてた。僕は少し震えている手を強く握った。
「今生の別れでもないのに大げさな。会いたければ会いにくればいいだけだろう。」
「家に帰ったら居るのと居ないのとじゃ話が全然違うんだ。」
「はいはいそりゃ大変だな。」
やれやれとエルドゲルニア様はあたりを見回すと、カラカテとヴァレルディンの繋がれた手を手刀で切り離した。恨めし気なヴァレルディンを無視してカラカテを見てくる。新しい学校と職場に、時間を割いてわざわざ紹介でついて来てくださっていた。
「新居はここら辺に?」
「はい、ヴァレルディン様と選びました。」
「ふん、まあそれなりに治安もいい。悪くないんじゃないか。よく考えたじゃないか、ヴァレルディンもお前も。」
「ありがとうございます。」
カラカテは南の図書館の事務員補佐につくことになった。学校に通いながらの勤務で、文字に苦のなさそうな様子からエルドゲルニア様が選んでくださった職だった。
ヴァレルディンは悔しそうに賛成していた。何を悔しがっているのか聞くと、自分よりカラカテを理解していそうなところが忌々しいとのことだった。僕と似たような嫉妬をしていてちょっと笑ってしまった。
「そろそろ行くぞ、先方を待たせてしまう。初出勤には10分前にはついて身なりを整えておくこと。覚えておけ。」
「はい。ではヴァン様、僕はもう行きます。…約束、必ず守ります。見ていてください。」
「ああ…。」
右手を差し出す。ヴァン様からもらった指輪は結局付けてきたままで来た。これを付けて必ず3年後に帰ろう。3年でどれだけいけるか分からないが、必ず今よりも良い姿で帰って来よう。何かいいものを持ってこの人のところに。何がいいかは、まだわからないが。
差し出した手が軽く握られて、離された。名残惜しそうにしていた人は、カラカテの表情を見ると、ハッとしたように笑ってその場から消えた。魔法だった。ちかちかと光る粒子が少し残っていた。
3年後の夏、カラカテは二つの指輪と、協力者に自分の名前が載った一つの書籍を持ち帰ってヴァレルディンの元へ帰ることになる。指輪は魔石で作られていて、左手薬指に嵌められたヴァレルディンは笑いながらカラカテを抱きかかえた。
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