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第3章
第 34 話:小さな物語
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夏休みの宿題で使う資料を学校に忘れていたことを、たった今思い出した。
提出まであと3日しかない。
急いで支度をして家を出た。
今は8月29日、午後3時。
校舎に着くと、意外にも図書室に明かりが灯っているのが見えた。
誰かいるのだろうか。
そっと扉を開けて中を覗くと、奥の閲覧席で二人の人影が見えた。
黒瀬先輩と光先輩だった。
私は足音を立てないように図書室に入った。
書架の影に身を隠して、そっと様子を見る。
机の上には教科書やプリント、参考書が整然と並んでいる。
二人とも夏休みの宿題に取り組んでいるようだった。
黒瀬先輩は古文の問題集を。
光先輩は数学の課題を丁寧に書き込みながら進めていた。
「この問題、解き方合ってる?」
光先輩が数学のプリントを先輩に見せた。
「完璧。でも計算ミスしやすい問題だから気をつけて」
先輩が即答する。
「さすが。数学の先生になれそう」
光先輩が嬉しそうに答える。
先輩は照れたように頭を掻いて、古文の問題集を開いた。
「今度は俺の番だけど...」
でも、古文の問題を見つめる先輩の顔が困惑に変わった。
「昔の人って、なんでこんな回りくどい言い方するんだろう」
光先輩が先輩の隣に移動して、問題を覗き込む。
「効率悪いよね、現代人から見ると」
「でも、効率だけが全てじゃないのかも」
光先輩が現代語訳を説明し始めた。
先輩は真剣に聞いている。
でも時々、光先輩の横顔をちらりと見ていた。
「なるほど、そういう意味か」
先輩が理解した時の表情は、問題が解けた喜びよりも、光先輩に教えてもらえた嬉しさの方が大きいように見えた。
「和人くんは理系の頭だから、古文は苦手よね」
光先輩が微笑む。
「論理で割り切れないものは全般的に」
「でも、古文にも論理があるのよ」
光先輩が次の問題を指差す。
「ほら、この助動詞の活用も規則性があるでしょ?」
先輩が光先輩の説明を聞きながら、ノートに書き込んでいく。
二人の距離が自然に近くなっていた。
しばらくして、先輩が古文の長文読解を終えると、満足そうに背伸びをした。
「やっと終わった」
「お疲れさま」
光先輩が微笑む。
「休憩する?」
光先輩が時計を見て提案した。
「コーヒー飲みたい気分」
先輩がペンを置く。
光先輩がバッグから水筒とお菓子を取り出した。
「甘いもの、好きでしょ?」
チョコレートクッキーだった。
「ありがとう。血糖値下がってた」
先輩が一つ受け取る。
二人は向かい合うのではなく、窓の方を向いて座った。
夏の午後の光が、二人を柔らかく照らしている。
「今年の夏休み、妙に短く感じない?」
光先輩がクッキーを食べながらぽつりと言った。
「時間って不思議だよな」
先輩が振り返る。
「楽しい時はあっという間で、つらい時は永遠に感じる」
「物理学的には同じなのにね」
光先輩が窓の外を見つめている。
「でも、今年は濃かった」
「濃い?」
「うん。いろんなことがあったから」
光先輩の声が少し小さくなった。
「...私、変なこと言っちゃったよね」
先輩の手が止まった。
「変なことって?」
「自然な和人くんがいいとか」
光先輩が続ける。
「あれ、意味不明だったよね」
「まあ、確かに最初は困った」
先輩が苦笑いする。
「でも今ならちょっと分かる」
「分かる?」
「背伸びしないでいいってことだろ」
先輩がクッキーを見つめる。
「俺、ずっと何かになろうとしてた」
光先輩が先輩の方を向いた。
「何かって?」
「天野に釣り合う人間」
先輩も光先輩を見る。
「でも、そもそも釣り合うとか釣り合わないとか」
「どうでもいいこと?」
光先輩の表情が、ほっとしたように緩んだ。
「そう。一緒にいて楽ならそれでいい」
「私も同じ」
二人の視線が合った。
ほんの数秒のことだったけれど、その瞬間に何かが通じ合ったような気がした。
私はその光景を見ていて、胸がきゅっと締め付けられた。
二人の間にある絆の深さを、ありありと感じることができたから。
お互いのことを思うあまりに、自分を責めてしまう。
でも最終的には、相手を理解しようとする。
それは私には到底真似できない、深くて複雑な関係だった。
私が先輩を好きになったのは、先輩の優しさや一生懸命さに惹かれたから。
でも光先輩と先輩の間にあるのは、そんな単純なものじゃない。
お互いの弱さも強さも、全部ひっくるめて受け入れ合おうとしている。
ああ、この人たちには勝てない。
私はそう思った。
勝ち負けの問題じゃないのは分かっているけれど、でもそんな風に感じてしまった。
私の先輩への気持ちは確かに恋だった。
でも、それよりも大きな気持ちが今の私の中にはある。
この二人に幸せになってほしいという気持ち。
私が先輩のことを好きだからこそ、先輩には幸せになってほしい。
そして、光先輩のことも大好きだから、光先輩にも幸せになってほしい。
その幸せが、お互いと一緒にあるなら、それが一番いいことなんじゃないだろうか。
「そろそろ戻ろうか」
光先輩が立ち上がって、自分の席に戻る。
でも、さっきより先輩との距離が少しだけ近くなっていた。
先輩も古文の問題に戻ったが、今度は光先輩に教わったおかげかスムーズに解き進めている。
分からないところがあると、遠慮なく光先輩に聞いていた。
光先輩も、先輩の質問に丁寧に答えている。
二人のやり取りを見ていると、とても自然で温かい光景だった。
お互いの得意分野を理解して、足りないところを補い合っている。
それが、まったく無理のない形で成り立っている。
二人が片付けを始めた。
「そろそろ帰ろうか」
光先輩が時計を見て言った。
「そうだな」
先輩が頷く。
その動作も、どこか息が合っていた。
私は静かに書架の間を抜けて、図書室の入り口近くまで戻った。
そして、わざと足音を立ててドアを開け直した。
「すみません、誰かいらっしゃいますか?」
私が声をかけると、二人が振り返った。
「あ、柚葉ちゃん」
光先輩が手を振ってくれる。
「こんにちは」
私が挨拶すると、先輩も会釈してくれた。
「宿題の資料を取りに来たんです」
私が説明すると、光先輩が苦笑いした。
「私たちも宿題してたの」
「意外です、まだ宿題残ってるなんて。先輩方、成績いいのに」
「今年は色々忙しくて」
先輩が頭を掻く。
「でも、お二人一緒だと効率いいですね」
私がそう言うと、二人が顔を見合わせて笑った。
「お互いの苦手を補えるからね」
光先輩が答える。
「体調は大丈夫ですか?」
私が先輩に聞くと、先輩は頷いた。
「おかげさまで」
「よかったです」
私は心からそう思った。
先輩が元気になって、光先輩と一緒に勉強できている。
それが何より嬉しかった。
「柚葉ちゃんも一緒に帰る?」
光先輩が提案してくれた。
「まだ資料探しに時間がかかりそうなので、お先にどうぞ」
私は笑顔で答えた。
「本当は最初に探せばよかったんですけど、つい後回しにしちゃって」
「そっか、じゃあお疲れさま」
光先輩が手を振る。
「気をつけて帰ってね」
先輩も言ってくれた。
「ありがとうございます」
二人の足音が廊下に響いて、やがて聞こえなくなった。
◇
私は図書室の奥に戻った。
でも、資料を探す気は起きなかった。
先ほどまで二人が座っていた席の前に立って、私はその光景を思い返していた。
先輩が困った時、光先輩は迷うことなく隣に座った。
光先輩が過去を振り返って悩んだ時、先輩は真剣に聞いていた。
お互いの痛みを分かち合って、お互いの弱さを受け入れて。
それは私には到底理解できない深さだった。
私が先輩を好きになったのは、先輩の優しさや一生懸命さに惹かれたから。
表面的で、単純で、まだ子供っぽい恋心だった。
でも二人の間にあるのは、そんな甘いものじゃない。
過去の傷も、現在の迷いも、未来への不安も、全部ひっくるめて一緒に背負おうとしている。
私は、光先輩が座っていた椅子にそっと座った。
机の上には、光先輩が使っていたシャープペンシルが一本置き忘れられている。
ピンクのボディに小さなリボンがついた、可愛らしいペン。
私はそれを手に取った。
このペンで、光先輩は先輩に古文を教えていたんだ。
優しい声で、丁寧に、愛情を込めて。
ペンを握る私の手が震えた。
先輩がこのペンに触れた光先輩の手を見つめていた時の表情。
光先輩が先輩の理解を確認する時の嬉しそうな顔。
あの瞬間、二人の間には私が立ち入ることのできない特別な世界があった。
私はペンを机の上に戻した。
そして、今度は先輩が座っていた椅子に移動した。
ここから見る風景は、光先輩の後ろ姿だった。
先輩は、きっとこの角度から光先輩を見つめていたんだ。
光先輩が髪をかき上げる仕草を。
問題に集中している横顔を。
ふと振り返った時の笑顔を。
すべてを愛おしそうに見つめていたんだ。
私の胸が苦しくなった。
でも、それは嫉妬とは違う苦しさだった。
もっと深くて、もっと複雑な感情だった。
窓の外を見ると、夕日が西の空を赤く染めている。
もうすぐ夏休みも終わる。
新学期が始まれば、私はまた二人と一緒に部活をする。
問題解決部という、私にとって初めてできた大切な居場所で。
私は本棚の間を歩いて、歴史の本が並んでいる棚の前で足を止めた。
背表紙に並ぶタイトルを眺めながら、私は考えていた。
私の先輩への気持ちは、確かに恋だった。
でも、先輩と光先輩の間にあるものを見てしまった今、自分の気持ちがとても浅く感じられた。
池の表面に浮かぶ水草のような、軽やかで儚いもの。
それに対して、二人の絆は深い井戸のように深くて、底が見えない。
私は「江戸時代の町民文化」という本を取り出した。
私が探している資料に関係のない本だったけれど、なぜかその本を選んでしまった。
ページをめくりながら、私は思った。
歴史の教科書には、大きな出来事しか載らない。
戦争や政治の変化、有名な人物の業績。
でも、実際の歴史は無数の小さな物語でできている。
名もなき人々の、日常の中の小さな選択の積み重ね。
私の恋も、そんな小さな物語の一つなのかもしれない。
教科書には載らない、でも確かに存在した物語。
そして、今日この瞬間に、静かに終わりを迎える物語。
私は本を閉じて、書架に戻した。
そして、再び二人が座っていた席に戻った。
光先輩のペンが、夕日に照らされて淡いピンク色に光っている。
私はそのペンをもう一度手に取った。
今度は、震えなかった。
私は心の中で、先輩に話しかけた。
黒瀬先輩。
私、先輩のことが好きでした。
先輩の優しさも、一生懸命さも、不器用なところも、全部好きでした。
でも、きっと私の好きは、光先輩の好きとは違うものだったんですね。
光先輩の好きは、先輩の過去も未来も全部包み込んでしまうような、大きくて深いもの。
私の好きは、もっと単純で、もっと軽やかなもの。
それが悪いことだとは思わないけれど、でも勝負にならないことはよくわかりました。
私はペンを机の上にそっと置いた。
光先輩が忘れていったペンを、明日返してあげよう。
そんな些細なことでも、きっと光先輩は喜んでくれる。
そして、私も光先輩の笑顔を見て嬉しくなる。
それで十分なんだ。
私の目から、一粒の涙がこぼれた。
涙の意味は、今はまだわからなかった。
私は涙を手の甲で拭って、立ち上がった。
図書室の窓から見える景色は、もうすっかり夕焼けに染まっている。
空の色が、オレンジから深い紫に変わっていく。
美しい光景だった。
一人で見る夕焼けも、悪くない。
私は図書室を出て、廊下を歩いた。
足音が響く静かな校舎。
でも、寂しくはなかった。
むしろ、心が軽やかだった。
校門を出る時、私は振り返って学校を見た。
夕日に照らされた校舎が、まるで絵本の中の城のように美しく見えた。
新学期からは、新しい私でここに通おう。
恋は終わったけれど、大切なものは何も失っていない。
むしろ、もっと大切なものを見つけたような気がする。
誰かの幸せを心から願えるということの美しさを。
私は夕焼けの道を、家に向かって歩き始めた。
胸の奥に、小さくて温かい光を灯しながら。
「あーあ、やっぱり好きだなあ。」
誰にも届かない私の言葉は、溶けて消えていく。
夏が終わる。
提出まであと3日しかない。
急いで支度をして家を出た。
今は8月29日、午後3時。
校舎に着くと、意外にも図書室に明かりが灯っているのが見えた。
誰かいるのだろうか。
そっと扉を開けて中を覗くと、奥の閲覧席で二人の人影が見えた。
黒瀬先輩と光先輩だった。
私は足音を立てないように図書室に入った。
書架の影に身を隠して、そっと様子を見る。
机の上には教科書やプリント、参考書が整然と並んでいる。
二人とも夏休みの宿題に取り組んでいるようだった。
黒瀬先輩は古文の問題集を。
光先輩は数学の課題を丁寧に書き込みながら進めていた。
「この問題、解き方合ってる?」
光先輩が数学のプリントを先輩に見せた。
「完璧。でも計算ミスしやすい問題だから気をつけて」
先輩が即答する。
「さすが。数学の先生になれそう」
光先輩が嬉しそうに答える。
先輩は照れたように頭を掻いて、古文の問題集を開いた。
「今度は俺の番だけど...」
でも、古文の問題を見つめる先輩の顔が困惑に変わった。
「昔の人って、なんでこんな回りくどい言い方するんだろう」
光先輩が先輩の隣に移動して、問題を覗き込む。
「効率悪いよね、現代人から見ると」
「でも、効率だけが全てじゃないのかも」
光先輩が現代語訳を説明し始めた。
先輩は真剣に聞いている。
でも時々、光先輩の横顔をちらりと見ていた。
「なるほど、そういう意味か」
先輩が理解した時の表情は、問題が解けた喜びよりも、光先輩に教えてもらえた嬉しさの方が大きいように見えた。
「和人くんは理系の頭だから、古文は苦手よね」
光先輩が微笑む。
「論理で割り切れないものは全般的に」
「でも、古文にも論理があるのよ」
光先輩が次の問題を指差す。
「ほら、この助動詞の活用も規則性があるでしょ?」
先輩が光先輩の説明を聞きながら、ノートに書き込んでいく。
二人の距離が自然に近くなっていた。
しばらくして、先輩が古文の長文読解を終えると、満足そうに背伸びをした。
「やっと終わった」
「お疲れさま」
光先輩が微笑む。
「休憩する?」
光先輩が時計を見て提案した。
「コーヒー飲みたい気分」
先輩がペンを置く。
光先輩がバッグから水筒とお菓子を取り出した。
「甘いもの、好きでしょ?」
チョコレートクッキーだった。
「ありがとう。血糖値下がってた」
先輩が一つ受け取る。
二人は向かい合うのではなく、窓の方を向いて座った。
夏の午後の光が、二人を柔らかく照らしている。
「今年の夏休み、妙に短く感じない?」
光先輩がクッキーを食べながらぽつりと言った。
「時間って不思議だよな」
先輩が振り返る。
「楽しい時はあっという間で、つらい時は永遠に感じる」
「物理学的には同じなのにね」
光先輩が窓の外を見つめている。
「でも、今年は濃かった」
「濃い?」
「うん。いろんなことがあったから」
光先輩の声が少し小さくなった。
「...私、変なこと言っちゃったよね」
先輩の手が止まった。
「変なことって?」
「自然な和人くんがいいとか」
光先輩が続ける。
「あれ、意味不明だったよね」
「まあ、確かに最初は困った」
先輩が苦笑いする。
「でも今ならちょっと分かる」
「分かる?」
「背伸びしないでいいってことだろ」
先輩がクッキーを見つめる。
「俺、ずっと何かになろうとしてた」
光先輩が先輩の方を向いた。
「何かって?」
「天野に釣り合う人間」
先輩も光先輩を見る。
「でも、そもそも釣り合うとか釣り合わないとか」
「どうでもいいこと?」
光先輩の表情が、ほっとしたように緩んだ。
「そう。一緒にいて楽ならそれでいい」
「私も同じ」
二人の視線が合った。
ほんの数秒のことだったけれど、その瞬間に何かが通じ合ったような気がした。
私はその光景を見ていて、胸がきゅっと締め付けられた。
二人の間にある絆の深さを、ありありと感じることができたから。
お互いのことを思うあまりに、自分を責めてしまう。
でも最終的には、相手を理解しようとする。
それは私には到底真似できない、深くて複雑な関係だった。
私が先輩を好きになったのは、先輩の優しさや一生懸命さに惹かれたから。
でも光先輩と先輩の間にあるのは、そんな単純なものじゃない。
お互いの弱さも強さも、全部ひっくるめて受け入れ合おうとしている。
ああ、この人たちには勝てない。
私はそう思った。
勝ち負けの問題じゃないのは分かっているけれど、でもそんな風に感じてしまった。
私の先輩への気持ちは確かに恋だった。
でも、それよりも大きな気持ちが今の私の中にはある。
この二人に幸せになってほしいという気持ち。
私が先輩のことを好きだからこそ、先輩には幸せになってほしい。
そして、光先輩のことも大好きだから、光先輩にも幸せになってほしい。
その幸せが、お互いと一緒にあるなら、それが一番いいことなんじゃないだろうか。
「そろそろ戻ろうか」
光先輩が立ち上がって、自分の席に戻る。
でも、さっきより先輩との距離が少しだけ近くなっていた。
先輩も古文の問題に戻ったが、今度は光先輩に教わったおかげかスムーズに解き進めている。
分からないところがあると、遠慮なく光先輩に聞いていた。
光先輩も、先輩の質問に丁寧に答えている。
二人のやり取りを見ていると、とても自然で温かい光景だった。
お互いの得意分野を理解して、足りないところを補い合っている。
それが、まったく無理のない形で成り立っている。
二人が片付けを始めた。
「そろそろ帰ろうか」
光先輩が時計を見て言った。
「そうだな」
先輩が頷く。
その動作も、どこか息が合っていた。
私は静かに書架の間を抜けて、図書室の入り口近くまで戻った。
そして、わざと足音を立ててドアを開け直した。
「すみません、誰かいらっしゃいますか?」
私が声をかけると、二人が振り返った。
「あ、柚葉ちゃん」
光先輩が手を振ってくれる。
「こんにちは」
私が挨拶すると、先輩も会釈してくれた。
「宿題の資料を取りに来たんです」
私が説明すると、光先輩が苦笑いした。
「私たちも宿題してたの」
「意外です、まだ宿題残ってるなんて。先輩方、成績いいのに」
「今年は色々忙しくて」
先輩が頭を掻く。
「でも、お二人一緒だと効率いいですね」
私がそう言うと、二人が顔を見合わせて笑った。
「お互いの苦手を補えるからね」
光先輩が答える。
「体調は大丈夫ですか?」
私が先輩に聞くと、先輩は頷いた。
「おかげさまで」
「よかったです」
私は心からそう思った。
先輩が元気になって、光先輩と一緒に勉強できている。
それが何より嬉しかった。
「柚葉ちゃんも一緒に帰る?」
光先輩が提案してくれた。
「まだ資料探しに時間がかかりそうなので、お先にどうぞ」
私は笑顔で答えた。
「本当は最初に探せばよかったんですけど、つい後回しにしちゃって」
「そっか、じゃあお疲れさま」
光先輩が手を振る。
「気をつけて帰ってね」
先輩も言ってくれた。
「ありがとうございます」
二人の足音が廊下に響いて、やがて聞こえなくなった。
◇
私は図書室の奥に戻った。
でも、資料を探す気は起きなかった。
先ほどまで二人が座っていた席の前に立って、私はその光景を思い返していた。
先輩が困った時、光先輩は迷うことなく隣に座った。
光先輩が過去を振り返って悩んだ時、先輩は真剣に聞いていた。
お互いの痛みを分かち合って、お互いの弱さを受け入れて。
それは私には到底理解できない深さだった。
私が先輩を好きになったのは、先輩の優しさや一生懸命さに惹かれたから。
表面的で、単純で、まだ子供っぽい恋心だった。
でも二人の間にあるのは、そんな甘いものじゃない。
過去の傷も、現在の迷いも、未来への不安も、全部ひっくるめて一緒に背負おうとしている。
私は、光先輩が座っていた椅子にそっと座った。
机の上には、光先輩が使っていたシャープペンシルが一本置き忘れられている。
ピンクのボディに小さなリボンがついた、可愛らしいペン。
私はそれを手に取った。
このペンで、光先輩は先輩に古文を教えていたんだ。
優しい声で、丁寧に、愛情を込めて。
ペンを握る私の手が震えた。
先輩がこのペンに触れた光先輩の手を見つめていた時の表情。
光先輩が先輩の理解を確認する時の嬉しそうな顔。
あの瞬間、二人の間には私が立ち入ることのできない特別な世界があった。
私はペンを机の上に戻した。
そして、今度は先輩が座っていた椅子に移動した。
ここから見る風景は、光先輩の後ろ姿だった。
先輩は、きっとこの角度から光先輩を見つめていたんだ。
光先輩が髪をかき上げる仕草を。
問題に集中している横顔を。
ふと振り返った時の笑顔を。
すべてを愛おしそうに見つめていたんだ。
私の胸が苦しくなった。
でも、それは嫉妬とは違う苦しさだった。
もっと深くて、もっと複雑な感情だった。
窓の外を見ると、夕日が西の空を赤く染めている。
もうすぐ夏休みも終わる。
新学期が始まれば、私はまた二人と一緒に部活をする。
問題解決部という、私にとって初めてできた大切な居場所で。
私は本棚の間を歩いて、歴史の本が並んでいる棚の前で足を止めた。
背表紙に並ぶタイトルを眺めながら、私は考えていた。
私の先輩への気持ちは、確かに恋だった。
でも、先輩と光先輩の間にあるものを見てしまった今、自分の気持ちがとても浅く感じられた。
池の表面に浮かぶ水草のような、軽やかで儚いもの。
それに対して、二人の絆は深い井戸のように深くて、底が見えない。
私は「江戸時代の町民文化」という本を取り出した。
私が探している資料に関係のない本だったけれど、なぜかその本を選んでしまった。
ページをめくりながら、私は思った。
歴史の教科書には、大きな出来事しか載らない。
戦争や政治の変化、有名な人物の業績。
でも、実際の歴史は無数の小さな物語でできている。
名もなき人々の、日常の中の小さな選択の積み重ね。
私の恋も、そんな小さな物語の一つなのかもしれない。
教科書には載らない、でも確かに存在した物語。
そして、今日この瞬間に、静かに終わりを迎える物語。
私は本を閉じて、書架に戻した。
そして、再び二人が座っていた席に戻った。
光先輩のペンが、夕日に照らされて淡いピンク色に光っている。
私はそのペンをもう一度手に取った。
今度は、震えなかった。
私は心の中で、先輩に話しかけた。
黒瀬先輩。
私、先輩のことが好きでした。
先輩の優しさも、一生懸命さも、不器用なところも、全部好きでした。
でも、きっと私の好きは、光先輩の好きとは違うものだったんですね。
光先輩の好きは、先輩の過去も未来も全部包み込んでしまうような、大きくて深いもの。
私の好きは、もっと単純で、もっと軽やかなもの。
それが悪いことだとは思わないけれど、でも勝負にならないことはよくわかりました。
私はペンを机の上にそっと置いた。
光先輩が忘れていったペンを、明日返してあげよう。
そんな些細なことでも、きっと光先輩は喜んでくれる。
そして、私も光先輩の笑顔を見て嬉しくなる。
それで十分なんだ。
私の目から、一粒の涙がこぼれた。
涙の意味は、今はまだわからなかった。
私は涙を手の甲で拭って、立ち上がった。
図書室の窓から見える景色は、もうすっかり夕焼けに染まっている。
空の色が、オレンジから深い紫に変わっていく。
美しい光景だった。
一人で見る夕焼けも、悪くない。
私は図書室を出て、廊下を歩いた。
足音が響く静かな校舎。
でも、寂しくはなかった。
むしろ、心が軽やかだった。
校門を出る時、私は振り返って学校を見た。
夕日に照らされた校舎が、まるで絵本の中の城のように美しく見えた。
新学期からは、新しい私でここに通おう。
恋は終わったけれど、大切なものは何も失っていない。
むしろ、もっと大切なものを見つけたような気がする。
誰かの幸せを心から願えるということの美しさを。
私は夕焼けの道を、家に向かって歩き始めた。
胸の奥に、小さくて温かい光を灯しながら。
「あーあ、やっぱり好きだなあ。」
誰にも届かない私の言葉は、溶けて消えていく。
夏が終わる。
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青春
この物語は、とある理由から目立ちたくないぼっちの少年の成長物語である
そんなある日、少年は不良に絡まれている女子を助けてしまったが……。
なんと、彼女は学園のマドンナだった……!
こうして平穏に過ごしたい少年の生活は一変することになる。
彼女を避けていたが、度々遭遇してしまう。
そんな中、少年は次第に彼女に惹かれていく……。
そして助けられた少女もまた……。
二人の青春、そして成長物語をご覧ください。
※中盤から甘々にご注意を。
※性描写ありは保険です。
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