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14.巫覡の磐座編
66水影の風物詩 ③
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***
帰り道は、今にも日が暮れようという頃だった。天頂からじわじわと夜が降りてくる時間だ。
フーはアワと並んで住宅街を歩いた。行き道よりも心なしか口数の少ないアワに、面白そうな本はあったかと尋ねてみると、彼は思い出したかのように、いくつかのタイトルについて語りだした。その目の輝きは、好奇心旺盛な子供のものだ。
けれど、それでいて振る舞いは相変わらず両家の子息に恥じない紳士的なもの。当然のように道の端をフーに譲ってゆっくりと歩き、彼女が提げているビニール袋の中身にも自分からは言及しない。
昔からそうだった。ファイのようなやんちゃなクラスメイトとも絡みながら、コウのようなクールな男友達とも関わり合いながら、しかし彼らのキャラに染まることはない。穏やかで、朗らかで、謙虚で、優しくて――昔から、ずっと同じままだ。
フーがずっと隣で見てきた、流清アワだ。
見慣れた路地が近づいてくる。ワープフープはすぐそこだ。
「……アワ」
フーは足を止めた。
「どうしたの?」
アワも足を止めて、フーを見つめてくる。
ここから先は、フィライン・エデン。アワとフーがただの生徒ではなく、世界を担う特別な子になる世界。
二人の恋が禁じられた世界。
「あの……あのね」
だから、その前に。
許される世界にいるうちに、フーは告げる。
「私、本当はね。アワに渡すものを買おうと思って寄り道したの」
「……ボクに?」
きょとんとするアワに、フーは「うん」と頷く。
アワは斜めに視線をそらして文意を吟味してから、フーに目を戻した。
「『本当は』って……買いたいものは買えなかったのかい?」
「買えなかったんじゃなくて、買わなかったの。初めは、お店で買って、そのまま帰り道にアワに渡したかったんだけど……やっぱり、お店で買ったものじゃなくて……て、手作りをあげたいなって思って。……それで、材料を買っていたの」
夜の入り口、薄暗がりと冷たい風が、頬に上る赤と熱を隠そうとする。
肝試しの時もそうだった。夜の闇が、互いの頬の色に緞帳をかけていた。あの時は、稲光がアワの帳をめくってしまったけれど。
幸い、今日は藍色の夜空が広がる晴天だ。頬の色を暴くものは何もない。
けれど、もう関係ない。
何物も、表に映し出される心を覆おうとしなくていい。
自らの言葉で、罪を隠す帳を取り去るから。
「一日ずれちゃうけど、ごめん。明日、朝早起きして作って、学校にもっていくから……受け取ってくれるかな。私の、手作りチョコレート」
アワが声もなく目を見開いた。聞き間違いでないことを何度も確かめるような間の後、彼はわずかに震える声で返した。
「……ボクに、チョコレート?」
フーは小さくうなずいた。
「それは、バレンタインプレゼントって……こと……?」
さっきよりも深く、うなずいた。
風中の娘がその意味を重々理解しているのと同じく、流清の子息もまた知らないわけがない。
静寂の満ちる住宅街の一角で、動き出すはずのない運命が身じろぎした。
ない唾を飲み込む音。
「……それって……」
隣に並んでいたアワが、体ごとフーに向き合う。
フーも彼に相対して、揺れる黒い瞳を見上げる。
胸の中で、心臓が大きく大きく脈打つ。拍動の音が、閑静な町に響き渡ってしまいそうなほどに鳴っている。
それでもいい。だってここは、人間界。
ここまできたら、プレゼントより早い本題もご愛敬。
「……アワ」
動き出す。
永遠に止まったままのはずだった想いが。
忍ぶれど色に出る、その先を禁じられた恋が。
「私――」
ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ。
マナーモードが静かに鳴った。
だが、二人は銃声でも聞いたかのように互いに飛び退き合った。
「な、な、なに!?」
「ご、ごめん、ボクの電話……」
アワは慌ててスマホを取り出し、手を滑らせ、お手玉のようにぽんぽんと宙に舞わせてから手に収める。
言うまでもなく大事な話を切り出そうとしていたフーを、困ったような目で見るアワに、慌てて「どうぞ」とジェスチャーするのは、彼女の育ちの良さの表れだ。
アワは「ごめん」とジェスチャーで答えて、通話ボタンを押した。
「……も、もしもし?」
『あ、お兄ちゃん? 今どこ?』
「わ、ワープフープをくぐるところ……」
『遅いから、お父さん心配してるよ? 寄り道でもしてるの?』
「そ、そんなところ。ごめん、もうすぐ帰るから」
『はーい。待ってるからね』
プツン。
大きな何かが動き出す兆しを遮った着信は、ものの十数秒で終了した。
通話終了画面を呆けたように見つめていたアワは、ぽかんとした顔をフーに向けた。
会話内容が漏れ聞こえていたフーは、照れくさそうに苦く笑った。
「アクアちゃんでしょ? ……怪しまれちゃう前に、帰った方がいいわね」
「あ……うん、そう、だね」
アワは逡巡を見せたが、フーが路地裏に入っていくと、その後ろをゆっくりとついてきた。
日の入らない袋小路の果てに青白い光を放つ、フィライン・エデンへの扉。
足を踏み入れれば、もうこの先では慕情の片鱗さえ見せるわけにはいかない。
今日の自由は、ここまでだ。
この上なく惜しいタイミングで遮られてしまったが、元はといえば手作りチョコを渡すと同時に伝えたかったことだ。今でなくてもいい。
それより、早朝に台所を使っているところを家族に見つからないようにしないと。
そんなことを考えながら、ワープフープへ足を踏み出しかけたフーの背中に、声がかかる。
「フー」
振り向けば、さっきの出来事などなかったかのように穏やかな――否、全てを悟ったような顔をしたアワが、後ろで微笑んでいた。
彼ははにかむようにして、自由の終わりに言った。
「楽しみに、してるね」
胸の底をくすぐられるような、悪くない掻痒感。
フーは振り向き、こそばゆそうにする子供のような笑顔で頷くと、一足先に世界を渡った。
***
(ど……どうしよう)
その夜。
十六畳という広さの寝室さえ身の丈に合う流清家の正統後継者は、一人布団の中で冴えきった目のまま眠れずにいた。
(フーが明日、ボクに……チョコレートをくれるだって……!?)
チョコレートよりはたい焼きの方が好きなアワだが、そういう問題ではない。
バレンタインプレゼントとして、異性にチョコレートを渡すという行為。それはフィライン・エデンではまだ浸透途上なものの、人間界、少なくとも日本ではポピュラーな好意の伝達方法。それが人間界に精通する二人の間で交わされれば、たとえ彼らが人ならざる者であったとしても、そこには特別な意味が生まれる。そして今日のフーの発言からして、明らかにそれを意図していた。
フーが――意中の少女が、チョコレートに託して甘酸っぱい気持ちを伝えようとしてくれている。
彼女の前では平静を装っていたものの、願ってもない好展開に気持ちが舞い上がって仕方ない。
(うわああダメだ……寝られない……っ!)
布団の中で頭を抱えるアワ。
こう言っては身もふたもないのだが、フーが自分に好意を寄せてくれているのは、少し前から薄々知っていた。あのいたずら好きな最高司令官が催した肝試し大会で、二人きりで手をつないで歩いた夜の森の中、アワはふと本音を漏らしたのだ。
――ボク、流清家に生まれなきゃよかった。それか、フーが風中家じゃなきゃよかったのに。
――そしたら許されたかもしれないじゃないか。
そして、それに対して、フーはこう答えた。
――……ごめん、私も……そう思う……。
それで、お互いに理解してしまった。二人とも、両家に定められた禁じられた感情を抱きあっていることを。
そう――これは禁断の恋なのだ。
(あ、あれはまだほのめかす程度だったけど……もしはっきりそう言ってしまったら、どうなるんだろう? まさか罪びととしてクロに? いや、でもこれは二家の間での取り決めなんだから、クロ化は関係ないよね。お母さん達に見つからないようにすればいいんだ。だけど……うう、その日からどんな顔してフーと付き合っていけばいいんだ……!?)
困ったやら、嬉しいやら、いずれにせよ心臓はドキドキと元気に脈打って、眠れそうにない。
何度も何度も寝返りを打って、同じ回数だけ部屋の掛け時計を見て。
最後に見たのは、二時四十分の文字盤だった。
***
白いレースのクロスがかけられた丸テーブル。
シミ一つつけられない卓上には、丁寧に並べられたカトラリー。
そんな瀟洒な一席についているのは、品よくナプキンをかけながらもガチガチに緊張しきったアワだ。
周りの風景も、他に誰かいるのかどうかも、アワには見えていないし、わからない。
ただ料理を振舞われるだけなのに、過度に身構えてしまうのは、きっと出される料理のコース名と、その振る舞い手が特別な意味を持つからだ。
「お待たせ、アワ」
やってきたのは、白と黒を基調としたウェイトレス姿のフーだ。その手に持ったお盆から、前菜がしなやかにテーブルの上に滑り出す。
「新鮮野菜のチョコレートディップです。たっぷりつけて食べてね」
鮮やかなオレンジ色のにんじんと艶やかなきゅうりのスティックが、これまた洒落たガラスの容器に立てられている。そして、そばにはなめらかな茶色の液体が入った器。
そう、これはチョコレート料理のフルコースだ。それも、想いびと・風中フーから振舞われる手作りたち。
その事実にのぼせてしまっているのか、はたまた別の要因からか、アワの舌にはチョコレートにくぐらせた野菜がとびきりの前菜にしか感じられない。
「うん……おいしいよ、フー! 野菜のみずみずしさに合わせてチョコレートが濃いめなのがまたニクいね……!」
「ふふ、嬉しい。さあ、次はチョコレートの冷製スープよ」
差し出されたのは、ひんやり冷たい液体チョコレートにミルクを注いだスープ――要はココアと大差ないのだが、アワはそれをスプーンですくって口に運ぶ。
「お次は擬魚のムニエル、チョコレートがけよ」
魚のいないフィライン・エデンで魚の代わりとして食す植物由来の切り身に、ソース状のチョコレートがかかった一品。
「もぐもぐ……フー、ちょっと量が多いよ……こんなにチョコレート食べたら、鼻血出ちゃう」
「まだまだこれからなんだから。はい、こちらチョコレートソルベ」
「もぐもぐ……」
「こちら、擬肉ソテーのチョコレートソース仕立て」
「むぐむぐ……」
「そしてデザートは、ガトーショコラにザッハトルテに生チョコトリュフに……」
「ちょ、ちょっと待っ……」
「チョコレートババロアに、チョコレートアイスに、ガトーショコラに……」
「待ってフー、ってかガトーショコラ二回目だし……」
「フォンダンショコラに、オペラケーキに、チョコレートブラウニーのチョコソースがけチョコチップトッピングに……」
「むぐーーーー!」
叫びながら、アワは飛び起きた。
飛び起きた――そう、ここは純和風なアワの寝室で、彼は布団の中にいた。
アワは何秒間か呆けた後、朝の深呼吸にしては陰鬱な大息を吐き出した。
「ゆ、夢かぁ……そうだよね、いろいろおかしいもんね……何だよ、野菜のチョコレートディップって。そんなのフーが出すわけないじゃん。そしておいしいわけないじゃん」
ないない、とかぶりを振ってから、いやでも食べもせずに決めつけるのは失礼か、と考えを改める。
昨夜は遅くまで悶々とチョコレートのことを考えていたから、こんな夢を見てしまったのだろう。夢にまで出てくれずとも、こうして朝を迎えれば叶う現実なのに、せっかちなものだ。
(そうだ、今日はフーがボクに……)
朝っぱらからドキドキと脈打つ胸に手を当てながら、アワは何気なく時計に目をやった。
二つの針は、七時半を指していた。
これはちょうど、光丘神社の鳥居前で雷奈達と待ち合わせをする時間である。
「……ぇ」
本当に切羽詰まったときはまともな声すら出ないらしい。
口から出かかった音を詰まらせ、アワは跳ね上がるように立ち上がった。
パジャマを脱ぎ去り、シャツと学ランを同時に羽織る。ボタンを留めながら洗面所へ走り、歯ブラシ片手に今度は鞄を準備。
バタバタと音を立てて支度をしながら、うわごとのように独り言ちる。
「し、しまった……夕べ遅かったから……!? っていうか、何で誰も起こしてくれなかった!?」
朝食だって家族みんな揃って食べているくらいなのに、今日に限って寝坊しているからと仲間外れか。このぶんだと深夜や早朝に具合が悪くなって布団から起き上がれなくなっていても、放置され続けるのがオチだ。
最後にスマホを手に取り、グループメッセージで雷奈たちに遅刻する旨と謝罪を手短に送ると、アワは自室を飛び出した。
「行ってきまーすっ!」
縁側を走り抜ける間に、居間からふすま越しに「アワ!」と呼ぶ声が聞こえてきたが、起こしてくれなかった家族に用はない。
門を飛び出すと、つんのめりそうな勢いで走る。普段、アワとフーは先に家を出た方が相手の門の前で待つことにしているが、今朝に限ってはフーの姿はなかった。あまりにも遅い時間だからだろう。
「だったら連絡してくれてもいいんだけど……!」
文句を言っても時間は戻らない。
この時には、不眠の犯人であるバレンタインプレゼントのことはすっかり抜け落ち、頭の中は焦燥と罪悪感で満タンだった。
速まる鼓動に急かされて、アワはとにかくワープフープ目指して道を走り抜けた。
帰り道は、今にも日が暮れようという頃だった。天頂からじわじわと夜が降りてくる時間だ。
フーはアワと並んで住宅街を歩いた。行き道よりも心なしか口数の少ないアワに、面白そうな本はあったかと尋ねてみると、彼は思い出したかのように、いくつかのタイトルについて語りだした。その目の輝きは、好奇心旺盛な子供のものだ。
けれど、それでいて振る舞いは相変わらず両家の子息に恥じない紳士的なもの。当然のように道の端をフーに譲ってゆっくりと歩き、彼女が提げているビニール袋の中身にも自分からは言及しない。
昔からそうだった。ファイのようなやんちゃなクラスメイトとも絡みながら、コウのようなクールな男友達とも関わり合いながら、しかし彼らのキャラに染まることはない。穏やかで、朗らかで、謙虚で、優しくて――昔から、ずっと同じままだ。
フーがずっと隣で見てきた、流清アワだ。
見慣れた路地が近づいてくる。ワープフープはすぐそこだ。
「……アワ」
フーは足を止めた。
「どうしたの?」
アワも足を止めて、フーを見つめてくる。
ここから先は、フィライン・エデン。アワとフーがただの生徒ではなく、世界を担う特別な子になる世界。
二人の恋が禁じられた世界。
「あの……あのね」
だから、その前に。
許される世界にいるうちに、フーは告げる。
「私、本当はね。アワに渡すものを買おうと思って寄り道したの」
「……ボクに?」
きょとんとするアワに、フーは「うん」と頷く。
アワは斜めに視線をそらして文意を吟味してから、フーに目を戻した。
「『本当は』って……買いたいものは買えなかったのかい?」
「買えなかったんじゃなくて、買わなかったの。初めは、お店で買って、そのまま帰り道にアワに渡したかったんだけど……やっぱり、お店で買ったものじゃなくて……て、手作りをあげたいなって思って。……それで、材料を買っていたの」
夜の入り口、薄暗がりと冷たい風が、頬に上る赤と熱を隠そうとする。
肝試しの時もそうだった。夜の闇が、互いの頬の色に緞帳をかけていた。あの時は、稲光がアワの帳をめくってしまったけれど。
幸い、今日は藍色の夜空が広がる晴天だ。頬の色を暴くものは何もない。
けれど、もう関係ない。
何物も、表に映し出される心を覆おうとしなくていい。
自らの言葉で、罪を隠す帳を取り去るから。
「一日ずれちゃうけど、ごめん。明日、朝早起きして作って、学校にもっていくから……受け取ってくれるかな。私の、手作りチョコレート」
アワが声もなく目を見開いた。聞き間違いでないことを何度も確かめるような間の後、彼はわずかに震える声で返した。
「……ボクに、チョコレート?」
フーは小さくうなずいた。
「それは、バレンタインプレゼントって……こと……?」
さっきよりも深く、うなずいた。
風中の娘がその意味を重々理解しているのと同じく、流清の子息もまた知らないわけがない。
静寂の満ちる住宅街の一角で、動き出すはずのない運命が身じろぎした。
ない唾を飲み込む音。
「……それって……」
隣に並んでいたアワが、体ごとフーに向き合う。
フーも彼に相対して、揺れる黒い瞳を見上げる。
胸の中で、心臓が大きく大きく脈打つ。拍動の音が、閑静な町に響き渡ってしまいそうなほどに鳴っている。
それでもいい。だってここは、人間界。
ここまできたら、プレゼントより早い本題もご愛敬。
「……アワ」
動き出す。
永遠に止まったままのはずだった想いが。
忍ぶれど色に出る、その先を禁じられた恋が。
「私――」
ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ。
マナーモードが静かに鳴った。
だが、二人は銃声でも聞いたかのように互いに飛び退き合った。
「な、な、なに!?」
「ご、ごめん、ボクの電話……」
アワは慌ててスマホを取り出し、手を滑らせ、お手玉のようにぽんぽんと宙に舞わせてから手に収める。
言うまでもなく大事な話を切り出そうとしていたフーを、困ったような目で見るアワに、慌てて「どうぞ」とジェスチャーするのは、彼女の育ちの良さの表れだ。
アワは「ごめん」とジェスチャーで答えて、通話ボタンを押した。
「……も、もしもし?」
『あ、お兄ちゃん? 今どこ?』
「わ、ワープフープをくぐるところ……」
『遅いから、お父さん心配してるよ? 寄り道でもしてるの?』
「そ、そんなところ。ごめん、もうすぐ帰るから」
『はーい。待ってるからね』
プツン。
大きな何かが動き出す兆しを遮った着信は、ものの十数秒で終了した。
通話終了画面を呆けたように見つめていたアワは、ぽかんとした顔をフーに向けた。
会話内容が漏れ聞こえていたフーは、照れくさそうに苦く笑った。
「アクアちゃんでしょ? ……怪しまれちゃう前に、帰った方がいいわね」
「あ……うん、そう、だね」
アワは逡巡を見せたが、フーが路地裏に入っていくと、その後ろをゆっくりとついてきた。
日の入らない袋小路の果てに青白い光を放つ、フィライン・エデンへの扉。
足を踏み入れれば、もうこの先では慕情の片鱗さえ見せるわけにはいかない。
今日の自由は、ここまでだ。
この上なく惜しいタイミングで遮られてしまったが、元はといえば手作りチョコを渡すと同時に伝えたかったことだ。今でなくてもいい。
それより、早朝に台所を使っているところを家族に見つからないようにしないと。
そんなことを考えながら、ワープフープへ足を踏み出しかけたフーの背中に、声がかかる。
「フー」
振り向けば、さっきの出来事などなかったかのように穏やかな――否、全てを悟ったような顔をしたアワが、後ろで微笑んでいた。
彼ははにかむようにして、自由の終わりに言った。
「楽しみに、してるね」
胸の底をくすぐられるような、悪くない掻痒感。
フーは振り向き、こそばゆそうにする子供のような笑顔で頷くと、一足先に世界を渡った。
***
(ど……どうしよう)
その夜。
十六畳という広さの寝室さえ身の丈に合う流清家の正統後継者は、一人布団の中で冴えきった目のまま眠れずにいた。
(フーが明日、ボクに……チョコレートをくれるだって……!?)
チョコレートよりはたい焼きの方が好きなアワだが、そういう問題ではない。
バレンタインプレゼントとして、異性にチョコレートを渡すという行為。それはフィライン・エデンではまだ浸透途上なものの、人間界、少なくとも日本ではポピュラーな好意の伝達方法。それが人間界に精通する二人の間で交わされれば、たとえ彼らが人ならざる者であったとしても、そこには特別な意味が生まれる。そして今日のフーの発言からして、明らかにそれを意図していた。
フーが――意中の少女が、チョコレートに託して甘酸っぱい気持ちを伝えようとしてくれている。
彼女の前では平静を装っていたものの、願ってもない好展開に気持ちが舞い上がって仕方ない。
(うわああダメだ……寝られない……っ!)
布団の中で頭を抱えるアワ。
こう言っては身もふたもないのだが、フーが自分に好意を寄せてくれているのは、少し前から薄々知っていた。あのいたずら好きな最高司令官が催した肝試し大会で、二人きりで手をつないで歩いた夜の森の中、アワはふと本音を漏らしたのだ。
――ボク、流清家に生まれなきゃよかった。それか、フーが風中家じゃなきゃよかったのに。
――そしたら許されたかもしれないじゃないか。
そして、それに対して、フーはこう答えた。
――……ごめん、私も……そう思う……。
それで、お互いに理解してしまった。二人とも、両家に定められた禁じられた感情を抱きあっていることを。
そう――これは禁断の恋なのだ。
(あ、あれはまだほのめかす程度だったけど……もしはっきりそう言ってしまったら、どうなるんだろう? まさか罪びととしてクロに? いや、でもこれは二家の間での取り決めなんだから、クロ化は関係ないよね。お母さん達に見つからないようにすればいいんだ。だけど……うう、その日からどんな顔してフーと付き合っていけばいいんだ……!?)
困ったやら、嬉しいやら、いずれにせよ心臓はドキドキと元気に脈打って、眠れそうにない。
何度も何度も寝返りを打って、同じ回数だけ部屋の掛け時計を見て。
最後に見たのは、二時四十分の文字盤だった。
***
白いレースのクロスがかけられた丸テーブル。
シミ一つつけられない卓上には、丁寧に並べられたカトラリー。
そんな瀟洒な一席についているのは、品よくナプキンをかけながらもガチガチに緊張しきったアワだ。
周りの風景も、他に誰かいるのかどうかも、アワには見えていないし、わからない。
ただ料理を振舞われるだけなのに、過度に身構えてしまうのは、きっと出される料理のコース名と、その振る舞い手が特別な意味を持つからだ。
「お待たせ、アワ」
やってきたのは、白と黒を基調としたウェイトレス姿のフーだ。その手に持ったお盆から、前菜がしなやかにテーブルの上に滑り出す。
「新鮮野菜のチョコレートディップです。たっぷりつけて食べてね」
鮮やかなオレンジ色のにんじんと艶やかなきゅうりのスティックが、これまた洒落たガラスの容器に立てられている。そして、そばにはなめらかな茶色の液体が入った器。
そう、これはチョコレート料理のフルコースだ。それも、想いびと・風中フーから振舞われる手作りたち。
その事実にのぼせてしまっているのか、はたまた別の要因からか、アワの舌にはチョコレートにくぐらせた野菜がとびきりの前菜にしか感じられない。
「うん……おいしいよ、フー! 野菜のみずみずしさに合わせてチョコレートが濃いめなのがまたニクいね……!」
「ふふ、嬉しい。さあ、次はチョコレートの冷製スープよ」
差し出されたのは、ひんやり冷たい液体チョコレートにミルクを注いだスープ――要はココアと大差ないのだが、アワはそれをスプーンですくって口に運ぶ。
「お次は擬魚のムニエル、チョコレートがけよ」
魚のいないフィライン・エデンで魚の代わりとして食す植物由来の切り身に、ソース状のチョコレートがかかった一品。
「もぐもぐ……フー、ちょっと量が多いよ……こんなにチョコレート食べたら、鼻血出ちゃう」
「まだまだこれからなんだから。はい、こちらチョコレートソルベ」
「もぐもぐ……」
「こちら、擬肉ソテーのチョコレートソース仕立て」
「むぐむぐ……」
「そしてデザートは、ガトーショコラにザッハトルテに生チョコトリュフに……」
「ちょ、ちょっと待っ……」
「チョコレートババロアに、チョコレートアイスに、ガトーショコラに……」
「待ってフー、ってかガトーショコラ二回目だし……」
「フォンダンショコラに、オペラケーキに、チョコレートブラウニーのチョコソースがけチョコチップトッピングに……」
「むぐーーーー!」
叫びながら、アワは飛び起きた。
飛び起きた――そう、ここは純和風なアワの寝室で、彼は布団の中にいた。
アワは何秒間か呆けた後、朝の深呼吸にしては陰鬱な大息を吐き出した。
「ゆ、夢かぁ……そうだよね、いろいろおかしいもんね……何だよ、野菜のチョコレートディップって。そんなのフーが出すわけないじゃん。そしておいしいわけないじゃん」
ないない、とかぶりを振ってから、いやでも食べもせずに決めつけるのは失礼か、と考えを改める。
昨夜は遅くまで悶々とチョコレートのことを考えていたから、こんな夢を見てしまったのだろう。夢にまで出てくれずとも、こうして朝を迎えれば叶う現実なのに、せっかちなものだ。
(そうだ、今日はフーがボクに……)
朝っぱらからドキドキと脈打つ胸に手を当てながら、アワは何気なく時計に目をやった。
二つの針は、七時半を指していた。
これはちょうど、光丘神社の鳥居前で雷奈達と待ち合わせをする時間である。
「……ぇ」
本当に切羽詰まったときはまともな声すら出ないらしい。
口から出かかった音を詰まらせ、アワは跳ね上がるように立ち上がった。
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バタバタと音を立てて支度をしながら、うわごとのように独り言ちる。
「し、しまった……夕べ遅かったから……!? っていうか、何で誰も起こしてくれなかった!?」
朝食だって家族みんな揃って食べているくらいなのに、今日に限って寝坊しているからと仲間外れか。このぶんだと深夜や早朝に具合が悪くなって布団から起き上がれなくなっていても、放置され続けるのがオチだ。
最後にスマホを手に取り、グループメッセージで雷奈たちに遅刻する旨と謝罪を手短に送ると、アワは自室を飛び出した。
「行ってきまーすっ!」
縁側を走り抜ける間に、居間からふすま越しに「アワ!」と呼ぶ声が聞こえてきたが、起こしてくれなかった家族に用はない。
門を飛び出すと、つんのめりそうな勢いで走る。普段、アワとフーは先に家を出た方が相手の門の前で待つことにしているが、今朝に限ってはフーの姿はなかった。あまりにも遅い時間だからだろう。
「だったら連絡してくれてもいいんだけど……!」
文句を言っても時間は戻らない。
この時には、不眠の犯人であるバレンタインプレゼントのことはすっかり抜け落ち、頭の中は焦燥と罪悪感で満タンだった。
速まる鼓動に急かされて、アワはとにかくワープフープ目指して道を走り抜けた。
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でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
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