フィライン・エデン Ⅲ

夜市彼乃

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11.七不思議編

53宣誓センセーション ①

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 火事現場から少し離れた場所に移動すると、氷架璃は改めて、その女性を見つめた。
 小豆色の髪に合わせた、彩度の低い赤系統のベルスリーブトップスと無地のスカート。クラスでも高身長な方の氷架璃よりもわずかながら高い、女性らしいシルエットを持つ体躯。たたずまいは大人の女性のそれで、つつましやかなのに、どことなく武人然とした強かさがうかがえた。美雷よりも雰囲気が引き締まっているといえばいいだろうか。
 そんな彼女に向けるルシルの面持ちは、氷架璃が初めて目にする、憧憬をたたえたものだった。
「メルちゃんも、久しぶり。相変わらず仲良くしているようでよかったわ。……えっと、そっちは……」
 栗皮色の瞳が氷架璃に留まった。少し照れ臭さを感じて、氷架璃は頭をかきながら崩した挨拶をした。
「ども、選ばれし人間とやらの一人、水晶氷架璃です。……うとめっていうと、もしかしてルシルとメルの……」
「こら、氷架璃! 年上をいきなり呼び捨てなど、不敬だぞ! うとめ『さん』だろう!」
 牙をむいて突っかかってきたルシルに、氷架璃はめんどくさそうに応じる。
「いや、いいじゃん。美雷だって呼び捨てで通ってるし」
「それは美雷さんが呼び捨てでいいとおっしゃったからではないのか!? それに、うとめさんは美雷さんよりも年長者だ!」
「おいおい、女性の年上加減を強調するのこそ不敬じゃないのか? 年増って意味だろ?」
「なっ……貴様ぁ、言葉の選び方に気をつけろ! いいか、そんなだから……!」
 くすっ。
 うとめの口から、ひとかけらの笑い声がこぼれた。
 それだけで、才女ルシルがまたたく間に築き上げ、今に氷架璃の目の前に立ちはだからせようとしていた、言辞の限りを尽くした説教の論理的建築物は、一瞬のうちに崩れ去った。
「いいのよ、『うとめ』で。よろしくね、氷架璃ちゃん。ご存知のようだけれど、私は元希兵隊員、宇奈川うとめ。……ルシルちゃん、人間は苦手みたいだったのに、氷架璃ちゃんとはとっても仲良しなのね」
「なっ……べ、別にそういうのでは!」
「聞いてくださいよー、うとめセンパイ」
 ルシルを狼狽させるチャンスなど、そうそうあるわけではない。ここぞとばかりに小柄な肩に腕を回し、かつての同居人の赤裸々を暴いてやった。
「こいつ、人間界に派遣されてきた時は私の家の押し入れに寝泊まりしてたんすけどー、寝巻きらしい寝巻き持ってこなかったんで、私のパジャマ着せたんすよ。そしたら、ぶかぶかで指は出ないわ裾は踏みそうわで笑いました」
「やめんか!」
「他にも、私の家族が入ってきた時の押入れへの隠れようったら、スポイトに吸い込まれる水のように素早くて……」
「こら!」
「やっぱり仲良しじゃない」
 あれやこれやと語り続ける氷架璃を黙らせようと手を伸ばすルシルを、うとめはにこにこと見守る。そして、ふと遠い目をしたかと思うと、風に透かすような大人びた声になった。
「苦手の克服しかり、自己の鼓舞しかり、きっと私の見ていないところで、心は立派に育ったのね。あなたが自らの目指す強さを誓った日のことも、ちゃんと覚えているわ。折れることも曲がることもなく、まっすぐに伸ばした手が、目指したものに届いてるのを見て、私は感銘を受けました」
 青い目がはっと見開かれる。振り向いたルシルに、うとめはまっすぐ向き合った。まるで通過儀礼の達成を称えるように、あるいは後ろ手に持っていた勲章を満を持して差し出すように、彼女は言った。
「――強くなったわね、ルシルちゃん」
 ルシルの瞳が大きく揺れた。ラピスラズリの青に水面みなもの光が映り込む。あふれ出しそうな感情を抑え込むようにギュッと胸を押さえ、ルシルは最敬礼で頭を下げた。
「……ありがとう、ございま……」
 その後のことを、彼女はよく覚えていない。ただ、張り詰めていた糸が切れたような感覚とともに視界が暗くなり、働き詰めの折にはよくある浮遊感と、自分の名を呼ぶ二人の声を最後に、意識を闇へと落とした。

***

 気がつけば、視線の先に壁があった。否、天井だ。
 どこかで見たことのある天井だなと思いつつ、再びとろとろと下がってきたまぶたに抗わず意識をぼやかしていると、
「てい」
「あだっ」
 強烈なビンタがルシルの額を襲った。
「……メル」
 すっかり覚醒して視線を巡らせると、世間の全てを憂うような物悲しげな顔をした白猫が覗き込んでいた。首を動かすと、枕側の壁にはカレンダーが見え、左手奥に押し入れ、窓際に勉強机、部屋の真ん中に水色のカーペットが確認できる。彼女にとっては懐かしの光景だ。
「あれ……ここは、もしかして……?」
「起きたか、貧血隊長。まだまだこの二つ名は健在だな」
「本人は全く健在ではありませんけどね」
 ベッド脇に腕を組んで仁王立ちする氷架璃と、シーツの上に乗ったメルが、あろうことか意気投合していた。そこでルシルは、自分が氷架璃の部屋のベッドに寝かされていたのだと気づいた。
 かつての居候生活では、ルシルの寝室は押し入れの中だった。予備なのか来客用なのか、一セットだけ余っていた布団が畳まれている上で丸まれたので、まあまあいつも通りの感覚と離れてはいなかった。しかし、今、背中に感じる弾力は、ふかふかでありながら疲れない程度の沈み込みで、希兵隊舎の寮のもの以上の質だとわかる。伊達に家政婦を雇う小金持ちではない。
「だから無理すんなって言ったのに。私がここまでおぶってきて、意識不明のあんたと、身元不明のうとめと、おまけに白猫一匹連れて上がる言い訳をおばあちゃんにまくし立てて、今に至るんだからな。感謝しろ」
「ああ、いつもは忌々しいだけだが、今回は感謝するよ。ありがとう、簡単におぶれるほど小柄な私の身長」
「私への感謝はよ」
 氷架璃の苦言もどこ吹く風とそっぽを向いたルシルだが、「まったく」と呆れた女性の声には、慌てて振り返った。
「相変わらず体調も顧みずに仕事してるの? その癖は全然改善されてないのね」
「す、すみません」
「前言は撤回しようかしら」
「え」
 うとめの殺し文句に対する顔があまりに悲壮なもので、氷架璃は思わず吹き出し、そのまま笑い転げたい衝動に駆られた。一方のうとめは優しく笑って「冗談よ」ととりなす。
「でも、久しぶりに会えてよかった。どうしてるかなって気にはしてたから。連絡先知ってるのに、長らく挨拶もなくてごめんね」
「い、いえっ。……私も、また会えて嬉しいです」
「ありがとう」
 うとめはにこっと微笑むと、左手首の内側の上品な時計に目をやった。
「さて、私もこれから行くところがあるのよ。これでも仕事の真っ最中だったの。ルシルちゃん、落ち着いたら帰って、ちゃんと医務室で診てもらうのよ」
「あ……はい」
「じゃ、
 うとめは、ルシル、そしてメルに手を振ると、氷架璃に「それじゃ、お暇するわ」と声をかけた。見送りをやんわり辞退して、彼女は部屋を後にする。祖母あたりが「お茶でも」と引き止めないかと思った氷架璃だが、うとめは丁寧に断るだろうし、祖母も無理強いする人ではないのでそのまま見送るだろう。
 うとめが去った後の扉を見つめていた氷架璃がベッドの方へ向き直ると、ルシルが「あとで……?」と首を傾げていた。その脇腹をメルが引っかく。
「ほら、何のんびりしてるんですか。きりきり準備して、きりきり戻って、きりきり休みますよ」
「休ませたいのかそうじゃないのかどっちだ」
 せっかく回復した体力を横取りされたような気分で、ルシルはため息をつきながらベッドから降りた。シーツの上に敷いていたタオル――火事現場で煤のついた服のまま寝かせるのをはばかって氷架璃が敷いた――と、掛け布団の内側に挟んでいたタオルケットを洗濯のため持ち帰ろうとするあたり、やはり育ちの良い令嬢である。
 そして、決まり悪そうに視線を逸らしながらも、氷架璃に礼を言う。
「なんだ、まあ、世話になった」
「今さらだろ。希兵隊舎まで送ってくよ」
「ああ……ありがとう」
 ルシルはいったん十番隊に連絡を入れてから、メルを肩に乗せた。通話中、その場で待っていた氷架璃は、ピッチの向こうから何やら金切り声が聞こえた気がしたが、ルシルのワーカホリック癖を叱り飛ばしてくれるなら誰でもいいし、おおいに歓迎する所存である。
 階段を降りると、来たときはぐったり氷架璃に背負われてきたルシルが自分の足で歩いているのを見て、氷架璃の祖母が顔をほころばせた。まさか一年ほど孫の部屋に住み着いていたとは知るはずもない彼女は、「まあ、きれいな色のお目目ね。猫ちゃんの首輪とおそろいで」ところころ笑い、ルシルは「恐れ入ります」と一礼。なぜここまで慇懃にできるくせに、自分には失礼な態度をとるのか解せないまま、氷架璃は玄関ドアを開けた。
 庭を抜けて道路に出ると、右に折れてまっすぐ歩く。てくてくと、アスファルトを打つ靴音だけがついてきていた。空には白い雲がのんびりと浮かんでいる。さっきよりも幾分か風がおとなしくなったようだ。
 穏やかな空を眺めながら歩を進める氷架璃。まっすぐ前を見ながら規則正しく歩くルシル。視線も言葉も交わさないが、気まずい沈黙ではない。何もせずとも、互いがそこにいることが自然であるように感じるのは、一時とはいえ共同生活を過ごしたためかもしれない。雷奈にも芽華実にもない、自分特有の感覚なのだろうと思いながら、氷架璃は視線は空に投げかけたまま、声を隣によこした。
「なんか、久しぶりだな」
「何がだ」
「こうして二人でいるのが」
「私もいます」
「あ、すまん、メル」
 ついつい、この寡黙な副隊長の存在を忘れてしまう氷架璃であった。
「ガオン騒動の時はどうなるかと思ったけど、今は嘘みたいに平和なもんだよなー……。悪いな、あんまり見舞いに行ってやれなくて。らしくなくメンタルへこんでたんだわ」
「雷奈の件だろう。無理もない。私なら、かわるがわる色々なひとが見舞いに来てくれたから、気にするな。……そういえばメルは来てくれなかったな」
「あなたの代わりに業務をしていたんです、当たり前でしょう。安心してください、最期とあらば看取りに行きます」
「あんたら本当に死線を乗り越えた相棒なのか?」
 涙も流さず淡々と見送るメルの姿が目に浮かび、氷架璃は何かおぞましいものを感じて身を震わせた。
「……そういや、だいぶ怒られたんじゃないのか? 時空洞穴に勝手に入っていったこと、美雷に」
「私も覚悟したがね。だが、それどころではなかったんだ」
 復帰した後も、しばらくルシルが美雷と直接言葉を交わすことはなかった。総司令部員への指示に三者会議にと多忙を極めていた美雷との意思疎通は、全て言づてか書き置きだったのだ。叱責を食らわないに越したことはないが、中途半端に先延ばしになっているような状況に居心地の悪さを感じて、先に謝罪の言葉を一筆したためようかと思っていた矢先、美雷が体調を崩したのだという。
「いつも悠々としている美雷さんが、机に伏したまま動けなくなっていると聞いてね。彼女の心労を改めて認識して、私の罪悪感はいやが上にも増したわけだ」
「美雷のやつ、意外と繊細だったんだな」
「馬鹿言え、ここまでタフな方がいるか。ガオン騒動の一連の切迫した状況で、限界を迎える瞬間までいつも通りに振る舞っていたんだぞ。私なら途中で血を吐いて倒れる。お前もきっと発狂して学校のプールにスピンしながら突っ込む」
「なんで私は頭から先にやられる前提なんだよ」
 とかく、謝罪は病床を見舞う折となり、大したお小言も頂戴せずに終わったというわけである。とはいえ、弱った彼女の姿を見て、ルシルだけでなくコウと霞冴も、どんな叱責を受けるよりも反省したのだった。
「けどさ」
 伸びをしたついでに頭の後ろに両手を回して、氷架璃は言う。
「あそこで飛び込まなかったら、雷奈は助けられなかっただろ」
「……」
「私ゃ、あそこで立場も司令も忘れて、雷奈を救うために動いた人間嫌いさんの成長が嬉しいけどな」
 ルシルは黙ったまま、規則正しく足を動かし続けた。
 その背中をこっそり白い尻尾でくすぐられ、人知れず唇を尖らせながら。
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