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かりんとうもどきの恋心
朔太郎の決意
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朔太郎が寺子屋からしょんぼりとして帰ってきたのは、せみがうるさく鳴きはじめた暑いある日のことだった。
うちわ売りが、「うちわーうちわー」と歌うように声をあげて通りすぎる。その向こうからよしに伴われて帰ってきた朔太郎は、家に着くなり憮然として口を開いた。
「おいら、明日から寺子屋へは行かない」
「え?」
毎日楽しく通っていると思っていたのぶにとって、それは寝耳に水の言葉だった。
「どうしたの? なにか嫌なことでもあった? 誰かと喧嘩でもした? 先生に叱られたの?」
矢継ぎ早に尋ねるが、彼はぶすっとしたまま黙ってしまう。その彼に、のぶは苛立ちを覚える。
「ちゃんと言わないとわからないじゃない」
思わず声を荒げると、隣のよしが遠慮がちに口を開いた。
「お友達の松太郎さんが、隣町の寺子屋へ移ってしまったんです」
「え? ……松太郎さんが?」
これもまた突然すぎる話だった。つい三日前にも松太郎となみはここへ来たが、そんな話は出なかった。なみがあえて隠すとは思えないから、彼女もなにも知らなかったのだろう。
いったいなにがどうなっているのだろう。
「松太郎さんだけじゃなくて、他にもさくちゃんのお友達で寺子屋を変わった子がたくさんいて、遊ぶ相手がいないんです。それで……寂しいんだよね」
よしの話に、朔太郎はうんともすんとも言わないがどうやら原因はそこのようだ。
松太郎が別の寺子屋へ移ったというのも気になるが、もっと気にかかるのは、他にもそういう子がいるという言葉だ。少し前に見に行った時は、子供たちで賑わっていたが、あれから状況が変わったのだろうか。
「よっちゃん、隣町に移った子はそんなにたくさんいるの?」
気になって尋ねると、よしは顔を顰めて頷いた。
「男の子はとくに多いです」
よしにとってもあまりよくない事態のようだ。
「それは、寂しいね」
「はい。それに移っていく子たち、すごく嫌そうなんです。又三郎先生は優しいし、わからないところは怒らずに何度も教えてくれます。でも隣町の先生は、すごく怖いみたい。この前かわっていった、いっちゃん、毎日地獄だって言ってた。問いを間違えると、竹の棒で手を叩かれるって」
いっちゃんという子とよしは仲良しなのだろうか、珍しく怒っている。騒いだりさぼっているならともかく問いを間違えただけで、竹の棒で手を叩くなんて、ずいぶんなやり方だとのぶも思う。
けれど、子供の手前口には出さず「おしえてくれてありがとう」とだけ答えた。
よしが帰ってもむっつりと黙ったまま田楽を食べる朔太郎に、なんと声をかけるべきかわからずに、悩む。
親としてはどうするのがいいのだろうか。
少し前に感じた自分は未熟者なのだという考えは相変わらずのぶの胸に居座っていて、なにもかもに自信が持てない。
それでも朔太郎の親を止めるわけにはいかないから、こんな時のぶは亡くなった自分の両親がどうしていたかを考えるようにしていた。
のぶの両親は優しかったが躾や手習のことに関してはそこそこ厳しかったと思う。寺子屋の師匠は厳しく男の子ばかりを大切にしていたから、正直なところあまり好きではなかった。行きたくないと思うこともあったけれど、それを口にはできなかった。叱られることがわかっていたからだ。
それらを考えると、びしっと言い聞かせるべきなのかもしれない。
でも毎日楽しそうに通っていた朔太郎の、こんなしょんぼりとした姿を見ると胸が痛くてできる自信がなかった。
「食べたら、遊んでおいで」
結局それしか言えなくて、そんな自分にのぶはため息をついた。
うちわ売りが、「うちわーうちわー」と歌うように声をあげて通りすぎる。その向こうからよしに伴われて帰ってきた朔太郎は、家に着くなり憮然として口を開いた。
「おいら、明日から寺子屋へは行かない」
「え?」
毎日楽しく通っていると思っていたのぶにとって、それは寝耳に水の言葉だった。
「どうしたの? なにか嫌なことでもあった? 誰かと喧嘩でもした? 先生に叱られたの?」
矢継ぎ早に尋ねるが、彼はぶすっとしたまま黙ってしまう。その彼に、のぶは苛立ちを覚える。
「ちゃんと言わないとわからないじゃない」
思わず声を荒げると、隣のよしが遠慮がちに口を開いた。
「お友達の松太郎さんが、隣町の寺子屋へ移ってしまったんです」
「え? ……松太郎さんが?」
これもまた突然すぎる話だった。つい三日前にも松太郎となみはここへ来たが、そんな話は出なかった。なみがあえて隠すとは思えないから、彼女もなにも知らなかったのだろう。
いったいなにがどうなっているのだろう。
「松太郎さんだけじゃなくて、他にもさくちゃんのお友達で寺子屋を変わった子がたくさんいて、遊ぶ相手がいないんです。それで……寂しいんだよね」
よしの話に、朔太郎はうんともすんとも言わないがどうやら原因はそこのようだ。
松太郎が別の寺子屋へ移ったというのも気になるが、もっと気にかかるのは、他にもそういう子がいるという言葉だ。少し前に見に行った時は、子供たちで賑わっていたが、あれから状況が変わったのだろうか。
「よっちゃん、隣町に移った子はそんなにたくさんいるの?」
気になって尋ねると、よしは顔を顰めて頷いた。
「男の子はとくに多いです」
よしにとってもあまりよくない事態のようだ。
「それは、寂しいね」
「はい。それに移っていく子たち、すごく嫌そうなんです。又三郎先生は優しいし、わからないところは怒らずに何度も教えてくれます。でも隣町の先生は、すごく怖いみたい。この前かわっていった、いっちゃん、毎日地獄だって言ってた。問いを間違えると、竹の棒で手を叩かれるって」
いっちゃんという子とよしは仲良しなのだろうか、珍しく怒っている。騒いだりさぼっているならともかく問いを間違えただけで、竹の棒で手を叩くなんて、ずいぶんなやり方だとのぶも思う。
けれど、子供の手前口には出さず「おしえてくれてありがとう」とだけ答えた。
よしが帰ってもむっつりと黙ったまま田楽を食べる朔太郎に、なんと声をかけるべきかわからずに、悩む。
親としてはどうするのがいいのだろうか。
少し前に感じた自分は未熟者なのだという考えは相変わらずのぶの胸に居座っていて、なにもかもに自信が持てない。
それでも朔太郎の親を止めるわけにはいかないから、こんな時のぶは亡くなった自分の両親がどうしていたかを考えるようにしていた。
のぶの両親は優しかったが躾や手習のことに関してはそこそこ厳しかったと思う。寺子屋の師匠は厳しく男の子ばかりを大切にしていたから、正直なところあまり好きではなかった。行きたくないと思うこともあったけれど、それを口にはできなかった。叱られることがわかっていたからだ。
それらを考えると、びしっと言い聞かせるべきなのかもしれない。
でも毎日楽しそうに通っていた朔太郎の、こんなしょんぼりとした姿を見ると胸が痛くてできる自信がなかった。
「食べたら、遊んでおいで」
結局それしか言えなくて、そんな自分にのぶはため息をついた。
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