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【第二章】 「腹黒王子に逃げた俺、逃げきれませんでした」
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しおりを挟む「———部屋、帰ります」
その一言を口に出すまでに、どれだけ時間がかかったんだろう。
胸の奥がじくじくと熱くて、怖くて、でもそれでも、この人の手を取った。
いつも俺の意志を奪っていたその手を今度は俺が引いた。
晴人の手は驚くほど冷たくて、でも何も言わずに、俺のあとをついてくる。
寮の廊下は、夕方の柔らかい光で照らされていて、まるでなにかが変わろうとしてることを、祝福してるみたいだった。
会長の部屋のドアを閉める前、スマホを取り出して、短くメッセージを送る。
『迷惑かけてすみません、お世話になりました。俺、部屋に戻ります。』
送信して三秒。画面に″既読″がつく。
返信はない。でも、それで十分だった。
***
部屋の扉を開けると、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
柔らかい洗剤と、薄く香る柑橘系の芳香剤。
何日も離れてたはずなのに、部屋はまるで俺が出ていかなかったかのように——いや、それ以上に綺麗だった。
机は拭かれ、ベッドのシーツは張り替えられている。
ゴミもひとつなく、洗面所のタオルは清潔に畳まれ、新しい俺の歯ブラシすら丁寧に立てられていた。
「……なんか、引くくらい整理されてますね」
「……いつでも帰ってきてもいいように、と思って」
晴人は申し訳なさそうに、でもどこかほっとした顔で答えた。
たぶん、この数日間、ずっとこうして“準備”して待ってたんだ。
俺が、戻る日を。
部屋の中央、リビングテーブルの椅子に腰を下ろして、俺は少しだけ間をあけてから言った。
「俺、朝は菓子パン派なんです」
「……え?」
ぽかんとした顔の晴人に、さらに畳みかける。
「だから、朝食は毎回トーストじゃなくていいです。菓子パンが食いたい日もあるし、てかパンとかじゃなくて白米と納豆の日も欲しいです」
「……うん」
「あと昼はオシャレなムニエルとかじゃなくて、唐揚げ定食とかラーメンが食いたいです。
たまにはコンビニでもいいし。あ、風呂はぬるめじゃなくて熱めが好きです。前に合わせてぬるめにしてましたけど、正直物足りなかったです」
「……う、うん」
「それと朝はたっぷり寝たい。起こさないでほしいし、目玉焼きは半熟が良いし、支度は自分でやります。
いろいろ世話してくれてたけど、過干渉すぎるのはやっぱ健全じゃないって思います」
晴人は、まるでバグを起こしたAIみたいに黙って固まったまま、俺の言葉を飲み込んでいた。
でも、少し時間をおいて——
「……わかった。全部……気をつける」
晴人は、そう言った。
綺麗な顔に戸惑いの影を浮かべながら、あの穏やかな笑顔じゃなくて困惑を表情を出して、それでも否定しなかった。
「他にも、あったら……言って。ちゃんと聞くから」
俺から見た委員長の姿は、まるで別人だった。
何でも先回りして決めていたあの“風紀委員長”は、もういない。
人形みたいな綺麗な顔に夕陽が差して頬が薄ら赤く染まっている。
青い目は真っ直ぐ俺を見ていて、俺の意思を汲み取ろうと、話を聞いてくれてる。
俺の隣に“並ぼう”としてる、少し不器用な男の子だった。
なんだか——不思議な気分だった。
(……あれ。これってもしかして、主導権がこっちにある……?)
いままでずっと流されていたのに。
拒否できずに支配されていたのに。
今の晴人は、俺の言葉に揺れて、振り回されて、でもそれを受け止めようとしてる。
(……え、なんか……この人、めっちゃかわいくない?)
思わずそんなことを思ってしまった自分に、自分が一番驚いていた。
恋心が晴人を″可愛く″見せているのか、
ただ前までと違う晴人が庇護欲を誘ってくるのか分からないが、
眉尻を下げ俺の言葉を受け止める姿は慎ましやかだ。
まだ全部を信じたわけじゃない。簡単に許したわけでもない。
でも今、俺は確かに″王子に選ばれた俺″じゃなくて″選ぶ側″にいる。
そのことが、胸に仄暗い昂揚感を感じさせた。
——少しずつ、始めよう。
今度こそ、お互いをちゃんと見て、話して、選び直すところから。
部屋の空気が、以前より柔らかく、生きやすくなった気がした。
***
湯気のたつバスルームから出ると、
部屋の明かりは少しだけ落とされていて、空気がやわらかくなっていた。
タオルで髪を拭いていると、懐かしい匂いが肺を占めて、胸がぎゅっとする。
晴人が手に小さなボトルを持って近づいてくる。
「……保湿、したほうがいい。湯船長かったでしょ?」
「えっ……あ、うん。別に……そこまで肌弱くないけど……」
「でも君、乾燥しやすいし…」
俺の返事なんて待ってなかった。
晴人は床にしゃがんで、手のひらにクリームをのせると、俺の足元から丁寧に塗りはじめる。
「ちょ、え、ちょっと待って、何して……!」
「我慢して。終わるまで」
なにその理不尽な甘やかし!
過干渉は良くないって俺確かに話したよね!?
なんでこの人、こっちが戻ってきた瞬間から甘えられるスイッチが入るんだ。
そもそも、もしかしてこの人、俺に過干渉なんじゃなくて、ただ世話が好きなだけなんじゃ——…。
(いやでも……これはこれで……)
クリームはほんのりミルクの匂いがした。
ぬるっとした手つきでくるぶしをなぞられるたび、背筋がぞわぞわする。
気持ち悪いんじゃなくて、なんか……擽ったい。恥ずかしい。
「顔、赤い」
「赤くない!」
「……素直じゃないな」
そう言って微笑む晴人の顔は、さっきまでの泣き腫らした瞳のままなのに、どこか安らいでいた。
俺の髪を拭いていたタオルを取って、さらりと指先が髪に触れる。
「……同じ匂いがする」
「え?」
「僕の使ってるシャンプー、根津くんにも合うと思って」
「……それ、勝手に思ってただけじゃん」
「うん。でも今は、ちゃんと″選んでくれた″」
「…持って帰ってきた荷物、出すのが面倒だっただけ」
晴人は俺の言葉を気にせず、髪に顔を寄せる。
鼻先がそっと髪に触れるだけ。でもその仕草が、妙に満たされてるのが伝わってくる。
(……この人、どこまで俺のこと好きなんだ)
なんかもう、逆に心配になる。
こんな綺麗な人なのに、いや中身というか本性は綺麗かと言われたら、ちょっと人格を疑うレベルではあるけど。
…なんで俺なんだろ。
この人に付き従う人なんて、幾らでもいるのに。
自分が安心できる人間の定義が曖昧で、″欲しい″と思ったらそれしか見えなくなって、それで俺に執着して…、
なんだか、″寂しい人″だなと思った。
でも、触られるのは嫌じゃなかった。
今は前みたいに“支配されてる”感じはないし、
彼の触れ方は、どこか慎重で、まるで——俺のことを“壊さないように”扱ってるみたいだった。
「ちょっと、水飲んでくる」
そう言って立ち上がり、冷蔵庫を開けた瞬間——
(……あれ)
棚の奥に、見覚えのあるラベルのミネラルウォーターが、ちょこんと置いてある。
キャップは閉まっていて、ラベルはほんの少しめくれてる。
それは、俺が出ていく前、半分だけ飲んで残してた、あの水だった。
「……これ、」
「っあ……!」
後ろから聞こえた音に振り返ると、晴人がぎょっとしたような顔で固まっていた。
「え、何、これ取ってたの? 捨ててなかったの?」
「……あの、いや、その、べつに、意味があってとかじゃなくて……」
「取ってたじゃん」
「……ごめん、気持ち悪かった?」
「いや……ちょっと引いたけど」
言いながら、俺はそのボトルを取り出し、キャップを開けて一口飲んだ。
「でもまあ、俺のだし。別にいいです」
「……え」
「気ぃ遣って残してくれてたなら、ありがたく飲んどくよ。もったいないし」
目をぱちぱちさせている晴人を横目に、水を飲み干して冷蔵庫に戻す。
たぶん、俺のこの反応は予想外だったんだろう。
「……君、やっぱり強いね」
「それ、褒めてます?」
「もちろん」
なぜか嬉しそうに微笑む晴人に、呆れながらも俺は少しだけ口角を上げた。
ベッドに入るころには、いつもの並びが戻っていた。
俺はいつもどおり左側、晴人は右側。
布団は一枚しかない。部屋に戻ったとき、ベッドが一つしかない時点で察してたけど——
(……やっぱり、狭い)
でも、不思議と“嫌”じゃなかった。
背後から伸びてきた腕に、ぎゅっと抱きしめられる。
息が耳にかかる距離、心音が聞こえる距離。
「……変なことしないから、安心して寝ていいよ。」
「……それ言われると、警戒するんですけど」
「ごめんね……でも、ほんとに何もしないから。
……今日、君に選んでもらえて、嬉しかった」
その声が、どこまでも素直で、じんと胸に沁みた。
「……俺だって、全部許したわけじゃないですよ」
「知ってる。でも、それでもいい」
「ほんとに、めんどくさいな、委員長」
「そうだね」
苦笑いが耳元でこぼれて、俺は目を閉じた。
今、俺の背中にある温もりが、ひとつも不快じゃない。
支配でも、命令でもなく。
ただ、隣にいたいって願われてるこの感覚が、なんだかすごく穏やかだった。
明日の朝ごはんは、久しぶりに菓子パンにしよう。
起きたくなければ寝坊も許してもらおう。
そのかわり、ちゃんと、俺からも彼に触れてみよう。
「——おやすみなさい。」
小さく呟くと、背中で彼がそっと頷いた気がした。
少しずつ、始まっていく。
今度こそ“対等な関係”が、ここから。
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