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【第二章】擬装期間編
2-6
しおりを挟む(孝視点)
——時間軸は、澪が風紀委員室に垣根孝を迎え行く少し前のこと。
放課後の廊下は、靴音と雑談のざわめきに満ちていた。
日が傾き、寮に戻る生徒たちの影が伸びる中で、俺はある一点を狙って立ち止まっていた。
廊下の角。
人目からは死角になる微妙な位置。
気配を殺して、壁に凭れて待つ。
(そろそろ、来る頃だ)
そして——
「……久しぶり、根津くん」
現れた黒髪の少年に声をかけた瞬間、彼の肩がほんのわずかに震えた。
予想通りの反応。
でも、その表情は期待していたよりずっと浮かないものだった。
「……王子様とは、もういいの?」
俺がそう訊くと、美咲はゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、諦念のような陰りがあった。
「……あの記事、委員長に全部バラしてたのか…?」
おやおや、って顔を作って、俺は口元に指を立てる。
「しー。そんな野暮なこと、俺がすると思う?」
「…………」
「言ったじゃん。俺、君のこと“好き”なんだよね。 だから、君のことは裏切ったりしないよ?」
冗談みたいな口調だけど、目はちゃんと見てる。
嘘を信じてもらおうとは思ってない。
ただ、“俺は裏切ってない”と宣言することが大事なんだ。
「……“あれ”は俺も驚いたけど……たぶん、アドリブじゃない?」
「……」
「だって、あの人、怖いくらい賢いからさ。
君が言い返せないのも、断れないのも、全部わかってて……
ああやって、恋人宣言。完璧だったよねぇ」
壁に背を預けながら、俺は笑う。
あの一瞬で、全てを持っていかれた。
あれは——劇場型の掌握だった。
美咲の瞳が揺れている。
あの場面を思い出して、胸のどこかを擦られているのだろう。
「……君ってさ、ほんとは逃げたいんじゃないの?」
「……!」
「ねぇ、逃げたいなら、俺のとこ来てもいいよ?」
「……は?」
反応は薄かったが、目が一度だけ大きく見開かれた。
俺は笑顔を保ったまま、さらに一歩詰める。
「寮部屋の空きはないけど、部室にはソファもあるし、
匿える環境はあるよ。ついでに、生徒会もやめて、新聞部入ったら?」
悪戯を仕掛ける子供のように、軽く囁く。
この子が俺のほうに落ちてくるかもしれない、その予感を楽しみながら。
「……最終手段にしとく……」
ぽつりと返された言葉は、拒絶ではなかった。
可能性を完全には捨てていない。
つまり、それで充分。
「うんうん! その時がこなかったらいいね!」
あくまで明るく、無邪気に——
しかし、垣根孝は、蜘蛛のように静かに巣を張り″餌″がかかるのを楽しみに待っている。
(来るといいなぁ、“その時”)
孝は振り返る美咲の背を目で追いながら、心の中で呟いた。
(逃げ場があるって、思わせておくのって——案外、便利だよね)
孝は美咲と反対の方向へ足を進める。
向かうのは風紀委員室。
″壊れていく王子様″、″自由になったはずなのに捕らわれたままの囚人″、その脆い関係を爪の先で引っ掻くようなこの感覚。
ちょっとした歪みの中で、人間の輪郭が崩れていくのを、
俺は何よりも——愛している。
———しかし事態は垣根孝の思うようには、動かなかった。
***
(澪視点)
昼休み前の廊下は、まだ静かだった。
「……風紀委員長が俺に何のご用ですか」
呼び出された澪は、無表情に尋ねた。
風紀委員会、天瀬晴人は廊下の窓辺に立ち、背後の木漏れ日を背負いながら、いつもの微笑を浮かべていた。
「ごめんね、急な呼び出しでびっくりさせて」
「……そういうの、いいんで。ハッキリ言ってくれませんか」
澪の声は冷ややかで、どこか読み慣れた芝居に飽いているようだった。
けれど、晴人はまったく動じない。
軽く肩をすくめて、口を開く。
「……君は話が早くて助かるなぁ」
そこからの彼の口調には、わずかに熱が帯びていた。
「君、“あの子”の彼氏なんでしょ?」
「あの子……?」
言葉の意味を測りかねたように眉を寄せる澪に、晴人はあくまで無邪気な顔で言い切る。
「新聞部の子。君の彼氏」
「……まあ、一応」
「だったら、頼みたいことがあるんだ。ちょっと釘を刺して欲しいの。……あの子、どうやら僕の“恋人”を誑かしてたみたいでね」
その言葉に、澪はぴくりと反応した。
「……誑かす、って」
「うん。正確には、“逃げ場を作ろうとしていた”って言った方がいいのかな。……僕の大切な人に手を出すって、どう思う?」
晴人の声は柔らかいのに、底が見えなかった。
——思い当たる点がないといえば、嘘になる。
しかし晴人の目は水面に映る月のように綺麗で、触れれば消えてしまいそうで、なにより——その水の深さがわからないのが恐ろしい。
澪はわずかに目を細めた。
「……それを俺に言って、何が目的ですか。俺に忠誠を誓わせたいとか?」
「違うよ」
晴人は、微笑んだまま少しだけ顔を傾ける。
「ただ、君なら分かってくれると思っただけ。同じ“立場”にいたから」
「……同じ?」
「君だって、本気で手を伸ばせば届く相手に、ずっと我慢してたんじゃない?擬装カップルだなんて、相手にとって都合が良い駒になって。……でもそろそろ、欲しくない? ″進展″が」
晴人の声は、まるで囁くようだった。
耳の奥に落ちてくるようなその声音に、澪は初めて明確な“違和感”を覚えた。
(……この人、本当に“変わった”のか?)
根津美咲の前では、確かに誠実に見えた。
けれど今、自分の前で口にしている言葉は——
(あの日、俺に″擬装カップル″を提案してきたときのあいつと、そっくりな話し方)
「……釘を刺すって、どうやって?」
澪は、晴人に答えを求めた。
晴人は首を傾げる。
「簡単だよ。“君の彼氏”って言えばいい。あの子、賢いから気づいてくれる。たぶん、もうとっくに気づいてるけど、確認を避けてるだけ。そういうタイプだよね」
「……」
「君が“所有者”として振る舞えば、きっとあの子は身を引く。そうすれば、僕の恋人に“余計な選択肢”を見せるような真似もなくなる」
澪は一歩引いた。
それが物理的な距離なのか、精神的な拒絶なのか、自分でも分からなかった。
けれど——そのまま、言葉を返さなかった。
「頑張ってね、″ダーリン″くん。」
昼食前、食堂へと続く廊下。
垣根孝は壁にもたれ、スマホをいじっていた。
その姿に澪は近づくと、立ち止まり、ぽつりと尋ねた。
「根津美咲に、迫ったって本当か」
垣根は視線だけを上げる。
軽く笑って、何の緊張も見せずに言った。
「……あの子、“良い”からね。逃げ場がないなら、匿ってあげようと思っただけだよ」
「匿う?」
「うん。……優しくされたら、勘違いするのは仕方ないことじゃない?」
まるで悪気のない声だった。
だが、その軽さが逆に澪の胸に重く沈む。
(……俺と、こいつの部屋に——?)
垣根はまたスマホに目を落とす。
澪を真正面から見ることはない。
まるで、見ているようで、見ていなかった。
澪が、“自分のことを好きでいてくれる都合のいい存在”である間だけ、彼の世界に居場所が与えられていたのだ。
ふと、廊下の奥から晴人と美咲の姿が見えた。
ふたり並んで食堂に向かって歩いていく。
その背中には、かつての一方的な圧力はなく、どこか均衡があった。
(俺たちより、よっぽど恋人らしいな)
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