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【第三章】逃亡編
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(澪視点)
昼休み前の中庭は、人影がまばらだった。
澪はベンチに腰掛け、手元の本に視線を落としていた。
内容は頭に入っていない。ただ、風と静けさだけが、自分の思考を保ってくれている気がした。
そこへ——
「こんにちは、澪くん」
——妙に軽やかな声が響いた。
本から目を上げるまでもなく、誰の声かは分かった。
「……今度は何の用だ」
開口一番、澪は刺すような声で返した。
日差しを背に立つ風紀委員長、天瀬晴人は、澪の不機嫌を気にも留めず、笑みを崩さない。
「ふふ、怖い顔だ。今日はこの間のお礼に来たんだよ」
「礼?」
「うん。根津くんの恋人として。君が一役買ってくれたことに」
晴人の目は笑っていた。
けれど、その笑みは相変わらず何も映していない。水面に浮かぶ月のように、美しく、そして空虚だ。
「……勝手に踏み込んできて、勝手に“利用”して、それで礼かよ」
「言い方がひどいな。君は僕と似てるから、頼んだだけなのに」
澪の眉がわずかに動いた。
(——似てる?)
「……分かった。それで、何が狙いだ?」
澪がそう問い返すと、晴人は一歩、彼の隣に腰を下ろした。目線の高さがそろうと、その笑みはさらに意味深に深まる。
「僕の目的はね、君の“お手伝い”」
「……」
「君の彼氏——垣根孝くん、自由にしてると僕にとって“邪魔”になるかもしれないから」
「……あいつは“俺の問題”だ」
「もちろん。でも、僕も“彼の行動”に巻き込まれたくはない。……それに、君だって困ってるでしょ?」
晴人は穏やかな笑みを浮かべて、優しく告げた。
澪は、晴人の話を聞くたびに、彼が自分を″似てる″という意味が理解出来てしまってたまらなく嫌になる。
「協力しよう、澪くん。あの子の“選択肢”を潰すのは、僕だけじゃなく、君の役割でもある。僕の恋人に“余計な逃げ場”を与えたのは、垣根くんなんだから」
「……」
「その代わり、君も僕に協力してよ」
「根津はもう捕まえたんだろ」
「うん。でも、心はまだ」
穏やかに言ったその言葉に、澪はようやく顔を上げた。
(……心は、まだ)
その響きが、どこか自分にも刺さった。
「……」
風が吹いた。ベンチの下で、澪の指がわずかに揺れた。
晴人の言葉は、確かに暴力ではなかった。
けれどそれは、人の思考を削る刃物のようだった。
(……似てる?)
(ふざけるな。俺は、あんたとは違う)
……そう思ったはずなのに、どうしてだろう。
今、少しだけ。
晴人の語る“協力関係”に、抗い難い“居心地の良さ”を感じた。
それは、誰よりも人を操ってきた“支配者の匂い”。
誰よりも近くで垣根を見てきた。
何をすればいいかなんて、考えなくても知っている。
***
午後、教室はざわついていた。
Aクラスの生徒たちは華やかで、どこか芝居がかった仕草に満ちている。
食事の時間にも、自分の“立ち位置”を忘れない彼らの輪の中に、澪はぽつりと存在していた。
「……針崎くん、元気ないね」
前の席の生徒が、気遣うように振り返った。
柔らかく結った髪、高級そうなピアス。
こういういかにも″男受け″を狙ったタイプは、“自分の好感度”を傷つけない範囲でしか他人を心配しない。
——それを理解した上で、澪は微笑んだ。
「……恋人が不在で」
「えっ?」
男子生徒の目が丸くなった。その隣の生徒も驚いたように顔を上げる。
「……そっか。あのCクラスの子……最近見かけないなとは思ってたけど」
「喧嘩、しちゃったの?」
「……まあ、似たようなもんかな」
澪は少しだけ伏し目がちに目を伏せてみせた。
わざとらしいほどの“傷心”の演技。
でも、それでいい。
このクラスには、“弱い針崎澪”を見たがっている人間が一定数いる。
可哀想な恋人。捨てられた男。……これまで針のように誰も近づけなかった澪が見せる″隙″は、容易く人を動かした。
「そっかぁ……針崎くん、あんなに尽くしてたのにね……」
「澪くんの彼氏って、けっこう好き勝手してたって噂だよ?」
「針崎くんのほうが、なんか一途って感じだし」
「でもちゃんと話し合ったほうがいいよね……連れ戻す?」
「うん……うちの僕らで、見かけたら声かけとくね」
——ほんの数分。
ただ“少し弱っているふり”をしただけで、彼らは動き出す。
“可哀想な針崎澪”を慰めるという大義名分のもとに。
(……簡単なもんだ)
澪の口元が、微かに持ち上がる。
けれど、笑ってはいけない。今は、まだ。
晴人が言っていた。
『君が“所有者”として振る舞えば、きっとあの子は身を引く』
『そうすれば、僕の恋人に“余計な選択肢”を見せるような真似もなくなる』
あの言葉を、澪は“自分なりのやり方”に置き換えた。
——俺は、追い詰める。
正面からじゃない。
“澪くんのために”という善意で、周囲に動かせるように。
事実、垣根孝の足場はもう、削れ始めている。
澪の一言に反応した生徒たちは、それぞれに“何かしてあげたい”という気持ちで行動を始めた。
善意、親切、好奇心——
そういった無垢な感情を、澪は淡々と“選別”していく。
(全部、お前の逃げ道を塞ぐために使ってやる)
ソフトな笑顔のまま、澪は再びノートに目を落とした。
何も知らないふりで、静かに、外堀を埋めていく。
(晴人……あいつのやり方、案外便利かもな)
他人を疑わせず、操る。
選択肢を提示しているようで、すでに結末は決まっている。
このやり方なら——誰にも汚されずに、手に入れられる。
(でも、あいつと俺の違いは一つ)
俺はあいつのように″優しく一歩づつ変化″なんてさせてやらない。
(見つけても、普通に捕まえたら意味がないよな)
垣根孝は、図太い人間だ。
俺が外堀を埋めても、アイツは別の場所を作るだろう。
新聞部員で居られなくしても、多分同じ。
アイツが人に縛られることを嫌う限り、従って俺の手に残ることはない。
(———なら、アイツが自ら俺の場所にいる理由、それがあれば問題解決か。)
俺から離れたら″危険″がある。
だから離れることができない。
なんだ、簡単な答えだ。
次の問題はどうやってアイツをその状況に追い込んで、心を折るかってことだが——。
澪の前では垣根の″秘密″なんて、今更何もない。
一年間耐えた我慢の日々の″成果″は、これから身を結ぼうとしていた。
昼休み前の中庭は、人影がまばらだった。
澪はベンチに腰掛け、手元の本に視線を落としていた。
内容は頭に入っていない。ただ、風と静けさだけが、自分の思考を保ってくれている気がした。
そこへ——
「こんにちは、澪くん」
——妙に軽やかな声が響いた。
本から目を上げるまでもなく、誰の声かは分かった。
「……今度は何の用だ」
開口一番、澪は刺すような声で返した。
日差しを背に立つ風紀委員長、天瀬晴人は、澪の不機嫌を気にも留めず、笑みを崩さない。
「ふふ、怖い顔だ。今日はこの間のお礼に来たんだよ」
「礼?」
「うん。根津くんの恋人として。君が一役買ってくれたことに」
晴人の目は笑っていた。
けれど、その笑みは相変わらず何も映していない。水面に浮かぶ月のように、美しく、そして空虚だ。
「……勝手に踏み込んできて、勝手に“利用”して、それで礼かよ」
「言い方がひどいな。君は僕と似てるから、頼んだだけなのに」
澪の眉がわずかに動いた。
(——似てる?)
「……分かった。それで、何が狙いだ?」
澪がそう問い返すと、晴人は一歩、彼の隣に腰を下ろした。目線の高さがそろうと、その笑みはさらに意味深に深まる。
「僕の目的はね、君の“お手伝い”」
「……」
「君の彼氏——垣根孝くん、自由にしてると僕にとって“邪魔”になるかもしれないから」
「……あいつは“俺の問題”だ」
「もちろん。でも、僕も“彼の行動”に巻き込まれたくはない。……それに、君だって困ってるでしょ?」
晴人は穏やかな笑みを浮かべて、優しく告げた。
澪は、晴人の話を聞くたびに、彼が自分を″似てる″という意味が理解出来てしまってたまらなく嫌になる。
「協力しよう、澪くん。あの子の“選択肢”を潰すのは、僕だけじゃなく、君の役割でもある。僕の恋人に“余計な逃げ場”を与えたのは、垣根くんなんだから」
「……」
「その代わり、君も僕に協力してよ」
「根津はもう捕まえたんだろ」
「うん。でも、心はまだ」
穏やかに言ったその言葉に、澪はようやく顔を上げた。
(……心は、まだ)
その響きが、どこか自分にも刺さった。
「……」
風が吹いた。ベンチの下で、澪の指がわずかに揺れた。
晴人の言葉は、確かに暴力ではなかった。
けれどそれは、人の思考を削る刃物のようだった。
(……似てる?)
(ふざけるな。俺は、あんたとは違う)
……そう思ったはずなのに、どうしてだろう。
今、少しだけ。
晴人の語る“協力関係”に、抗い難い“居心地の良さ”を感じた。
それは、誰よりも人を操ってきた“支配者の匂い”。
誰よりも近くで垣根を見てきた。
何をすればいいかなんて、考えなくても知っている。
***
午後、教室はざわついていた。
Aクラスの生徒たちは華やかで、どこか芝居がかった仕草に満ちている。
食事の時間にも、自分の“立ち位置”を忘れない彼らの輪の中に、澪はぽつりと存在していた。
「……針崎くん、元気ないね」
前の席の生徒が、気遣うように振り返った。
柔らかく結った髪、高級そうなピアス。
こういういかにも″男受け″を狙ったタイプは、“自分の好感度”を傷つけない範囲でしか他人を心配しない。
——それを理解した上で、澪は微笑んだ。
「……恋人が不在で」
「えっ?」
男子生徒の目が丸くなった。その隣の生徒も驚いたように顔を上げる。
「……そっか。あのCクラスの子……最近見かけないなとは思ってたけど」
「喧嘩、しちゃったの?」
「……まあ、似たようなもんかな」
澪は少しだけ伏し目がちに目を伏せてみせた。
わざとらしいほどの“傷心”の演技。
でも、それでいい。
このクラスには、“弱い針崎澪”を見たがっている人間が一定数いる。
可哀想な恋人。捨てられた男。……これまで針のように誰も近づけなかった澪が見せる″隙″は、容易く人を動かした。
「そっかぁ……針崎くん、あんなに尽くしてたのにね……」
「澪くんの彼氏って、けっこう好き勝手してたって噂だよ?」
「針崎くんのほうが、なんか一途って感じだし」
「でもちゃんと話し合ったほうがいいよね……連れ戻す?」
「うん……うちの僕らで、見かけたら声かけとくね」
——ほんの数分。
ただ“少し弱っているふり”をしただけで、彼らは動き出す。
“可哀想な針崎澪”を慰めるという大義名分のもとに。
(……簡単なもんだ)
澪の口元が、微かに持ち上がる。
けれど、笑ってはいけない。今は、まだ。
晴人が言っていた。
『君が“所有者”として振る舞えば、きっとあの子は身を引く』
『そうすれば、僕の恋人に“余計な選択肢”を見せるような真似もなくなる』
あの言葉を、澪は“自分なりのやり方”に置き換えた。
——俺は、追い詰める。
正面からじゃない。
“澪くんのために”という善意で、周囲に動かせるように。
事実、垣根孝の足場はもう、削れ始めている。
澪の一言に反応した生徒たちは、それぞれに“何かしてあげたい”という気持ちで行動を始めた。
善意、親切、好奇心——
そういった無垢な感情を、澪は淡々と“選別”していく。
(全部、お前の逃げ道を塞ぐために使ってやる)
ソフトな笑顔のまま、澪は再びノートに目を落とした。
何も知らないふりで、静かに、外堀を埋めていく。
(晴人……あいつのやり方、案外便利かもな)
他人を疑わせず、操る。
選択肢を提示しているようで、すでに結末は決まっている。
このやり方なら——誰にも汚されずに、手に入れられる。
(でも、あいつと俺の違いは一つ)
俺はあいつのように″優しく一歩づつ変化″なんてさせてやらない。
(見つけても、普通に捕まえたら意味がないよな)
垣根孝は、図太い人間だ。
俺が外堀を埋めても、アイツは別の場所を作るだろう。
新聞部員で居られなくしても、多分同じ。
アイツが人に縛られることを嫌う限り、従って俺の手に残ることはない。
(———なら、アイツが自ら俺の場所にいる理由、それがあれば問題解決か。)
俺から離れたら″危険″がある。
だから離れることができない。
なんだ、簡単な答えだ。
次の問題はどうやってアイツをその状況に追い込んで、心を折るかってことだが——。
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